LOGIN深夜、杉山圭介(すぎやま けいすけ)は強い酒の匂いをさせて帰宅した。 私・杉山菫(すぎやま すみれ)はいつものように、二日酔いに効く薬とお湯をそっと差し出した。 「あっちへやってくれ。匂いが鼻についてかなわない」 「……姫花さんとは、まだ仲直りできていないの?」 私を射抜く彼の瞳に、冷たく剣呑な光が宿った。 「言っておくが、これが最後だ。お前は自分のことだけ気にしていろ。俺の問題に首を突っ込むな」 そこへ、息子の杉山日立(すぎやま ひたち)がドアを開けて出てきた。その幼い顔には、あからさまにうんざりした表情が浮かんでいる。 「ママ、少し静かにしてよ。うるさくて眠れないんだよ」 そっくりな親子の姿に、私は思わず乾いた笑いがこぼれた。 自室へ戻り、数日前にすでに署名を済ませていた離婚届を静かに手に取る。 「――だったら、離婚しましょう」
View More「圭介、失ってから気づく気持ちなんて、何の価値もないわ。そもそも私とあなたの間には、愛情なんて最初からなかったけど。あなたたちが今さら私を必要としてるのだって、ただ不便になったからでしょう。私がしてきたことなんて、気の利く家政婦を一人雇えば済む。すぐ慣れるわ。これで最後。息子を連れて帰って。もう二度と、私の前に来ないで」私の言葉があまりに容赦なく冷徹だったせいか、あるいは圭介にも男としてのささやかなプライドがあったせいか、それきりあの親子の姿が私の前に現れることはなくなった。私は心底、せいせいした。それからの毎日は穏やかだった。家でイラストの依頼をこなし、時々話題のカフェや観光地を巡り、母の見舞いにも通った。母は無事に退院する際、実家にも、私のマンションにも帰りたがらなかった。「療養施設に入りたいわ。あそこなら人も多いし、おしゃべりする相手も見つかりそうだから」母の気持ちはよくわかった。私と同じで、母も人が好きなのだ。療養施設に入ってからは、個別にヘルパーも手配して、身の回りの世話を頼んだ。怪我がすっかりよくなった頃、また会いに行くと、母は陽の当たる庭で何人ものおばあさんたちと楽しそうにおしゃべりをしていた。これまで見たことのないような表情で、肩の力が抜けた、心からくつろいだ笑顔だった。ここでの暮らしが、本当に楽しいのだろう。おしゃべりが終わって談話室に戻った母のところへ行き、もうすぐ海外を拠点に活動するつもりだと伝えた。「そう……あなた一人で、向こうに行くのね。ちゃんと自分の体、大事にするのよ。こっちは何も心配しなくていいから、大丈夫だからね」「わかってる。3か月に一度は必ず帰ってくるし、出張のついでに戻れることもあると思うわ」「そう、それならいいわ……」私はそっと手を伸ばし、ティッシュで母の頬を伝う涙を拭った。自分の目にも、じんわりと温かい涙がにじんでいるのがわかった。「もう泣かないで。今、こうしてこんなに穏やかに過ごせているんだから、それで十分よ」私が海外へ出発するまでの1か月の間に、私の知らないところで、いろいろなことが起きていた。圭介の会社で重大な情報漏洩があり、事業計画書が盗まれた。最終的に犯人は姫花だとわかったが、被害はすでに取り返しがつかないところまで進んでいたらしい。ラ
そう言いながら、心春は自分の小さなバッグからピンク色のスプレー瓶を取り出し、私の手の甲に何度か吹きかけてくれた。さっきまでひどく痒かった発疹が、すっと落ち着いていく。ひんやりとして、心地よかった。「前にうちに来たとき、バラに触れてかぶれて赤くなってたでしょ?だからママがこれ買ってきて、お姉ちゃんに渡してって。すごくよく効くんだよ」私は彼女の頭をそっと撫で、小さく微笑んだ。心春はまだ幼い。人間という生き物は、関心のないもののことなど、気に留めようともしない――そんな残酷な真実を、まだ理解できる年齢ではないのだ。圭介も日立も同じだった。二人とも、私がバラにアレルギーがあることすら知らなかった。何かの記念日があるたびに、圭介はいつも決まってバラを贈ってきた。本人は姿を見せなくても、バラだけはきちんと届く。配達員だけは、いつも時間どおりで約束を違えなかった。その後の数日間、私は心春を連れて北戸市の博物館を回ったり、遊園地に行ったりした。彼女が「絵を描きたい」と言うので、絵画教室にも連れて行き、うさぎと虎の絵に一緒に色を塗った。彼女のご両親の干支なのだそうだ。ビュッフェにも一緒に行った。以前、杉山家にいた頃、圭介たちにそう提案したことがあったが、二人とも「品がない」と一蹴した。今になってようやく、自分の好きなように食べに来ることができた。思う存分楽しんだ。甘いアイスクリームも、気の済むまで食べた。二日後、約束通り心春を海園市の家に送り届けた。別れ際、彼女は名残惜しそうに私を見つめていた。「今度海園市に来たら、また絶対に一緒に遊んでね!」北戸市に戻り、飛行機を降りて到着ロビーへ向かうと、遠くに圭介の姿が見えた。私はすぐに引き返し、別の出口に向かおうとしたが、彼が足早に先回りして行く手を塞いだ。「お義母さんが入院した!」思わず足が止まった。けれど、すぐには信じられなかった。つい二日前、確かに母と電話で話したばかりだったから。慌てて母の番号にかけ直してみたが、何度鳴らしても誰も出ない。急に、不安がこみ上げてきた。圭介が切羽詰まった顔で私を見た。「本当に入院してるんだ。俺が車で送っていく」車に乗ると、後部座席には日立も乗っていた。私を見るなり「ママ、ママ!」と必死に呼び続ける。まるでこの世で初めて私に会っ
その後の数日間、私はイラストの依頼を立て続けに受けた。ただひたすら絵を描くことに没頭した。以前は時間も気力もなくてできなかったことに、今は丸一日費やすことができる。仕上がりに依頼主は皆満足してくれ、報酬にも色をつけてくれた。1日休んだあと、再び海園市へ向かった。心春に、家に遊びに来ないかと誘われたのだ。青木心春(あおき こはる)――あの海園市のバーで出会った、ピアノを弾いていた無邪気な女の子だ。北戸市に戻ってからというもの、彼女はほぼ毎日、ピアノの練習動画を送ってきては、間違っているところはないか聞いてきた。私は間違っているところは直してあげ、うまく弾けているときは惜しみなく褒めた。依頼を受けるようになってからは、描いた絵をいくつか彼女にも送ってあげていた。今回の訪問でも、彼女のために描いた絵を、手土産として持参した。家の前に着くと、心春が自分でドアを開けて出迎えてくれた。私を見るなり歓声を上げ、飛びついてきた。ご両親も私を温かく歓迎してくれた。手土産の絵を渡すと、心春は大喜びで家中を駆け回った。「すごい、綺麗!これ私?ピアノ弾いてるところを描いてくれたの?」「そうよ、心春の絵よ」海園市にはさらに数日滞在した。いよいよ帰る日、私は心春を北戸市へ遊びに来ないかと誘ってみた。けれど両親は仕事が忙しく、すぐには休みが取れないという。がっかりと肩を落とす心春を見ていると、私もたまらなくなった。「じゃあ、私がお預かりして、帰りも私がお送りするというのはどうでしょう?」「本当に!?パパ、ママ、私行きたい!」そういうわけで、心春は私と一緒に北戸市へやってくることになった。まずは二人で楽しく食事に行き、マンションへ帰ると、ドアの前に日立がぽつんとしゃがみ込んでいた。周りには誰もいない。どうやら本家からこっそり一人で抜け出してきたようだった。私を見た途端、ぱっと立ち上がった。小さな手には不釣り合いな、一輪の赤いバラを持っていた。日立の顔には最初、安堵と喜びが浮かんでいたが、私が手を引いている心春を見た瞬間、一変して険しく歪んだ。責めるような口調で聞いてきた。「その子、誰?」私はわざと意地悪く微笑んだ。「心春は私の娘よ。私は今、この子のママなの」わざと苛立たせるつもりで放った言葉だったが
そうか、そろそろ運動会の時期か。それで私を思い出したらしい。これまでは、こうした行事には必ず私が付き添っていた。私自身、負けず嫌いで、勝負事では何でも一番を取りたかった。だから必死になった。これで日立は、いつも一等賞を取っていた。私は日立の小さな手をゆっくり振りほどき、これまで見せたことのない、見知らぬ子を見るような目で彼を見つめた。「私はもう、あなたのママなんかじゃない。運動会でも、イベントでも、付き添ってくれる人ならいくらでもいるでしょう。少なくとも、私が行くことはもう二度とないわ」意味が伝わったのだろう。日立はその場にへたり込み、わっと泣き出した。私がなだめようともしないので、泣き声はますます激しくなる。以前なら胸が痛んだはずなのに、今はただ煩わしいだけだった。近所迷惑にならないか、それだけが気がかりだった。「わんわん泣くのはやめて、早く帰りなさい。私、まだご飯を作らなきゃいけないの」「……そこまで冷たく突き放す必要があるのか。日立はまだ子供だぞ。本当にもう、自分の子供じゃないと言い張るつもりか」「あなたこそ、いつまでしつこくつきまとう気?もう関係ないと言ったはずよ。あの子自身が、田中先生や鈴木秘書、姫花さんに、ママになってほしいって言っていたじゃない。あの子が好きな人を新しい母親にして、結婚すればいいでしょう」それを聞き、日立はさらに激しく泣きじゃくった。また足にすがりつこうとしたので、すぐに一歩後ろへ下がった。「いやだ、やだよぉ!他の人がママになるのはいやだ!姫花さんもいやだ!悪い人だもん。僕のこと、つねったりする……」嘘だと思われたと焦ったのか、日立は服をめくり上げ、さらに袖もまくって見せた。確かに細い腕には青あざがいくつか残っていた。強い力でつねられたような跡だ。なるほど。姫花は表向きは子供好きを装っていても、内心では彼を疎ましく思っていたらしい。「怪我をしたなら、パパに言って病院へ連れて行ってもらいなさい。私に見せても仕方ないでしょう」そう冷たく言い放ち、マンションの管理室に電話をかけた。ほどなくして、屈強な警備員が三人駆けつけた。圭介の顔色が変わった。失望と怒りの入り混じった目で私を睨みつけると、警備員に声をかけられる前に、無言で日立の腕を引いて去っていった。去り際、日立は何度も振り返