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地獄を抜けた私に、子連れ元夫が縋る
地獄を抜けた私に、子連れ元夫が縋る
Auteur: にこり

第1話

Auteur: にこり
深夜、杉山圭介(すぎやま けいすけ)は強い酒の匂いをさせて帰宅した。

私・杉山菫(すぎやま すみれ)はいつものように、二日酔いに効く薬とお湯をそっと差し出した。

「あっちへやってくれ。匂いが鼻についてかなわない」

「……姫花さんとは、まだ仲直りできていないの?」

私を射抜く彼の瞳に、冷たく剣呑な光が宿った。

「言っておくが、これが最後だ。お前は自分のことだけ気にしていろ。俺の問題に首を突っ込むな」

そこへ、息子の杉山日立(すぎやま ひたち)がドアを開けて出てきた。その幼い顔には、あからさまにうんざりした表情が浮かんでいる。

「ママ、少し静かにしてよ。うるさくて眠れないんだよ」

そっくりな親子の姿に、私は思わず乾いた笑いがこぼれた。

自室へ戻り、数日前にすでに署名を済ませていた離婚届を静かに手に取る。

「――だったら、離婚しましょう」

圭介はまだこめかみに手を当てたまま、こちらを見やった。その目には、どこか見下すような色が浮かんでいた。

「お前さ、自分が何を言ってるんだ、わかってるのか?」

「ええ、わかってるわ」

それが単なる癇癪ではないと、私の静かな態度から察したのだろう。圭介はわずかに姿勢を正すと、まるで施しでもくれてやるかのように、言葉を継いだ。

「安藤姫花(あんどう ひめか)は正式な採用面接を受けて入社したんだ。俺たちの間には、お前が疑うようなやましいことなど何もない。今日だって、ただの歓迎会だった」

「そう」

「それでも、離婚するというのか」

「するわ」

呆れ果てたように、圭介は鼻で笑い、しばらく言葉が出てこないようだった。

そこへ日立が小走りで駆け寄り、父親の足にすがりついた。その幼い顔には、はっきりと笑みが浮かんでいる。

「パパ、ママと離婚するの?じゃあ僕には、新しいママができるってこと?」

圭介は沈黙したままだ。それでも日立は、気に留める風でもなく言葉を続けた。

「パパは誰が好きなの?僕はね、田中先生か鈴木秘書が新しいママになってくれたら嬉しいな。姫花さんでもいいよ」

私は自嘲気味に口の端をゆがめた。どうやら圭介の「新しい妻の候補」は、私が思っていたよりもずっと多いらしい。まさか、姫花だけではなかったなんて。

あれほど一途な人だと思っていたのに。

「小林社長には話したのか」

彼の言う「小林社長」とは、私の実の父のことだ。

滑稽な話だ。結婚して家族になったというのに、義父を「お父さん」と呼ぶこともなく、まるで商談のように「小林社長」と呼ぶのだから。

けれど、それも間違ってはいない。そもそも私と圭介の関係自体が、ただの商談のようなものだったのだから。

それに何より――あの男は、決して「父」と呼ばれるにふさわしい人間ではない。

「まだよ。すべての手続きが済んだら話すつもり」

「離婚というのはひどく面倒なものだぞ」

思えば結婚したときも、圭介はまったく同じ台詞を口にしていた。

「結婚というのはひどく面倒なものだ」

だからこそ私たちは、まともな結婚式すら挙げていない。杉山家ほどの立派な家柄でありながら、事情を知るごく一部の人間だけが集まり、ひっそりとテーブルを囲んで、簡単な食事を済ませただけだった。

婚姻届も、圭介が多忙なスケジュールの合間を縫って、私と役所へ提出しに行っただけだった。

本当は、面倒なことなど何ひとつなかったというのに。

「あなたはただ、そこに署名さえしてくれればいいの。財産は何もいらないわ。だから、面倒な財産分与の手続きだって必要ない」

「ずいぶんと離婚の手続きに詳しいんだな。もしかして、前々からそのつもりだったんじゃないのか?」

私はお決まりのクズ男のセリフを投げ返した。

「そう思いたいなら、ご勝手にどうぞ」

圭介は、まるで聞き分けのない子供を見るような目をこちらに向けた。そして苛立たしげに私の手から離婚届をひったくると、テーブルの上に置かれたペンを無造作に手に取る。

ためらうことなく自分の名前を書き終えると、彼は言い放った。

「俺が財産分与を惜しむとでも?好きにしろ。だが、後悔だけはするなよ」

「ええ、わかってるわ」

署名の入った離婚届を受け取ると、私はそのまま自室へ戻り、あの父子をもう一度見ることもしなかった。

自室のドアを閉めかけたその瞬間、日立が小声で尋ねるのが聞こえた。

「ママ、どうしたの?」

続いて、圭介のひどく冷ややかな声が響く。

「気にするな。ヒステリーを起こしているだけだ。数日、頭を冷やさせれば収まる」

私はドアの向こうで、思わず声を出して笑ってしまった。

これが「ヒステリー」ってことなら、どうかしてるのも案外悪くない。

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