婚約者の桐谷暁(きりたに あきら)には、奇妙な癖がある。夜の9時を過ぎると、どんな電話にも一切出ないのだ。付き合いが一番熱かった時期でさえ、そうだった。夜の九時になれば、ためらうことなく電話を切られた。ある晩、遅い時間に帰路についたとき、背後に誰かの気配を感じた。慌てて暁に電話をかけると、出たのは明らかに苛立った声だった。「橘柚希(たちばな ゆずき)、夜遅くに電話するなって言っただろ。切るぞ」その夜、一人で警察署へ向かった。事情を話し、調書をとってもらう。家に戻れたのは翌朝のことだ。暁から、ねぎらいの言葉はなかった。──そして、今。暁のパソコンを借りる機会があり、ふと目にしたのは、通話履歴が表示された画面だった。午後9時から翌朝9時までの着信記録。毎晩欠かさず、それが5年間も続いていた。相手の番号には見覚えがあった。暁の母の教え子で、暁の研究室の助教を務める小野寺莉子(おのでら りこ)。その瞬間、力が抜けた。どっと疲れがのしかかる。長い間、そのまま座り込んでいた。脚が痺れるまでそうしてから、黙ってパソコンを閉じた。婚姻届の提出は、取りやめにした。あの人が私の電話に出ることは、決してなかった。だから私も、もうかけないことにした。……暁がバスルームから出てきたときには、私はすでに区役所からもらってきた婚姻届を引き出しの奥にしまった。リビングのソファに座り込んだままの私を一瞥し、すぐに時計へ視線を移すと、彼はわずかに眉をひそめた。「何か用か。悪いけど、もうすぐ九時だ。寝るよ」一瞬呆けてから、私はかぶりを振った。「……ううん、別に」「じゃあ、おやすみ」暁はこちらを気にする様子もなく、あっさり寝室へ引っ込んだ。立ち上がりかけ、やめた。ぼんやりしていると、ついさっきまで暗かったパソコンのモニタがふいに光を放った。スマホと同期された画面に表示されているのは、莉子からの着信だった。夜の9時を過ぎたら電話に出ない。声も聞かない。返信ひとつしない。そう言い切ったくせに、暁は間を置かずに通話を始めた。相手を一秒でも待たせまいとして。おかしくなって、乾いた笑いが漏れた。ずいぶん甲斐甲斐しいじゃないか。その優しさが私に向けられたことは、一度もないけれど。寝室へ戻った。暁はもう目を閉じていて、寝入っ
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