All Chapters of 無視された人生は、今日で終わりにした: Chapter 1 - Chapter 8

8 Chapters

第1話

婚約者の桐谷暁(きりたに あきら)には、奇妙な癖がある。夜の9時を過ぎると、どんな電話にも一切出ないのだ。付き合いが一番熱かった時期でさえ、そうだった。夜の九時になれば、ためらうことなく電話を切られた。ある晩、遅い時間に帰路についたとき、背後に誰かの気配を感じた。慌てて暁に電話をかけると、出たのは明らかに苛立った声だった。「橘柚希(たちばな ゆずき)、夜遅くに電話するなって言っただろ。切るぞ」その夜、一人で警察署へ向かった。事情を話し、調書をとってもらう。家に戻れたのは翌朝のことだ。暁から、ねぎらいの言葉はなかった。──そして、今。暁のパソコンを借りる機会があり、ふと目にしたのは、通話履歴が表示された画面だった。午後9時から翌朝9時までの着信記録。毎晩欠かさず、それが5年間も続いていた。相手の番号には見覚えがあった。暁の母の教え子で、暁の研究室の助教を務める小野寺莉子(おのでら りこ)。その瞬間、力が抜けた。どっと疲れがのしかかる。長い間、そのまま座り込んでいた。脚が痺れるまでそうしてから、黙ってパソコンを閉じた。婚姻届の提出は、取りやめにした。あの人が私の電話に出ることは、決してなかった。だから私も、もうかけないことにした。……暁がバスルームから出てきたときには、私はすでに区役所からもらってきた婚姻届を引き出しの奥にしまった。リビングのソファに座り込んだままの私を一瞥し、すぐに時計へ視線を移すと、彼はわずかに眉をひそめた。「何か用か。悪いけど、もうすぐ九時だ。寝るよ」一瞬呆けてから、私はかぶりを振った。「……ううん、別に」「じゃあ、おやすみ」暁はこちらを気にする様子もなく、あっさり寝室へ引っ込んだ。立ち上がりかけ、やめた。ぼんやりしていると、ついさっきまで暗かったパソコンのモニタがふいに光を放った。スマホと同期された画面に表示されているのは、莉子からの着信だった。夜の9時を過ぎたら電話に出ない。声も聞かない。返信ひとつしない。そう言い切ったくせに、暁は間を置かずに通話を始めた。相手を一秒でも待たせまいとして。おかしくなって、乾いた笑いが漏れた。ずいぶん甲斐甲斐しいじゃないか。その優しさが私に向けられたことは、一度もないけれど。寝室へ戻った。暁はもう目を閉じていて、寝入っ
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第2話

しばらくして、上司から電話が入った。「星陵大学の文学部まで行って、資料を受け取ってきてくれないか」通話を切って、ため息が出た。決別しようと思ったばかりだというのに、よりによって暁の勤める星陵大学文学部だ。校舎に着いたときは、ちょうど学生たちの入れ替わりの時間帯だった。聞きたくなくても、声が飛び込んでくる。「桐谷先生の講義、やっと取れたんだよ。超人気でさ」「女子は桐谷教授目当てだけど、男子の半分くらいは小野寺助教狙いでしょ。でも、あの二人ってほんとにお似合いだよね」気づけば、足取りが遅くなっていた。胸の奥に、苦さが広がる。5年も一緒にいて、暁の世界に、私の居場所はどこにもなかった。いちばん熱かったころ、もっと周りに紹介してほしいと頼んだことがある。SNSに二人の写真を載せてほしいとお願いしたこともある。だが几帳面で融通の利かないこの文学部教授は、子供を窘めるような目をして、眉をひそめてこう言った。「もう子供じゃあるまいし、そんな見え透いたことはよせ。俺の立場を考えろ」あの日、私は言葉を失った。それ以来、二度と口にしなかった。女子学生たちはまだ、暁と莉子のあれこれを楽しそうにはやし立てている。「ていうかさ、桐谷先生、もうすぐ結婚するらしいよ。相手は絶対小野寺助教だよね。だって誰も本当の彼女さん見たことないんだよ?」「間違いないって。あんな怖い顔の人、小野寺助教にだけは笑いかけるんだからね」声が遠ざかっていく。でも私の足がますます遅くなり、やがて廊下の端で止まった。これまで飲み込んできたものが、一瞬で胸を締め付けた気がした。深呼吸をしてから、自分に言い聞かせた。大丈夫だ。次の道はある。あと3日で、全部終わるわ。上司の資料を受け取り、戻りかけたときだった。通りすがりの教授室から、莉子の笑い声が聞こえてきた。「これ、食べてみてくださいよ。本当においしいんですから」ドアのわずかな隙間から、中が見える。莉子と暁が並んで朝食をとっている。莉子は何のためらいもなく、自分の弁当から箸で納豆をつまみ、暁の口元に差し出している。暁は、納豆が苦手だった。以前、朝食に納豆を使ったとき、露骨に顔をしかめてそのまま出て行った。私はひとりで泣きながら食べた。それなのに今の彼はわずかに眉をひそめただけだった。莉
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第3話

桐谷家の門をくぐると、暁の母、桐谷静子(きりたに しずこ)がすでに玄関先で待ち構えていた。車を降りた莉子が、ぱっと駆け寄り、その腕にしがみつく。「先生、外は風が強いですよ。わざわざ出てこなくてよかったのに、早くお入りください」静子は目を細めて笑った。心底慈しむような顔だった。「莉子ちゃんを待ってたんだよ。暁の下につけちゃって、ずいぶん苦労したんだねえ。この子、気難しいから」莉子はちらりと横の暁を見る。口元をほころばせて立っている彼を見て、耳がかすかに赤らんだ。「暁さんはとてもよくしてくださいます。私、ちっとも苦労なんてしてません」二人はそのまま屋敷の中へ入っていく。静子は少し歩いてから、ようやく何かを思い出したように振り返った。私に向ける目は、さっきとは打って変わって、冷たかった。「柚希も来てたのね。早くお入り、風邪をひくから」それだけだった。隣に並んだ暁が、見下ろすようにこちらをうかがい、わずかに眉をひそめる。「機嫌が悪いのか」「いいえ。別に」ただ、ようやく吹っ切れただけだ。「仕事で何かあったにしても、その不機嫌を家の中にまで持ち込まないでほしい。一日中むっつりした顔を見るのはごめんだ」唇を引き結んだ彼にそう言われると、拳をぎゅっと握った。手のひらに爪が当たる感触と同時に、おかしさが込み上げてきた。今、ほんの一瞬でも、この人が私の気持ちに気づくと思った自分が、ひどく間抜けだった。立ち止まって、彼の目をまっすぐに見た。そこにはもう、かつての情はなく、あるのは静けさだけだった。「私が不機嫌なら、不機嫌でいさせておいてよ。それが気に入らないなら、見なきゃいい。暁の使用人じゃないんだから、ご機嫌取りまでしなくちゃいけないの?」暁の口元に、さっきの笑みが完全に消えた。あからさまな不愉快を、全身に張りつけている。「柚希、いい加減にしろ。もうすぐ結婚するんだ。そんなにわがままじゃ困る」鼻で笑った。「じゃあ、暁が望む相手って、誰?」彼はしばらく黙った。考えているようだったが、答えはもう決まっているのがわかった。「誰であれ、俺の妻はお前だけだ。でも、小野寺を見習ったらどうだ。彼女は感情的にならない。そういうところがお前には足りない」この男を少しじっと見た。それから、私はふっと笑った。
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第4話

帰りの車中、暁は助手席の莉子を先に送っていくつもりのようだった。私は後部座席で、パリの大家と部屋の契約についてメッセージをやりとりしている。しばらくして、莉子が車を降りると、暁が急に声をかけてきた。「前、空いてるぞ」私は顔も上げずに、ただ返した。「ここでいい」暁が少し沈黙する。「……好きにしろ」それで会話は終わった。画面に映る、陽の光がたっぷり差し込む部屋の写真にすっかり気をよくして、即座に手付金を振り込んだ。家に着くと、暁が鞄からアルバムを取り出して、私のそばに置いた。「見てみないか」不審に思いながら手に取ると、ウェディングドレスのカタログだった。「早いところ決めてくれ。式まであと一ヶ月しかない。ドレスに手を入れる時間も必要だ」彼は、見開きいっぱいに立体的な茉莉花の刺繍が施された一着を指さした。「これなんかいいと思うが」ちらりと写真に目をやり、鼻で笑った。茉莉花は、莉子がいちばん好きな花だ。こんなところまで、あの女の影がついて回るのか。昔の私なら間違いなく声を荒らげていた。でも今は、ただ静かにうなずく。「うん、いいよ。それで」どうせ明日にはここを発つ。一ヶ月後の結婚式なんて、もう私には関係ない。暁は私の素直な態度がよほど気に入ったらしい。ご褒美をやるように額に唇を寄せた。「いい子だ。そのままでいろ。さっきみたいな仏頂面は好きじゃない。これからは見せないように。わかったな」言うだけ言って、さっさとバスルームへ消えた。ウェットティッシュを取り出して、額の皮膚が赤くなるまで拭いた。9時になると、暁はいつも通り明かりを消し、スマホを伏せて置き、右耳にイヤホンを差したままベッドに横になった。空っぽになった化粧台にも、何もなくなったバスルームにも、ベッドサイドに立てかけたスーツケースにも、彼は気づいていなかったようだ。まあ、それもそうか。莉子以外の人間に、この男が心を向けたことなど、一度もなかったのだから。眠りについたのは、真夜中を少し回ったころだった。鋭い悲鳴のような声で目が覚めた。隣で暁が飛び起きざま、イヤホンに向かって怒鳴った。「小野寺、どうした!?」静まり返った部屋の中、イヤホンの向こうで莉子が泣きじゃくっていたのが聞こえた。普段はめったに感情を顔に出さない
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第5話

そのとき、教員宿舎で莉子に付き添っていた暁の胸に、ふと鋭い痛みが走った。莉子が慌てて顔を上げる。「暁さん、どうされました?顔色が青いですよ。気分でも悪いのですか?」暁は深く息を吸い込み、痛みが引くのを待ってから、莉子にお茶を差し出した。「いや、なんでもない」思い当たる節はない。深く考えるのはやめた。「きみが危ない目に遭って、気が張っていたんだろう。落ち着いてきて、少し動悸がしただけだ」莉子の耳がほのかに赤らむ。今夜の出来事を思い返すと、まだ生々しい恐怖に身をすくませているのがわかる。「ありがとう。暁さんが来てくれなかったら、私……」ふと何かを思い出したように言葉を切り、真剣な顔で付け加える。「先生には内緒にしてくださいね。絶対、心配で眠れなくなっちゃいますから」暁が小さくうなずく。まだ怯えた目を閉じられずにいる莉子を見て、彼は唇を引き結んだ。「寝ろ。今夜は俺がここにいる。離れない」莉子の顔に、一瞬の得意げな表情が浮かんだ。「はい」そう言って目を閉じるが、その手は無意識に暁の指を探り当て、ぎゅっと握って離さない。思わず眉をひそめた暁は、反射的に手を引こうとしたが、眠ってからも落ち着かない様子の莉子を見て、思いとどまった。まあいい、まだ子どもみたいなものだ。ふと柚希のことが頭をよぎる。慌てて家を飛び出してきたが、彼女は大丈夫だっただろうか。スマホを取り出してメッセージを打つ。【莉子のほうは落ち着いた。もう大丈夫だ。先に寝ていろ】待ったが、返信は来なかった。画面はいつまでも静かなままだ。暁の呼吸がわずかに重くなる。だが、すぐに思い直した。この時間だ、眠っているに違いない。返信がなくてもおかしくはない。そう自分に言い聞かせてスマホをしまう。莉子に握られた手を静かにほどき、向かいのソファに腰を下ろした。翌朝、教員宿舎を出た瞬間、暁は妙な違和感を覚えた。すれ違う人間が、皆一様に暁と莉子を見比べては、含みのある視線を向けてくる。数学科の佐藤教授が、からかうような笑みを浮かべて声をかけてきた。「おめでとう、桐谷先生。小野寺さんみたいな美人と一緒になったなら、そう言ってくれればよかったのに。式はいつなんだい?馴れ初めなんかも聞かせてもらえると嬉しいんだがね」佐藤教授の妻も、口元をほころ
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第6話

母からのメッセージを読んだ瞬間、暁の頭の中は真っ白になった。昨夜、あれほど穏やかにウェディングドレスのカタログを一緒に眺めていたのに。たった一晩で、柚希が婚約を破棄する?あり得ない。そう思いながらも、SNSのアイコンをタップする指先はかすかに震えていた。柚希のページは驚くほど何もなかった。ただ、一番上に固定された、たったひとつの投稿だけが残されていた。【結婚式のご案内をお送りしていた皆様へ。このたび、婚約を解消し、式を中止いたしました。ご迷惑をおかけしますことを、深くお詫び申し上げます】それだけだった。暁は瞳を揺らし、たった三行の文字を穴が開くほど睨みつけて、5分ほどそのまま動けなかった。教壇の前で学生たちは顔を見合わせた。「桐谷先生、どうしたんだ?幽霊でも見たみたいな顔して。何かあったのか?」「さあ。でも、単位のためじゃなきゃ俺だって来ねえよ。どうせ偽善者だろ、あの人……」そんな囁きが交わされるなか、暁は大勢の前で突然教室を飛び出した。後に残された学生たちは唖然とするばかりで、その「逃亡」はたちまちSNSで拡散された。あれこれと憶測が飛び交うなか、一人の学生が書き込んだ。【みんな、もうやめよう。うちの姉が桐谷先生の婚約者の友達で、今朝正式に婚約破棄したらしい】一瞬で、その投稿は拡散された。同じころ、暁は走りながら柚希に電話をかけていた。コール音が何度も虚しく響いたあと、耳に飛び込んできたのは、いつまでも同じ無機質なアナウンスだけ。これまでどれほど鈍感でいられた暁としても、さすがにわかった。これは尋常じゃない。半ばパニックになりながら、メッセージを連投した。【婚約解消って、どういう意味だ。柚希、説明してくれ。いったいどうしたっていうんだ】【俺が何かしたなら、せめて言ってほしい】【今すぐ家に戻る。しっかり話をしよう】ベンツが勢いよく走り出した。ハンドルを握る手にじっとりと汗をかき、心臓だけがやけに早く脈を打っている。自宅マンションに駆け込み、鍵をひねってドアを開けた。玄関に、柚希の鍵が、静かに置かれていた。頭が混乱している。靴も脱がずに寝室へなだれ込んだ。「柚希!」声は、もぬけの殻の部屋に吸い込まれて消えた。暁はようやく、決定的な事態を目の当たりにした。空っ
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第7話

月日は流れ、気づけば一年が過ぎていた。とはいえ、私には時間の流れなんて、ただ日が昇って沈むだけのものだった。パリの暮らしにも、もうすっかり慣れていた。あちらのことは何ひとつ知らない。桐谷家に関わる者たちは、すべてスマホから消した。もう二度と暁に会うことはないと思っていた。少なくとも、私の心はそれを望んでいた。だが、運命とは意地が悪い。あの日、仕事を終えて帰宅する途中、遠くに、夕暮れの街灯の下でひとりぽつんと立つ、ひどくやつれた人影が見えた。足が止まった。私に気づいた暁の目が、激しく揺れている。それが何を意味するのか、私にはわからなかった。彼は突然駆け寄ってきた。とっさに身を引こうとしたが、次の瞬間、彼の腕が私を包み込んだ。「……ごめん」その言葉に、少し虚を突かれた。責めに来たのだと思っていたのに、まさか謝られるとは。私は静かに彼の体を押し返した。「その話は聞いたから。もういい」そう言って背を向ける。去ろうとしたとき、暁がぐいと私の手首を掴んだ。私を見つめる視線が、かすかに揺れている。「柚希……俺は一年間、ずっとお前を探してた」彼は自嘲気味に、口元だけで笑った。「職場に行ったら、守秘義務だと門前払いで。それで、お前のご両親に会いに行ったら、追い出された。でも、そうするしかなかったんだ。彼らしか、お前の居場所を知らないんだから」暁は、深く深く、私を見つめた。「お前が出て行ったとき、俺は何もわかっていなかった。どうして急に婚約を破棄するのか……本気で、わからなかった」その言葉に、私の足がほんのわずか止まる。「でも今はわかる。俺が……非常識だった。莉子に、ただの気遣いのつもりでやってたことが、もうとっくに、兄妹の枠を超えてたんだ。でも、柚希……信じてほしい。莉子に対して、下心があったわけじゃない。一度もない。絶対にない。俺が愛してたのは、俺の妻だと思ってたのは、お前だけだ。お前だけなんだ」私は黙って聞いていた。どう反応すればいいのか、わからなかった。ただ、ひどく疲れていた。「……全部?」暁の体が強張った。私はその手を振りほどいた。「終わったなら、帰って。もう来ないで」暁が一歩踏み出そうとした。が、私の目に気づいて、その足が止まった。彼はその場に縫い留められたように立ち尽くした。空
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第8話

病院に駆けつけたとき、暁はまだ病室のベッドで目を閉じている。その顔には血の気がまったくなかった。5年間、一緒にいても見たことがない姿だった。けれど、私はただひと目見ただけだった。とりあえず死ななければそれでいい。ここで死なれると面倒だ。帰ろうと背を向けたとき、背後で暁がうっすらと目を開けた気配がした。絞り出すような声は、ひどく嗄れている。「……柚希」足が止まった。振り返ると、私の凪いだ目に、今にも砕け散りそうな悲しみをたたえた彼の目が映った。「そんなに、俺を恨んでるのか」暁の目頭が熱くなった。その目の奥で何かが揺れている。きっと、昔のことを思い出しているのだろう。胃を壊して熱を出すたび、私は必ず傍らにいた。何度も看病し、食事を届けた。いつの間にか、彼の胃の調子が落ち着いたのも、その頃からだった。暁はよく、目を覚ますと私がベッドの脇で手を握ったまま眠っているのを見た。そのたびに彼の目が柔らかくなったのを、私は知っている。だが私が起きると、その柔らかさはいつも消えていた。そして今、自分が病気になっても私が何も感じていないのを目の当たりにして、暁は本気で慌てていた。何で私を引き止めればいいのか、わからなかったのだ。それだけで、胸を刺されたような痛みが走る。彼の目が、じわりと潤んでいくのを、私はただ静かに見つめていた。心は、凪いだままだ。昔は違った。広いベッドにひとり、彼の邪魔になるのが怖くて何も言えず、涙を飲み込んだ夜は、数えきれないほどあった。で、それに何の意味があった?彼は他の女と夜通し通話を続けていて、私の心の内を問う言葉すら、一度もくれなかった。そのとき、はっと気づいた。許せないだけじゃない。その奥にあるのは、もっと深い――恨みだ。私を無視し続けたことへの恨み。私が一番助けを必要としていた夜、怯える私を警察署にひとり置き去りにした、あの無情さへの恨み。その無神経さ、その不実さへの、恨み。考えれば考えるほど、彼を見下ろす私の目は冷たくなっていった。暁は必死に上半身を起こした。「何を言っても手遅れなのはわかってる。でも、頼む、柚希。一度でいい。心を入れ替えるから、もう一度やり直させてくれ。それじゃ……ダメか?」おそるおそる私の顔色をうかがう暁を、私はじっと見つめた。それから、ふっと噴き出した。
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