Mag-log in婚約者の桐谷暁(きりたに あきら)には、奇妙な癖がある。夜の9時を過ぎると、どんな電話にも一切出ないのだ。 付き合いが一番熱かった時期でさえ、そうだった。夜の九時になれば、ためらうことなく電話を切られた。 ある晩、遅い時間に帰路についたとき、背後に誰かの気配を感じた。慌てて暁に電話をかけると、出たのは明らかに苛立った声だった。 「橘柚希(たちばな ゆずき)、夜遅くに電話するなって言っただろ。切るぞ」 その夜、一人で警察署へ向かった。事情を話し、調書をとってもらう。 家に戻れたのは翌朝のことだ。暁から、ねぎらいの言葉はなかった。 ──そして、今。 暁のパソコンを借りる機会があり、ふと目にしたのは、通話履歴が表示された画面だった。午後9時から翌朝9時までの着信記録。毎晩欠かさず、それが5年間も続いていた。 相手の番号には見覚えがあった。暁の母の教え子で、暁の研究室の助教を務める小野寺莉子(おのでら りこ)。 その瞬間、力が抜けた。どっと疲れがのしかかる。長い間、そのまま座り込んでいた。脚が痺れるまでそうしてから、黙ってパソコンを閉じた。 婚姻届の提出は、取りやめにした。 あの人が私の電話に出ることは、決してなかった。 だから私も、もうかけないことにした。
view more病院に駆けつけたとき、暁はまだ病室のベッドで目を閉じている。その顔には血の気がまったくなかった。5年間、一緒にいても見たことがない姿だった。けれど、私はただひと目見ただけだった。とりあえず死ななければそれでいい。ここで死なれると面倒だ。帰ろうと背を向けたとき、背後で暁がうっすらと目を開けた気配がした。絞り出すような声は、ひどく嗄れている。「……柚希」足が止まった。振り返ると、私の凪いだ目に、今にも砕け散りそうな悲しみをたたえた彼の目が映った。「そんなに、俺を恨んでるのか」暁の目頭が熱くなった。その目の奥で何かが揺れている。きっと、昔のことを思い出しているのだろう。胃を壊して熱を出すたび、私は必ず傍らにいた。何度も看病し、食事を届けた。いつの間にか、彼の胃の調子が落ち着いたのも、その頃からだった。暁はよく、目を覚ますと私がベッドの脇で手を握ったまま眠っているのを見た。そのたびに彼の目が柔らかくなったのを、私は知っている。だが私が起きると、その柔らかさはいつも消えていた。そして今、自分が病気になっても私が何も感じていないのを目の当たりにして、暁は本気で慌てていた。何で私を引き止めればいいのか、わからなかったのだ。それだけで、胸を刺されたような痛みが走る。彼の目が、じわりと潤んでいくのを、私はただ静かに見つめていた。心は、凪いだままだ。昔は違った。広いベッドにひとり、彼の邪魔になるのが怖くて何も言えず、涙を飲み込んだ夜は、数えきれないほどあった。で、それに何の意味があった?彼は他の女と夜通し通話を続けていて、私の心の内を問う言葉すら、一度もくれなかった。そのとき、はっと気づいた。許せないだけじゃない。その奥にあるのは、もっと深い――恨みだ。私を無視し続けたことへの恨み。私が一番助けを必要としていた夜、怯える私を警察署にひとり置き去りにした、あの無情さへの恨み。その無神経さ、その不実さへの、恨み。考えれば考えるほど、彼を見下ろす私の目は冷たくなっていった。暁は必死に上半身を起こした。「何を言っても手遅れなのはわかってる。でも、頼む、柚希。一度でいい。心を入れ替えるから、もう一度やり直させてくれ。それじゃ……ダメか?」おそるおそる私の顔色をうかがう暁を、私はじっと見つめた。それから、ふっと噴き出した。
月日は流れ、気づけば一年が過ぎていた。とはいえ、私には時間の流れなんて、ただ日が昇って沈むだけのものだった。パリの暮らしにも、もうすっかり慣れていた。あちらのことは何ひとつ知らない。桐谷家に関わる者たちは、すべてスマホから消した。もう二度と暁に会うことはないと思っていた。少なくとも、私の心はそれを望んでいた。だが、運命とは意地が悪い。あの日、仕事を終えて帰宅する途中、遠くに、夕暮れの街灯の下でひとりぽつんと立つ、ひどくやつれた人影が見えた。足が止まった。私に気づいた暁の目が、激しく揺れている。それが何を意味するのか、私にはわからなかった。彼は突然駆け寄ってきた。とっさに身を引こうとしたが、次の瞬間、彼の腕が私を包み込んだ。「……ごめん」その言葉に、少し虚を突かれた。責めに来たのだと思っていたのに、まさか謝られるとは。私は静かに彼の体を押し返した。「その話は聞いたから。もういい」そう言って背を向ける。去ろうとしたとき、暁がぐいと私の手首を掴んだ。私を見つめる視線が、かすかに揺れている。「柚希……俺は一年間、ずっとお前を探してた」彼は自嘲気味に、口元だけで笑った。「職場に行ったら、守秘義務だと門前払いで。それで、お前のご両親に会いに行ったら、追い出された。でも、そうするしかなかったんだ。彼らしか、お前の居場所を知らないんだから」暁は、深く深く、私を見つめた。「お前が出て行ったとき、俺は何もわかっていなかった。どうして急に婚約を破棄するのか……本気で、わからなかった」その言葉に、私の足がほんのわずか止まる。「でも今はわかる。俺が……非常識だった。莉子に、ただの気遣いのつもりでやってたことが、もうとっくに、兄妹の枠を超えてたんだ。でも、柚希……信じてほしい。莉子に対して、下心があったわけじゃない。一度もない。絶対にない。俺が愛してたのは、俺の妻だと思ってたのは、お前だけだ。お前だけなんだ」私は黙って聞いていた。どう反応すればいいのか、わからなかった。ただ、ひどく疲れていた。「……全部?」暁の体が強張った。私はその手を振りほどいた。「終わったなら、帰って。もう来ないで」暁が一歩踏み出そうとした。が、私の目に気づいて、その足が止まった。彼はその場に縫い留められたように立ち尽くした。空
母からのメッセージを読んだ瞬間、暁の頭の中は真っ白になった。昨夜、あれほど穏やかにウェディングドレスのカタログを一緒に眺めていたのに。たった一晩で、柚希が婚約を破棄する?あり得ない。そう思いながらも、SNSのアイコンをタップする指先はかすかに震えていた。柚希のページは驚くほど何もなかった。ただ、一番上に固定された、たったひとつの投稿だけが残されていた。【結婚式のご案内をお送りしていた皆様へ。このたび、婚約を解消し、式を中止いたしました。ご迷惑をおかけしますことを、深くお詫び申し上げます】それだけだった。暁は瞳を揺らし、たった三行の文字を穴が開くほど睨みつけて、5分ほどそのまま動けなかった。教壇の前で学生たちは顔を見合わせた。「桐谷先生、どうしたんだ?幽霊でも見たみたいな顔して。何かあったのか?」「さあ。でも、単位のためじゃなきゃ俺だって来ねえよ。どうせ偽善者だろ、あの人……」そんな囁きが交わされるなか、暁は大勢の前で突然教室を飛び出した。後に残された学生たちは唖然とするばかりで、その「逃亡」はたちまちSNSで拡散された。あれこれと憶測が飛び交うなか、一人の学生が書き込んだ。【みんな、もうやめよう。うちの姉が桐谷先生の婚約者の友達で、今朝正式に婚約破棄したらしい】一瞬で、その投稿は拡散された。同じころ、暁は走りながら柚希に電話をかけていた。コール音が何度も虚しく響いたあと、耳に飛び込んできたのは、いつまでも同じ無機質なアナウンスだけ。これまでどれほど鈍感でいられた暁としても、さすがにわかった。これは尋常じゃない。半ばパニックになりながら、メッセージを連投した。【婚約解消って、どういう意味だ。柚希、説明してくれ。いったいどうしたっていうんだ】【俺が何かしたなら、せめて言ってほしい】【今すぐ家に戻る。しっかり話をしよう】ベンツが勢いよく走り出した。ハンドルを握る手にじっとりと汗をかき、心臓だけがやけに早く脈を打っている。自宅マンションに駆け込み、鍵をひねってドアを開けた。玄関に、柚希の鍵が、静かに置かれていた。頭が混乱している。靴も脱がずに寝室へなだれ込んだ。「柚希!」声は、もぬけの殻の部屋に吸い込まれて消えた。暁はようやく、決定的な事態を目の当たりにした。空っ
そのとき、教員宿舎で莉子に付き添っていた暁の胸に、ふと鋭い痛みが走った。莉子が慌てて顔を上げる。「暁さん、どうされました?顔色が青いですよ。気分でも悪いのですか?」暁は深く息を吸い込み、痛みが引くのを待ってから、莉子にお茶を差し出した。「いや、なんでもない」思い当たる節はない。深く考えるのはやめた。「きみが危ない目に遭って、気が張っていたんだろう。落ち着いてきて、少し動悸がしただけだ」莉子の耳がほのかに赤らむ。今夜の出来事を思い返すと、まだ生々しい恐怖に身をすくませているのがわかる。「ありがとう。暁さんが来てくれなかったら、私……」ふと何かを思い出したように言葉を切り、真剣な顔で付け加える。「先生には内緒にしてくださいね。絶対、心配で眠れなくなっちゃいますから」暁が小さくうなずく。まだ怯えた目を閉じられずにいる莉子を見て、彼は唇を引き結んだ。「寝ろ。今夜は俺がここにいる。離れない」莉子の顔に、一瞬の得意げな表情が浮かんだ。「はい」そう言って目を閉じるが、その手は無意識に暁の指を探り当て、ぎゅっと握って離さない。思わず眉をひそめた暁は、反射的に手を引こうとしたが、眠ってからも落ち着かない様子の莉子を見て、思いとどまった。まあいい、まだ子どもみたいなものだ。ふと柚希のことが頭をよぎる。慌てて家を飛び出してきたが、彼女は大丈夫だっただろうか。スマホを取り出してメッセージを打つ。【莉子のほうは落ち着いた。もう大丈夫だ。先に寝ていろ】待ったが、返信は来なかった。画面はいつまでも静かなままだ。暁の呼吸がわずかに重くなる。だが、すぐに思い直した。この時間だ、眠っているに違いない。返信がなくてもおかしくはない。そう自分に言い聞かせてスマホをしまう。莉子に握られた手を静かにほどき、向かいのソファに腰を下ろした。翌朝、教員宿舎を出た瞬間、暁は妙な違和感を覚えた。すれ違う人間が、皆一様に暁と莉子を見比べては、含みのある視線を向けてくる。数学科の佐藤教授が、からかうような笑みを浮かべて声をかけてきた。「おめでとう、桐谷先生。小野寺さんみたいな美人と一緒になったなら、そう言ってくれればよかったのに。式はいつなんだい?馴れ初めなんかも聞かせてもらえると嬉しいんだがね」佐藤教授の妻も、口元をほころ