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無視された人生は、今日で終わりにした
無視された人生は、今日で終わりにした
Auteur: バズる転生作者

第1話

Auteur: バズる転生作者
婚約者の桐谷暁(きりたに あきら)には、奇妙な癖がある。夜の9時を過ぎると、どんな電話にも一切出ないのだ。

付き合いが一番熱かった時期でさえ、そうだった。夜の九時になれば、ためらうことなく電話を切られた。

ある晩、遅い時間に帰路についたとき、背後に誰かの気配を感じた。慌てて暁に電話をかけると、出たのは明らかに苛立った声だった。

「橘柚希(たちばな ゆずき)、夜遅くに電話するなって言っただろ。切るぞ」

その夜、一人で警察署へ向かった。事情を話し、調書をとってもらう。

家に戻れたのは翌朝のことだ。暁から、ねぎらいの言葉はなかった。

──そして、今。

暁のパソコンを借りる機会があり、ふと目にしたのは、通話履歴が表示された画面だった。午後9時から翌朝9時までの着信記録。毎晩欠かさず、それが5年間も続いていた。

相手の番号には見覚えがあった。暁の母の教え子で、暁の研究室の助教を務める小野寺莉子(おのでら りこ)。

その瞬間、力が抜けた。どっと疲れがのしかかる。長い間、そのまま座り込んでいた。脚が痺れるまでそうしてから、黙ってパソコンを閉じた。

婚姻届の提出は、取りやめにした。

あの人が私の電話に出ることは、決してなかった。

だから私も、もうかけないことにした。

……

暁がバスルームから出てきたときには、私はすでに区役所からもらってきた婚姻届を引き出しの奥にしまった。

リビングのソファに座り込んだままの私を一瞥し、すぐに時計へ視線を移すと、彼はわずかに眉をひそめた。

「何か用か。悪いけど、もうすぐ九時だ。寝るよ」

一瞬呆けてから、私はかぶりを振った。

「……ううん、別に」

「じゃあ、おやすみ」

暁はこちらを気にする様子もなく、あっさり寝室へ引っ込んだ。

立ち上がりかけ、やめた。ぼんやりしていると、ついさっきまで暗かったパソコンのモニタがふいに光を放った。スマホと同期された画面に表示されているのは、莉子からの着信だった。

夜の9時を過ぎたら電話に出ない。声も聞かない。返信ひとつしない。そう言い切ったくせに、暁は間を置かずに通話を始めた。相手を一秒でも待たせまいとして。

おかしくなって、乾いた笑いが漏れた。ずいぶん甲斐甲斐しいじゃないか。その優しさが私に向けられたことは、一度もないけれど。

寝室へ戻った。暁はもう目を閉じていて、寝入っているように見えた。

伏せて置かれたスマホと、右耳に差した小さな黒いイヤホン──これまで一度も目に留まらなかったそれらが、そのとき初めてするりと目に入った。

部屋の明かりを消し、暗がりで上司からのチャットを開いた。異動の打診があったのは先週だ。せっかく結婚する手前だったし、遠距離は嫌だから断った。でも今は、それで構わない。

上司からの返信はすぐに来た。

【覚悟は固まったか。パリの在外公館、最低五年だ。行くなら査証の手配に入る。出発は三日後】

【行きます】

そう打ち返して、スマホを伏せた。

隣から穏やかな寝息が聞こえた。向こうの莉子も、いまごろ安心して目を閉じているんだろう。

ベッドに横たわった。来月結婚するはずだったのに、私たちの間には見えない線が、はっきりと引かれている。しばらく天井を見つめてから、そっと目を閉じた。

翌朝、目を覚ますと、暁はもうウォークインクローゼットの前に立っていた。起き上がりながら、私は彼のスマホに手を伸ばす。触れた端から伝わる熱。やっぱり、そうか。

ビザの申請に必要な書類をそろえ、彼のほうをちらりと見てからリビングを横切った。すれ違いざま、戸惑ったような声で暁に呼び止められた。

「ネクタイ、締めてくれない?」

口元だけで笑った。

「しない。自分でやって」

一拍おいて、言い添える。

「それか、助教の人にでも頼んだら?」

暁は手にしていたものを置き、こちらへ歩み寄り、訝しげに見下ろした。

「小野寺のことか」

その名を口にした瞬間、それまで硬かった彼の表情が、ふっと柔らかくなった。目元にわずかな笑みが浮かぶのがわかる。

「たしかに、小野寺はできるよ。よく気がつく子だ。だが、それがお前にネクタイを結んでもらうのと、何の関係があるんだ」

一瞬、黙った。どこから話せばいいのか、見当もつかない。だから、やめた。

「関係ないわ。ただ、したくなくなっただけ」

暁は唇を引き結び、不機嫌そうに言い放った。

「好きにしろ。あと、今日は弁当がいらない。さっき小野寺から連絡があって、持ってきてくれるらしい」

ドアノブに手を伸ばしかけて、止まる。

「……そう」

暁の胃は仕事で弱っている。それでもこれまで、どんなに忙しくても、私は弁当を届け続けてきた。

好都合だ。これでこの男の機嫌を取るのに時間を割かずに済む。

そう言い終えると、背を向けてドアを閉めた。

外務省へ向かった。ビザの申請書を提出し、その後、勤務先で異動の辞令を受け取った。渡された書類をバッグにしまう。

建物を出たところで、ふと顔を上げた。植え込みの桜が、少しずつほころびはじめている。

ああ、楽だね。体がどうしようもなく軽く、胸の奥が、いつの間にか開いていた。

帰宅して、引き出しの奥から婚姻届を取り出す。自分の名前が書き込まれた一枚の紙を、もう一度だけ広げて、それから細かく破って捨てた。

もう、いらない。

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