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掟 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

17 チャプター

プロローグ

瀬戸内海のその島は、地図で見れば小さな点にすぎない。けれど、そこに暮らす者たちにとっては、世界のすべてだった。海は穏やかで、空は広く、風はやさしい。外から来る者は皆、口を揃えてそう言う。だが島の内側には、別の顔がある。――見えない規律。――名前のない掟。――そして、静かに人を追い詰める仕組み。移住者が一人、島にやって来たのは春の終わりだった。古い空き家を改装し、静かに暮らすつもりだった男は、最初の一週間で違和感に気づく。歩けば目で追われる。郵便物が届かない日がある。買い物に行けば、店主の会話が一瞬止まる。誰も悪意を見せないのに、確かに距離がある。そして三週目の朝、ポストに入っていた。白い封筒。 差出人なし。 中には数行の紙片だけ。「夜の港に出るな」「余所者は見られている」文字は印刷ではなく手書きだった。しかも複数の筆跡が混じっている。それは、この島のやり方だった。噂は風より早い。しかも風より正確に、誰かの意図を持って運ばれる。島の中心には、かつて市議会議員だった男がいた。表向きは引退した静かな老人。しかし今もなお、島の人間関係の中心線はその男を避けては引けない。利害。恩義。沈黙。それらが複雑に絡まり、島の空気そのものを支配していた。ある者は言う「昔からこうだった」と。ある者は言う。「仕方がない」と。 そして、ほとんどの者は言わない。何も。移住者の家の前を、見知らぬ車が何度も通るようになった。夜、庭先の物音が増えた。玄関の隙間に、誰かの視線を感じることがある。監視は機械ではなく、人の目だった。それがこの島の恐ろしさだった。誰も特別なことをしていないのに、誰もが見張っている。そして、ある日。彼のもとに「運動」と呼ばれる集まりへの参加要請が届く。それは名目上、地域の安全と交流を目的とした会合だった。だが実態は違う。そこに出ない者は、徐々に「いないこと」にされる、いや「存在しないこと」にされる。会合の中心にいたのは、かつての市議会議員だった男と、彼に近い数人の島の古株たちだった。彼らは笑っていた。穏やかに。まるで世間話をするように。「この島はね、外から来る人には少し厳しいかもしれん」その言葉の裏で、紙と噂が静かに回っていく。誰が何を言ったか。 誰がどこにいたか。 誰が“異物”か。怪文書は、いつの間にか文化になっていた。夜になると、島のどこかで紙が印刷され、誰
last update最終更新日 : 2026-07-21
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第一話 ガソリンスタンド

都会での仕事を辞めたのは、去年の暮れだった。理由を聞かれるたびに、その時々で答えを変えていた気がする。人間関係に疲れた。将来が見えなかった。土に触れる暮らしがしたかった。どれも嘘ではないが、どれも本当ではない気がした。本当のことを言えば、自分でもよく分からなかった。ただ、あのまま同じ場所にい続ければ、少しずつ擦り減っていくことだけは分かっていた。移住先を探していたとき、たまたま目に入ったのが瀬戸内海のこの島だった。空き家バンクの写真には、蜜柑畑と穏やかな海が写っていた。人が少なく、静かで、誰にも急かされない場所。そういう暮らしを求めていた。実際に来てみれば、想像していた通りの景色がそこにあった。少なくとも、最初の数日は。島内は車でまわっても50分でまわれる。移住してから片付けばかりで、少しは外にでも出歩いて気分転換が必要かと思った。島での移動方法として持ち込んだ軽トラックに乗り込み、ガソリンがないことに気がつく。ガソリンスタンドは島内に一ヵ所しかない。そこへ向かう。「いらっしゃい」キャップを被った老人男性が、人当たりよく挨拶をしながら出てきた。「島には観光かい?」手際よく話をしながら、給油作業を始めている。「いえ、移住してきたので隣の地区に在住です。よろしくお願いします」そう伝えると、老人は手を止めた。「移住者か?」先程までの人当たりの良い顔つきが、一気に無表情になった。給油の手も止まっている。「何をしに来た?」給油しにきただけだ。それだけのはずなのに、あまりにも豹変した態度に驚いた。だが「ここでゆっくりしたくて、農業でもしようかなと思います」と答えておいた。嘘だった。初対面の相手に、まして給油に来ただけの相手に、本当の事情を話す義理はない。老人は「そうかそうか、ここは良い土地だから、兄さんみたいな若い人が来てくれて嬉しいよ」と、また表情を戻した。先程の口調はもうどこにもない。多少の違和感は残ったが、支払いの際には島のミカンを手渡され、「食べんさい」と、気の良い老人であるように見えた。本島でもセルフスタンドでなければ見送りサービスを行うが、ルームミラー越しに見送りしてくれる老人が見えた。島の裏側に到着すると、数台の島民が手を振って挨拶してくれる。都会にはない人との距離感が気持ち良いものだと、潮風に吹かれながらぼんやりと海を眺めていた。――ここでなら、うまくやれるかも
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第二話 異性

島での生活は、思っていたよりも人が近い。近いというのは物理的な距離ではない。視線と記憶の距離だ。都会にいた頃は、隣に誰が住んでいるかも知らなかった。エレベーターで会えば会釈をする程度の関係が、当たり前だと思っていた。誰も自分のことを気にしない代わりに、誰も自分のことを知らない。その匿名性が、息苦しさから逃げる唯一の手段でもあった。この島では、それが通用しない。移住してから数週間、少しずつ顔を覚えられ、少しずつ名前を呼ばれるようになった頃、同じ地区に住む女性と知り合った。彼女はひとりで島に暮らしているらしかった。最初の会話は、道端だった。買い物帰りに軽く挨拶を交わしただけの、ほんの数秒のやり取り。それだけで終わるはずだったものが、なぜか次の日も、その次の日も続いた。「ここ、坂が多いですよね」「慣れると平気ですよ」そんな程度の会話。だが島では、それで十分すぎるほどだった。三日目には、すでに別の空気が混じっていた。「昨日、あの女性と話しとったね」買い物先の店で、何気なく言われた。悪意はない。探りでもない。ただ共有のような言い方だった。その日の夕方には、別の人間が同じことを言った。そして夜には、笑い話のように広がっていた。「移住の男と独身の女が話しとったらしいよ」「そろそろええ歳じゃけえね」「まあ島じゃしなあ」結婚の話にすらなっていた。早すぎる。あまりにも雑だ。だが同時に、その雑さに誰も疑問を持っていない。彼女本人も気にしていない様子だった。「こういうの、よくあるんですよ」そう言って、肩をすくめる。「島の人って、噂が好きだから」その言い方は軽かった。むしろ慣れている。気にするだけ無駄、とでも言うように。その態度に、少しだけ救われた気がした。自分だけが神経質になっているのではないか、と。堂々としていればいいだけだ。そう思い直す。島の空気にいちいち反応していたら、生活がもたない。そういう種類の場所なのだろう、と。彼女は目立つ人だった。年齢は四十代半ばに見える。だがその印象は、数字とは結びつかない。背は高く、姿勢がいい。線は細いのに、どこか芯がある。色白で、顔立ちは整っていた。目鼻立ちがはっきりしていて、どこか島の人間というより、外の空気を一度通ってきたような顔だ。ほんのわずかに混ざる異物感。見えるその雰囲気が、島では妙に浮いている。だからこそ目立つのだろう。彼女自身は、その視
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第三話 役割

自宅のすぐ近くに畑を貸してもらえた。島の特産であるレモンや蜜柑、オリーブを育てている。この島は気候が温暖で、冬でも本州ほどの厳しさはない。加えて海風が島の隅々まで適度な塩分を運ぶ。それが、甘みの強いミカンを育てるのに一役買っているのだろう。休日は自由だった。一日中だらだら過ごすのもいいし、最近覚えた釣りで時間を潰すのも悪くない。自由を手に入れた、そう思っていた。畑仕事をしながら、ふと考えることがある。都会にいた頃は自由とはもっと違うものだと思っていた。誰にも縛られず誰にも見られず、好きなように生きること。だが今この島で感じている自由は、それとは少し違う気がした。目に見えない何かが常に側にあり、その隙間で許された分だけを、自由と呼んでいるような感覚だった。まだそのときは、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。その日の夕方。ドンドンドン玄関扉を叩く音と共に、「こんにちはー、区長の長谷川です」島に移住する際、何かと世話になった人物だ。「長谷川さん、こんにちは」長谷川はやや太り気味の中年男性だが、世話好きで、島内で悪く言う者はいない。「今夜、公民館で来年度の役割を決めますので、参加お願いします」「わかりました」「20時開始ですので、遅れないように」念を押すように言い残し、長谷川は帰っていった。――役割決め。島民同士で自治的に役割を分担しているのだろう。その程度の認識だった。夜。公民館には、見知った顔もあれば初めて見る顔も混ざっていた。全部で三十人ほどか。指定された席に座ると、正面の壇上に三人の老人が座っていた。腕を組み、黙ったまま参加者を見下ろしている。誰だろうか。その空気だけが、妙に重い。壇上に座る三人は、他の島民とは明らかに違う空気をまとっていた。老いてはいるが、目だけが妙に鋭い。値踏みするような視線が、会場全体をゆっくりと這っている。長谷川がマイクを握った。「えー、それでは新年度の役割を決めたいと思います」淡々と、作業のように進んでいく。自薦と他薦が少し交わりながら、役割が次々に埋まっていく。やがて長谷川が言った。「では、寺総代を決めたいと思います。どなたか希望は――」その瞬間だった。壇上の老人の一人が、低い声で言った。「寺総代は大事な役目や。それは長谷川がやれ」空気が一瞬、止まった。命令だった。島の区長を指名するような言い方。それも、理由も説明もなく。
last update最終更新日 : 2026-07-21
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第四話 違和感

今日は区長の長谷川と、新たに移住してくる夫婦を迎えるため港に来ていた。自分がこの島に来てから、まだ数ヶ月しか経っていない。それなのに、もう「迎える側」に回っている。その感覚には、少しだけ落ち着かないものがあった。まるで、自分自身がこの島にどれだけ馴染めたかを試されているような気がしたからだ。定期船の到着を待ちながら、長谷川が説明を受けた。「今回は若い夫婦さんでね。農業をしながら暮らしていきたいそうです」島を選ぶ理由としては珍しくない。自然の中での生活、という響きに惹かれる人間は一定数いる。自分もその一人だった。やがて船が到着し、人が吐き出されるように乗客が降りてくる。その中から、ひと組の夫婦がこちらへ歩いてきた。「よろしくお願いします」簡単な挨拶と自己紹介だった。夫は三十代前半ほどだろうか。やる気に満ちた目をしている。新しい土地で何かを始めることに、純粋な期待を抱いている顔だ。――自分も、来たばかりの頃はあんな顔をしていたのだろうか。そう思うと、少しだけ胸の奥がざわついた。一方で妻は、同じ言葉を繰り返しながらも、どこか表情が固かった。長谷川が間に入り、島の生活やルールについて説明を始める。「この島ではですね、地域の取り決めがいくつかありまして……」夫はうなずきながら聞いている。「わかりました!」返事も早く、前向きそのものだった。だが妻は、ほとんど口を開かなかった。うなずいているようにも見えるが、反応が薄い。車の後部座席に乗ったとき、ルームミラー越しに見えた横顔は、どこか不安を隠しきれていないようにも見えた。(緊張しているだけだろう)そう思うことにした。島に来たばかりなら、誰でも似たようなものだ。車は島内の道を進んでいく。途中、長谷川が改めて生活の注意点を話す。「困ったことがあれば、遠慮なく言ってくださいね」夫は「ありがとうございます!」と明るく答える。妻はやはり、ほとんど言葉を発しない。やがて目的の賃貸物件に到着した。そこは私の家からは少し離れた場所にある一軒家だった。長谷川が鍵の説明などを済ませる間、夫は早速周囲を見回し、期待を隠そうとしない。「いいですね、静かで」その言葉に、長谷川は軽く笑ってうなずいた。「すぐ慣れますよ」一通りの説明が終わると、私は自分の連絡先を渡した。「何かあれば、いつでも連絡してください」夫は深く頭を下げた。妻もそれに続くように小さく会釈し
last update最終更新日 : 2026-07-21
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第五話 崩壊

朝方、まだ薄暗い時間にスマホが鳴った。枕元で振動が続き、半分眠ったまま画面を見る。登録されていない番号だった。誰だ、と一瞬ためらいながらも通話に出る。「もしもし」「朝早くにすみません……先日引っ越してきた者です」すぐに分かった。あの若い夫婦の夫だ。「どうかしましたか?」声には焦りが混じっていた。「妻の様子がおかしいんです。病院に連れて行きたいので、少し助けてもらえませんか」まだ夜明け前だったが、断る理由はなかった。「分かりました。すぐ行きます」電話を切り、車で夫婦の家へ向かう。運転しながら、まだひと月も経っていないことを思い出していた。あの日、港で見た妻の横顔。何かを堪えるような表情。あれは、もう始まっていたのかもしれない。到着すると、扉の前で夫が待っていた。「朝早くに申し訳ないです」「奥さんは?」「中です」家の中に入ると、空気が重かった。案内された寝室には、妻がいた。島に来たときの面影はほとんどなかった。カーテンの隙間をじっと見つめ、爪を噛んでいる。声をかけても反応が薄い。やがて、低い声が漏れた。「わたしを見ている」「わたしを見ている」誰に向けた言葉でもないように、同じ言葉だけを繰り返している。夫が近づき、肩に手を置く。「病院に行こう。な?」しかし妻は強く首を振った。「いや……」「監視されてる」「外に出たら、わたしがおかしいって噂される」「わたしはおかしくない」「わたしはおかしくない」「わたしはおかしくない」言葉は次第に速くなり、呼吸と混ざり合っていく。目だけが一点を見つめたまま動かない。夫と協力して、なんとか車へ連れていった。抵抗は強くなかったが、心はどこにもいなかった。病院に着く頃には、妻は後部座席で静かに眠っていた。車椅子に移すときも、目を覚まさない。「本当にありがとうございました」夫は何度も頭を下げた。一体何が起きているのか。夫婦喧嘩でも、単なる疲れでもない。ただ、あの崩れ方だけは異様だった。診察の合間、夫がぽつりと話す。「この島に来てからなんです」「買い物に行けば、根掘り葉掘り聞かれる」「洗濯物を干せば、道行く人に下着のことまで言われる」「だんだん外に出なくなって……」それは、以前自分も感じていたものだった。しかし、慣れてしまっていた。異常を日常として飲み込んでいたことに、今さら気づく。「妻は元々、人の目を気にするタイプだったんです」夫は俯いたまま続けた
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第六話 監視

自宅に戻って一眠りすると、目が覚めた頃にはもう昼前だった。時計を見て、小さく息をつく。「……図書館にでも行くか」あの若い夫婦のことが、まだ頭から離れずにいた。何か気を紛らわせるものが欲しかった。島の図書館は小さい。本の数も多くはないが、漫画も少し置いてある。もっとも、最新刊など入ることはなく、暇つぶし程度の品揃えだ。何か読むものでもないかと漫画棚へ向かうと、不意に声をかけられた。「あら、こんにちは」あの四十代の女性だった。今日も身なりが良い。自分の服装が急に恥ずかしくなった。彼女も漫画を探しに来たらしいが、目当てのものは無かったようだ。軽く挨拶を交わし、今朝あった若い夫婦の件を簡単に話した。病院まで送り届け、帰って寝ていたのだと伝えると、女性は少し眉を下げた。「大変でしたね。慣れない環境は、それだけで疲れますから」同情するような口ぶりだった。だが、次の言葉に引っかかった。「でも、“見られている”というのは、あながち間違いではありませんよ」思わず聞き返す。「どういう意味ですか」女性は周囲を見回し、少し笑った。「ここで話すのも何ですし。外へ出ましょう」図書館を出て裏手へ回る。人目につきにくい場所だった。「ここで私と話しているのを見られたら、また何か言われますよ」冗談めかして言うが、目は笑っていなかった。「構いません。それより、さっきの話を」女性はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「この島の移住者は、古老たちの指示で監視されています」「監視?」「区長の長谷川さんが窓口です。近所の年寄りたちも頼まれて、生活ぶりを見ています」思わず言葉を失った。「そんな馬鹿な……犯罪者じゃあるまいし」「ええ。だから監視なんですよ」あまりにもあっさり言う。背筋が冷えた。「なぜ移住者ばかり?」女性は少し遠くを見るような顔をした。「この島では、外から来た人間はいつまでも外の人です」「女ならなおさらです。島外から嫁いできても、何十年住んでも“余所者”」その言葉には、妙な重みがあった。「島の出身同士、島の家同士で結婚していなければ、一生その扱いです」「長谷川さんみたいに、面倒な役を押しつけられることもあります。寺総代なんて、まさにそう」あの夜の集会が脳裏によみがえる。あれは単なる役割決めではなかった。序列確認の場だったのだ。「古老たちが勝手に決めているんですか?」「違います」女性は首を振った。「
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第七話 回覧板

普通に暮らすこと。あのときは、どこか他人事のように聞いていた。だが、若い夫婦は実際に壊れ、追い出されるように島を去る。それが現実だった。そして、ふと気づく。――では、自分は今、どう見られているのか。若い夫婦に肩入れしたよそ者。病院まで送った男。島のやり方に馴染みきれていない移住者。そういう存在として、すでに分類されているのではないか。一度そう考え始めると、これまで気にも留めなかった些細なことが、急に意味を持って迫ってくる。窓の外を見る。向かいの家の老婆が、洗濯物を干しながらこちらを見ていた。目が合うと、何事もなかったように視線を逸らす。胸の奥がざわつく。気のせいだ、と自分に言い聞かせる。だが、その言い聞かせ自体が、もう以前とは違う種類のものだった。以前は本当に気にしていなかった。今は、気にしないようにしている。その違いは、思っている以上に大きい。夕方、ポストを確認すると何も入っていなかった。ほっとして家へ戻ろうとしたとき、足元に白い紙が落ちているのに気づく。四つ折りにされた、メモ用紙だった。開く。中には、たった一文だけ書かれていた。よそ者同士、かばい合うな。字に見覚えはなかった。だが、この島の誰かが書いたことだけは分かった。背後に気配を感じ、振り返る。誰もいない。それでも、しばらくその場を動けなかった。紙を握りしめた手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。
last update最終更新日 : 2026-07-21
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第八話 共同と境界

若い移住者夫婦が島を去ってしばらく経つと、あれほど騒がれていた噂も、次の話題に押し流されるように薄れていった。この島では、人の人生より噂の寿命のほうが短い。季節は冬になっていた。本州ほどではないにせよ、この島にも冷たい風は吹く。海から来る潮風が時折強く吹きつけ、古い家のガラス戸をカタカタと鳴らしていた。「……そろそろやるか」誰に聞かせるでもなく呟き、重い腰を上げる。敷地内の倉庫へ向かった。昨日まで収穫していたミカンを、今日は選別して出荷しなければならない。傷もの、小玉、大玉、色づきの甘いもの。決められた基準ごとに分け、地区の出荷場へ持っていく。重いキャリーケースを持ち上げるたび、腰が悲鳴を上げた。「……っ」思わず息が漏れる。ミカン農家はのんびりしている――移住前に抱いていたそんなイメージは、とっくに消えていた。体は正直に、この島での生活の重みを覚え始めていた。汗をかきながら作業を続けていると、不意に外から声がした。「誰かいますかー?」女性の声だった。手を止め、倉庫の戸を開ける。そこに立っていたのは、見覚えのある人物だった。図書館で会った、あの四十代の女性だった。厚手のコートを着込み、両手をこすり合わせながらこちらを見ている。「突然すみません。少し、お話できますか」相変わらず穏やかな口調だった。だが、その表情にはどこか硬さがあった。「どうしました」女性は周囲を見回した。道の先、隣家の畑、向かいの家の窓。誰かが聞いていないか確かめるように。「ここじゃまずいですか?」思わずそう聞くと、女性は苦く笑った。「この島で“ここなら大丈夫”なんて場所、ありませんよ」その言葉に、寒さとは別のものが背中を走る。女性は一歩近づき、小声になった。「あなた、最近警戒されています」胸がざわついた。「……誰にですか」「島全体に、です」冗談ではない顔だった。「若い夫婦に肩入れしたこと。病院へ連れて行ったこと。古老のやり方に不満を持っているらしいこと」「全部、話が回っています」思わず笑いそうになった。笑えるはずがないのに。「そんな馬鹿な。誰にも話してませんよ」「話してなくても、そういうことになってるんです」女性は即答した。「この島では、事実より“まとまりやすい話”のほうが残ります」風が吹き、倉庫のトタン壁が鳴った。私は腕を組み、女性を見た。「……それで、警戒って?」女性は少し黙り、やがて言った。「共
last update最終更新日 : 2026-07-21
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第九話 沈黙

出荷場で感じた“距離”は、気のせいではなかった。翌日から、それは目に見える形になって現れた。挨拶しても返されない。共同倉庫の鍵を借りに行けば、「今、誰かが使っとる」と断られる。回覧板は自分の家だけ飛ばされる。出荷場では、積み込みの順番がなぜか毎回後回しになる。そして長谷川でさえ、目を合わせなくなった。誰かが怒鳴るわけでもない。露骨な嫌がらせをされるわけでもない。ただ、そこにあるはずの関係だけが静かに失われていく。この島では、一人で農作業を続けること自体はできる。だが、生きていくとなると話は別だった。電気屋もいない。大工もいない。修理業者もすぐには来ない。井戸ポンプが壊れれば誰かに頼るしかない。屋根が傷めば近所に相談するしかない。共同体から外れた人間は、生活そのものが立ち行かなくなる。――このままではまずい。いや、もう遅いのかもしれない。夜、一人で食事をしながら考えた。都会にいた頃なら、こんな関係はすぐに切ってしまえばよかった。合わない人間とは距離を置き、必要な分だけ付き合う。それで十分だった。だがここでは、その「距離を置く」という選択肢自体が存在しない。逃げ場のない狭い箱の中で、関係を切ることは即座に生活の破綻を意味した。私は考え抜いた末、自分の仕事を後回しにし、地域の手伝いを始めた。ひじきを干している老人を見かければ、「手伝わせてください」ミカンのキャリーを軽トラックへ積み込んでいる家を見れば、「私もやります」集積所のゴミ回収が終われば、水を流して掃除した。頼まれてもいないのに、先回りして動いた。そうして数日が過ぎる頃には、少しずつ変化があった。返ってこなかった挨拶が返ってくるようになった。倉庫の鍵も借りられた。出荷の順番も、元に戻った。何とか最悪の状況は抜け出したらしい。私は胸を撫で下ろした。だが同時に、自分がこの数日でどれだけ変わったかにも気づいていた。以前なら絶対にしなかったような、下手に出る態度。先回りしてご機嫌を取るような動き。それを「生活のため」だと納得させながら、心のどこかでは、自分がこの島の空気に少しずつ染まり始めていることを認めざるを得なかった。また自分の農作業に戻らなければ。その日の夕方。軽トラックで自宅へ戻る途中、燃料計の針が空に近いことに気づいた。慌てて島唯一のガソリンスタンドへ寄る。「おう、来たんかぇ」店主の男が笑いながら出てきた。日に焼
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