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All Chapters of 残想: Chapter 1 - Chapter 10

16 Chapters

冒頭 七十七回帰(忌)

「摩訶般若波羅蜜多心経――」 低く響く読経の声が、静かな座敷に広がっていた。 お線香の匂いが部屋いっぱいに漂う中、本家には親戚たちが集まり、曾祖父・玄太郎の七十七回忌が営まれている。 私は正座したまま、ぼんやりと祭壇の遺影を眺めていた。 「向日葵(ひまり)ちゃん」 隣から優しい声がする。 曾祖母の毬(まり)婆ちゃんだった。 九十を過ぎた今も背筋はしゃんとしていて、白くなった髪を綺麗にまとめている。 毬婆ちゃんは曾祖父の玄太郎爺ちゃんと同じ町で育ち、私と同じくらいの年齢で見合い結婚をした。 翌年、玄太郎爺ちゃんは出征。 祖母の万里江を身ごもっていた毬婆ちゃんの元へ、玄太郎爺ちゃんが帰ってくることはなかった。 「向日葵(ひまり)ちゃんもお願いね」 差し出された焼香箱を受け取る。 「玄ちゃん、喜んどると思うよ」 そう言って微笑む毬婆ちゃんの目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。 約八十年。 それだけの年月が流れているのに、毬婆ちゃんは今でも玄太郎爺ちゃんを愛してやまない。 小さい頃から何度も聞かされた。 「玄ちゃんはね……」 その言葉から始まる昔話。 毬婆ちゃんの人生は、ずっと一人の人を愛し続けた人生だった。 私はまだ恋を知らない。 でも、いつか毬婆ちゃんみたいに誰かを好きになれる日が来るのだろうか。 そんな恋をしてみたい。 でも私は……。 「あれ……?」 急に息苦しくなった。 お線香の匂いが鼻の奥にまとわりつく。 胸が苦しい。息が吸えない。 「……っ」 視界が揺れる。 「向日葵(ひまり)ちゃん!?」 誰かの声が遠くなる。 段々と意識が薄れていく。 その時だった。 『…まり…。』『…帰ったよ…』 男の人の声。 聞いたこともないはずなのに、なぜか懐かしい。 私はその声に導かれるように、静かに意識を手放した。
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第一話 もう一人の存在

『おい…』 『……起きろ。』 叫び続ける男性の声。 『……ひまり!』 …誰…。 目を覚ました時、私は病室のベッドの上だった。 頭が痛い、ズキッとこめかみ辺りから血は流れてないのに痛みを感じる。 それより…。 『起きたか?ひまり』 私は頭の中に響く声が夢の声と同じとわかる…。 「…幽霊なの?」 思わず口から出た。 『そうは思わん』 同級生の男子と変わらない声だが、聴こえてくる言葉が男子たちとの違いを明確にした。 目を閉じて布団を被る。 『怖がるな。おれもまだ頭がぼんやりしている』 声は少しだけ弱くなった。 『呼ばれた。あの日、別れた日の毬に呼ばれた。』 毬(まり)婆ちゃん。 その言葉に胸がざわつく。 『毬(まり)と思っていたが、ひい孫とはな』 『毬に良く似ている』 「……」 私は黙ったまま。 それでも不思議だった。 怖い。怖いはずなのに。 心の奥が妙に穏やかだった。 『さっさとこんな所を出ろ』 『仮病で病院に寝るなど大和撫子が嘆かわしい』 「……」 『聞こえておるのか? ひまり!』 無視。 『ひまり!』 無視。 『こんな病院に居たら頭がおかしくなるぞ』 「うるさい!」 ついに叫んでしまった。 病室に私の声だけが響く。 しばらく沈黙が流れた。 そして。 『……聞こえておったか』 どこか安心したような声だった。 私は頭を抱えた。 理解できない、理解したくない。 なのに…。 頭の中にいるもう一人の感情だけは、不思議なほど伝わってくる。 困惑、安心。 そして、懐かしさ。 その感情が、まるで自分のもののように胸へ流れ込んでくる。 理解できないのは、私だけだった。 こうして私と、もう一人の存在との生活が始まった。
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第二話 法事

母が病院に迎えに来たのは夕方だった。 精密検査の結果は異常なし。 七十七回忌の最中お線香の匂いで気分が悪くなり、そのまま意識を失ったらしい。 私の記憶もそこまでだった。 気が付けば病院のベッドの上で、誰もいないはずの相手と会話をしていた。 『そうは思わん』 頭の中から声がする。 『意識を失うのは健全な女子にも起こりうることだ。女性特有の月のものや貧血など、様々な要因が考えられる。人体を理解することは――』 「うるさい!」 病院の待合室で思わず声が出た。 周囲の視線が集まり、慌てて口を押さえる。 毬(まり)婆ちゃんから聞いていた玄太郎爺ちゃんは、それはそれは優しい人だったはずだ。 なのに、実際は理屈ばかり並べる変な人だった。 『屁理屈ではない。人体を理解すれば病気の初期症状を――』 「もう黙って……」 頭を抱えながら病院を後にする。 今夜は本家にもう一泊し、明日自宅へ帰る予定になっていた。 本家にはまだ親戚たちが残っていた。 七十七回忌は、毬婆ちゃんが以前から望んでいた法事だった。 食事の席では、大人たちの小さな声が聞こえてくる。 「もう八十年近いのにねぇ」 「お婆ちゃんの気持ちなんだろうけど……」 皆、忙しい中で集まってくれたのだろう。 私だって学校と部活を休んで来ている。 だから気持ちはわからなくもない。 でも。 故人を偲ぶ時間が必要な人もいるのだと思う。 私はまだ理解できない。 だって私は、まだ恋を知らないのだから。 『そうは思わない』 玄太郎の声が響く。 『ひまりの前に、まだ現れていないだけだ』 「玄ちゃん、目の前に毬婆ちゃんいるんだから、そっちに入りなよ」思わず口から出た。 少しの沈黙。 『玄ちゃん……か』 どこか照れたような声だった。 『間違いではないが』 そして、目の前で親戚たちに囲まれている毬婆ちゃんを見つめながら、玄太郎がぽつりと呟いた。 『毬は変わらんな。昔のままだ』 私は思わず吹き出しそうになる。 目の前にいるのは九十を超えた毬婆ちゃんだ。 どう見ても十代には見えない。 「玄ちゃんには若く見えてるの?」 『そうだが?』 迷いのない返事。 どうやら玄太郎には、若い頃の毬婆ちゃんの姿のまま見えているらい。 それはそれで幸せなのかもしれない。 「じゃあ、なんで
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第三話 令和に触れる昭和人

昼の法事も終わり、本家の中は静かになっていた。 親戚たちはそれぞれ帰り支度を始め、廊下の向こうからは食器を片付ける音だけが聞こえてくる。 向日葵(ひまり)は客間の机に教科書を広げ、大きくため息をついた。 「もう無理……」 数学の課題を来週提出。 けれど問題文を見ても、何を書いているのかすらわからない。 「こんなの提出できないよ……」 半泣きになりながら机に突っ伏す。 すると頭の中から呆れた声が響いた。 『そうは思わん』 「出た……」 『何故そこで諦める?』 「だってわかんないもん」 『こんな問題がわからんのか?』 「玄ちゃん解いてみなよ」 半分やけくそで言うと、 『身体を借りるぞ』次の瞬間だった。 ふっと身体の力が抜けたが、意識はある。景色も見えている。 けれど、手だけが自分の意思とは別に動き始めた。 カリカリ、と鉛筆が迷いなく走る。 「え?……」 一次関数、二次方程式、証明問題。 どの問題も躓くことなく答えが埋まっていく。 十分後。 真っ白だったプリントは全て埋まっていた。 『終わったぞ』 身体の感覚が戻る。 向日葵は課題と玄太郎の感情を交互に感じながら目を丸くした。 「玄ちゃん凄い!」 『飛行機を飛ばすには数学と物理が必要だからな』 『燃料計算を間違えれば墜落する』 「頭良かったんだ」 『当然だ』 少し得意げな感情が流れ込んできて、向日葵は思わず吹き出した。 「ありがとう!」 『礼には及ばん』 向日葵は少し考えて立ち上がる。 「じゃあ、お礼に面白いもの見せてあげる」 『女子が夜に出歩くものではない』 「家の中だよ!」 笑いながら向かった先は毬(まり)婆ちゃんの部屋だった。 「おばあちゃん、入っていい?」 「向日葵ちゃんかい?どうぞ」 「体調良くなったかい?」 「うん、もう大丈夫だよ。」 毬婆ちゃんは布団の上で小さな写真を見つめていた。 「それ、玄太郎爺ちゃん?」 「うふふ。そうよ」 差し出された写真には若い男女が並んでいた。 「これしか二人の写真が残ってないの」 毬婆ちゃんは懐かしそうに写真を撫でた。 『毬……』 頭の中から切ない声が漏れる。 「お見合いの日まで顔も知らなかったのよ」 「嫌じゃなかったの?」 「嫌だったわよ」 毬婆ちゃんは笑っ
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第四話 二回目の見送り

夜が明ける前だった。 枕元から突然けたたましい音が鳴り響いた。 『ひまり! 空襲警報だ!』 頭の中で響いた怒鳴り声に、向日葵(ひまり)は飛び起きた。 『女子は防空壕へ避難開始! 急げ!』 「……うるさい!」 寝ぼけ眼のまま枕元を見ると、鳴っていたのはスマホの目覚ましだった。 「玄ちゃん……目覚ましだよ」 しかし玄太郎は聞いていない。 『毬!』 『毬はどこだ! 防空頭巾は!』 「だから落ち着いて!」 布団の上で髪を振り乱しながら叫ぶ向日葵とは対照的に、頭の中の青年は完全に戦時中へ戻っていた。 「もう敵なんていないの!」 「平和な日本なんだから!」 その言葉に、玄太郎の声がぴたりと止まった。 『……そうか』 しばらく沈黙が続く。 向日葵は大きくため息をついた。 「毎朝こんなだったら私の方がおかしくなるよ……」 『……すまん』 少しだけ申し訳なさそうな感情が流れ込んでくる。 向日葵は布団から起き上がりながら顔をしかめた。 「今日は家に帰るけど……まさか、このままなの?」 『おれは出られんからな』 「やだ!」 「玄ちゃんは毬婆ちゃんのところに取り憑けばいいじゃない!」 『悪霊扱いはやめなさい』 思わず向日葵は笑ってしまう。 「じゃあ何で私なの?」 『おれにもわからん』 玄太郎は少し考えるように言った。 『深い眠りについていた』 『呼ばれた場所があの家だった』 『天井から見ている感覚はあったんだ』 『そして、ひまりが倒れた瞬間……吸い込まれた』 向日葵は嫌な予感がして顔を引きつらせた。 「待って……」「待って!」 「お風呂とか……トイレとか……」 『……』 「見えてるの?」 『……そうだな』 「いやぁっ!」 布団を抱えて悲鳴を上げる。 「絶対嫌っ!」 「今すぐ出てって!」 玄太郎から困惑の感情が伝わってきた。 『なら意識を断てばよかろう』 「え?」 『入れ替われるのだから、意識を閉じることもできる』 「本当に?」 『女子の入浴を覗く趣味はない』 「絶対だからね!」 『わかった、わかった』 朝からひい孫に怒鳴られることになるとは、八十年前の玄太郎も思っていなかっただろう。 朝食を終え、本家を出る時間になった。 玄関まで見送りに来た毬(まり)婆ちゃんは、向日
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第五話 変わった日本

通学の電車に乗った瞬間だった。 『……こ、これが日本国なのか……』 頭の中から驚きの感情が一気に流れ込んできた。 窓の外には高いビル群が立ち並び、道路には絶え間なく車が走っている。 『ビル、ビル、ビル……』 『畑はどこへ行った? 田んぼは?』 『車の数を見れば分かる。ここは帝都なのだな?』 つり革を握ったまま、向日葵(ひまり)は目を閉じた。 「……朝からうるさい」 『洋装ばかりではないか。着物はどうした』 『皆、下ばかり見ている。ひまりの持っているスマホ箱と同じではないか?』 『ひまり、あれは何だ?』 「うるさい!」 思わず声に出してしまい、向かいの女子高生たちがこちらを見る。 「あ……ご、ごめんなさい」 慌てて誤魔化す向日葵。 最近はこんなことばかりだった。 朝から晩まで質問攻め。 好奇心旺盛な玄太郎に付き合う毎日である。 「玄ちゃんさあ、用事がある時だけ話しかけてよ」 『何を言う』 『妙な男が近寄らぬよう見守るのも役目だ』 「景色を見たいだけでしょ?」 『……否定はせん』 向日葵はため息をつく。 その時だった。 『見ろ!』 『空中に列車が走っているぞ!』 「モノレールだよ…。」 『仕組みが知りたい』 『毬(まり)が見たら喜ぶぞ。スマホ箱で写真を撮ってくれ』 「スマホ箱って言わないでよ……」 結局、向日葵は窓越しにモノレールを撮影した。 こうして撮った写真は、その日のうちに毬婆ちゃんへ送っている。 最初は面倒だった。 けれど…。 『向日葵ちゃん、ありがとう』 そう言って笑う毬婆ちゃんの顔を想像すると、不思議と悪い気はしなかった。 電車を降り、駅前を歩く。 大型ビジョン、コンビニ。 ガラス張りの高層ビル。 玄太郎は次々と感情を揺らしていた。 『凄いな……』 『日本は本当に負けた国なのか?』 『ここまで立て直したのか……』 向日葵は少しだけ足を止めた。 「玄ちゃん?」 『戦争へ行った連中が命を懸けた先に、こんな世の中があったのなら……』 『悪くない』 その感情には後悔も悲しみもなく、ただ安堵だけがあった。 しばらくして玄太郎が言った。 『毬が好きな和菓子を送ってやりたい』 『シベリアを買いに行ってくれ』 「シベリア?」 『知らんのか?』 「知らないよ」 『
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第六話 好き…なの?

昼休み。 授業が終わると同時に隣の席の美咲が勢いよく立ち上がった。 「ひまりー! 竹中先輩がグラウンドで練習始めたって!」 「え?」 「早く行こ!」 向日葵(ひまり)は教科書を片付けながら立ち上がる。 午前中の授業中、玄太郎は珍しく静かだった。 英語やパソコンを使った授業になると、まるで子供のように興味津々になるのに、普通の授業でも真面目に耳を傾けている。戦時中では学べなかった時間を、今になって取り戻すように。 グラウンドには女子生徒たちが集まっていた。 「竹中先輩ー!」 「今日もカッコいい!」 サッカー部の練習が始まり、黄色い声が飛び交う。 「ね? 向日葵!」 「うん、カッコいい!」 そう答えると、美咲が嬉しそうにスマホを差し出した。 「見て見て!」 画面には竹中先輩と並んでいる美咲の姿。 「昨日アプリで合成したの!」 「いつか本当に一緒に写真撮れたらいいなぁ」 「ズルい!」 向日葵も身を乗り出した。 「私も並びたい!」 周りの友達と笑い合う。 けれど。 向日葵の中にいる玄太郎は、妙な違和感を覚えていた。 言葉では「カッコいい」と言う。 友達と同じように笑う。 だが、向日葵の感情は驚くほど静かだった。 まるで周囲に合わせて言葉だけを並べているような。 放課後。 友人たちと別れ、夕暮れの道を一人歩く。 『想い人は竹中君か?』 「そうだよ」 向日葵は少し頬を赤くした。 「カッコ良かったでしょ?」 『そうか……』 だが、玄太郎の感情はどこか曇っていた。 向日葵自身も、その違和感に気付いてしまう。 「わ、私だって!」 少し強い口調になる。 「竹中先輩と付き合ったら、玄ちゃんや毬婆ちゃんみたいに好きになるんだから!」 言った瞬間、自分で悲しくなった。 胸が痛むわけではない。 会いたくてたまらないわけでもない。 ただ、周りが「好き」と言うから、自分もそう言っているだけなのかもしれない。 俯いた向日葵に、玄太郎は静かに言った。 『ひまり』 「なに?」 『好きと想いは同じではない』 「わかんないよ……」 『そうだろうな』 珍しく「そうは思わない」とは言わなかった。 『おれも若い頃は分からなかった』 『毬と夫婦になって、短い時ではあったが共に過ごして、ようやく知った』
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第七話 玄太郎の帰る故郷

……ん…。 誰かの声が聞こえる。 ここはどこだろう。 ぼんやりと景色が浮かび上がってきた。 畳の匂い、木造の家、見知らぬはずなのに、どこかで嗅いだ匂い。 そして。 『嫌なら結婚しなくてかまいません』 「えっ?」 向日葵(ひまり)は思わず目を見開いた。 目の前には若い男女。 いや、違う。 若い毬(まり)婆ちゃんだ。 おさげ姿の少女は、自分とよく似た顔をしていた。 その向かいに座る青年。 白いシャツ姿の玄太郎。 少し緊張した表情で、真面目な顔をしている。 『親が決めた話です。嫌なら断ってください』 向日葵は上から二人を見下ろしていた。 まるで映画を観ているようだった。 けれど次の瞬間、景色が変わる。 今度は結婚式だった。 角隠しを被った毬。 紋付袴の玄太郎。 『お、おれで良かったのですか?』 玄太郎が恐る恐る尋ねる。 すると毬は恥ずかしそうに微笑んだ。 「私なんかで良かったですか?」 二人の会話に向日葵は自然と笑みがこぼれる。 幸せそうだった。 本当に幸せそうだった。 だが。 また景色が変わる。 『行くしかない。毬、分かってくれ』 「玄ちゃんが行かなくても日本は負けます!」 居間で向かい合う二人。 泣きそうな顔の毬。 苦しそうな玄太郎。 そして最後の場面。 駅のホーム。 列車の窓から身を乗り出す玄太郎。 見送る毬。 『行ってくる……』 何かを言おうとしている。 けれど言葉にならない。 「待ってます」 涙を流しながら毬は笑った。 「ずっと待ってます」 その瞬間。 『空襲だ! 起きろ、ひまり!』 「……はいはい」 向日葵は布団の中で目を開けた。 見慣れた天井、朝だった。 『夢……か』 頭の中から玄太郎の声が聞こえる。 「おはよう、玄ちゃん」 『おはよう』 少し間を置いて、 『中々スマホ箱の音には慣れぬな』 向日葵は苦笑した。 「玄ちゃん、さっきの夢……」 『夢?』 「ううん、なんでもない」 玄太郎は覚えていない。 でも向日葵には分かった。 あれは夢じゃない。 玄太郎の記憶だった。 そしてそれは、玄太郎と毬だけの大切な時間。 自分が踏み込んではいけない場所のような気がした。 学校へ向かう途中だった。 「あれ……?」 向日葵は立ち止まる。
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第八話 スマホ箱

夕食後、向日葵は自室のベッドに腰掛けながらスマホを操作していた。 「送信っと」 画面の中のお地蔵さんの写真が毬婆ちゃんへ送られていく。 『毬に送れたか?』 「はいはい、送ったよ」 向日葵は肩をすくめた。 「でもさ、何にも変哲のないお地蔵さんだよ?」 『そうは思わん』 玄太郎の感情が静かに流れ込んでくる。 『毬はお地蔵さんを見つけると花を供える女でな』 その言葉と同時に、優しい気持ちが胸に広がった。 向日葵自身の感情ではない。 玄太郎が毬を想う気持ちだった。 その時だった。 スマホが震えた。 画面には「毬婆ちゃん」の文字。 「もしもし?」 玄太郎の感情が一気に揺れる。 「向日葵ちゃん?」 受話器の向こうから聞こえる優しい声。 「さっきの写真見たよ」 「最近ずっと送ってくれてありがとうね」 「ううん」 向日葵は笑った。 だが次の言葉に戸惑う。 「ねえ、向日葵ちゃん」 「なんであのお地蔵さん撮ったの?」 少しだけ声色が違った。 何かを確かめるような声だった。 「えっと……」 向日葵は焦る。 「学校帰りに見つけてね」 「特に理由はないよ」 隣で玄太郎は黙ったままだ。 しばらくして毬が笑った。 「そう」 「送ってくれる写真はね」 「私が好きなものばかりなの」 向日葵の胸がどきりとした。 まるで何かに気付いているようだった。 「いつもありがとう」 「また送ってちょうだいね」 電話が終わろうとした瞬間、向日葵は慌てて声を上げた。 「おばあちゃん!ちょっと待って!」 そして心の中で叫ぶ。 「ほら玄ちゃん!」 「今なら話せるじゃん!」 「私の身体使っていいから!」 玄太郎は黙ったままだった。 『何を今さら話せる……』 その感情には諦めがあった。 『おれは……』 「向日葵ちゃん?」 「どうしたの?」 毬の声が聞こえる。 向日葵は唇を噛んだ。 「ううん」 「なんでもない」 「またね、おやすみなさい」 通話が切れる。 部屋が静かになった。 「もう!」 向日葵は頬を膨らませる。 「玄ちゃん!」 『声が聞けただけで満足だ』 「だらしないなあ」 玄太郎は答えない。 しばらくして向日葵が尋ねた。 「おばあちゃん、気付いたかな」 『そうは思わん』 少しだけ間が空
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第九話 帰る場所

修学旅行二日目。 朝からバスの中は賑やかだった。 「桜島見えるかな!」「お土産何買う?」「夜は部屋行くね!」 友達同士ではしゃぐ声が飛び交う中、向日葵(ひまり)は窓際の席で外を眺めていた。 頭の中にいる玄太郎は珍しく静かだった。 『……九州か』 「玄ちゃん?」 言葉にできない感情が流れ込んでくる。 やがてバスガイドの声が響いた。 「これから知覧特攻平和会館へ向かいます」 その瞬間だった。 玄太郎の感情が大きく揺れる。 胸の奥が強烈なまでにざわつき始めた。 「玄ちゃん?」 『知…覧……』 震える声だった。 『全て…』 『思い出した…。』 向日葵は思わず胸を押さえた。 館内へ入ると、生徒たちの声は自然と小さくなった。 若い兵士たちの写真、遺書、家族へ宛てた手紙。 静かな空気が流れている。 向日葵も展示を見ながら歩いていた。 その時… 一枚の写真の前で足が止まった。 玄太郎の感情が凍り付く。 『……あ』 写真の中の青年は真面目そうな顔、そしてどこか不器用そうな表情。 「玄ちゃん……?」 『……おれだ』 向日葵の身体から力が抜けた。 そして次の瞬間。 大量の記憶が流れ込んできた。 油の匂い、暑い格納庫、海から吹く風。エンジンの音 そして…笑い声。 「玄太郎、戦争が終わったら酒屋を継ぐんだ」 『山下か……』明るい青年が笑っている。 「お前も遊びに来いよ!」 「酒は飲めんが、羊羮なら食べに行く」 皆が笑った。 別の青年が言う。 「俺は教師になる」 「子供たちに勉強を教えるんだ」 「先生、先生って呼んでやるよ」 再び笑い声。 「中村は?」 「俺は田んぼを守る」 「妹が嫁に行くまでは頑張らないとな」 「だから早く戦争が終わってほしいよ」 誰かが玄太郎を見る。 「玄太郎は?」 若い玄太郎が少し照れながら笑った。 『娘が生まれる』 「おお!名前は?」 『まだ決めておらん』 「帰ったら皆で祝いだな!」 「山下が祝い酒を持ってきて」 「将来は先生が勉強教えて」 「中村が米を持ってくる!」 「おれだけおかしくないか?祝いたいんだよ、玄太郎の為に!」 「ならばもち米で祝い餅だな!」 格納庫に笑い声が響く。 誰も死ぬ話などしていなかった。 誰も英雄になろうとしていなか
last updateLast Updated : 2026-07-21
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