「摩訶般若波羅蜜多心経――」低く響く読経の声が、静かな座敷に広がっていた。お線香の匂いが部屋いっぱいに漂う中、本家には親戚たちが集まり、曾祖父・玄太郎の七十七回忌が営まれている。私は正座したまま、ぼんやりと祭壇の遺影を眺めていた。「向日葵(ひまり)ちゃん」隣から優しい声がする。曾祖母の毬(まり)婆ちゃんだった。九十を過ぎた今も背筋はしゃんとしていて、白くなった髪を綺麗にまとめている。毬婆ちゃんは曾祖父の玄太郎爺ちゃんと同じ町で育ち、私と同じくらいの年齢で見合い結婚をした。翌年、玄太郎爺ちゃんは出征。祖母の万里江を身ごもっていた毬婆ちゃんの元へ、玄太郎爺ちゃんが帰ってくることはなかった。「向日葵(ひまり)ちゃんもお願いね」差し出された焼香箱を受け取る。「玄ちゃん、喜んどると思うよ」そう言って微笑む毬婆ちゃんの目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。約八十年。それだけの年月が流れているのに、毬婆ちゃんは今でも玄太郎爺ちゃんを愛してやまない。小さい頃から何度も聞かされた。「玄ちゃんはね……」その言葉から始まる昔話。毬婆ちゃんの人生は、ずっと一人の人を愛し続けた人生だった。私はまだ恋を知らない。でも、いつか。毬婆ちゃんみたいに誰かを好きになれる日が来るのだろうか。そんな恋をしてみたい。でも私は……。「あれ……?」急に息苦しくなった。お線香の匂いが鼻の奥にまとわりつく。胸が苦しい。息が吸えない。「……っ」視界が揺れる。「向日葵(ひまり)ちゃん!?」誰かの声が遠くなる。段々と意識が薄れていく。その時だった。『…まり…。』『…帰ったよ…。』男の人の声。聞いたこともないはずなのに、なぜか懐かしくて。私はその声に導かれるように、静かに意識を手放した。
Última atualização : 2026-07-21 Ler mais