バレンタインデーの前日、私は婚約者であり上司でもある橋立拓斗(はしだち たくと)に休暇届を提出した。私たちはバレンタインデー当日に市役所で婚姻届を提出する約束をしていた。彼は書類に目を通すと、そのまま机の上に置き、判を押そうとはしなかった。「芽依はもう海外行きの航空券を取っていて、ホテルもキャンセルできないんだ。数日だけ彼女の仕事を代わってくれ。俺もちょうど取引先との打ち合わせで海外へ行く予定だから、ついでに彼女の仕事を見届けられるしな」彼は私を見上げ、私をなだめるように少しだけ口調を和らげた。「結婚は帰ってきてからでいい。数日延びたところで何も変わらないだろう」その言い方はあまりにも自然で、私が当然受け入れると決めつけているようだった。隣に立っていた大村芽依(おおむら めい)は俯き、申し訳なさそうに言った。「本当にごめんなさい、紗良さん......そんなに大事な予定だったなんて知らなかったんです」そう言うと、さらに続けた。「でも橋立さんが、紗良さんはいつだって会社を一番に考える人だから、きっと理解してくれるって......」彼女はそっと拓斗のほうへ身を寄せた。デスクにいる同僚たちは皆、視線をモニターへ落としたまま、誰一人として口を開かなかった。私は拓斗を見つめた。彼はすでにスマホで航空券の情報を確認していて、もう一度私を見ることすらなかった。彼は知らない。私たちが約束したバレンタインデーは、祖父が私に与えた最後の期限だったことを。2月末までに結婚しなければ、私は実家へ戻り、祖父が決めた縁談を受け入れなければならない。私は国の有数の財閥・日高財団の孫娘だった。私は何も言い返さなかった。社員証を外し、退職届に署名した。そしてスマホを取り出し、祖父――日高淳三(ひだか じゅんぞう)へ電話をかける。「もしもし、おじいさま......ごめんなさい。私、もう諦めます。縁談の件を進めてください......わかりました。有給休暇も放棄して、今すぐ辞めます」室内は一瞬で静まり返り、空気が動く音さえ聞こえそうだった。拓斗は書類を書く手を止めて顔を上げると、ペンを置き、椅子にもたれながら私を見つめた。まるで以前から抱いていた疑念が、ようやく確信に変わったかのような目だった。「......
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