LOGINバレンタインデーの前日、私は婚約者であり上司でもある拓斗に休暇届を提出した。 私たちはバレンタインデー当日に市役所で婚姻届を提出する約束をしていた。 彼は書類に目を通すと、そのまま机の上に置き、判を押そうとはしなかった。 「芽依はもう海外行きの航空券を取っていて、ホテルもキャンセルできないんだ。数日だけ彼女の仕事を代わってくれ。俺もちょうど取引先との打ち合わせで海外へ行く予定だから、ついでに彼女の仕事を見届けられるしな」 彼は私を見上げ、私をなだめるように少しだけ口調を和らげた。 「結婚は帰ってきてからでいい。数日延びたくらいで何も変わらないだろう」 その言い方はあまりにも自然で、私が当然受け入れると決めつけているようだった。 隣に立っていた芽依は俯き、申し訳なさそうに言った。 「本当にごめんなさい、紗良さん......そんなに大事な予定だったなんて知らなかったんです」 そう言うと、さらに続けた。 「でも橋立さんが、紗良さんはいつだって会社を一番に考える人だから、きっと理解してくれるって......」 彼女はそっと拓斗のほうへ身を寄せた。 デスクにいる同僚たちは皆、視線をモニターへ落としたまま、誰一人として口を開かなかった。 私は拓斗を見つめた。 彼はすでにスマホで航空券の情報を確認していて、もう一度私を見ることすらなかった。 彼は知らない。 私たちが約束したバレンタインデーは、祖父が私に与えた最後の期限だったことを。 2月末までに結婚しなければ、私は実家へ戻り、祖父が決めた縁談を受け入れなければならない。 私は国の有数の財閥・日高財団の孫娘だった。 私は何も言い返さなかった。 社員証を外し、退職届に署名した。 そしてスマホを取り出し、祖父へ電話をかける。 「もしもし、おじいさま......ごめんなさい。私、もう諦めます。縁談の件を進めてください」
View More4か月が過ぎた。私は祖父とバルコニーで紅茶を飲んでいた。森原がアーモンドビスケットの皿と朝刊を運んでくる。「紗良様、本日の新聞はもうご覧になりましたか」私は新聞を受け取った。一面には大きく記事が掲載されていた。【橋立物流株式会社・経営破綻。代表・橋立拓斗氏、投資詐欺容疑で捜査】会社の経営破綻後、捜査当局は拓斗が会社を延命させるため、不正な投資スキームを繰り返していたことを突き止めた。実在しない事業計画を掲げて個人投資家から資金を集め、新たな出資金で過去の損失を穴埋めしていたという。被害額は極めて大きかった。写真には、スーツ姿の捜査員に付き添われ連行される拓斗の姿が写っていた。まるで中身だけが抜け落ちてしまったような、力のない顔だった。会社の倒産が彼を詐欺師にしたわけではない。ただ、それまで隠されていた事実を表に引きずり出しただけだった。世間では、「自業自得だ」と言う人もいれば、「欲を出さなければ、ここまでにはならなかった」と語る人もいた。祖父は紅茶を一口飲み、穏やかに尋ねる。「気は晴れたか?それとも、まだあの男が気になるか」私は少し考え、それから静かに首を振った。「......何も感じませんでした」4か月前なら、きっと複雑な気持ちになっていただろう。でも今では、新聞に載る彼は厚いガラス越しに見る他人のようだった。姿は見えても、私の心はもう何一つ揺れなかった。森原が再び口を開く。「もう一件、ご報告があります。大村芽依はこの街を離れました。退職後はどこにも採用されず、都会行きの片道航空券を購入していたそうです」私は頷いた。「そうですか」森原は少し間を置いて続ける。「それと、本日橋立拓斗氏の弁護士から連絡がありました。一度だけ紗良様にお会いしたいそうです。何かを求めるわけではなく、ただ話がしたい、と」私はしばらく黙っていた。そして静かに答える。「お断りしてください。もう会いたいくないので。今後は弁護士の方からも連絡をいただかないよう、お伝えください」「承知いたしました」森原は一礼して下がっていった。そのとき、スマホが震える。一綺からだった。【7時半にレストランを予約しました。ご当主様もぜひご一緒に。新しい港湾案件について、お食事をしな
パーティーが終わった。大広間から人影は消え、残されているのは、空になったグラスと燃え尽きたキャンドルが並ぶ長いテーブルだけだった。私はラウンジのソファに腰を下ろし、そっと顔を押さえる。一綺は使用人たちを下がらせると、自らドアを閉めた。私の向かいへ腰を下ろし、静かに口を開く。「ずっと、話す機会を待っていました」私は姿勢を正し、彼を見つめた。「紗良さんを初めて見たのは、8年前でした。ご当主様のお誕生日の日です」彼は背もたれに寄りかかり、当時を思い返すように続ける。「ご当主様は裏庭で新しい弓の試射をしていました。そして皆が帰ったあと、紗良さんだけが残っていました。筒に入った矢をすべてを射ち尽くすまで、黙々と弓を引き続けていた。遊びでも、見せびらかすためでもなく、一射ずつ、ただ真剣に。射ち終えると弓を置き、手を拭いて、それからご当主様の書斎のほうを振り返っていました」私は記憶をたどろうとした。けれど、その頃の思い出はぼんやりとしている。あの頃の私は、頭の中が拓斗のことでいっぱいだった。本邸にも長居はしなかった。「そのあと、紗良さんは走って出ていきました。『彼が待っているから』と言って。ご当主様は書斎の窓から、あなたの車が見えなくなるまで見送っていましたが、何もおっしゃいませんでした。あの日、私はリビングにいました。窓越しに、紗良さんが車へ駆けていく姿を見たんです。髪を風になびかせながら、まっすぐ走っていく姿を見た、その瞬間でした......私は、紗良さんに恋をしました」私は静かに息をのんだ。彼は穏やかな口調のまま続ける。「その後、8年間の約束のことも知りました。でも私は、紗良さんを探しには行きませんでした......ご当主様にも、何か約束をしたわけではありません。ただ、週に一度ここへ来ていました。財団の仕事を手伝い、帳簿を確認し、ご当主様が誰にも任せたくない仕事を引き受けて」彼は静かに笑う。「4年かかりました。もし紗良さんが帰ってくる日が来たなら、そのとき隣に立つ資格があるのは自分だと、ご当主様に認めていただくまで」私は薬指の指輪へ目を落とした。視界がゆっくり滲んでいく。これまで私は、自分はすべてを失ったのだと思っていた。8年という時間も、自分の誇りも。家が決めた縁談という盤
3月15日。日高本邸。私はウェディングドレス姿で鏡の前に座っていた。コンコン、と三度ノックの音が響く。「紗良様、お時間でございます」森原の声だった。私は静かに息を吸い、ドアを開けた。廊下の先では祖父が待っていた。私の姿を見るなり、一瞬だけ目を潤ませる。しかしすぐに顔を背け、小さく咳払いをした。「さあ、行こう。私の愛おしい孫娘」私は祖父の腕にそっと手を添えた。大広間の扉がゆっくりと開く。左右には長いテーブルが並び、左側には下石財団の関係者、右側には日高財団の関係者が着席していた。深紅の絨毯が中央をまっすぐ伸び、その両脇には無数のキャンドルが灯されている。葉巻の香りと、年月を重ねた木の香りが静かに漂っていた。広間の奥では、黒いスーツ姿の一綺が待っている。ネクタイは寸分の乱れもない。私の姿を見た瞬間、彼はわずかに動きを止めた。私はゆっくりと彼のもとへ歩いていく。司式者が誓いの言葉を読み上げる。会場から穏やかな拍手が起こった、そのときだった。入口の脇が急に騒がしくなる。しわだらけのグレーのスーツを着た男が、黒い制服姿の警備員二人に取り押さえられていた。男は必死にもがき、数歩だけ前へよろめく。「彼を通してください」私は静かに言った。警備員たちは一綺を見る。一綺が小さく頷くと、二人は男を解放し、一歩退いた。赤い絨毯の中央に立ったのは拓斗だった。一か月前とは別人のようだった。目の下には濃い隈。無精ひげが伸び、ジャケットは長いこと押し入れに放置されていたかのように皺だらけだった。彼は口を開き、かすれた声を絞り出す。「紗良......君は本当に、日高財団の令嬢だったのか」私は答えなかった。彼はさらに一歩踏み出す。「俺が悪かった。婚姻届を出す約束を延期したことも。大村芽依を海外へ連れて行ったことも。みんなの前で君の案件を彼女へ渡したことも全部......俺が悪かった。お願いだ。もう一度だけチャンスをくれ......俺たちの8年間を――」そこまで言いかけたとき、一綺が私の前へ立った。「言いたいことは、それだけですか」静かな声だった。拓斗は彼を見上げる。下石一綺――その名は噂でしか聞いたことがなかった。「お願いです、少しだけ
海外。ホテルのスイートルーム。拓斗は最重要の顧客へ20回も電話をかけ続けていた。しかし、どれだけ発信しても話し中のままだった。商談を予定していた3社も、約束の時間になっても誰一人現れない。そこへ秘書から電話が入る。「橋立さん、大変です。今朝から長年のお取引先が次々と契約解除通知を送ってきています。全部で20社です。昨年締結した年間契約3件も......違約金は支払うと言っています。契約を継続する意思はないかと」拓斗はスマホを握る手に力を込めた。指先が白くなる。「理由は?」「何も説明されていません。ただ『事業の見直しです』とだけ......でも、あれだけの企業が同じ日に同じ判断をするなんて、あり得ません」通話が切れる。拓斗は力なくソファへ座り込んだ。息を整える暇もなく、もう1台のスマホが鳴る。物流拠点の責任者からだった。震える声が響く。「橋立さん、大変です!貨物コンテナが......!物流センターで火災が発生しました。中に積まれていた設備は10億円近い損失です。運送会社はすでに契約違反で訴訟を検討しています。弁護士からも、このままでは到底対応できないと......」拓斗は電話を握ったまま、息が詰まった。貨物は失われた。顧客も失った。訴状も間もなく届く。これほどの出来事が、偶然同時に起こるはずがない。そのとき、プールから戻った芽依が、濡れた髪のままバスローブ姿で駆け込んできた。「拓斗、どうしたんですか?」「放っておいてくれ」彼は彼女の手を乱暴に振り払った。芽依は二歩ほどよろめいて後ずさる。口を開いたまま立ち尽くしたが、それ以上近づいてはこなかった。スマホが再び光る。ニュース速報だった。日高財団と下石財団、3月15日に両家の婚約披露を開催。拓斗の手が止まる。会場名を見た瞬間、息をのんだ。そこは、自分があと20年努力しても足を踏み入れられるかどうか分からない場所だった。頭の中を、一つの考えが駆け巡る。下石。日高。その名は、港湾物流や海運、国際物流網を握る名門一族として耳にしたことがあるだけだった。彼の会社は、大手が使わない物流ルートを頼りに生き延びてきた。しかし今回の火災で、その最後の切り札まで失った。もし、あの二つの財団のどち