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第8話

作者: アナ・スミス
3月15日。

日高本邸。

私はウェディングドレス姿で鏡の前に座っていた。

コンコン、と三度ノックの音が響く。

「紗良様、お時間でございます」

森原の声だった。

私は静かに息を吸い、ドアを開けた。

廊下の先では祖父が待っていた。

私の姿を見るなり、一瞬だけ目を潤ませる。

しかしすぐに顔を背け、小さく咳払いをした。

「さあ、行こう。私の愛おしい孫娘」

私は祖父の腕にそっと手を添えた。

大広間の扉がゆっくりと開く。

左右には長いテーブルが並び、左側には下石財団の関係者、右側には日高財団の関係者が着席していた。

深紅の絨毯が中央をまっすぐ伸び、その両脇には無数のキャンドルが灯されている。

葉巻の香りと、年月を重ねた木の香りが静かに漂っていた。

広間の奥では、黒いスーツ姿の一綺が待っている。

ネクタイは寸分の乱れもない。

私の姿を見た瞬間、彼はわずかに動きを止めた。

私はゆっくりと彼のもとへ歩いていく。

司式者が誓いの言葉を読み上げる。

会場から穏やかな拍手が起こった、そのときだった。

入口の脇が急に騒がしくなる。

しわだらけのグレーのスーツを着た男
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  • 彼の「都合のいい女」をやめた日   第10話

    4か月が過ぎた。私は祖父とバルコニーで紅茶を飲んでいた。森原がアーモンドビスケットの皿と朝刊を運んでくる。「紗良様、本日の新聞はもうご覧になりましたか」私は新聞を受け取った。一面には大きく記事が掲載されていた。【橋立物流株式会社・経営破綻。代表・橋立拓斗氏、投資詐欺容疑で捜査】会社の経営破綻後、捜査当局は拓斗が会社を延命させるため、不正な投資スキームを繰り返していたことを突き止めた。実在しない事業計画を掲げて個人投資家から資金を集め、新たな出資金で過去の損失を穴埋めしていたという。被害額は極めて大きかった。写真には、スーツ姿の捜査員に付き添われ連行される拓斗の姿が写っていた。まるで中身だけが抜け落ちてしまったような、力のない顔だった。会社の倒産が彼を詐欺師にしたわけではない。ただ、それまで隠されていた事実を表に引きずり出しただけだった。世間では、「自業自得だ」と言う人もいれば、「欲を出さなければ、ここまでにはならなかった」と語る人もいた。祖父は紅茶を一口飲み、穏やかに尋ねる。「気は晴れたか?それとも、まだあの男が気になるか」私は少し考え、それから静かに首を振った。「......何も感じませんでした」4か月前なら、きっと複雑な気持ちになっていただろう。でも今では、新聞に載る彼は厚いガラス越しに見る他人のようだった。姿は見えても、私の心はもう何一つ揺れなかった。森原が再び口を開く。「もう一件、ご報告があります。大村芽依はこの街を離れました。退職後はどこにも採用されず、都会行きの片道航空券を購入していたそうです」私は頷いた。「そうですか」森原は少し間を置いて続ける。「それと、本日橋立拓斗氏の弁護士から連絡がありました。一度だけ紗良様にお会いしたいそうです。何かを求めるわけではなく、ただ話がしたい、と」私はしばらく黙っていた。そして静かに答える。「お断りしてください。もう会いたいくないので。今後は弁護士の方からも連絡をいただかないよう、お伝えください」「承知いたしました」森原は一礼して下がっていった。そのとき、スマホが震える。一綺からだった。【7時半にレストランを予約しました。ご当主様もぜひご一緒に。新しい港湾案件について、お食事をしな

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    3月15日。日高本邸。私はウェディングドレス姿で鏡の前に座っていた。コンコン、と三度ノックの音が響く。「紗良様、お時間でございます」森原の声だった。私は静かに息を吸い、ドアを開けた。廊下の先では祖父が待っていた。私の姿を見るなり、一瞬だけ目を潤ませる。しかしすぐに顔を背け、小さく咳払いをした。「さあ、行こう。私の愛おしい孫娘」私は祖父の腕にそっと手を添えた。大広間の扉がゆっくりと開く。左右には長いテーブルが並び、左側には下石財団の関係者、右側には日高財団の関係者が着席していた。深紅の絨毯が中央をまっすぐ伸び、その両脇には無数のキャンドルが灯されている。葉巻の香りと、年月を重ねた木の香りが静かに漂っていた。広間の奥では、黒いスーツ姿の一綺が待っている。ネクタイは寸分の乱れもない。私の姿を見た瞬間、彼はわずかに動きを止めた。私はゆっくりと彼のもとへ歩いていく。司式者が誓いの言葉を読み上げる。会場から穏やかな拍手が起こった、そのときだった。入口の脇が急に騒がしくなる。しわだらけのグレーのスーツを着た男が、黒い制服姿の警備員二人に取り押さえられていた。男は必死にもがき、数歩だけ前へよろめく。「彼を通してください」私は静かに言った。警備員たちは一綺を見る。一綺が小さく頷くと、二人は男を解放し、一歩退いた。赤い絨毯の中央に立ったのは拓斗だった。一か月前とは別人のようだった。目の下には濃い隈。無精ひげが伸び、ジャケットは長いこと押し入れに放置されていたかのように皺だらけだった。彼は口を開き、かすれた声を絞り出す。「紗良......君は本当に、日高財団の令嬢だったのか」私は答えなかった。彼はさらに一歩踏み出す。「俺が悪かった。婚姻届を出す約束を延期したことも。大村芽依を海外へ連れて行ったことも。みんなの前で君の案件を彼女へ渡したことも全部......俺が悪かった。お願いだ。もう一度だけチャンスをくれ......俺たちの8年間を――」そこまで言いかけたとき、一綺が私の前へ立った。「言いたいことは、それだけですか」静かな声だった。拓斗は彼を見上げる。下石一綺――その名は噂でしか聞いたことがなかった。「お願いです、少しだけ

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