All Chapters of もう、君の帰りを待たない: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

正月休みが終わると、麻帆が旅先から戻ってきた。以前の俺なら、インターホンが鳴る前にマンションのエントランスまで迎えに行った。けれど今回は、動かなかった。麻帆からラインが届いた。【今どこ?】俺は昼飯を食べながら、短く返した。【先に上がってきて。今、昼飯食ってる】しばらくして、台所で皿を洗っていると、キャリーケースを引いた麻帆が入ってきた。「私、昼食まだなの。何か作ってくれない?」以前の俺なら、すぐに作っていただろう。けれど今は、皿を洗う手を止めなかった。「今は無理。外で食べてきて」麻帆はむっとしたようだったが、すぐに声を抑えた。「年末年始のことで怒ってるのは分かってる。でも、そういう態度取るの、やめてくれない?本当にお腹すいてるの」最後の皿を洗い終え、手を拭いた。「怒ってない」「圭吾は年末年始にひとりきりなの。放っておけるわけないでしょう」「うん。分かってる」麻帆はしばらく俺の顔を見ていた。やがて、ため息をつく。「そういう態度を取られると、私も疲れる。いつまで拗ねてるの?」「拗ねてない。俺に説明する必要もないよ」麻帆は黙ってキャリーケースを開け、飛行機の模型を取り出した。「これ、プレゼント」差し出された模型には包装もなく、外箱にはしわが寄っていた。圭吾がインスタに載せていた、きれいにラッピングされたプレゼントとは大違いだった。喜ぶ気にはなれなかったが、とりあえず礼だけ言った。「ありがとう」麻帆は不満を隠さずに聞き返した。「それだけ?」「ああ」麻帆は黙り込み、俺の前に片手を差し出した。「私の分は?」そこで初めて思い出した。「ごめん、忘れてた。金を送るから、自分で好きなものを買って」そう言ってスマホを操作し、その場で送金した。麻帆は言葉を失い、俺を見つめた。付き合い始めてから、毎年新年にプレゼントを交換するのが、俺たちの習慣だった。俺は、一度も忘れたことがない。麻帆が俺へのプレゼントを用意していない年でさえ、俺は欠かさず、その年ごとに違うものを選んで贈ってきた。それきり会話が途切れた。俺はソファに置いていた上着をつかみ、玄関へ向かった。「どこへ行くの?」「友達の飲み会に呼ばれて、行ってくる」呼び止める麻帆の声を
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第2話

酒が進むにつれ、友人たちの口から次々と不満がこぼれ始めた。「彼女ができた途端、俺たちのことなんか忘れたのかと思ったぞ。もう二度とあんな付き合い方するなよ」俺は苦笑しながらうなずいた。「分かった。これから飲むときは、いつでも呼んでくれ。できるだけ参加するから」麻帆と付き合ってから、俺は何をするにも彼女を優先してきた。仕事も私生活も麻帆を中心に回していた。気づけば、自分の時間も、友人との付き合いも失っていた。今になって思えば、ずいぶん馬鹿なことをしていた。スマホを見ると、麻帆はさっき送った金をそのまま送り返していた。家に着いたのは、午前1時を過ぎたころで、明かりをつけると、麻帆がソファに座っていた。一瞬、酔いのせいで見間違えたのかと思った。泥酔した俺を見ても、麻帆は手を貸そうとはせず、ただあきれたような顔をしていた。「直人、少しはしっかりしてよ。嫉妬してるなら、そう言えばいいでしょう。こんなになるまで飲んだって、余計にみっともないわよ」頭が回らないまま、ふらつく足でダイニングの椅子まで行き、どうにか腰を下ろした。酒のにおいに気づいた麻帆が、わずかに眉をひそめた。「私、お酒を飲む人は嫌だって言ったよね?」続けて、言い聞かせるように話す。「私と圭吾は、あなたが考えてるような関係じゃない。今はただの友達なの。圭吾のことで、ここまで酔う必要なんてないでしょう」俺は片手で額を押さえた。「勘違いだ……今日は楽しくて、つい飲みすぎただけだ」「もういい。ちゃんと説明してるのに、まだ何が不満なの?私だって、毎回こうやって気を遣うのも疲れるんだけど」酔った頭に、その声が響いた。俺はこめかみを押さえながら立ち上がった。「そんな怒るなよ。もう寝るから」麻帆はため息をつき、俺を支えようと手を伸ばした。でも、その手を借りる気にはなれなかった。差し出された手を避け、ふらつきながら空いている部屋へ入り、鍵をかけた。外から麻帆が何度ドアをたたいても、開けなかった。そのまま深く眠り、久しぶりに朝まで目を覚まさなかった。……翌朝、麻帆は何も言わずにテレビを見ていた。横顔を見れば、まだ怒っていることくらい分かる。それでも機嫌を取る気にはなれなかった。顔を洗い、そのまま家を出た。会社へ
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第3話

ゲストルームのベッドに横になりながらスマホを眺めていると、圭吾のインスタ更新通知が表示された。【いろんなことがあったけれど、振り返れば、君はずっと俺のそばにいた】コメント欄には、麻帆の親友から書き込みがあった。【泣ける。麻帆が幸せなら、私もうれしい】麻帆の友人たちも、次々とその投稿に「いいね」を押していた。彼女たちは、前から俺のことをよく思っていない。麻帆と圭吾の仲を邪魔した男。彼女たちには、俺がそう見えているらしい。俺さえいなければ、麻帆はもっと幸せになれる。そう思っているのだろう。麻帆のコメントを見ていると、それもあながち間違いではない気がしてきた。【結局、こうなる運命だったんだね】そんなやり取りを眺めていると、別の友人がコメントした。【もう投稿するのやめなよ。直人に見つかったら、また面倒なことになるよ】以前、俺は麻帆に、圭吾とは少し距離を置いてほしいと頼んだことがある。異性の友人だからこそ、恋人に誤解されるようなことは避けてほしかった。それだけだった。けれど、麻帆の友人たちは「心が狭い」「友達付き合いまで口を出すなんて重すぎる」と笑った。麻帆も否定しなかった。むしろ、「それくらい受け入れてよ」と俺を責めた。けれど今回は、彼女たちの予想どおりに騒ぐ気にはなれなかった。インスタを閉じ、そのまま動画を眺めているうちに眠ってしまった。麻帆が帰ってきたころには、俺はもう熟睡していた。彼女に肩を揺すられて目を覚ました。麻帆が不満そうな顔でベッドのそばに立っていた。「直人、私がこんな時間まで外にいるのに、心配にならないの?私の親友の婚約者なんて、何度も電話してきてたのに。あなたは一度もかけてこなかった。どういうつもり?」寝起きの頭では、麻帆が何に怒っているのかすぐには分からなかった。以前、同じように帰りが遅い麻帆へ何度か電話したことがある。そのときは、こう言われた。「いちいち連絡されると、束縛されてるみたいで息が詰まる。少しくらい自由にさせてよ」連絡すれば束縛だと言われる。何もしなければ、心配していないと責められる。もう、どうすれば正解なのか分からなかった。それでも昔のことを持ち出して言い争う気にはならず、静かに答えた。「友達と会ってるのに、何度も電話
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第4話

以前なら、俺のほうから触れようとしても拒まれることのほうが多かった。それなのに今は、俺が避けた。麻帆はむっとしてゲストルームのドアを乱暴に閉め、結局、主寝室へ入っていった。麻帆がいなくなると、俺はそのまま今の部屋ですぐに眠りについた。あれこれ考えるのをやめてから、夜もずいぶん眠れるようになった。翌朝、大学時代の恩師から電話がかかってきた。どこで聞いたのか、俺が海外へ行くことを知っていた。先生は見送りをしたいと言ってくれたが、そこまでしてもらうのは申し訳なくて断った。すると今度は、当時の同級生を集めて食事でもしようと言う。そこまで気を遣ってもらって、断るのも悪い。俺はありがたく参加することにした。ところが、その夜、店へ行くと麻帆も来ていた。考えてみれば、麻帆も先生に目をかけられていた学生のひとりだ。そして、その隣には圭吾までいた。まさか同級生の集まりにまで圭吾を連れてくるとは思わなかった。俺に気づいた麻帆が、隣に座るよう目で合図してきた。俺は気づかないふりをした。並んで座るふたりは、よく似合っていた。わざわざ俺が間に入ることもない。圭吾は俺を見ると、一瞬だけ挑発するように笑った。けれどすぐに表情を変え、申し訳なさそうに言った。「同級生の集まりなのに、俺まで来て悪いな。暇だって言ったら、麻帆が一緒に来ればって言ってくれてさ」麻帆は何か言いかけたが、結局そのまま黙った。俺は軽くグラスを上げた。「先生がいいなら、俺も気にしないよ」そう言って、酒を一口飲んだ。食事の途中、スマホが何度も震えた。画面を見ると、麻帆からメッセージが届いていた。【圭吾を連れてきたのは、たまたま一緒だったから。変に考えないで】【嫌なら、次からは連れてこない】最後のメッセージには、こうあった。【食事が終わったら、一緒に帰ろう】俺はテーブルの下でメッセージを打った。【大丈夫。圭吾と一緒に帰って。俺も車で来てるから】そのあとは食事と会話に集中し、麻帆からのメッセージは見なかった。昔話に花が咲き、食事会は和やかに進んだ。酒が回った先生は、頬を赤くしながら席を立ち、俺に向かってグラスを掲げた。「直人は昔から、私の自慢の教え子だった。海外で学んで、そのまま向こうで働くのが夢だって
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第5話

麻帆が問い詰めている意味に、ようやく気づいた。「ああ、そのことか。採用の連絡が来たとき、麻帆は圭吾と年越ししてただろ。邪魔したら悪いと思って、連絡しなかった」自分でも驚くほど、他人事みたいな口調だった。麻帆は気まずそうに一度目をそらした。それでも俺の手をつかんだまま言った。「それでも、私はあなたの彼女なのに……どうして私には何も言ってくれなかったの?」少し意外だった。以前の俺は、どんな小さなことでも麻帆に話していた。けれど、そのたびに返ってきた言葉は同じだった。「あなたの話には興味ない。どうでもいいことをいちいち送らないで。通知が増えて迷惑だから」麻帆は小さく息を吐いた。しばらく黙ったあと、聞いてきた。「それで、どのくらい行くの?」少し迷って、結局うそをついた。「1年くらいだと思う」もともと、麻帆に知らせるつもりはなかった。今夜知られたのは、ただの偶然だ。「そんなに長いの?」俺は答えなかった。少し間を置いて、麻帆が言った。「食事が終わったら、一緒に帰ろう」断ろうとした、そのときだった。圭吾が店の奥から出てきた。かなり酔っているらしく、足元がおぼつかない。そのまま麻帆の肩へ体を預けた。麻帆はちらりと俺を見て、圭吾を引き離そうとした。けれど圭吾は、体を彼女に預けたまま離れなかった。「酔ってるだけだから。普段は、こんなふうに触れたりしないの」俺は何も聞いていない。それなのに、麻帆は先に言い訳をした。「ああ、分かってる」圭吾が麻帆にもたれたまま言った。「麻帆、頭くらくらする。家まで送ってくれない?」酒臭い息が、麻帆の首元にかかる。麻帆は避けるでもなく、少し困った顔をしただけだった。俺には酒のにおいが嫌いだと言っていたのに、圭吾なら平気らしい。麻帆は俺を見た。「少し待ってて。圭吾に運転代行を呼んで帰したら、一緒に帰ろう。ね?」俺が答える前に、圭吾が麻帆の袖をつかみ、そのまま肩に額を預けた。ずいぶん慣れた仕草に見えた。「いいよ。圭吾には麻帆が必要なんだろ、俺はひとりで帰る」麻帆が何か言いかけた。けれど俺は、先生と同級生たちへ挨拶し、そのまま店を出た。麻帆も追おうとしたが、圭吾は彼女の袖をつかんだまま離さなかった。運転代行
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第6話

スマホの画面を見たまま、しばらくぼんやりしていた。麻帆が自分から外泊すると連絡してきたのは、これが初めてかもしれない。以前は、飲み会の集まりに、何人いるのか聞いただけで、詮索するなと怒られた。「何をするにも、いちいち報告しなきゃいけないの?そんな付き合い方、疲れない?」あのときは、麻帆の機嫌が直るまで何度も謝った。最後には、「もう私のことにいちいち口を出さないで」とまで言われた。俺は短く返信した。【分かった】すぐに、また麻帆からメッセージが届いた。【本当に、圭吾がずっと吐いてるから残るだけ。もう遅いし、変なこと考えないでね】俺は同じ言葉を返した。【分かった】それきり、麻帆からメッセージは来なかった。昨夜の飲み会で飲みすぎたせいか、帰宅してから何度もトイレに駆け込み、吐いた。酔いつぶれたのは、圭吾だけではない。普段はビールくらいしか飲まないのに、慣れない強い酒まで飲んだせいで、すっかり悪酔いしてしまった。吐き気が治まったのは、夜もだいぶ更けてからだった。ベッドへ戻ってもなかなか眠れず、朝になって、鏡を見ると目の下に濃いくまができていた。麻帆が帰ってきたのは、昼ごろだった。俺は焼き魚弁当を食べていた。以前なら、「休みの日くらい、自分で作ればいいのに」と小言を言われたはずだ。けれど今日は何も言わず、珍しく俺のそばまで来た。「おいしい?」少し意外に思いながら、うなずいた。麻帆は向かいの椅子に座った。「酔った人の世話って、思ったより大変なんだね。でも、圭吾が目を覚ましたから、すぐ帰ってきたよ」聞いてもいないのに、麻帆はわざわざ説明してきた。俺は追及せず、ひと言だけ返した。「大変だったな」麻帆は一瞬黙った。それから取り繕うように笑い、彼女の親友の小野寺彩香(おのでら あやか)の話を持ち出した。「明日、親友の彩香が、婚約者と食事会を開くの。私も呼ばれてるんだけど、一緒に来ない?」思わず顔を上げた。以前なら、麻帆が友人の集まりへ俺を誘うことなどなかった。麻帆の友人たちは俺を快く思っていなかった。だから麻帆は、そういう集まりに俺ではなく、いつも圭吾を連れて行った。以前の俺なら、誘われただけで喜んだだろう。何を着ていこうかと、その場で考え始めたかもしれ
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第7話

「明日はビザの手続きがあるんだ。どうしても外せない。親友の婚約祝いなら、麻帆は出たほうがいい。俺はひとりで大丈夫だから」麻帆は少し迷ってから聞いた。「直人が行かないなら、圭吾を連れていってもいい?」以前なら、圭吾の名前を聞いただけで胸がざわついた。けれど今は、普通に答えられた。「いいよ」麻帆はしばらく俺の顔を見ていた。「直人、どうして少しも嫉妬しないの?」変なことを聞く。前は、俺が嫉妬するたびに面倒そうな顔をしていたはずなのに。「嫉妬する理由がないだろ。圭吾は麻帆の友達だし、彩香とも親しい。一緒に行くのは当然だ」麻帆は何か言いかけて、やめた。しばらく沈黙したあと、ぽつりと口を開いた。「じゃあ明日の朝、手続き先まで送る」少し考えたが、断らなかった。まだ頭が重く、正直、運転はしたくなかった。「助かる」麻帆は手を伸ばし、俺の手を取ろうとした。けれど、俺はその手を取らなかった。「昨日ほとんど眠れなかったんだ。少し昼寝する。麻帆も少し休んだら?」麻帆をその場に残し、俺はひとりで眠るようになった部屋へ戻った。そして、静かにドアを閉めた。……翌朝、麻帆は早く起きて朝食を用意していた。朝食を終えると、彼女は車のキーを手に取った。俺は黙って助手席に乗り込んだ。久しぶりに隣に座ったせいか、妙に落ち着かなかった。ここに座るのは、いつ以来だろう。以前、雨の日に傘を忘れて、迎えに来てほしいと頼んだことがある。そのとき麻帆はこう言った。「男なんだから、少しくらい雨にぬれても平気でしょう?」ところが後日、圭吾のインスタを見て、その日、麻帆が彼を迎えに行っていたことを知った。それをきっかけに俺は自分の車を買った。それから、麻帆の助手席に座ることはほとんどなくなった。車内では、俺が好きな音楽が流れていた。麻帆は俺が退屈しないよう、いつになくよく話しかけてきた。俺は笑って相づちを打ちながら聞いていた。出発して間もなく、圭吾から電話がかかってきた。着信音が鳴ると、麻帆は落ち着かない様子で、何度も俺の顔をうかがった。「出ないの?」俺がそう言うと、麻帆は少し迷ったあと、電話に出た。やがて、圭吾の声が車内のスピーカーから流れた。「麻帆、支度できたよ。迎えに来てくれ
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第8話

「来週の土曜日。航空券も取ってある」麻帆はしばらく黙っていた。やがて、少し強い口調で言った。「直人、私たち、ちゃんと話したほうがいい。こんな状態、もう耐えられない」「どうした?今の何が嫌なんだ?」以前、麻帆は「もっと理解のある彼氏でいてほしい」と何度も言っていた。俺はそのとおりにしたつもりだったのに、何が不満なのか分からなかった。麻帆は眉を寄せた。「圭吾のことで、まだ怒ってるの?」俺が黙っていると、麻帆は少しためらってから口を開いた。「私と圭吾の関係が嫌なら、もう会わない。連絡もしない」思わず顔を上げた俺に、麻帆は続けた。「だから、何でもないみたいな顔をするのはやめて。お願い」「考えすぎだ。俺はもう本当に気にしてない。誰と付き合うかは麻帆の自由だし、俺が口を出すことじゃない」まさか麻帆のほうから、圭吾と距離を置くと言い出すとは思わなかった。これまで何度けんかしても、俺が別れを口にしても、圭吾との関係だけは変えようとしなかったのに。麻帆はしばらく俺を見つめていた。「ここまで言っても、信じてもらえないなら、今ここで圭吾に電話する」スマホを取り出し、そのまま圭吾へ電話をかけた。俺にも聞こえるよう、スピーカーに切り替える。圭吾はすぐに出た。「麻帆、どうした?俺に会いたくなった?」麻帆の顔に、気まずさと動揺が浮かんだ。「圭吾、そういう冗談やめて」今度は圭吾が黙った。普段のふたりは、こんなやり取りをしているのだろう。麻帆は続けた。「これからは、あまり連絡取らないようにしよう。私には彼氏がいるから」「……麻帆、今なんて言った?」「もう連絡を控えようって言ったの。分かった?」圭吾は少し間を置いてから、鼻で笑うように言った。「分かった。束縛の激しい彼氏が、また嫉妬してるんだろ?」続けて、俺をあざ笑うような口調になった。「あんな心の狭い男の言うことなんか、聞かなくていいよ。友達がいないから、俺たちがうらやましいだけだろ」麻帆の表情が少しずつ険しくなった。ふたりきりのとき、俺はこんなふうに言われていたのかもしれない。「いい加減にして」麻帆の声が鋭くなった。「直人は私の彼氏なの。あなたが口を出すことじゃない。もう連絡してこないで」「麻帆、ち
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第9話

麻帆の目から、涙がこぼれた。以前の俺なら、すぐに拭ってやっただろう。けれど今回は、何もせずに見ていた。麻帆が、俺のために泣くこともあるのか。「直人。私も一緒に行く」彼女の声がかすれていた。俺はすぐには答えられなかった。麻帆の家族も友人も、みんなここにいる。仕事だって順調だった。俺と海外へ行けば、それを全部置いていくことになる。俺は顔をそらした。もう気持ちは残っていないと思っていたのに、胸の奥が痛んだ。それでも、答えは変わらなかった。「ごめん。麻帆を連れていくことはできない」麻帆が抱きついてきた。俺のシャツの胸元が、涙で少しずつ濡れていく。「直人のためなら、全部捨ててもいい。私は直人と一緒にいたい。お願い。連れていって」俺は昔から、麻帆に頼まれると断れなかった。それでも今度は、抱きつく麻帆を静かに押し返した。「麻帆、別れよう」麻帆が顔を上げた。「俺たち、たぶんずっと無理してたんだと思う。もう疲れた。これからは、自分の人生を生きたい」「いや!」麻帆はすぐに首を振った。「別れない。私がいやだって言ってるんだから、終わりになんてしない」思わず、乾いた笑いがこぼれた。「前は、誰と会うかまで俺に口出しされたくないって言ってただろ」麻帆は黙った。「これからは、もう好きにできるよ。誰と会っても、どこへ行っても、俺は何も言わない」麻帆は俺の肩をつかんだ。「今年の年越しは、絶対に直人と一緒に過ごす。約束するから」その手をゆっくり外した。「残念だけど、俺たちに次の年越しはないよ」麻帆は何度も首を振った。別れたくない。一緒に海外へ行く。何度言っても、麻帆はそればかり繰り返した。結局、これ以上話しても無駄だと思い、俺のほうが折れた。「……分かった。一緒に行こう」その言葉を聞くと、麻帆は俺に抱きついた。俺も、今度は振りほどかなかった。これが最後になる。そう思いながら、しばらくそのままでいた。……出発の日の朝、麻帆を起こさないよう静かに支度を済ませた。玄関を出る前に、一度だけ振り返った。麻帆はまだ眠っていた。「じゃあな」聞こえないくらいの声でつぶやいた。長く暮らした部屋を見回した。ここへ戻ることは、もうないだろう。
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