All Chapters of 彼の偏愛によって、クチナシの花が散ってしまった: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

車がマンションの前に到着しても、二人はまだ上映されてから一週間も経っていないある映画の話を続けていた。その映画は、先週、千明が私と一緒に見に行くと約束していたものだったが、結局、彼は「残業があるから」と言ってキャンセルした。話題は、主人公たちの無念の死別から女性キャラたちの支え合いまで、実にさまざまだった。私は全く二人の会話の中に入り込めなかった。こういう状況が一体何度目なのかはもうわからなかった。今だって、私はまるでただの部外者みたいに後部座席に座ったまま、一言も口を挟めずにいた。やがて、楽しそうな笑い声が少しずつ途切れていく。千明がバックミラー越しに私を見て、不思議そうに尋ねた。「降りないか?」私は顔を上げ、淡々と答えた。「だって、後ろのドアを開けてくれてないから」千明は一瞬、黙り込んだ。すると、双葉がすぐに空気を和らげるように言った。「あ、ごめんね。私、あれこれ話を広げちゃったから」そう言うと、彼女は運転席へ身を乗り出し、慣れた手つきで後部ドアの開閉ボタンを押した。この車は、千明が初めてまとまったお金を稼いだ時に買ったものだった。あの時、彼は笑いながら言った。「これでもう、真琴は満員電車に乗らなくていいな」その後、双葉が江南市へ転職してきて、しばらく私と同居するようになった。通勤時の車の利用者は、二人から三人になった。そして、双葉が車酔いしやすいという理由で助手席へ、私は後部座席へ移ることになった。3年間ずっと後部座席に座っていたせいで、私はもう運転席周りのボタンの位置なんて覚えていなかった。でも双葉は違う。彼女はまるでこの車のオーナーのように、何もかも把握していた。「真琴、怒らないでね。あとで千明が私を家まで送ってくれる時、ちゃんと彼を叱っておくから」そう言った双葉に、千明は反論することもなく、ただ小さく笑った。長く一緒にいたからこそ、私はすぐにその声に含まれた甘い優しさを感じた。少し前、私はただ「タバコの匂いが苦手」と一言言っただけで、千明は不機嫌そうな顔で責めてきた。「そんなわがまま言うなよ。少しリラックスする時間を許してくれたら?」人からあれこれ言われるのが大嫌いだった彼は今では、双葉から何を言われても、彼女の細かな注文や不満さえ当たり前
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第2話

社長は私の言葉を聞くと、それ以上引き止めることはしなかった。その時、玄関の鍵が開く音がした。ちょうど帰宅した千明が、私の最後の一言を聞いたのだ。「決めましたって、何を?」「いいえ、何でもない」千明はそれ以上、問い詰めようとしなかった。彼はソファまで歩いて腰掛けると、手に持っていた小包を開けた。中から出てきたのは、ハイブランドのブレスレット一式だった。彼は顔を上げ、私に尋ねる。「このブレスレット、綺麗だろ?」そのブレスレットは、私のお気に入りリストに1年間ずっと入っていたものだった。何度「これ、可愛いと思わない?」と聞いても、彼はいつもこう言った。「無駄遣いだろ。そんな高いブランド品を買うなんて、見栄のためにお金を払ってるだけじゃん。真琴には、そういう派手なものは似合わないし」だから私は、千明はもう私の好みなんて忘れていると思っていた。まさか、よく覚えてくれたんだ。――そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。だが、この勝手な期待はすぐに次の言葉によって散々打ち砕かれた。「お前、双葉とは親友だろ?あいつ、こういうのが好きそうじゃないか」私は一瞬、固まった。そして静かに頷いた。「……うん、きっと喜ぶと思う」私の表情の変化に気づいたのか、千明は珍しく説明するように言った。「明日は双葉が入社して3周年の日なんだ。だから買ってあげようと思った。あいつ、遠くからお前を頼ってここまで来たんだ。せめて俺たちが大切にしてるって分かってほしくてさ」千明はそこで言葉を止め、私の何もつけていない手首へ視線を落とした。「お前も欲しいなら、次の誕生日に買ってやるよ」私こそ彼の本当の恋人なのに、いつになるか分からない「次」という約束を待たされる。……昔の千明はそんな人ではなかった。彼は約束ではなく、いつも行動で愛情を示してくれた。私が美味しそうな料理の記事をシェアすれば、授業が終わった後、必ず連れて行ってくれた。私が何気なく「あの店のどら焼きが美味しそう」と言っただけで、次のデートには必ず事前に用意してくれていた。その後、私は、川北市で年収7桁だった仕事を辞め、1年間続いた遠距離恋愛を終わらせて彼のもとへ来た。千明もまた、何も言わず残業を重ね、必死に仕事の契
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第3話

翌朝、会社に着いたら、私は退職届と引き継ぎ資料を人事部の机の上に置いた。そのまま部屋を出ると、双葉がいつものように明るい笑顔で私の腕に抱きついてきた。「真琴、おはよう。昨日、千明のこと、ちゃんと叱っておいたよ。もう、こんなに長く一緒にいるのに、真琴がマンゴーアレルギーなの、まだ覚えてないんだね」そう言って、双葉は頬を膨らませながら、空中で小さく拳を振った。なのに、千明は、双葉が胃が弱くて、氷なしではないと飲めないことははっきり覚えている。――私は思わず、その言葉を口にしそうになった。でも、やめた。そんなことを言えば、ただ嫉妬しているだけに見えるから。結局、私は何も言わず、そっと腕を抜いた。「ごめん、ちょっと疲れた」双葉は私の遠ざかりに気づいた様子もなく、心配そうに私を見る。「じゃあ、ちゃんと休んでね。今夜、私がご馳走するから。元気出して」曇りひとつない彼女の笑顔を見ていると、なぜか少しだけ眩しすぎるように感じた。昔の私は思っていた。双葉は一人で江南市まで私を頼って来たんだ。だから、彼女が幸せなら、私が少しくらい我慢してもいい。でも、私だって、最初、一人でこの知らない町へ来たのだ。千明以外、誰も頼れる人なんていなかった。それでも私は、必死に一人で頑張った。少なくとも双葉が来た時には、彼女には私がいた。そしてその後には、彼女を大切にしてくれる千明までいた。「ごめん。今日は予定があるから」私は淡々と断り、自分のデスクへ向かった。席に着いた瞬間、部署のチャットグループに通知が届いた。送信者は千明だった。【佐倉さん、入社3周年おめでとう。今日の午後のお茶代は俺が出す】続けて、一枚の注文画面のスクリーンショットが送られてくる。それは、市の中心部にある予約困難なフレンチスイーツ店のものだった。先週末、私も一度買ったばかりの店。その時、千明はちらっと私が買ったケーキーを見ると、尋ねた。「女の子って、みんなこういうの好き?」私は、彼が何か気づいてくれたのだと思った。嬉しくなって、その店の人気商品やおすすめを一生懸命説明した。でも違った。あの時から千明は双葉のために、この店のケーキを買う計画を立てていたのだ。人に囲まれた双葉は、幸せそうに笑って
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第4話

私は事の経緯を淡々と説明した。少し意地悪な気持ちで、心のどこかでは、双葉が千明に叱られるところを見たいと思っていた。なぜなら、千明は昔から職場で責任を押しつけたり、手柄を横取りしたりする人間を何より嫌っていたからだ。彼自身、入社したばかりの頃、不公平な扱いを何度も受けてきた。だからきっと、今回も双葉を注意してくれると思っていた。だが、千明はただ、冷たい目で私を一瞥しただけだった。「佐倉さんはお前の上司だろ?仕事を任されたなら、断る権利なんてあるのか?お前だってもうベテラン社員なんだぞ。それなのにずっと昇進していないなんて、おかしいと思わないのか?結局、お前は細かいことばかり気にしすぎなんだよ。少し仕事を頼まれただけで、すぐ嫌な顔をする」その言葉を聞いて、私はただ笑いそうになった。同じ時期に入社した社員たちは、たとえ私ほど業績が良くなくても、みんなチームリーダーになっている。なのに、私だけは、ずっと同じ場所に取り残されたままだった。理由は何か、後から入ってきた社員たちは知らないが、千明は、知らないはずはないのだろう。双葉は少し困ったように千明の腕を軽く押した。「もういいよ、真琴が手伝ってくれなくても。私、一人でもできるから」それでも千明の不満は消えなかった。「上野さん、お前がこれからもそんな適当な態度を続けるなら、やめてもらうことも考えないと――」私は彼の言葉を遮った。「別れよう」その瞬間、オフィス全体が静まり返った。千明の瞳が急に縮まった。「……今、何て言った?」私は彼の目を見つめ、一言ずつはっきり告げた。「私たち、別れよう」双葉が驚いた声を上げる。「真琴、またそんな勝手なこと言って……!千明がどれだけあなたのことを大切にしてきたと思ってるの?」私は何も聞こえないふりをして立ち上がり、その場を離れようとする。その瞬間、千明が私の手首を強く掴んだ。骨まで砕けそうなほどの力だった。「真琴、お前、結局そういう卑怯な方法を使うのか?」私は理解できず、彼に聞いた。「どういう意味?」千明は冷たく笑った。「別れるなんて言ってるけど、本当は違うだろ。会社のみんなの前で、俺とお前の関係を公表したいだけじゃないのか?前にも言ったよな?わ
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第5話

退職の引き継ぎ手続きをするには、まだ一週間かかる。私はその間に、会社の近くにあるホテルを取った。私たちが別れたという話が広まってから、同僚たちの私を見る目は少しずつ変わっていった。きっと私がコネで入社して、仕事もろくにしていない人間だと思ったのだろう。彼らは次第に、私を露骨に遠ざけるようになった。資料のコピー、お茶出し、その他の細かい雑用、いつの間にか、そういう仕事はほとんど私に回されるようになった。私が退職する本当の理由を知っている社長だけは、たまにその場に居合わせると、私を庇ってくれた。でも、噂はどんどん酷くなっていった。しまいには、「上野さんは木下さんと別れた本当の理由は、社長に乗り換えたかららしい」までなった。社長が中年の既婚者で、誰に対しても分け隔てなく優しい人だったとしても。私への風当たりは、さらに強くなった。それでも千明は、私のことを一度も口にしなかった。構わないのか、それとも、すべてを黙認していたのか、私もよく分からない。そして3日後、千明は青ざめた顔で、私のデスクに書類を叩きつけた。「真琴、これがお前が作った企画書なのか?めちゃくちゃじゃないか」私は困惑しながら、企画書を開いた。担当者欄には、私の名前が書かれていた。でも、私はもうすぐ退職する身だから、新しい案件など、一度も任されていない。私が口を開こうとしたその時、双葉が千明の袖を掴み、涙を浮かべながら言った。「千明、真琴のせいじゃない。全部、私の責任なの」それを聞いても、千明の表情は変わらなかった。むしろ、私を見る目は冷たいままだった。「双葉が庇ってくれるからって、責任から逃げられると思うなよ。お前のせいで取引先からも不満が出ている。3か月分のボーナスを減らすぞ」その企画書は最初から最後まで、私は一度も触れていない。なのに、問題が起きた瞬間、千明はすべての責任を私に押しつけた。周囲の視線が、針のように突き刺さる。ひそひそ話す人もいれば、面白がるような視線を向ける人もいた。私は顔を上げ、はっきり言い張った。「私が作ったものじゃない」千明は声を落として言った。「お前はただの一般社員だろ?処分されたところで、大したことじゃない。でも双葉は違う。俺が推薦して、もうすぐ主任に昇進
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第6話

飛行機が川北市に着陸した時、時刻はすでに朝の5時だった。私はそのまま、実家へ戻る一番早い新幹線の切符を買った。実家は川北市から少し離れた小さな町にある。家の前に着くと、母は庭で布団を干していた。私がスーツケースを引いて門の前に立っている姿を見て、母は一瞬固まった。それから、手に持っていた洗濯ばさみを置き、こちらへ歩いてきて、私の荷物を受け取った。「お休みなの?」「いいえ。仕事、辞めた」母は何か聞こうとしたが、止めた。やがて、こう言った。「さあ、中に入りなさい。美味しい料理を作ってあげるから」食事を終えると、私はそのまま丸一日眠った。目を覚ました時には、外はもう真っ暗だった。スマホを見ると、知らない番号から何件か着信が入っていた。どれも江南市の番号みたいだった。私はそのまま画面を閉じた。翌日、母に一枚のメモを残し、町の図書館へ面接を受けに行った。学歴も経験も十分だったため、館長はその場で採用を決めてくれた。「来週の月曜日から来てもらえますか」生活は、突然ゆっくりになった。残業もないし、いつまでも書き終わらない企画書もなくなった。そして、私を車の後部座席に座らせ続ける人もいなくなった。江南市で降り続けていた雨は、ここでは見られない。千明からは、5日間、何の連絡もなかった。6日目の夕食の時、母が何気なく言った。「今日はね、男の人から電話があったの。あなたが借りたものを返してくれてないって」箸を持っていた私の手が止まった。「……何て言ってたの?」「それ以上は何も。真琴がどこにいるのかって聞かれたから、切ったわ」7日目、元社長から電話がかかってきた。「上野さん、会社で大変なことが起きたよ」声は低く抑えられていた。「佐倉さんの主任昇進の推薦が、本社に却下された。上が、この3年間で彼女が担当したすべての案件を調べたんだ。そしたら、数字が合わないところがいくつも見つかった」私は淡々と尋ねた。「それで……どうなったんですか」「木下さんは停職処分になった。本社は責任を追及するつもりだ。それで、あいつは、君が告発したと思っているらしい」「私じゃないです」私は迷わず答えた。「それは、分かってる。でも木下さんは信じてないよ。彼
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第7話

千明の顔から、完全に血の気が引いた。「……あれは、ただの偶然。それに、双葉はお前の親友だから、彼女の代わりに責任を取るくらい、当たり前じゃないか」私は思わず笑い出した。その笑いには少しの温度もなかった。「じゃ、彼女自分で責任を取って、処分を受ければいいんじゃない?どうせ私なら、何でも助けてくれる馬鹿だと思ってたんでしょ?」千明は口を開いた。でも、何も言葉が出てこなかった。私は彼を見つめ、一言ずつ告げた。「千明、あなたのプロポーズって、最初から、双葉と近づくための口実だったんじゃない?」「違う……」千明は必死に首を横に振った。その声が震えている。「俺は本当に、お前を喜ばせるためにしたんだ」「よくもまあそんなのがサプライズだと言えるわね」私は背を向け、その場を離れようとした。その瞬間、千明が慌てて私の腕を掴んだ。骨まで砕けそうなほど強い力だった。「真琴、そんなこと言うなよ。俺たち、7年も付き合ってきたんだぞ」私は顔を上げ、彼を見た。「覚えてたんだ。7年も一緒にいたのに。犬だって7年も飼えば飼い主のことくらい覚えるよ。それなのに、あなたは私がマンゴーアレルギーだってことすら覚えていなかった」千明は唇を噛んだ。「あれは、本当に偶然だった。フルーツミルクティーって、女の子はみんな好きだと思って買ったんだ」私は軽く笑った。「好きなのは、双葉でしょ」その言葉に、千明の動きが止まった。「千明、あなた、本当に反省をしてるの?前に別れようとした時も、あなたは同じことを言ったよね。私の名前の表示を戻すとか、タバコをやめるとか、双葉と距離を置くとか。でも、その後どうなったの?」私は彼に掴まれて赤くなった手首を見る。「結局、あなたは、助手席を双葉に譲った。私の昇進の機会も双葉に譲った。私に与えるべき愛情も全部双葉に渡したんだ。千明、あなたは結局、何も変わっていないじゃん」私は力を込めて、彼の手を振りほどいた。「もう、私と二度と連絡しないで」そう言って、私は振り返らずに図書館の中へ入っていった。背後から、千明の途切れ途切れの泣き声が聞こえた。……その夜、家に帰ると、双葉から電話がかかってきた。彼女は泣き崩れていた。「真琴……
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第8話

翌日、千明はまたやって来た。今度はクチナシの花束と、新しいハイブランドのブレスレットを持っている。「これ」彼は花束とブレスレットを一緒に差し出した。「お前が欲しかったものなら、何でも買ってやるから」私はその花束を見つめると、ふと、7年前のことを思い出した。あの頃、私たちは付き合い始めたばかりで、千明は何も持っていなかった。私の誕生日にも、花を買う余裕なんてなかった。だから彼は、道端に咲いていたクチナシの花を一輪摘んできて、私の耳元に飾りながら、笑って言った。「いつか金持ちになったら、お前に花いっぱいの部屋を作ってやる」今の彼はお金を持っている。でも、そのクチナシの花は、もう私のためのものではなかった。「実はね、私、クチナシの花なんて好きじゃない」千明の手が震え、花束が落ちそうになる。「でも、前は……」「昔好きだったのは、クチナシの花ではなく、花をくれた人だったの」私は彼を見つめながら、続けた。「でも今は、その花をくれる人のことも、もう好きじゃない」千明の目が赤くなった。「真琴……一度だけでもいいから、俺にチャンスをくれないか」「私はもう、何回もあなたにチャンスをあげたよ」千明の表情が固まった。「何度も昇進の申請を出したのに、結局全部あなたに却下された。私、ずっと待っていたの。私がどれだけ傷ついていたか、どれだけ不正な扱いをされたか、あなたが自分で気づくのを。でも、あなたは気づかなかった。一度もね。そして、双葉の代わりに私に責任を押しつけた時、やっと分かった。あなたは、私の苦しみに気づかなかったんじゃなく、最初から、気にしていなかったんだって」千明の手が、ゆっくり下がった。クチナシの花束が地面に落ち、白い花が散らばった。彼が帰った後、私はその花を拾わなかった。翌日、花は清掃員によって片付けられていた。3日目、千明は来なかった。4日目もそうだった。5日目、社長から電話がかかってきた。「上野さん……木下さんは会社を辞めたよ」私は本棚を整理していた手を止めた。「本社から責任追及を受けて、もう耐えられなかったみたいだ。それから、佐倉さんも解雇された」「……そうですか」「それと、木下さんが住んでいた家を、君の名義に変更し
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第9話

双葉は、図書館の入り口で私を待ち伏せしていた。サングラスを外すと、彼女の目は泣き腫らして真っ赤になっていた。「真琴……もう、私にはどうしたらいいか分からないの」彼女は私の袖を掴んだ。爪が布地に食い込むほど強く。「会社は私を解雇しただけじゃなく、この3年間で余分にもらった給料やボーナスを返せって、一覧まで出してきたの。そんなお金、私には持ってない……父もまだ入院してるし、家族には絶対に知られたくない。お願い、助けて。これが最後だから」私は何も言わず、彼女を見つめた。すると双葉はバッグから一枚の書類を取り出した。「これにサインするだけでいいの。そうすれば会社はもう請求してこないって。条件は、真琴が、自分の意思で仕事を私に譲ったって認めること」私は書類に目を落とした。そこには、はっきり書かれていた。【乙である上野真琴は、関連案件の署名権および報酬分配を自主的に放棄することを認める。また、佐倉双葉による功績の不正取得は存在しないものと確認する】私は、思わず笑いそうになった。「双葉、この内容をちゃんと読まなかったの?」彼女は一瞬、固まった。「これにサインしたら、これらの企画は私が作ったものでなはいって認めることになる。そうなれば、会社はあなたの返済を免除するどころか、あなたがデータを改ざんして功績を偽ったって証拠になる。その場合、あなたは責任を追及される可能性もある。この弁護士、誰が探したの?千明?」双葉の顔が真っ白になった。彼女は震える手で、もう一度その書類を開いて見た。「千明が……これにサインすれば、全部解決するって……」私はその書類を受け取り、彼女の目の前で二つに破った。「千明はあなたを助けようとしてるんじゃない。あなたを、牢屋に送ろうとしてるだけ」双葉はその場にしゃがみ込み、体を震わせながら泣いた。私はしばらく、何も言わず彼女を見ていた。そして、小さく息を吐き、隣にしゃがむ。「会社から来たメールを全部保存して。案件のデータも整理して提出しなさい。一部の企画は私に代筆を頼んだが、名前を変えたのはあなた自身だったことを全部正直に説明して、反省する姿勢を見せれば、会社もそこまで追い詰めないと思う。返金については、私はあなたの代わりに、分割払
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第10話

それから3か月後、私は江南市の裁判所から、召喚状を受け取った。双葉は千明と会社を相手取り、名誉毀損による損害賠償を求めて訴えを起こしていた。法廷で、彼女は涙を流しながら訴えた。すべては千明の指示で、自分はただ言われた通りにしただけだ、と。被告席に座る千明は、一言も発しなかった。私は証人として出廷した。私の姿を見た瞬間、双葉の顔色が変わった。「真琴、来てくれたんだね。お願い、裁判官に言って。あの企画は全部、千明にやれって言われたの。私だって、仕方ないわよ」その言葉を聞いた瞬間、私は彼女に完全に失望した。私が出した許しの書類があれば、もうすべて終わっていたはずだ。それなのに彼女は、さらに慰謝料まで手に入れようとしてまだ裁判を続けた。もう、これ以上彼女を庇うつもりはなかった。私は一枚の書類を取り出した。千明が私に送ってきたものを、コピーしたものだった。「これは、この3年間、私が代わりに作成したすべての企画書の原本です。作成日時、修正履歴、編集者のアカウント、すべて私のものになっています。佐倉さん、あなたは無理やりやらされたと言ったよね。それなら、どうしてこの資料は全部あなたの名前で提出されているの?」双葉の顔が真っ白になった。裁判官は書類を確認した後、休廷を宣言した。裁判所を出ると、入口の前に千明が立っていた。前に会った時より、さらに痩せていた。でも、目には少しだけ以前とは違う光が戻っていた。「……ありがとう」私は小さく「うん」と答え、そのまま立ち去ろうとした。「真琴」彼に呼び止められ、私は足を止めた。「その……夏川博史って……優しい人なのか?」私は振り返った。裁判所の階段の上で、逆光の中に立つ彼の表情は、はっきりとは見えなかった。声は小さかったが、とても大切なことを尋ねるようだった。「優しいよ」千明は小さく頷木、笑った。その笑顔は泣いているようにも見えた。「なら、よかった」ほどなくして判決が出た。双葉は敗訴し、不正に得ていた利益をすべて返還することになった。千明については、すでに自ら責任を取って退職していた。その後、彼は遠い地方で新しい仕事を始めたらしい。数日後、知らない番号から何通かのメッセージが届いた。
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