玄関の扉を開けた途端、温め直した夕食の匂いがした。「ただいま」 靴を脱ぎながら声をかけると、ダイニングから母の志保が顔を出した。「おかえり。遅かったわね」「大学の講義が夕方まであったんだ」「そう。手を洗ってきなさい。今、温めるから」 志保はそれ以上、どこから大学へ向かったのかも、朝から何をしていたのかも尋ねなかった。 会社を出て、駅で化粧を落としてウィッグを外し、男性用の服に着替えてから大学へ向かった。講義を終えて帰宅する頃には、玲は朝から二人分の生活を送ったように疲れていた。 ダイニングへ入ると、父の章はすでに食卓についていた。玲が帰るまで待っていたというより、食後もタブレットを眺めながら居座っていたらしい。空になった茶碗の横に麦茶のグラスを置き、画面を指で流していた。「おかえり、孝行息子」「その呼び方やめろ」 玲が睨むと、章は楽しそうに口元を緩めた。志保は二人のやり取りに何も言わず、温めた皿と茶碗を玲の前へ並べる。「先に食べていてもよかったのに」「私はさっき帰ったところ。章は勝手に先に食べただけよ」「ちゃんと一緒に食べようと思って、ここで待ってたんだけどなあ」「タブレットを見ていただけでしょう」 志保は章の言葉を簡単に退け、自分の席へ戻った。章も反論はせず、タブレットを伏せて玲の向かいに座り直す。 三人で食卓を囲むこと自体は、珍しくない。 章と志保は離婚してからも、玲と同じ家で暮らしている。ただし、もう夫婦ではなかった。食事の時間が重なれば同じものを食べ、家の用事があれば話す。それでも、帰宅が遅い理由や休日の予定を互いに詳しく聞くことはない。 玲が幼い頃に見ていた夫婦の近さだけが、同じ家の中からきれいに抜け落ちている。 章が食器の置き場所を間違えれば、志保は今も迷わず正しい棚を指す。志保が重い荷物を玄関に置けば、章は頼まれる前に運ぶ。長く家族だったために身についた動きは残っているのに、そこから相手の一日へ踏み込むことはない。その境目を、二人とも口に出さず守っていた。 志保は蓮見テキスタイルの商品企画部で長く働き、今は社内資料や過去の商品を保存する仕事を非常勤で続けている。蓮見家の会社や系列企業には詳しいが、経営には加わっていない。啼石商事の買収についても、報道で分かる以上のことを章から聞かされてはいないはずだった。
Terakhir Diperbarui : 2026-08-19 Baca selengkapnya