Masuk大学生の啼石玲は、経営難の父の会社【啼石(なかいし)商事】を守るため、女装姿と母方の姓で、買収を進める厎(いたす)ホールディングスへ潜入する。そこで出会ったのは、密かに想いを寄せる親友で、厎社長の息子・耀司。玲の正体に気づかない耀司は、臨時スタッフ「蓮見玲」を女性だと思い惹かれていくが、彼もまた男性である親友への恋を隠していた。会社では女性の同僚、大学では男性の親友。一人二役で耀司に近づくほど、恋と嘘は深まっていく。買収の裏で謎の思惑も動き始める、女装潜入オフィスBL。
Lihat lebih banyak「はぁ?! どういうこと?!」
父、章(しょう)の言葉に、啼石玲(なかいし・あきら)は思わず腰を浮かせた。夕食を終えたあとのダイニングテーブルには、飲みかけの麦茶と、章が放り出したタブレットが残っている。
「だから、そのぅ……父さんの会社が厎(いたす)ホールディングスに買われそうだから、買われる前に反撃しようって話だよ。向こうは救済のつもりらしいけど」
玲の向かいに座る父・章は、深刻さの欠片もない調子で肩をすくめた。
「救済なら反撃しなくていいだろ!」
玲はテーブルに両手をついた。グラスの中で氷が跳ね、乾いた音を立てる。
「そりゃ父さんの会社が潰れたら、社員の人たちも困るだろうし、僕だって無関係じゃないよ。でも、何で僕が厎に潜り込まなくちゃいけないんだよ」
「このまま買収されたら、父さん、厎の社長の部下になっちゃうんだぞ?」
章は不満そうに唇を尖らせた。玲はしばらくその顔を見つめたあと、椅子へ腰を落とした。
「知らないよ」
「大学の同期に頭を下げて、その下で働けっていうのか?」
章は胸の前で腕を組み、さも耐えがたい屈辱を語るように顎を上げた。
「会社が助かるなら働けよ。しょうもない男のプライドで息子を巻き込むな」
「しょうもなくない。経営者としての尊厳に関わる」
即座に返された言葉に、玲は呆れて目を細めた。
「今の話を聞く限り、その尊厳はもう残ってないよ」
玲が冷たく言い切ると、章は心外そうに眉を寄せた。会社が買われようとしているというのに、問題にしているのが自分の立場ばかりなのだから、同情する気にはなれない。
「厎は買収準備で臨時の事務スタッフを増やしてる。蓮見ビジネスサービスにも依頼が来てるんだ」
章はタブレットを手元へ引き寄せ、画面を数度操作した。差し出された画面には、厎ホールディングス本社での事務補助業務と、勤務期間や条件が表示されている。
蓮見ビジネスサービスは、玲の母方の会社である蓮見テキスタイルの系列会社だ。厎グループとは以前から取引があり、ホテルや不動産部門だけでなく、本社の繁忙期にも事務スタッフを派遣している。
「そこから、お前を送り込む」
「だからやんないって。てか、僕、まだ大学生なんだけど。会社勤めなんかしたことないし」
玲は差し出された画面を押し戻した。章は押し返されたタブレットに一度目を落としただけで、まるで問題にならないという顔をしている。
「書類整理とデータ入力が中心だ。専門知識は要らない」
章は求人情報を指でなぞった。勤務先の欄には、経営企画部補助チームとある。
「潜り込むって言ったよな。普通に働かせる気じゃないだろ」
「別に機密資料を盗めとは言ってない。社内で誰が啼石の案件を動かしてるのか、どんな話をしてるのか、目と耳を働かせてくればいい。何か交渉に使えそうな材料を見つけたら、父さんに教えてくれ」
「完全に産業スパイじゃねえか」
玲は肘をつき、額を押さえた。聞けば聞くほど、まともな話から遠ざかっていく。
「人聞きが悪いな。父親の会社を心配する孝行息子だよ」
「そんな孝行する気はない。学生の僕を巻き込まないで、自分の啼石商事の社員を使えばいいじゃん!」
その瞬間、章の顔から笑みが消えた。タブレットの縁に置かれた指にも、わずかに力が入る。
けれど、それは玲が理由を問うより早く、いつものふざけた表情に隠された。社員を巻き込みたくないのか、信用できない事情があるのか。章が説明しない以上、玲に分かるはずもなかった。
ただの面子で動いているわけではないのかもしれない。そう思わせておいて、何も話さず息子だけを使おうとするところが、玲には余計に腹立たしかった。
「啼石商事の社員が厎へ入ったら、誰だって警戒するじゃないか」
「僕だって啼石の息子だろ」
章の指先が、そのまま玲へ向けられる。口元に浮かんだ笑みを見て、玲は嫌な予感を覚えた。
「戸籍上は違うだろ?」
玲は言葉を失った。
中学生の頃、両親は「財産上の都合」という曖昧な理由で離婚した。その直後、玲は裕福な母方の祖父母の養子となり、戸籍上の姓も母方のものである蓮見へ変わっている。
もっとも、離婚後も生活は大きく変わらなかった。玲は現在も、章と母と三人で同じ家に暮らしている。
学校で突然名字が変わることを嫌がった玲は、教師や友人には以前と同じ啼石姓で通してきた。正式な書類を提出する場面以外で、母方の姓を使うことはほとんどない。
「本名で働けば、厎の人間がお前を啼石商事の社長の息子だと気づく可能性は低い」
章は、玲が反論できないのを見て取ったらしい。機嫌よく椅子の背へ体を預けた。
「それでも嫌だよ」
玲は椅子を引いて立ち上がった。その脚が床を擦る音が、静かなリビングに大きく響く。
「そんな怪しい仕事、自分でやればいい。僕は部屋に戻る」
「あれれー? 行っちゃうのかぁ?」
玲が父に背を向けたところで、章のわざとらしく甘い声が追ってきた。
「父さん、この話のついでに、お前に見せたいものがあるんだけどなぁ」
その言い方に、玲は足を止めた。振り返ると、章はテーブルの下へ手を伸ばし、A4サイズの茶封筒を取り出していた。
「僕のもの?」
「たぶんね」
章は口元に笑みを浮かべ、封筒をテーブルの中央へ滑らせた。
「これ、お前のだろ?」
「何、それ」
近づくのをためらう玲の前で、章は封筒から数枚の写真を抜き出した。光沢のある紙が扇状に広げられるにつれ、玲の顔から血の気が引いていく。
栗色のロングウィッグ。丁寧に作った目元。女性もののワンピースやブラウスを着て、カメラへ笑いかける自分。
どれも玲が一人で楽しみ、誰にも見せずにいた自撮り写真だった。
「いやぁ、父さん驚いたな。息子にこんな趣味があったなんて」
章は一枚を指でつまみ上げ、照明に透かすように眺めた。
玲は自席へ戻り、次の会議資料を印刷した。最初に一部だけ出し、表紙の案件名、作成部署、版番号、ページ順、両面印刷の向きを確かめる。問題がないことを見届けてから必要部数を揃え、出席者用、説明者用、予備を混同しないよう付箋をつけた。最後に、使ったファイル名と更新日時を作業記録へ残す。「蓮見さん、十一時の会議資料はできていますか」 これまで水野や小宮へ声をかけていた社員が、今日はまっすぐ玲のところへ来た。「はい。出席者七名と説明者一名、予備一部で、九部用意しています。今朝差し替えられた第四版で確認済みです」「ありがとうございます。受け取っても大丈夫ですか」「はい。こちらの記録へ、受領時刻の入力をお願いします」 社員は記録へ時刻を入力し、資料を抱えて会議室へ向かった。その後、午後の会議について尋ねられたときも、正式版はまだ届いていないことと、届き次第印刷を始めれば受け渡し予定には間に合うことを伝えた。分からないことを曖昧に請け合わず、分かっている範囲と確認が必要な範囲を分けて答える。小宮に代わってもらわなくても、自分で答えられた。 配属されたばかりの頃は、新しい派遣スタッフとして、水野を通して仕事を教えられていた。今は「蓮見さん」と名前を呼ばれ、準備状況を直接尋ねられている。 女性の格好をしているからでも、派遣元と同じ名字だからでもない。頼まれた仕事を間違えずに用意する人間として覚えられたのだと思うと、玲は素直に嬉しかった。 父に送り込まれたときは、女性姿で通用するかばかりを気にしていた。だが職場で必要とされるのは、頼まれた仕事を予定どおりに進められるかどうかだ。服も化粧も自分で選んだものだが、任された仕事を着実にこなした事実は、誰でもない玲自身のものだった。 直接内容を確認された短いやり取りにも、ここで自分の居場所を少しずつ作れている証拠であり、玲にとって実感ある経験となりつつあった。 午前の会議が終わると、玲は小宮と、先ほど開かずに残した第五版を確認した。同じ案件名がついた四つの関連ファイルは、一覧ではすべて第六版になっている。だが、実際に版番号と更新日時が一致するのは三つだけで、一つだけ第五版のままだった。「こちらだけ更新日時が前のままです。版番号も一つ古いですね」「やっぱり混ざっていましたか。水野さんにも確認してもらいましょう」 玲は古
翌朝、玲は自席へ着くと、補助チームの共有予定表と、その日に準備する会議の一覧を並べて開いた。 午前中だけで会議は四件ある。開始時刻、会議室、出席予定者、必要な資料を照合し、印刷に時間のかかるものを先に出す。会議の時刻は動かせない。自分が遅れれば、資料を取りに来る社員を待たせ、部屋を整える小宮たちの作業まで遅らせてしまう。玲は水野に教わった確認項目を追いながら、それぞれの作業を何時までに終えるか、メモに書き加えた。 もう一度予定表へ目を戻すと、十時からの欄に同じ会議室名が二つ並んでいた。 片方は営業部を含む十二名の会議で、もう片方は四名の打ち合わせだ。どちらにも出席者と配布資料が登録されているため、一方の消し忘れではない。このままなら、十時に二組が同じ扉の前へ集まることになる。 玲は空室を検索した。隣の小会議室なら同じ時刻に空いており、四名で使える。そこまで確かめてから、小宮へ予定表の画面を見せた。「小宮さん、十時からの会議室予約が重複しています。四名の打ち合わせを隣の小会議室へ移せそうですが、主催者側へ確認してもよろしいですか」「お願いします。四名の方は厎さんが連絡担当になっています。もう一方は私が確認するので、蓮見さんは厎さんへ連絡してもらえますか」「分かりました」 配属されたばかりの玲が勝手に会議室を変えることはできない。玲は耀司へ変更案を送り、元の会議室を使う側にも小宮が確認を取るまで、予定表には手を加えずに待った。 間もなく、耀司が補助チームへやって来た。 名前を呼ばれて顔を上げる。大学なら見慣れている相手なのに、仕事中の耀司がまっすぐ自分の席へ来るだけで、玲は背筋を伸ばしてしまった。「蓮見さん、会議室の件、ありがとうございます。四名の打ち合わせを移して問題ありません。出席者への案内は僕から入れます」 玲が小宮へ目を向けると、向こうも十二名の会議の主催者との通話を終え、問題ないというように頷いた。「承知しました。予定表と室前表示を変更します」「小会議室のモニターを使う予定なので、設備も一緒に確認していただけますか」「はい。ご案内します」 水野は別の会議資料を準備しており、小宮も十二名の会議について確認結果を記録している。予約の重複を見つけ、空室まで調べた玲が、そのまま耀司と部屋を確認するのが最も早かった。 二人は小会議室
「それで、仕事の方はどうだ? 何か気になることはあったか?」 先ほどまでの父親らしい軽い会話の続きを装っているが、聞きたいのが仕事内容でも玲の体調でもないことは分かっている。 志保に就職準備だと説明した直後に、厎の内部について報告を求める。玲は章へ冷たい視線を返した。「何かって、具体的に何を聞きたいんだよ」「社内の様子とか、啼石の案件がどう扱われているかとか、いろいろあるだろ」「だから、その『いろいろ』が何なのか聞いてるんだけど」「見聞きしたことを、最初から話してくれればいいよ」 章はタブレットのメモ画面を開いたが、玲が探すべき対象を示す気はないらしい。「初日は入館手続きと研修が中心だった。入れる区画は社員証の権限で決まってるし、社内端末も自分のアカウントでしか使えない。僕が見られる共有フォルダには、業務マニュアルと会議室の予定、作業用に渡された資料しかないよ」「それで?」「担当してるのも、会議資料の印刷やPDF化、備品補充、予定表の更新、配布先の確認。内容を読む必要がない資料は、必要な部数と版番号を確かめるだけだ」 玲は研修で教えられた情報管理の決まりを思い返した。印刷物を一般のごみ箱へ捨てない。他人のアカウントを使わない。許可された範囲を越えて会議室や書庫へ入らない。厎の管理は、章が期待するほど緩くない。「僕が見られるのは、仕事に必要な範囲だけだよ。社員の共有フォルダへ勝手に入れるわけでもないし、会議の中身を全部読めるわけでもない」「最初から重要な資料を見られるとは思ってないよ。普通に働いていれば、そのうち周りの話も聞こえてくるだろ」 少々投げやりな玲の物言いに章は動じる様子はない。この不遜な父が何を考えているのか、玲にはさっぱり分からない。「それを待つだけなら、僕を送り込む前に言っておけよ」「焦る必要はない。三か月あるんだから、最初から無理をして怪しまれる方が困る」 章はただ、のらりくらりと話を流し続けた。会社がすぐに買収されると困る。少しでいいから時間が欲しい。そう言って玲を脅したときとは、話が噛み合わない。 玲が厎へ入りさえすれば、章にとって有利に場をひっくり返せる、何か決定的な情報を見つけてくると考えていたのではないか。だが実際の管理体制を聞き、今になって待てばいいと言い換えたようにも見える。「父さん、自分でも何を
玄関の扉を開けた途端、温め直した夕食の匂いがした。「ただいま」 靴を脱ぎながら声をかけると、ダイニングから母の志保が顔を出した。「おかえり。遅かったわね」「大学の講義が夕方まであったんだ」「そう。手を洗ってきなさい。今、温めるから」 志保はそれ以上、どこから大学へ向かったのかも、朝から何をしていたのかも尋ねなかった。 会社を出て、駅で化粧を落としてウィッグを外し、男性用の服に着替えてから大学へ向かった。講義を終えて帰宅する頃には、玲は朝から二人分の生活を送ったように疲れていた。 ダイニングへ入ると、父の章はすでに食卓についていた。玲が帰るまで待っていたというより、食後もタブレットを眺めながら居座っていたらしい。空になった茶碗の横に麦茶のグラスを置き、画面を指で流していた。「おかえり、孝行息子」「その呼び方やめろ」 玲が睨むと、章は楽しそうに口元を緩めた。志保は二人のやり取りに何も言わず、温めた皿と茶碗を玲の前へ並べる。「先に食べていてもよかったのに」「私はさっき帰ったところ。章は勝手に先に食べただけよ」「ちゃんと一緒に食べようと思って、ここで待ってたんだけどなあ」「タブレットを見ていただけでしょう」 志保は章の言葉を簡単に退け、自分の席へ戻った。章も反論はせず、タブレットを伏せて玲の向かいに座り直す。 三人で食卓を囲むこと自体は、珍しくない。 章と志保は離婚してからも、玲と同じ家で暮らしている。ただし、もう夫婦ではなかった。食事の時間が重なれば同じものを食べ、家の用事があれば話す。それでも、帰宅が遅い理由や休日の予定を互いに詳しく聞くことはない。 玲が幼い頃に見ていた夫婦の近さだけが、同じ家の中からきれいに抜け落ちている。 章が食器の置き場所を間違えれば、志保は今も迷わず正しい棚を指す。志保が重い荷物を玄関に置けば、章は頼まれる前に運ぶ。長く家族だったために身についた動きは残っているのに、そこから相手の一日へ踏み込むことはない。その境目を、二人とも口に出さず守っていた。 志保は蓮見テキスタイルの商品企画部で長く働き、今は社内資料や過去の商品を保存する仕事を非常勤で続けている。蓮見家の会社や系列企業には詳しいが、経営には加わっていない。啼石商事の買収についても、報道で分かる以上のことを章から聞かされてはいないはずだった。