LOGIN大学生の啼石玲は、経営難の父の会社【啼石(なかいし)商事】を守るため、女装姿と母方の姓で、買収を進める厎(いたす)ホールディングスへ潜入する。そこで出会ったのは、密かに想いを寄せる親友で、厎社長の息子・耀司。玲の正体に気づかない耀司は、臨時スタッフ「蓮見玲」を女性だと思い惹かれていくが、彼もまた男性である親友への恋を隠していた。会社では女性の同僚、大学では男性の親友。一人二役で耀司に近づくほど、恋と嘘は深まっていく。買収の裏で謎の思惑も動き始める、女装潜入オフィスBL。
View More退勤後、玲は駅へ向かう人の流れから外れ、ビルの外にあるベンチへ腰を下ろした。 会社の入館証はバッグへしまってある。玲は自分の端末を取り出し、久世リストラクチャリング・パートナーズの社名を検索した。 厎の資料を撮影した画像も、持ち出したメモもない。確認するのは、会社の公式サイトや報道記事など、誰でも見られる情報だけだった。 久世社は、経営が悪化した企業の再建や、企業買収の支援を行う会社だった。公式サイトには、財務状況の調査、再建計画の立案、事業の売却や分離を支援するとある。過去に関わった案件も複数紹介されていた。 価値のある事業を切り離し、不採算部門の影響から守る。それも企業再生の手法の一つとして、ごく普通に説明されている。 犯罪や不正を疑わせる記事が見つかるわけではない。社名とともに検索候補に並ぶのも、企業再生や事業再編といった言葉ばかりだった。 とりあえず公開情報から分かるのは、久世社が表向きに掲げている仕事だけである。啼石商事の買収案件で久世社は何を求め、厎とどのような関係にあるのかまでは分からない。 それでも、厎の方針と久世社の資料を見比べたあとでは、数ある外部協力会社の一つとして片づけることができなかった。 玲は検索画面を閉じ、章とのメッセージ画面を開いた。 普通に働く中で、気になったことを教えればいい。 数日前の夜、章は確かにそう言った。今回は、自分から権限のない場所へ入ったわけでも、資料を盗み見たわけでもない。仕事として渡された資料を分類し、その中で何度も同じ社名を見つけた。 玲は文章を打ち始めた。資料の画像や方針の文言は送らない。会社名と、久世社が参加していた過去の会議日程を並べ、公開情報で確認できたことだけを添えた。『啼石商事の案件に、久世リストラクチャリング・パートナーズという会社が何度も参加してる。過去の会議日程はこれ。会社について調べたけど、公開情報では企業再生や買収案件を扱ってることしか分からなかった』 送信してから、一分も経たないうちに既読がついた。 章がどんな反応をするのか考える間もなく、返事が届く。『その会社には近づくな』 玲はその短い一文を読み直した。 関係のない会社なら、章は「知らない」と返すだろう。企業再生の専門会社なら珍しくないと、軽口を交えて片づけるかもしれない。玲を企業スパイとして送り込
前日に整理した共有フォルダは、出勤した玲が見ても、どこに何があるのかすぐ分かる状態を保っていた。 作成元と保存先を確認できた資料だけを分け、判断できないものは小宮に確認した。勝手に中身を変えず、相違点があれば報告する。そのやり方を認められたからか、午前の作業を終えたところで、小宮が玲の席へ来た。「蓮見さん、今日はこのフォルダの整理をお願いできますか。会議日と案件名を確認して、同じ案件ごとにまとめてください」 小宮が画面に示したのは、補助チームで保管している過去の会議資料だった。現在使われている資料ではなく、既に終了した会議ごとの記録である。閲覧できるのは派遣スタッフにも取り扱いが認められた範囲に限られており、玲が開けない資料は最初から表示されない。「分かりました。作成元と版番号も確認した方がいいですか」「お願いします。外部から届いた資料は、社内で作成したものと分けておいてください。同じ会議の古い版が残っていても、削除はしないでくださいね」「承知しました」 玲は分類用の一覧と作業記録を開いた。確認するのは会議名、開催日、参加会社、作成元、版番号である。表紙だけでは作成元が分からないものは目次と参加者一覧を見て、更新日時も照らし合わせる。同じ案件名でも開催日が違えば別の会議として残し、同じ会議に複数の版があれば、作成された順番が分かるように並べた。 一つの案件を終えるたび、一覧へ保存先を記録する。買収候補の会社名は違っても、資料の構成はよく似ていた。厎社内の部署だけで作成されたものもあれば、銀行や法律事務所、外部の専門会社が加わっているものもある。買収に厎と相手企業だけが関わるわけではないことくらいは、専門知識のない玲にも分かった。 いくつ目かのフォルダを開いたとき、見慣れた社名が画面に現れた。──『啼石商事』 カーソルを動かしていた手が止まる。 厎で働き始めてから、父の会社の名を目にする機会は増えた。会議予定にも資料の表紙にも記されている。それでも、自宅では章の不満を通してしか知らなかった買収について、職場ではいくつもの会議が開かれ、日付と版番号の異なる資料が積み重なっている。その光景には、まだ慣れなかった。 玲は周囲へ目を向けかけ、すぐに画面へ戻した。自分から探し出した資料ではない。小宮から任されたフォルダを、決められた手順で整理してい
玲は自席へ戻り、次の会議資料を印刷した。最初に一部だけ出し、表紙の案件名、作成部署、版番号、ページ順、両面印刷の向きを確かめる。問題がないことを見届けてから必要部数を揃え、出席者用、説明者用、予備を混同しないよう付箋をつけた。最後に、使ったファイル名と更新日時を作業記録へ残す。「蓮見さん、十一時の会議資料はできていますか」 これまで水野や小宮へ声をかけていた社員が、今日はまっすぐ玲のところへ来た。「はい。出席者七名と説明者一名、予備一部で、九部用意しています。今朝差し替えられた第四版で確認済みです」「ありがとうございます。受け取っても大丈夫ですか」「はい。こちらの記録へ、受領時刻の入力をお願いします」 社員は記録へ時刻を入力し、資料を抱えて会議室へ向かった。その後、午後の会議について尋ねられたときも、正式版はまだ届いていないことと、届き次第印刷を始めれば受け渡し予定には間に合うことを伝えた。分からないことを曖昧に請け合わず、分かっている範囲と確認が必要な範囲を分けて答える。小宮に代わってもらわなくても、自分で答えられた。 配属されたばかりの頃は、新しい派遣スタッフとして、水野を通して仕事を教えられていた。今は「蓮見さん」と名前を呼ばれ、準備状況を直接尋ねられている。 女性の格好をしているからでも、派遣元と同じ名字だからでもない。頼まれた仕事を間違えずに用意する人間として覚えられたのだと思うと、玲は素直に嬉しかった。 父に送り込まれたときは、女性姿で通用するかばかりを気にしていた。だが職場で必要とされるのは、頼まれた仕事を予定どおりに進められるかどうかだ。服も化粧も自分で選んだものだが、任された仕事を着実にこなした事実は、誰でもない玲自身のものだった。 直接内容を確認された短いやり取りにも、ここで自分の居場所を少しずつ作れている証拠であり、玲にとって実感ある経験となりつつあった。 午前の会議が終わると、玲は小宮と、先ほど開かずに残した第五版を確認した。同じ案件名がついた四つの関連ファイルは、一覧ではすべて第六版になっている。だが、実際に版番号と更新日時が一致するのは三つだけで、一つだけ第五版のままだった。「こちらだけ更新日時が前のままです。版番号も一つ古いですね」「やっぱり混ざっていましたか。水野さんにも確認してもらいましょう」 玲は古
翌朝、玲は自席へ着くと、補助チームの共有予定表と、その日に準備する会議の一覧を並べて開いた。 午前中だけで会議は四件ある。開始時刻、会議室、出席予定者、必要な資料を照合し、印刷に時間のかかるものを先に出す。会議の時刻は動かせない。自分が遅れれば、資料を取りに来る社員を待たせ、部屋を整える小宮たちの作業まで遅らせてしまう。玲は水野に教わった確認項目を追いながら、それぞれの作業を何時までに終えるか、メモに書き加えた。 もう一度予定表へ目を戻すと、十時からの欄に同じ会議室名が二つ並んでいた。 片方は営業部を含む十二名の会議で、もう片方は四名の打ち合わせだ。どちらにも出席者と配布資料が登録されているため、一方の消し忘れではない。このままなら、十時に二組が同じ扉の前へ集まることになる。 玲は空室を検索した。隣の小会議室なら同じ時刻に空いており、四名で使える。そこまで確かめてから、小宮へ予定表の画面を見せた。「小宮さん、十時からの会議室予約が重複しています。四名の打ち合わせを隣の小会議室へ移せそうですが、主催者側へ確認してもよろしいですか」「お願いします。四名の方は厎さんが連絡担当になっています。もう一方は私が確認するので、蓮見さんは厎さんへ連絡してもらえますか」「分かりました」 配属されたばかりの玲が勝手に会議室を変えることはできない。玲は耀司へ変更案を送り、元の会議室を使う側にも小宮が確認を取るまで、予定表には手を加えずに待った。 間もなく、耀司が補助チームへやって来た。 名前を呼ばれて顔を上げる。大学なら見慣れている相手なのに、仕事中の耀司がまっすぐ自分の席へ来るだけで、玲は背筋を伸ばしてしまった。「蓮見さん、会議室の件、ありがとうございます。四名の打ち合わせを移して問題ありません。出席者への案内は僕から入れます」 玲が小宮へ目を向けると、向こうも十二名の会議の主催者との通話を終え、問題ないというように頷いた。「承知しました。予定表と室前表示を変更します」「小会議室のモニターを使う予定なので、設備も一緒に確認していただけますか」「はい。ご案内します」 水野は別の会議資料を準備しており、小宮も十二名の会議について確認結果を記録している。予約の重複を見つけ、空室まで調べた玲が、そのまま耀司と部屋を確認するのが最も早かった。 二人は小会議室