私が自分の体験をこうして記録に残しておこうと思ったのは、最近になって緩やかに正気を失いつつあることに気づいたからなのです。それは朝起きぬけの少しの間、脳の機能がうまく立ち上がらずに夢の中に取り残された気分がするのによく似ていて、何か日常の動作をしていても態々にその手を止め、自分がどこにいて何をしているのかを確認しなくてはならない――つまりは忘我の瞬間が多くなってきたのです。世間で云う記憶障害の類とは全く違います。本当に全くが起き抜けの夢のように、体の感覚や機能は現実をきちんと知覚しながらも思考だけが切り離されて体を動かすことさえままならない、まるで自分の肉体が自分のものでは無くなってしまうような感覚なのです。そんなときに自分の肉体さえ投げうった私の思考が何を考えているかというと、たった一人の男のことなのです。 これを読んだあなたは私のふしだらを笑うでしょうか。いいえ、きっと笑うのでしょうね。 なにしろ食べ物を食べている最中にも襲い掛かった忘我に囚われて箸をとり落とすのみならず、咀嚼しかけていた口中のものをだらしなく口の端から垂れ流すときにも、交差点のど真ん中で通行人の流れを妨げてまで立ち止まりクラクションをかき鳴らされてさえ揺るがぬ忘我の最中にも、考えているのはただ一人の男のことだというのですから。もしかしたらどれほどのロマンスがあるのかと微笑ましい妄想をなさる方もいるでしょうか。寝ても覚めてもただ一人の男を想うなんて、恋に身を焦がす小娘にはありがちなことだと。いいえ、そうではありません。ただの恋煩いであるならば、これほどに自分の正気を疑うこともなかったでしょうに。忘我の瞬間に私をとらえているもの、それは愛しい男の形をしてはいてもすでに『彼』ではない忌むべき呪いの具現化したものだと、私は自覚しているのです。 なぜにそんな呪いを呼び込んだのか――話は三年前にさかのぼります。そのころ、私は『彼』を海で喪ったばかりでした。『彼』は海洋の生物を専門とする学者で、その時は特定の海域にのみ生息する特殊な生物を調査するのだと張り切って出かけてゆきました。特に入り組んだ岩礁があるわけでも、深海まで潜るわけでもなく、ごく浅い海底を探査するだけだから心配はないと言い残して。ところが『彼』の乗った探査船は海の底で何があったのか、二度と浮かんでは来
Last Updated : 2026-08-21 Read more