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第七話

last update publish date: 2026-08-21 10:20:32

私の意識は、何もない空間にありました。

どのぐらい何もないかというと、上下や左右といった概念すら存在しない、ただの空間でありました。

『彼』はその空間の真ん中に居ました。

人理の及ばぬ太古の昔からある尊大にして無慈悲な海の化身としてのあるべき姿、無数の触手をおぞましく蠢かす陽光すらも届かぬ海底にある林、無謬であり曖昧である観念体の具現として与えられた海洋生物としての姿で。

辺りには死んだ魚の漂う死の海に似た生臭い匂いが漂っていました。

不意に、『彼』はその体を揺すって、さざ波が押し寄せるような絶え間ない声をあげました。

「ああ、あなたの言葉が、わかる」

それは私の名を呼ぶ声でした。

私は無数のささやき声を重ね合わせて切り貼りしたような音の中に、懐かしい声を聴きました。

「ええ、私も、今でもあなたを愛している」

両手を広げて『彼』を抱きしめれば、喪った恋人と同じぬくもりを感じました。

当たり前です、いまや私の恋人は『彼』の一部であり、『彼』そのものなのですから。

私は脚を開いて彼を受け入れ、何度も何度もその名を呼びました。

人の声では決して呼べぬその名を、何度も何度も呼んで、そして
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  • 還   第七話

    私の意識は、何もない空間にありました。どのぐらい何もないかというと、上下や左右といった概念すら存在しない、ただの空間でありました。『彼』はその空間の真ん中に居ました。人理の及ばぬ太古の昔からある尊大にして無慈悲な海の化身としてのあるべき姿、無数の触手をおぞましく蠢かす陽光すらも届かぬ海底にある林、無謬であり曖昧である観念体の具現として与えられた海洋生物としての姿で。辺りには死んだ魚の漂う死の海に似た生臭い匂いが漂っていました。不意に、『彼』はその体を揺すって、さざ波が押し寄せるような絶え間ない声をあげました。「ああ、あなたの言葉が、わかる」それは私の名を呼ぶ声でした。私は無数のささやき声を重ね合わせて切り貼りしたような音の中に、懐かしい声を聴きました。「ええ、私も、今でもあなたを愛している」 両手を広げて『彼』を抱きしめれば、喪った恋人と同じぬくもりを感じました。当たり前です、いまや私の恋人は『彼』の一部であり、『彼』そのものなのですから。私は脚を開いて彼を受け入れ、何度も何度もその名を呼びました。人の声では決して呼べぬその名を、何度も何度も呼んで、そして快楽の果てへと……。もちろん、こうした忘我の最中のことを誰かにお話するのは、これが初めてです。あのあと、私の精神状態を心配した両親が半ば強制的に私を病院へと連れて行ったのですが、『彼』との尊い愛の交わりをただの淫らな夢想だと思われることを恐れた私は、その事実の大半を医者にさえ伝えませんでした。そこで私は、恋人を亡くしたことによる心神耗弱だと診断されたのです。私はこの診断を受け入れました。そのころにはまだ、この忘我の状態が自分の変質によるものだとは気づいていませんでしたし、亡くした恋人との快楽に浸るための単なる夢想なのだと、自分でもそう思い込んでいましたから。そうではないと思い知らされたのは、幾度目の忘我の時でしょうか……『彼』と私しかいないはずの夢想の中に、あの車いすの少女がいたのです。彼女は相変わらず青いタオルケットで下半身を覆っていましたが、上下の存在しないこの空間では困ることもなく、ただふわふわと漂っていました。少女は私を見下ろして、「ふふ」と小さく笑っていました。「どうして私がここにいるのって、そんな顔してるわね」「ええ、まさに、いまそれを聞こうと思ったのよ」

  • 還   第六話

    翌朝、私は普通に目を覚ましました。あまりにも普通に。寝ていたのは客室として用意された離れでしたが、ドアにはしっかりと内カギがかけられており、かわいらしいマスコットのついた小さなカギは枕もとに置いてあったのだから、寝る前に私が自分で施錠したと考えるのが自然でした。荷物もきちんと部屋の隅にまとめてあって、脱いだ服のたたみ方はいつもの私の手癖だったのですから、どう考えても私が自分で寝支度をして、自分でカギをかけ、自分で布団に入ったのだとしか思えなかったのです。ですから私は、少女に会ったことも、恐ろしい幻夢を見たことも、すべてが夢だったのだと勝手に納得してしまったのです。そう、仮にあれが夢ではなかったのだとしても、単なる白昼夢を見せられた……いえ、あんな稚い少女にそんな力があるとは思わず、恋人の事故現場に近づくことでナーバスになった精神が何らかの作用を起こしたのだろうと、勝手に自己解決してしまったのです。私が朝食を貰いに母屋へ行くと、少女は車いすから降りてテレビの前に座っていました。ついていたのは女の子向けのアニメ番組で、それをとても楽しそうに眺めている姿は、どこにでもいるようなありきたりの少女の姿でした。不自由な足元は、相変わらず青いタオルケットにくるまれて見えませんでしたが、だからこそ余計に、どこにでもいるような少女に見えたのです。私は普通にその少女の隣を通り過ぎて朝食をいただき、その宿を出ました。恋人の鎮魂の船旅については、特に珍しい出来事など何もありません。海は島に吹き付けている強風が嘘であるかのように凪いで風一つなく、私は目的とする海域で手向けの花束を波間に投げた――陳腐な弔いの作法を行っただけです。私の心はすっかり変質してしまっていて、まるで作業でもするように心すら動かさず一連の動作を終えたことを覚えています。遺骨すら納めていない墓前に手を合わせる時と同じ、一般的に弔いだといわれる形式を真似ただけの虚しい行為でした。その時にはもう、『彼』が探査船の残骸の中などにはいないだろうということを、私は悟っていました。なぜならば『彼』は海そのものであり、『彼』こそが海であるのですから。私は無意味な弔いを済ませて島を後にし、自分の住む街へと戻ってきました。そしてすぐに、初めての忘我に襲われました。その時、私は友人たちと食事している最中で

  • 還   第五話

    さすがに不快が表情に出てしまっていたのでしょうか、少女は私の顔をじっと見上げて、それからさもさもバカにしたように鼻を鳴らしました。「は、何をこの程度で驚いてるのよ、今から海の神秘を知ろうって云うのに」「海の神秘? あの……『彼』の話をしてくれるんじゃ?」「そうよ、だから海の神秘なんじゃないの」訳が分からずに立ち尽くしていると、少女はとんでもないことを言いだしました。「あなたの彼は海になった」「え?」「聞こえなかったの? あなたの彼は海になったの。だから死んだわけじゃないわ、元気だしなさいって」少女の口調は昨夜の晩御飯の話でもするかのように冷静で、これがわずかに私の胸を焦がしました。「死んでも、海になっても同じことよ、だって、もう二度と彼には会えないんだもの!」「うるさい。大人なのに、もっと静かに話せないの?」自分よりもはるかに目線の低い子供にたしなめられて、私は顔を赤らめました。「あ、ごめんなさい」「わかればいいのよ、わかれば」この少女は、どうしてこうも意地悪なのでしょう。まるで私を煽るみたいに、わざと挑発的な声音で話すのです。「さあ、聞きたいのは、なんだったっけ?」ああ、こうした一つ一つ腹の立つやり取りが、すでに契約の一部だったのです。私は知らず煽られて、少し語気を荒げていました。「『彼』の話よ! さっきはわかってるって言ったじゃない!」「ふうん、聞きたいのは『彼』の話なのね」魚の笑う顔というのを見たことがありますか? 水族館のガラスの向こうにいる顔筋を持たぬ魚が、ふいに唇の両端をあげて鼻先を沈め、にやりと笑ったら……その少女の表情は、ちょうどそんな具合でした。彼女の口はパクパクと動いて、何か言葉を吐き出しているようでしたが、声が……声がひとつも聞こえません。どうしたことかと耳を澄ますと、耳元で潮騒の音が聞こえました。(潮騒……?)まるで海の水に足を浸しているみたいに近く、大きく、ざわざわと鳴る潮騒はとても耳障りで、私は思わず耳を塞ごうと両手をあげました。ところが、女将が大声を張り上げてそれを制したのです。「ダメ! ちゃんと聞いて!」少女も、私を見上げて囁きます。「そうよ、ちゃんと聞かなきゃダメよ。大事な話を聞かせてあげてるんだから」そのとたん、あれほどうるさく鳴っていた潮騒が止みました。それで私は

  • 還   第四話

    そこにいたのは小学校の低学年くらいだろうかという背格好の、女将によく似た魚顔をした少女でした。もっとも、この少女の鼻梁は母親である女将よりも細く小高く張り出していて、顔全体が縦に薄く、さらに本物の魚を思わせる造りではありましたが。 この少女は車いすに座っていました。だから私は勝手に、彼女は足が悪いのだと勘違いをしてしまったのです。彼女の下半身は海に似た青い色のバスタオルですっぽりと覆われており、足元がどうなっているのかは見た目だけではわからないようになっていました。もちろん、これをじろじろとつぶさに見たわけではありません。障害のある子供に見世物を見るようなまなざしを向けるのは不躾で行儀の悪いことだと思ったので、ちらりと一瞥して彼女の全体像を眺めただけです。むしろ母親である女将の気持ちを傷つけるような失礼はなかっただろうかと、私はそちらばかりが気になりました。だからそっと横目で女将の表情をうかがったのです。女将は、ぎょろついた魚眼をキラキラさせてわずかに興奮している様子でした。もちろん表情には変化などありませんが、わずかに頬が紅潮していました。「どうです、素晴らしいでしょう?」私は女将の言葉の意味を拾いそこなって、「はあ」とあいまいな返事を反しました。だけど女将がすっと片手をあげて青いタオルケットを指すから、彼女がたたえていたのは自分の娘のことであったのだと気づきました。「素晴らしいでしょう、祝福された子なんです」女将はそのまま、振り向いて私の顔を真っすぐに見つめました。「あの体、惰魂様とそっくりでしょう?」その時の私は『惰魂様』というものを知りませんでしたから、やはり適当に相槌を返すしかありません。そのとたん、女将の目玉がギョロっと――本物の魚のように眼窩の中をぐるりと回ったのです。「あれ、お客さん、惰魂様をご存じなんですか?」知らないとは言いにくい雰囲気になってしまいました。私はうつむいて小さな声でごまかしを言いました。「名前だけは」女将はこれを素直に信じたようで、何度も大きく頷いていました。「そうでしょうとも、偉大なる惰魂様が知られていないなんて、そんなことがあるわけないですもの」女将のものいいから、私は『惰魂様』というのはおそらくこのあたりの信仰を集める『何か』であると考えました。神社みたいなところに祀ら

  • 還   第三話

    そこは、外観から感じたとおりの普通の民家でした。玄関の間口も狭く、入ってすぐの三和土は靴が五足も並べばいっぱいになってしまうほどでした。上がり框も私が腰かけてしまえばふさがってしまうほどの狭さで、そんな玄関の大部分は下駄箱に占められているようなありさまでした。靴を脱ぎ、上りが街に踏み上った瞬間、ぷんと強く香る魚油の匂いが鼻の奥に流れ込んできました。新鮮な魚の心地よい生臭さではなく、古い魚のはらわたを放り出したような腐れかけた匂いです。「う」息が詰まりましたが、鼻を押さえるのはあまりにも失礼でしょうか。何しろこの匂いを女将は一つも気にしていないのですから、私にとってどれほど不快なにおいではあっても、この家の生活臭というものなのでしょうから。ふいに、女将が振り向きました。「お泊りいただくのはハナレなので、ご心配なく」自分の不快感が表情に出ていたのかと焦りましたが、どうやら女将が気遣ったのは別のことのようでした。「びっくりしたでしょう、狭い家で。だけどハナレは娘が生活するために建てたものだから、新しいし、バリアフリーですし、ちょっとした台所もつけてあるので、なんの気兼ねもなくくつろいでくださいね」ここで私は、彼女が言っているのは『離れ』だということに気づきました。なるほど土地のある田舎のことですから、庭先のあまった場所に小屋が建ててあるということなのでしょう。普段は娘に使わせているこれを私の客室として使うということで、これはとてもありがたいことですけれど、私は少し気後れして女将さんに聞きました。「あの、いいんですか? 娘さんのお部屋なのでしょう?」女将は少し不機嫌そうな声を出して答えました。もっとも、表情は眉毛ひとつ揺れぬほどに無表情だったのですけれど。「確かに普段は娘の部屋に使っとりますが、掃除はきちんとしてあるし、民宿ってそういうもんですよ?」「ああ、そうじゃないんです。私が部屋を使ってしまったら、娘さんは困るんじゃないかと、そういうことなんです」女将の声が幾分和らぎました。「ああ、そういう……そりゃあ、あの子も民宿屋の娘なんで、心得てるから大丈夫ですよ」この時まで、私は娘というのが大人なのだと勘違いしていました。だって離れを建ててもらって一人で生活しているのですから、きっと年齢的には親の手から離れるような年なのだろうと

  • 還   第二話

    風が強いこともあって、海の表面には無数の波が立っていました。それはまるでのこぎりの歯を立てたように鋭く、空から降り注ぐ晴天の日差しを細かく砕いて本物の金物のようにきらきらと輝いていました。空にはカモメの一羽二羽が飛んでいたような気もするのですが、それはもはや定かな記憶ではありません。ただ、沖合に小さく船が見えたことを良く覚えています。船は本当に遠く、まるでおもちゃのように小さく見えていました。それが遠目に見てもわかるくらいゆらゆらと波に弄ばれているのが悲しくて、私はあわてて目をそらしました。そう、悲しかったのです。不吉に揺れる船の様子に彼の死を重ねてみてしまって、私はたまらなく悲しくなってしまったのでした。彼の探査船をつないだ船も、あのように大波に揺られて頼りなく海上に浮かんでいたのでしょうか。探査船をつなぐワイヤーの重みに踏ん張りながら、それでも押し寄せる波に揺られながら……。手の甲に温かい雫がポツンと落ち、私はここで初めて、自分が両頬から伝い落ちるほどの涙を流していることに気づきました。運転手さんがバックミラーを覗き込んで声をかけてくれました。「お客さん、その……大丈夫ですか?」私は片手をあげて大丈夫だと伝えたのですが、彼はそれしきのことでは納得しなかったみたいです。「良かったら車止めるんで、少し海風にでもあたってきますか? いや、もちろん、サービスなんでメーターは倒しておきますよ?」私はようやくの思いで彼に言葉を返したのです。「いいから、止まらないで。早く海の見えないところに行って」「そりゃあ無理でしょう、この島のどこにいたって海は見えるんだし」「それでもいいから、止まらないで。ここにいたくない」「そうですか?」運転手さんが操作してくれたのでしょうか、私の顔の横で窓がほんの少し下がって、海の匂いのする風が一気に流れ込んできました。「もしもの時はこれ。これを使ってください」運転席から差し出されたのは買い物の時に渡される白いプラスチックの袋。なるほど、運転手さんは私が車に酔ったのだと思っていたらしいのです。「桝内まではあと五分くらいもあればつきますけどね、どうしてもダメそうなら遠慮なく言ってくださいね。車、止めますんで」どうやらこのまま勘違いさせておけば、よけいな詮索などされなくて済むのだと私は気づきました。だ

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