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彼が去ったあと、私は振り返らない のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

助産師が赤ちゃんのへその緒を切った。私は痛みをこらえながら、生まれたばかりの、まだ見慣れない小さな顔を見つめた。そこにいるはずの郁真の姿はなかった。胸の中は、ただ空っぽだった。郁真とは6年付き合い、そのうち3年を夫婦として過ごした。それでも、郁真が知り合ってまだ半年の女の子にはかなわなかった。分娩室を出ると、待っていた母が心配そうに駆け寄ってきた。「澄花、大丈夫?気分は悪くない?」私の様子をひと通り確かめると、今度は腹立たしそうに眉を寄せた。「それにしても郁真くん、普段はしっかりしてるのに、どうしたのよ。澄花が出産してる最中に、電話一本かかってきただけで出ていくなんて。どんなに大事な用があったって、妻が子どもを産むときくらい、そばにいられないの?」私はかすかに口元をゆるめた。「お母さん。郁真、ほかの女に気持ちが移ってるの。離婚する」母の顔から怒りが消えた。しばらく言葉もなく私を見つめたあと、目に涙を浮かべながら、額の汗をそっと拭ってくれた。「澄花がそうしたいなら、お母さんは味方だから」その一言で、張り詰めていたものが一気にほどけた。もう平気なふりはできなかった。母の胸に顔を埋め、私は思いきり泣いた。18歳のころの郁真は、私のためなら、相手が何人いても迷わず前に出るような人だった。力尽きそうになっても、最後には私を抱き寄せて安心させてくれた。私のためなら何だってする。あのころは、本気でそう思っていた。そんな人が、今はほかの女を見ている。郁真の気持ちが離れたと気づいたときに、離婚するべきだった。それでも踏み切れなかった。お腹にはもう、この子がいたから。妊娠3か月を過ぎたころには、エコーでも小さな顔の輪郭がわかるようになっていた。だからある夜、洗面所から出てきた郁真に、私ははっきりと話を切り出した。その晩、郁真は書斎にこもった。私も眠れず、何度もベランダに出て夜風に当たった。最後に、郁真は私を選んだ。私の目の前で大学に指導教員の変更を申し出て、乃々香を同僚の教員に引き継いだ。あの夜、別々の部屋で眠ったことさえ、今では夢だったように思える。けれど、あの夜から、私たちの関係が少しずつ変わったことだけはわかっていた。いつか終わるのかもしれな
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第2話

感情が高ぶったせいで、出産で裂けた傷がずきりと痛んだ。思わずシーツを握りしめる。額には冷たい汗がにじんでいた。郁真は乾いた唇を舐め、言いにくそうに口を開いた。「今回は、ちゃんと理由があったんだ。乃々香の家はかなり古い考え方で、弟ばかり大事にされて、あの子はずっと我慢させられてきたらしい。今度は大学まで辞めさせて、地元の50代の男性との縁談を押しつけられてる。相手は奥さんを亡くした人らしい。澄花は昔から放っておけない性格だろ。これからっていう子が、そんな目に遭うのを黙って見ていられないはずだ」そうやって郁真は、私の優しさを理由に逃げ道を塞いでくる。ここで嫌だと言えば、冷たい人間なのは私のほうになるのだろう。けれど私は、昨日ようやく出産を終えたばかりだった。お産は長引き、途中で赤ちゃんの心拍も落ちた。あと少し遅れていたら、低酸素の影響で後遺症が残っていたかもしれないと医師から聞かされている。それなのに、郁真は私の体を気遣う言葉ひとつ口にしない。ただ、自分を許してほしいと繰り返すばかりだった。口から出るのは、自分にはどうしようもなかったという言い訳と、乃々香を気の毒がる言葉ばかり。ぼんやりとその顔を見つめながら、ふと、知らない人を見ているような気がした。郁真が私の前でひざまずいたのは、これまでに3回ある。最初は、私が重い腎不全だと診断されたときだった。治療は長くかかり、医師からは腎移植も選択肢の一つだと告げられた。当時、文学部の准教授になったばかりだった郁真は、私が仕事を休んでいる間の生活費や、治療に伴う出費を補うため、空いた時間があれば講演の仕事を引き受けていた。「大学の先生が、ずいぶん金儲けに熱心だな」そんな陰口を叩く人もいたが、郁真は気にも留めなかった。「一番大事な人も守れないのに、周りからどう見られるかなんて、どうでもいい」病状が悪化し、治療を続ける気力まで失いかけた夜には、私の前にひざまずいた。「頼むから諦めないでくれ。僕と一緒に、もう少しだけ頑張ってくれ」その夜、郁真は何度も同じ言葉を繰り返した。あのころの私は、こんな人と結婚できて幸せだと心から思っていた。けれど、郁真の言う「一番大事な人」でいられたのは、結局たった3年だった。残りの2回は、どちらも乃々
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第3話

郁真は私と母に目を向けると、露骨に眉をひそめた。「お義母さん、もう少し冷静に話を聞いてください。澄花の言うことを何でもそのまま信じないでください。出産したばかりで、今は気持ちも不安定になりやすいんです。昔、お義父さんと離婚したのだって、ちゃんと話を聞かずに疑ったからじゃないんですか」母の肩が怒りで震えた。私も、ただ失望して郁真を見つめた。昔、父には母以外の女性との間に、私より年上の子どもがいたと話したとき、郁真は私を抱きしめて、絶対に浮気なんてしないと何度も誓ってくれた。確かに、郁真がほかの女と体の関係を持ったわけではないのかもしれない。でも、心がほかの女に向いているなら、それは裏切りじゃないの?乃々香は郁真の後ろに隠れ、小さくすすり泣いた。「先生、もう行きましょう。話の通じない人って、本当に怖いです。うちの親を見てるみたい……」それを聞いた郁真は、私に「少し頭を冷やせ」とだけ言い残した。私は乃々香のわざとらしい態度を相手にせず、近くにいた看護師に声をかけた。母の額の傷を診てもらわなければならない。もう、あの二人に時間を使う気はなかった。病室に戻ると、途中まで書いていた離婚協議書を開いた。そのとき、スマホが震えた。郁真からだった。【入院費は僕が払っておく。必要なものも我慢せず買って】15分ほどすると、花屋の配達員が大きなバラの花束を届けに来た。点滴を替えてくれていた看護師が、うらやましそうに笑う。「槙野さん、ご主人、ロマンチックですね」私は苦笑した。「そうですかね……」でも、私はバラにアレルギーがあった。初めてのデートで郁真がくれたのも、バラだった。せっかく選んでくれたのに悪い気がして、そのときは無理をして「好き」と答えた。それ以来、郁真が花を贈るときは、決まってバラだった。香りで鼻がむずむずし、腕に細かな赤い発疹が出ていても、郁真は一度も気づかなかった。何気なくインスタを開くと、乃々香の最新投稿が目に入った。食事中の写真だった。向かいにいる男の顔は写っていない。けれど、ステーキを切る手だけは、はっきり写り込んでいた。いつもなら結婚指輪があるはずの左手の薬指には、指輪の跡だけがうっすら残っていた。私はインスタを閉じた。そして、3
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第4話

子どもは生まれた。けれど、あの日話していたような未来を、郁真と迎えることはもうない。玄関の鍵が開く音がした。乃々香が郁真の腕に絡みつくようにして入ってくる。楽しそうだった二人の笑顔が、私を見た途端ぴたりと消えた。「なんで帰ってきたんだ?」私はキャリーケースの持ち手を握ったまま、郁真を見る。「自分の家に帰ってきちゃいけないの?」郁真の顔がさっと険しくなった。「帰ってくるなら連絡くらいしろよ。いきなり帰ってきて、なんでそんな嫌味な言い方するんだ?」その視線が、私のキャリーケースに落ちた。「子どもは?連れてこなかったのか?このままずっと実家にいるつもり?」「離婚協議書、もう見たでしょ。先に私を裏切ったのはそっちなんだから、親権は私が持つ。このマンションも私に譲ってもらう」郁真は何も言わなかった。郁真が反応するより先に、隣にいた乃々香の顔色が変わった。「奥さん、そんなのひどいです。私と先生は、本当に何もありません。それより奥さん、この前……」そこまで言って、乃々香は慌てたように口元を押さえた。「ごめんなさい。言うつもりじゃなかったんです。ただ……」言いよどむ乃々香を見て、郁真の表情が冷えた。「何を見たんだ?」乃々香はためらいながら、そっと口を開いた。「この前、バーで奥さんを見かけたんです。何人かの男の人と一緒にいて、罰ゲームでキスしてるように見えて……でも、私の見間違いかもしれません」スマホを取り出し、写真を郁真に見せる。画面を見終えた郁真の目が、冷たく私に向けられた。「だから、そこまで離婚したがってたのか?気持ちが変わったのは澄花のほうじゃないか」信じられなくて、思わず顔を上げた。「本気で安積さんの話を信じるの?私、出産したばかりなのよ。この1か月ずっと実家で体を休めてたのに、バーなんか行けるわけないでしょ!」郁真が言葉に詰まった。乃々香は小さく鼻をすすった。「先生、私の見間違いってことにしてください。奥さんと喧嘩しないで……」そのとき、スマホから通知音が鳴った。画面を見た乃々香が息を呑み、悲鳴を上げて郁真の胸に飛び込む。「し、知らない人からDMが……『最低な女』『不倫女』って……」涙をこぼしながら、私を見た。「奥さん、先生と
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第5話

私は冷たい目で郁真を見つめ、床に散らばった資料を拾うのを待った。ところが、先に動いたのは乃々香だった。顔色を変え、慌てて資料へ手を伸ばす。「触るな!」郁真が鋭く制し、資料を拾い上げた。1枚ずつ目を通していくうちに、怒りに満ちていた顔から少しずつ血の気が引いていく。最後には、信じられないものを見たように青ざめていた。「これ……澄花が作ったんじゃないのか?今なら写真だって、いくらでも加工できるだろ」声がかすかに震えている。私は何も言わず、薄く笑って郁真を見返した。その視線を受けた途端、郁真は口をつぐんだ。さっき、乃々香が「知らない人から不倫女ってDMが来た」と言っただけで、何の証拠もないまま私を犯人扱いした。そのときは、どうして「嘘かもしれない」と思わなかったのだろう。真っ青だった乃々香の顔に、郁真の言葉を聞いて少しずつ色が戻る。「先生、奥さんは前から私のことが嫌いなんです。こんなの全部嘘です。お願いですから、騙されないでください!」乃々香は郁真の腕にしがみつき、弱々しい声で訴えた。その姿を見て、思わず鼻で笑う。「私は証拠を出した。安積さんは?郁真が純粋でかわいそうな学生だと思ってた相手は、最初から全部計算して近づいてきたの。家にお金を入れることばかり求められてるって話だったよね。それなのに、一人暮らしをしながら、あれだけ高い服やバッグを次々買えるの、おかしいと思わなかった?それに、本当に家族から大学を辞めて地元の男と結婚しろって追い詰められてたなら、こんなふうに何度も郁真を頼れる余裕があると思う?」郁真の表情がわずかに揺れた。資料には、乃々香の過去が一通りまとめられていた。高校生のころから、彼女は既婚の男ばかりを狙って近づいていた。家では弟ばかり大事にされ、自分は金を入れることしか求められていない。そのうえ、家族から年上の男との結婚まで迫られている。いつも同じような話で相手の同情を引き、大学を続けるには家に金を入れなければならないと言って、何度も金を受け取っていた。まとまった額を受け取ると、その土地を離れて次の相手を探す。郁真は、4人目だった。郁真は馬鹿ではない。証拠を一枚ずつ読むうちに、これまでのことを思い返しているのか、郁真の表情がみるみる強張っ
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第6話

エレベーターの扉がゆっくり閉まっていく。その向こうに郁真の姿が消えた。もう、私たちが元に戻ることはない。そんな気がした。実家に戻ると、母は娘をあやしていた。家では、娘のことを「なの」と呼んでいる。私を見るなり、すぐにキャリーケースを受け取ってくれる。「ちゃんと話してきた?」私は小さくうなずき、娘の柔らかな頬をそっとつまんだ。「お母さん。これから、なののこともいろいろお願いすることになると思う」「何言ってるの。家族なんだから、そんなの気にしなくていいのよ」母はわざと怒ったような顔をすると、キッチンへ向かった。しばらくして、母は温め直した根菜たっぷりの豚汁をよそって戻ってきた。「それより澄花、出産してからずいぶん痩せたじゃない。ちゃんと食べて、少しずつ体力を戻さないと」思わず目頭が熱くなった。泣くのをこらえ、「うん」とだけ答えた。……そのころ、マンションでは郁真と乃々香が激しく言い争っていた。郁真は嫌悪をあらわにして、乃々香の手を振り払った。勢いで乃々香はよろめき、そのまま玄関のドアにぶつかる。大きな音を聞きつけ、隣の住人が慌てて顔を出した。郁真が妻に手を上げたと勘違いしたらしく、すぐに乃々香へ駆け寄る。「槙野さん、夫婦げんかでも、手を出すのはだめですよ」そう言いながら乃々香を起こし、その顔を見たところで、隣人の言葉が途切れた。澄花ではないと気づいたのだ。「あ……じゃあ、私、ちょっと家の用事があるので」気まずそうに手を離し、そのまま自宅へ戻っていった。ドアを閉める直前まで、何度も二人を振り返っていた。なんとも言えない視線に、郁真も気づいていた。何も言わず部屋へ戻る郁真の背中には、ばつの悪さがにじんでいた。乃々香は目元の涙を拭い、そのあとを追った。「私にだって事情があったの。実家は小さな農家で、年によって収入も安定しないし、親ももう若くない。私が家にお金を入れなかったら、大学になんて行かせないってずっと言われてたの。先生も一度、私の地元に来たことあるでしょ?仕事の選択肢だって多くないの」乃々香が郁真を好きだったのは、本当だった。若くて見た目もよく、普段は穏やかで優しい。このまま何も起きなければ、本気で郁真と一緒になるつもりでいた。郁真
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第7話

「知らないわけないでしょう。あの子のせいで、妻は子どもを連れて出ていきましたから」電話の向こうで、男は乾いた声で笑った。「当時は『家族から年上の男との縁談を押しつけられている』って言われて、何度も金を渡しました。全部合わせると、6000万円近くになります。それが妻にばれて、家の中はめちゃくちゃになりました。結局、離婚です……もしかして、あなたも騙されたんですか?」話を聞くほどに、郁真の顔から血の気が引いていった。電話を切ると、続けて2人目、3人目にも連絡した。返ってきた話は、どれもほとんど同じだった。同じように家庭の事情を持ち出し、同情を引き、金を受け取る。そして最後には、夫婦関係まで壊れていた。郁真は、かつてかわいそうだと思い、守ってやりたいとまで思った乃々香を見た。吐き気がするほどの嫌悪がこみ上げた。こんな嘘ばかりの女のために、妻が大変な出産をしている最中に病院を離れた。それだけではない。自分の手で、澄花をさらに傷つけた。「出ていけ」郁真は歯を食いしばるように吐き捨てた。泣いて縋る乃々香を、そのまま家から追い出した。その足で車に乗り込んだ。途中でベビー用品をいくつも買い込み、バラの花束も用意して、澄花の実家へ向かった。紙袋を玄関先に置き、インターホンを押す。ドアを開けたのは母だった。郁真の顔を見た瞬間、母の表情が冷えた。そのままドアを閉めようとする。「何しに来たの?帰って。ここに来てもらっても困るから」「お義母さん!」郁真は慌てて手を伸ばし、閉まりかけたドアを押さえた。「僕が悪かったです。本当に反省してます。澄花となのを迎えに来ました。もう二度と、二人を傷つけるようなことはしません。だから、もう一度だけ……」「迎えに来た?」母は冷たく笑った。「あそこがまだ澄花の帰る家だと思ってるの?あの子が留守にしてる間に、ほかの女を住まわせておいて。今さら戻ってこいなんて、よく言えるわね。澄花に、あの女の世話でもさせるつもり?」……玄関のやり取りは部屋の中まで聞こえていた。私は様子を見に部屋を出た。玄関に立っている郁真を見て、思わず足を止める。「……どうしてここに?」その一言を聞いた途端、郁真の目が赤くなった。「澄花、僕が悪か
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第8話

「本当に、実家は生活に余裕がなくて、家では弟ばかり優先されてるんだと思ってた。だから、かわいそうで放っておけなかったんだ」郁真が私の前にひざまずくのは、これで4回目だった。けれど今回は、もう何も感じなかった。残っているのは、ただ疲れだけだった。私はつかまれていた手を、そっと引き抜いた。「郁真。世の中には、安積さんより大変な思いをしてる人なんていくらでもいるよ。仮に安積さんの話が全部本当だったとしても、奨学金を申請することもできたし、アルバイトすることだってできた。郁真はあの子の先生でしかないでしょ。それなのに、してきたことはとっくに先生の立場を越えてるよ」ひざまずいたままの郁真を見下ろした。「もう立って。そんな簡単にひざをつかないでよ」そのまま部屋へ戻り、ドアを閉めた。向こうから聞こえてくる泣き声も、何度も繰り返される謝罪も、全部そこで遮った。それから郁真は、毎日のように実家へ通ってきた。朝から家の前で待ち、日が暮れるまで帰ろうとしない。来るたびに、パンや果物などを差し入れてきた。私はほとんど手をつけず、そのまま母に回した。花も近所の人に譲った。ブランド品や金のアクセサリーまで持ってくるようになったが、それは遠慮せず受け取った。だからといって、郁真に返事をする気はなかった。私が少しも態度を変えないとわかると、今度はあの手この手でよりを戻そうとしてきた。プレゼントを贈り、長い手紙を書き、しまいには共通の友人にまで頼んで説得してもらおうとした。……一方、郁真は乃々香の件もそのままにはしなかった。乃々香は、大学院入試の筆記成績が特別よかったわけではない。入試の数か月前から、郁真と顔を合わせる機会を意図的に作っていた。家族に恵まれない地方出身の学生を演じたり、郁真の前で地域猫の世話をしてみせたりした。偶然を装った出会いを重ねるうちに、郁真は少しずつ乃々香に好印象を持つようになった。面接担当の一人だった郁真は、乃々香にやや高めの評価をつけていた。入学後、乃々香は郁真の指導学生になった。二人の距離が縮まっていったのは、それからだ。好きな小説や作家の話を重ねるうちに、郁真は乃々香のことを、自分と感性の合う特別な学生だと思い始めた。けれど、その好みさえ、乃々香
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第9話

郁真のSNSアカウントは通報が相次ぎ、ついには凍結された。以前、彼を「若手の人気准教授」と持ち上げていた記事まで次々と掘り返され、今度は「裏では女子学生と親密になっていた偽善者だ」と叩く材料にされた。騒ぎが収まる気配はなく、郁真はとうとうメディアの取材を受けることになった。乃々香と体の関係はなかったものの、妻以外の女性に心が傾いていたことは否定しなかった。そのうえで、乃々香がこれまで繰り返してきたことや、大学へ報告した経緯も明らかにした。「私は、ずっとまっとうに生きてきたつもりでした。でも結局、ほかの女性から向けられる好意に甘えて、自分を見失ったんだと思います。ただ学生を気にかけていただけだと、自分に都合よく思い込んでいました。でも実際には、妻がいながら、別の女性にも心を向けていた。妻には本当に申し訳ないことをしました。今の自分に、学生を教える資格があるとは思っていません」取材のあと、郁真は大学に辞職願を出した。一方、乃々香はそれまで「家族に苦しめられているかわいそうな学生」として配信を続け、かなりの数のフォロワーを集めていた。ところが過去の金銭トラブルが明るみに出ると、アカウントには通報が殺到し、ほどなく凍結された。SNSにも批判の声があふれた。【配信見てたときから、なんか演技っぽいとは思ってた。やっぱりか】【かわいそうだと思って結構投げ銭したのに。普通にショック】【人を騙してお金取ってたってマジ?さすがに無理】【懲戒退学は妥当でしょ。これは擁護できない】それだけでは済まなかった。とうとう住所まで特定され、見知らぬ人からの嫌がらせが続くようになった。深夜にインターホンを鳴らされたり、玄関先にゴミを置かれたりして、近所からも苦情が出始めた。管理会社にも苦情が相次ぎ、結局、乃々香はその部屋を引き払うことになった。……郁真は大学を辞めたあと、私たちが暮らしていたマンションを売った。売却代金は、そのまま全額私の口座に振り込まれた。「澄花、仕事も辞めた。家も売ったし、金も全部渡した。ネットじゃ今もずっと叩かれてる。これで少しは気が済んだ?」久しぶりに会った郁真には、以前のような余裕はもうなかった。伸びた無精ひげのせいか、以前よりずっと老けて見えた。「自分で招いたことで
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第10話

郁真は苦く笑った。「わかった。もう何も言わなくていい」ペンを手に取ったものの、その指は小さく震えていた。結婚したときも、同じだった。大勢の聴衆を前にした講演では、少しも言葉に詰まらない人なのに。結婚式の日だけは、私を見つめたまま声を震わせていた。「澄花。やっと結婚できたな」あのころ、愛していた気持ちに嘘はなかった。そして今、もう許せないと思っているのも本当だった。愛していたからこそ、最後まで誠実でいてほしかった。郁真はしばらくペン先を止めていたが、やがて離婚協議書に自分の名前を書いた。書類を私のほうへ戻す。声はかすれていた。「澄花。離婚しても、なのには会っていいか?」私は郁真を見つめ、うなずいた。「いいよ。ただし、なのと関係のない人に勝手に会わせたりはしないで」その瞬間、郁真はほっと息をついた。けれど、その顔には深い寂しさが残っていた。「わかった。ありがとう」それから1か月後。私たちは時間を合わせて市役所へ行き、離婚届を提出した。手続きを終えて外へ出ると、まぶしい日差しに思わず目を細めた。背後から郁真に呼び止められた。「これからは、自分のこともなののこともちゃんと大事にしてくれ」少し間を置いて、続けた。「何か困ったことがあったら、遠慮しないで連絡して」私はなのを抱いたまま、郁真に笑いかけた。離婚してから初めて見せた笑顔だった。そして、きっとこれが最後だ。「郁真もね」それだけ言って、なのを抱いたまま振り返らず歩き出した。……1年後。私は小さな花屋を開いた。店の名前は「なの花舎」娘の名前から取った。離婚後、家庭裁判所で許可を取り、役所で必要な手続きを済ませて、娘も私と同じ月岡姓になった。月岡菜乃(つきおか なの)。店先には、ひまわりをたくさん植えた。どの花も、まっすぐ太陽のほうを向いて咲いている。その明るさが、私は好きだった。菜乃も今では、よちよちと自分で歩けるようになった。顔立ちは私によく似ていて、とくに目元がそっくりだった。郁真は約束どおり、毎週菜乃に会いに来た。いつもおもちゃや小さなお菓子を持ってきた。一緒に遊び、絵本を読んだ。菜乃といるときの郁真は、もうすっかり父親の顔だった。私た
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