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第10話

Autor: 烏龍不茶
郁真は苦く笑った。

「わかった。もう何も言わなくていい」

ペンを手に取ったものの、その指は小さく震えていた。

結婚したときも、同じだった。

大勢の聴衆を前にした講演では、少しも言葉に詰まらない人なのに。

結婚式の日だけは、私を見つめたまま声を震わせていた。

「澄花。やっと結婚できたな」

あのころ、愛していた気持ちに嘘はなかった。

そして今、もう許せないと思っているのも本当だった。

愛していたからこそ、最後まで誠実でいてほしかった。

郁真はしばらくペン先を止めていたが、やがて離婚協議書に自分の名前を書いた。

書類を私のほうへ戻す。

声はかすれていた。

「澄花。離婚しても、なのには会っていいか?」

私は郁真を見つめ、うなずいた。

「いいよ。ただし、なのと関係のない人に勝手に会わせたりはしないで」

その瞬間、郁真はほっと息をついた。

けれど、その顔には深い寂しさが残っていた。

「わかった。ありがとう」

それから1か月後。

私たちは時間を合わせて市役所へ行き、離婚届を提出した。

手続きを終えて外へ出ると、まぶしい日差しに思わず目を細めた。

背後から郁
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  • 彼が去ったあと、私は振り返らない   第10話

    郁真は苦く笑った。「わかった。もう何も言わなくていい」ペンを手に取ったものの、その指は小さく震えていた。結婚したときも、同じだった。大勢の聴衆を前にした講演では、少しも言葉に詰まらない人なのに。結婚式の日だけは、私を見つめたまま声を震わせていた。「澄花。やっと結婚できたな」あのころ、愛していた気持ちに嘘はなかった。そして今、もう許せないと思っているのも本当だった。愛していたからこそ、最後まで誠実でいてほしかった。郁真はしばらくペン先を止めていたが、やがて離婚協議書に自分の名前を書いた。書類を私のほうへ戻す。声はかすれていた。「澄花。離婚しても、なのには会っていいか?」私は郁真を見つめ、うなずいた。「いいよ。ただし、なのと関係のない人に勝手に会わせたりはしないで」その瞬間、郁真はほっと息をついた。けれど、その顔には深い寂しさが残っていた。「わかった。ありがとう」それから1か月後。私たちは時間を合わせて市役所へ行き、離婚届を提出した。手続きを終えて外へ出ると、まぶしい日差しに思わず目を細めた。背後から郁真に呼び止められた。「これからは、自分のこともなののこともちゃんと大事にしてくれ」少し間を置いて、続けた。「何か困ったことがあったら、遠慮しないで連絡して」私はなのを抱いたまま、郁真に笑いかけた。離婚してから初めて見せた笑顔だった。そして、きっとこれが最後だ。「郁真もね」それだけ言って、なのを抱いたまま振り返らず歩き出した。……1年後。私は小さな花屋を開いた。店の名前は「なの花舎」娘の名前から取った。離婚後、家庭裁判所で許可を取り、役所で必要な手続きを済ませて、娘も私と同じ月岡姓になった。月岡菜乃(つきおか なの)。店先には、ひまわりをたくさん植えた。どの花も、まっすぐ太陽のほうを向いて咲いている。その明るさが、私は好きだった。菜乃も今では、よちよちと自分で歩けるようになった。顔立ちは私によく似ていて、とくに目元がそっくりだった。郁真は約束どおり、毎週菜乃に会いに来た。いつもおもちゃや小さなお菓子を持ってきた。一緒に遊び、絵本を読んだ。菜乃といるときの郁真は、もうすっかり父親の顔だった。私た

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    郁真のSNSアカウントは通報が相次ぎ、ついには凍結された。以前、彼を「若手の人気准教授」と持ち上げていた記事まで次々と掘り返され、今度は「裏では女子学生と親密になっていた偽善者だ」と叩く材料にされた。騒ぎが収まる気配はなく、郁真はとうとうメディアの取材を受けることになった。乃々香と体の関係はなかったものの、妻以外の女性に心が傾いていたことは否定しなかった。そのうえで、乃々香がこれまで繰り返してきたことや、大学へ報告した経緯も明らかにした。「私は、ずっとまっとうに生きてきたつもりでした。でも結局、ほかの女性から向けられる好意に甘えて、自分を見失ったんだと思います。ただ学生を気にかけていただけだと、自分に都合よく思い込んでいました。でも実際には、妻がいながら、別の女性にも心を向けていた。妻には本当に申し訳ないことをしました。今の自分に、学生を教える資格があるとは思っていません」取材のあと、郁真は大学に辞職願を出した。一方、乃々香はそれまで「家族に苦しめられているかわいそうな学生」として配信を続け、かなりの数のフォロワーを集めていた。ところが過去の金銭トラブルが明るみに出ると、アカウントには通報が殺到し、ほどなく凍結された。SNSにも批判の声があふれた。【配信見てたときから、なんか演技っぽいとは思ってた。やっぱりか】【かわいそうだと思って結構投げ銭したのに。普通にショック】【人を騙してお金取ってたってマジ?さすがに無理】【懲戒退学は妥当でしょ。これは擁護できない】それだけでは済まなかった。とうとう住所まで特定され、見知らぬ人からの嫌がらせが続くようになった。深夜にインターホンを鳴らされたり、玄関先にゴミを置かれたりして、近所からも苦情が出始めた。管理会社にも苦情が相次ぎ、結局、乃々香はその部屋を引き払うことになった。……郁真は大学を辞めたあと、私たちが暮らしていたマンションを売った。売却代金は、そのまま全額私の口座に振り込まれた。「澄花、仕事も辞めた。家も売ったし、金も全部渡した。ネットじゃ今もずっと叩かれてる。これで少しは気が済んだ?」久しぶりに会った郁真には、以前のような余裕はもうなかった。伸びた無精ひげのせいか、以前よりずっと老けて見えた。「自分で招いたことで

  • 彼が去ったあと、私は振り返らない   第8話

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  • 彼が去ったあと、私は振り返らない   第7話

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  • 彼が去ったあと、私は振り返らない   第5話

    私は冷たい目で郁真を見つめ、床に散らばった資料を拾うのを待った。ところが、先に動いたのは乃々香だった。顔色を変え、慌てて資料へ手を伸ばす。「触るな!」郁真が鋭く制し、資料を拾い上げた。1枚ずつ目を通していくうちに、怒りに満ちていた顔から少しずつ血の気が引いていく。最後には、信じられないものを見たように青ざめていた。「これ……澄花が作ったんじゃないのか?今なら写真だって、いくらでも加工できるだろ」声がかすかに震えている。私は何も言わず、薄く笑って郁真を見返した。その視線を受けた途端、郁真は口をつぐんだ。さっき、乃々香が「知らない人から不倫女ってDMが来た」と言っただけで、何の証拠もないまま私を犯人扱いした。そのときは、どうして「嘘かもしれない」と思わなかったのだろう。真っ青だった乃々香の顔に、郁真の言葉を聞いて少しずつ色が戻る。「先生、奥さんは前から私のことが嫌いなんです。こんなの全部嘘です。お願いですから、騙されないでください!」乃々香は郁真の腕にしがみつき、弱々しい声で訴えた。その姿を見て、思わず鼻で笑う。「私は証拠を出した。安積さんは?郁真が純粋でかわいそうな学生だと思ってた相手は、最初から全部計算して近づいてきたの。家にお金を入れることばかり求められてるって話だったよね。それなのに、一人暮らしをしながら、あれだけ高い服やバッグを次々買えるの、おかしいと思わなかった?それに、本当に家族から大学を辞めて地元の男と結婚しろって追い詰められてたなら、こんなふうに何度も郁真を頼れる余裕があると思う?」郁真の表情がわずかに揺れた。資料には、乃々香の過去が一通りまとめられていた。高校生のころから、彼女は既婚の男ばかりを狙って近づいていた。家では弟ばかり大事にされ、自分は金を入れることしか求められていない。そのうえ、家族から年上の男との結婚まで迫られている。いつも同じような話で相手の同情を引き、大学を続けるには家に金を入れなければならないと言って、何度も金を受け取っていた。まとまった額を受け取ると、その土地を離れて次の相手を探す。郁真は、4人目だった。郁真は馬鹿ではない。証拠を一枚ずつ読むうちに、これまでのことを思い返しているのか、郁真の表情がみるみる強張っ

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