INICIAR SESIÓN妊娠3か月のころ、私、槙野澄花(まきの すみか)は、夫の槙野郁真(まきの いくま)がLINEでいつも一番上に表示している相手が、教え子の安積乃々香(あづみ ののか)だと気づいた。 最近、郁真がやたらとかわいいスタンプを使うようになった理由も、それでわかった。 私は一人で悩み続けるつもりはなかった。 「この子を諦めて離婚するか、安積さんときっぱり距離を置くか。どっちか選んで」 郁真は何も言わず、その晩はずっと書斎にこもっていた。 翌朝、目を赤くして出てくると、私の前にひざまずいた。 「乃々香は何も知らない。気持ちが揺れたのは僕のほうだ。もう二度とこんなことはしない」 6年も一緒にいた相手だった。 これだけで全部を終わらせる覚悟は、どうしても持てなかった。 けれど、出産の日。 難産で苦しむ私のそばで、郁真のスマホが鳴った。 「先生、両親に無理やり結婚させられそうなの。お願い、助けて」 その声を聞いた瞬間、郁真は握っていた私の手を離した。 そして、そのまま分娩室を出ていこうとした。 「郁真。今ここを出ていったら、帰ってきても離婚するから」 痛みをこらえながら叫ぶと、郁真は一瞬だけ足を止めた。 それでも、振り返ることなく出ていった。 やがて赤ちゃんの泣き声が響いても、郁真は戻ってこなかった。 そのとき、ようやくわかった。 私たちの3年間の結婚生活は、もうとっくに終わっていたのだと。
Ver más郁真は苦く笑った。「わかった。もう何も言わなくていい」ペンを手に取ったものの、その指は小さく震えていた。結婚したときも、同じだった。大勢の聴衆を前にした講演では、少しも言葉に詰まらない人なのに。結婚式の日だけは、私を見つめたまま声を震わせていた。「澄花。やっと結婚できたな」あのころ、愛していた気持ちに嘘はなかった。そして今、もう許せないと思っているのも本当だった。愛していたからこそ、最後まで誠実でいてほしかった。郁真はしばらくペン先を止めていたが、やがて離婚協議書に自分の名前を書いた。書類を私のほうへ戻す。声はかすれていた。「澄花。離婚しても、なのには会っていいか?」私は郁真を見つめ、うなずいた。「いいよ。ただし、なのと関係のない人に勝手に会わせたりはしないで」その瞬間、郁真はほっと息をついた。けれど、その顔には深い寂しさが残っていた。「わかった。ありがとう」それから1か月後。私たちは時間を合わせて市役所へ行き、離婚届を提出した。手続きを終えて外へ出ると、まぶしい日差しに思わず目を細めた。背後から郁真に呼び止められた。「これからは、自分のこともなののこともちゃんと大事にしてくれ」少し間を置いて、続けた。「何か困ったことがあったら、遠慮しないで連絡して」私はなのを抱いたまま、郁真に笑いかけた。離婚してから初めて見せた笑顔だった。そして、きっとこれが最後だ。「郁真もね」それだけ言って、なのを抱いたまま振り返らず歩き出した。……1年後。私は小さな花屋を開いた。店の名前は「なの花舎」娘の名前から取った。離婚後、家庭裁判所で許可を取り、役所で必要な手続きを済ませて、娘も私と同じ月岡姓になった。月岡菜乃(つきおか なの)。店先には、ひまわりをたくさん植えた。どの花も、まっすぐ太陽のほうを向いて咲いている。その明るさが、私は好きだった。菜乃も今では、よちよちと自分で歩けるようになった。顔立ちは私によく似ていて、とくに目元がそっくりだった。郁真は約束どおり、毎週菜乃に会いに来た。いつもおもちゃや小さなお菓子を持ってきた。一緒に遊び、絵本を読んだ。菜乃といるときの郁真は、もうすっかり父親の顔だった。私た
郁真のSNSアカウントは通報が相次ぎ、ついには凍結された。以前、彼を「若手の人気准教授」と持ち上げていた記事まで次々と掘り返され、今度は「裏では女子学生と親密になっていた偽善者だ」と叩く材料にされた。騒ぎが収まる気配はなく、郁真はとうとうメディアの取材を受けることになった。乃々香と体の関係はなかったものの、妻以外の女性に心が傾いていたことは否定しなかった。そのうえで、乃々香がこれまで繰り返してきたことや、大学へ報告した経緯も明らかにした。「私は、ずっとまっとうに生きてきたつもりでした。でも結局、ほかの女性から向けられる好意に甘えて、自分を見失ったんだと思います。ただ学生を気にかけていただけだと、自分に都合よく思い込んでいました。でも実際には、妻がいながら、別の女性にも心を向けていた。妻には本当に申し訳ないことをしました。今の自分に、学生を教える資格があるとは思っていません」取材のあと、郁真は大学に辞職願を出した。一方、乃々香はそれまで「家族に苦しめられているかわいそうな学生」として配信を続け、かなりの数のフォロワーを集めていた。ところが過去の金銭トラブルが明るみに出ると、アカウントには通報が殺到し、ほどなく凍結された。SNSにも批判の声があふれた。【配信見てたときから、なんか演技っぽいとは思ってた。やっぱりか】【かわいそうだと思って結構投げ銭したのに。普通にショック】【人を騙してお金取ってたってマジ?さすがに無理】【懲戒退学は妥当でしょ。これは擁護できない】それだけでは済まなかった。とうとう住所まで特定され、見知らぬ人からの嫌がらせが続くようになった。深夜にインターホンを鳴らされたり、玄関先にゴミを置かれたりして、近所からも苦情が出始めた。管理会社にも苦情が相次ぎ、結局、乃々香はその部屋を引き払うことになった。……郁真は大学を辞めたあと、私たちが暮らしていたマンションを売った。売却代金は、そのまま全額私の口座に振り込まれた。「澄花、仕事も辞めた。家も売ったし、金も全部渡した。ネットじゃ今もずっと叩かれてる。これで少しは気が済んだ?」久しぶりに会った郁真には、以前のような余裕はもうなかった。伸びた無精ひげのせいか、以前よりずっと老けて見えた。「自分で招いたことで
「本当に、実家は生活に余裕がなくて、家では弟ばかり優先されてるんだと思ってた。だから、かわいそうで放っておけなかったんだ」郁真が私の前にひざまずくのは、これで4回目だった。けれど今回は、もう何も感じなかった。残っているのは、ただ疲れだけだった。私はつかまれていた手を、そっと引き抜いた。「郁真。世の中には、安積さんより大変な思いをしてる人なんていくらでもいるよ。仮に安積さんの話が全部本当だったとしても、奨学金を申請することもできたし、アルバイトすることだってできた。郁真はあの子の先生でしかないでしょ。それなのに、してきたことはとっくに先生の立場を越えてるよ」ひざまずいたままの郁真を見下ろした。「もう立って。そんな簡単にひざをつかないでよ」そのまま部屋へ戻り、ドアを閉めた。向こうから聞こえてくる泣き声も、何度も繰り返される謝罪も、全部そこで遮った。それから郁真は、毎日のように実家へ通ってきた。朝から家の前で待ち、日が暮れるまで帰ろうとしない。来るたびに、パンや果物などを差し入れてきた。私はほとんど手をつけず、そのまま母に回した。花も近所の人に譲った。ブランド品や金のアクセサリーまで持ってくるようになったが、それは遠慮せず受け取った。だからといって、郁真に返事をする気はなかった。私が少しも態度を変えないとわかると、今度はあの手この手でよりを戻そうとしてきた。プレゼントを贈り、長い手紙を書き、しまいには共通の友人にまで頼んで説得してもらおうとした。……一方、郁真は乃々香の件もそのままにはしなかった。乃々香は、大学院入試の筆記成績が特別よかったわけではない。入試の数か月前から、郁真と顔を合わせる機会を意図的に作っていた。家族に恵まれない地方出身の学生を演じたり、郁真の前で地域猫の世話をしてみせたりした。偶然を装った出会いを重ねるうちに、郁真は少しずつ乃々香に好印象を持つようになった。面接担当の一人だった郁真は、乃々香にやや高めの評価をつけていた。入学後、乃々香は郁真の指導学生になった。二人の距離が縮まっていったのは、それからだ。好きな小説や作家の話を重ねるうちに、郁真は乃々香のことを、自分と感性の合う特別な学生だと思い始めた。けれど、その好みさえ、乃々香
「知らないわけないでしょう。あの子のせいで、妻は子どもを連れて出ていきましたから」電話の向こうで、男は乾いた声で笑った。「当時は『家族から年上の男との縁談を押しつけられている』って言われて、何度も金を渡しました。全部合わせると、6000万円近くになります。それが妻にばれて、家の中はめちゃくちゃになりました。結局、離婚です……もしかして、あなたも騙されたんですか?」話を聞くほどに、郁真の顔から血の気が引いていった。電話を切ると、続けて2人目、3人目にも連絡した。返ってきた話は、どれもほとんど同じだった。同じように家庭の事情を持ち出し、同情を引き、金を受け取る。そして最後には、夫婦関係まで壊れていた。郁真は、かつてかわいそうだと思い、守ってやりたいとまで思った乃々香を見た。吐き気がするほどの嫌悪がこみ上げた。こんな嘘ばかりの女のために、妻が大変な出産をしている最中に病院を離れた。それだけではない。自分の手で、澄花をさらに傷つけた。「出ていけ」郁真は歯を食いしばるように吐き捨てた。泣いて縋る乃々香を、そのまま家から追い出した。その足で車に乗り込んだ。途中でベビー用品をいくつも買い込み、バラの花束も用意して、澄花の実家へ向かった。紙袋を玄関先に置き、インターホンを押す。ドアを開けたのは母だった。郁真の顔を見た瞬間、母の表情が冷えた。そのままドアを閉めようとする。「何しに来たの?帰って。ここに来てもらっても困るから」「お義母さん!」郁真は慌てて手を伸ばし、閉まりかけたドアを押さえた。「僕が悪かったです。本当に反省してます。澄花となのを迎えに来ました。もう二度と、二人を傷つけるようなことはしません。だから、もう一度だけ……」「迎えに来た?」母は冷たく笑った。「あそこがまだ澄花の帰る家だと思ってるの?あの子が留守にしてる間に、ほかの女を住まわせておいて。今さら戻ってこいなんて、よく言えるわね。澄花に、あの女の世話でもさせるつもり?」……玄関のやり取りは部屋の中まで聞こえていた。私は様子を見に部屋を出た。玄関に立っている郁真を見て、思わず足を止める。「……どうしてここに?」その一言を聞いた途端、郁真の目が赤くなった。「澄花、僕が悪か