晴人がホテルへ戻ってきたのは、もう深夜だった。「茜、どうして黙って帰ったんだ?」晴人は慣れたように私を抱き寄せ、私の首元へ顔を埋めた。試合のあとは、こうして私に触れると元気が戻るのだと、いつも言っていた。視力を失ってから、匂いには以前より敏感になった。晴人の服から、美羽がつけているバラの香水が漂ってきた。その香りが、ふたりの間に残っていた最後のぬくもりまで消していった。「私たち、別れよう」自分でも驚くほど、冷たい声が出た。晴人の声が低くなった。「まだ昼間のことを怒ってるのか?プロポーズはチームに頼まれた演出だ。俺と美羽の注目度が上がれば、ショーの出演料もスポンサー収入も増える。その分、茜にもっといい暮らしをさせられる。目を治せる方法だって見つかるかもしれないだろ」私は思わず苦笑した。「視神経が傷ついてるの。もう治らないって、晴人も知ってるでしょう」治らないと分かっているからこそ、晴人は何も答えず、話を変えた。「美羽の実家は裕福じゃないんだ。話題を作れば、スポンサーもつきやすくなる。少しは分かってくれよ。これ以上、俺を疲れさせないでくれ」演出だから仕方がない。私も、ずっとそう自分に言い聞かせてきた。事故のあと、晴人は貯金をすべて使って小さなマンションを買い、私を一生支えると言ってくれた。けれど、美羽とペアを組んでから、私はひとりで過ごすことが増えた。私が虫垂炎で意識が遠のくほど苦しんだ日、晴人は美羽の体力測定に付き添っていた。私が熱湯を浴びて大やけどをした日も、美羽とコンサートへ行っていた。暗闇の中で何度手を伸ばしても、晴人がその手を握り返してくれることはなかった。「もう、晴人を疲れさせることはないよ」私も、もう何も期待していないから。晴人は私の目元に触れ、涙を拭った。「茜なら分かってくれると思ってた。もう寝よう。明日は帰国便も早いから」翌日、空港で美羽が声をかけてきた。「茜さんのスーツケース、何色ですか?私が持ちますよ」「大丈夫。ありが……」言い終わる前に、美羽の声が不自然に高くなった。「あ、そうでした。茜さんは何も見えないんでしたね」周囲で小さなざわめきが起きた。その声だけで、好奇の目が私へ集まっているのが分かった。顔を伏せ、その場を離れよう
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