All Chapters of 氷上の光を失っても、私は踊る: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

晴人がホテルへ戻ってきたのは、もう深夜だった。「茜、どうして黙って帰ったんだ?」晴人は慣れたように私を抱き寄せ、私の首元へ顔を埋めた。試合のあとは、こうして私に触れると元気が戻るのだと、いつも言っていた。視力を失ってから、匂いには以前より敏感になった。晴人の服から、美羽がつけているバラの香水が漂ってきた。その香りが、ふたりの間に残っていた最後のぬくもりまで消していった。「私たち、別れよう」自分でも驚くほど、冷たい声が出た。晴人の声が低くなった。「まだ昼間のことを怒ってるのか?プロポーズはチームに頼まれた演出だ。俺と美羽の注目度が上がれば、ショーの出演料もスポンサー収入も増える。その分、茜にもっといい暮らしをさせられる。目を治せる方法だって見つかるかもしれないだろ」私は思わず苦笑した。「視神経が傷ついてるの。もう治らないって、晴人も知ってるでしょう」治らないと分かっているからこそ、晴人は何も答えず、話を変えた。「美羽の実家は裕福じゃないんだ。話題を作れば、スポンサーもつきやすくなる。少しは分かってくれよ。これ以上、俺を疲れさせないでくれ」演出だから仕方がない。私も、ずっとそう自分に言い聞かせてきた。事故のあと、晴人は貯金をすべて使って小さなマンションを買い、私を一生支えると言ってくれた。けれど、美羽とペアを組んでから、私はひとりで過ごすことが増えた。私が虫垂炎で意識が遠のくほど苦しんだ日、晴人は美羽の体力測定に付き添っていた。私が熱湯を浴びて大やけどをした日も、美羽とコンサートへ行っていた。暗闇の中で何度手を伸ばしても、晴人がその手を握り返してくれることはなかった。「もう、晴人を疲れさせることはないよ」私も、もう何も期待していないから。晴人は私の目元に触れ、涙を拭った。「茜なら分かってくれると思ってた。もう寝よう。明日は帰国便も早いから」翌日、空港で美羽が声をかけてきた。「茜さんのスーツケース、何色ですか?私が持ちますよ」「大丈夫。ありが……」言い終わる前に、美羽の声が不自然に高くなった。「あ、そうでした。茜さんは何も見えないんでしたね」周囲で小さなざわめきが起きた。その声だけで、好奇の目が私へ集まっているのが分かった。顔を伏せ、その場を離れよう
Read more

第2話

到着ロビーから出た途端、待ち構えていた記者たちのフラッシュを立て続けに浴びた。晴人と美羽へ質問が殺到し、ふたりの周りはたちまち騒がしくなった。「白石選手、フィギュアスケート世界選手権で優勝した今のお気持ちは?」晴人は声をやわらげて答えた。「美羽と出会えたことが、僕の人生で一番の幸運です。ふたりだったから、ここまで来られました」「では、ご結婚も近いのでしょうか。正式な発表はいつ頃になりますか?」「もうすぐです。そのときは、きちんとお知らせします」晴人の声は弾んでいた。私は空港職員に腕を借り、人の波を避けて通り過ぎようとした。そのとき、昔から競技を取材してきた記者が私に気づいた。「星野さんは、白石選手の試合には必ず同行されていますよね。おふたりは、いまどういうご関係なんですか?」質問が途切れ、シャッター音が一斉にこちらへ移った。わずかに光を感じるだけの視界の中で、足を止めた瞬間、晴人が先に答えた。「茜は、僕にとって妹のような存在です」その場にいた誰もが、すぐには言葉を返さなかった。晴人の声は、かすかに震えていた。私が何と答えるのか、不安を押し隠すように黙って待っている。けれど、もう私の心が揺れることはなかった。恋人ではなく妹だと言われるのは、これが初めてではない。私は笑みを作った。「誤解しないでください。私は、今回のフリープログラム『ロミオとジュリエット』の振付を担当しただけです」記者たちがどよめいた。晴人がほっと息をつくのが聞こえた。けれど、私が振付師だと名乗ると、今度は何も言わなくなった。これまでは、晴人を支えるためなら表に出なくてもいいと思っていた。黙って、譲ることにも慣れていた。けれど、もう一度、自分の名前で光の当たる場所へ立ちたい。私が作ったものを、私自身の手に取り戻したかった。次々と飛んでくる質問に答えているうちに、晴人と美羽がいつ立ち去ったのかも分からなかった。家へ戻ったのは、すっかり夜になってからだった。キッチンから晴人が出てくる足音がした。だしと醤油の甘い香りで、私の好物の肉じゃがを作ったのだと分かった。「おかえり。今日は付き合い始めた記念日だろ。茜の好物を作ったよ」その言葉に、心がわずかに揺らいだ。彼はまだ覚えていたのだ。私は久
Read more

第3話

電話の向こうで、先輩の声が弾んだ。「一番いいスタジオを空けて、ずっと待ってた。いつでもおいで。航空券もこっちで手配するよ」先輩から、星凪市のダンスカンパニーでダンサーとして活動しないかと誘われたのは、ずっと前のことだった。けれど、そのとき晴人は、私がほかの街へ行くことに反対した。「茜は目が見えなくなってから、俺と離れて暮らしたことがないだろ。ひとりで星凪市へ行って、どうやってやっていくんだ」晴人はいつも、自分の競技生活が何より優先されて当然だと思っていた。私が無条件で彼に合わせることも、目の見えない私が一生、彼に頼って生きることも、当然だと決めつけていた。私も、いつか彼が世界選手権で優勝し、16歳のときに交わした約束を果たしてくれると信じていた。それまでは私が我慢すればいい。そう何度も自分に言い聞かせてきた。けれど、待ち続けるための光はもう消えた。この道に、未練は残っていなかった。翌日、私はひとりで強化センターへ向かい、コーチに退職を伝えた。「茜、本当に星凪市へ行くのか」声には、寂しさと気遣いがにじんでいた。私がうなずくと、コーチはすぐに答えた。「行っておいで」あまりにも迷いのない返事に、少し驚いた。「目が見えなくても、音楽をつかむ力も、振付の才能も、茜にかなう者はなかなかいない。ここにいれば、きっと君の力を発揮できると思っていた」そこで言葉を切り、声を落とした。「だが、中には、君がそこまで尽くす価値もない人間もいる」晴人たちが私の作品を当然のように使い、さらに奪おうとしていることを、コーチはずっと見ていたのだ。「ありがとうございます」目を閉じると、温かい涙が頬を伝った。「晴人たちには、まだ言わないでください」コーチは約束してくれた。練習室の前を通りかかったとき、美羽に呼び止められた。「茜さん。この前、空港ではごめんなさい」私は思わず身をこわばらせ、半歩後ずさった。「何の用?」美羽は私の背後へ回り、耳元で声をひそめた。「昨夜、晴人さんがうちで酔いつぶれたんです。途中から、私のことを茜さんだと思い込んでしまって」含みのある笑い声が、すぐそばで聞こえた。「酔っていても、晴人さんってすごいんですね。茜さんがうらやましい」もう晴人のことなど、ど
Read more

第4話

「違う。私は何も……」床に倒れた美羽は、ぴくりとも動かなかった。そんな美羽を前に、私の言葉はむなしく響くだけだった。晴人は私の言葉に耳を貸さず、私の腕をつかむと、美羽と一緒に救急車へ押し込んだ。「美羽の容体が落ち着くまで、どこへも行くな」救急外来の廊下は消毒薬の匂いが鼻につき、胸がざわついた。どれほど待ったのか分からない。やがて医師が処置室から出てきた。「白石さん。桜井さんは、食べ物による重いアレルギー反応で、ショック状態になったようです。処置をして、いまは状態も落ち着いています」晴人はしばらく黙り込んだ。やがて、低い声で謝った。「悪かった。俺の勘違いだった」それだけだった。私は、強まる腹部の痛みに耐えるのが精いっぱいで、もう言い返す気力も残っていなかった。「美羽のところへ行ってあげて」かろうじてそれだけ告げると、晴人はすぐに美羽のもとへ向かった。私は病院の廊下の椅子からゆっくりと立ち上がり、壁に手をついた。けれど、数歩も進まないうちに、温かく湿ったものが太ももを伝った。強いめまいに襲われ、そのまま意識を失った。目を覚ますと、また消毒薬の匂いが鼻を刺した。そばにいた看護師が「気がつきましたね」と声をかけた。「妊娠初期だったようです。残念ですが、流産しています」一瞬、看護師の言葉の意味が理解できなかった。私は目を見開き、平らなままのおなかへ手を当てた。指先の震えが止まらなかった。妊娠していたことさえ、知らなかった。たったいま存在を知ったばかりなのに、涙が次々とあふれてきた。晴人との子どもを、何度も思い描いたことがある。振付師の母親と、スケート選手の父親。きっと幸せな子になると信じていた。私はベッドの上で体を丸め、枕がぬれるのも構わず泣いた。「ごめんね。何も知らなくて、ごめんね……」声が涙で途切れた。「もし別の世界があるなら、今度はちゃんと守ってくれるお母さんのところへ生まれてね。今度こそ、元気で幸せに生きてね……」涙の跡が頬に乾いた頃、ベッド脇のスマホが何度か震えた。「茜、ごめん」「このところのことを、きちんと考えた。俺が悪かった」「明日は練習を休む。昔のリンクへ行って、ふたりで滑ろう」「俺たちだけの思い出を、もう一度たど
Read more

第5話

茜の荷物が、すべてなくなっていた。晴人が最初に考えたのは、茜が黙って家を出たことだった。だが、茜が行ける場所などあるのだろうか。視力を失ってから、晴人は茜を自分のそばに置き続けた。親しい友人も、ほとんどいない。そのとき、スマホが鳴った。晴人は茜からだと思い、すぐに電話へ出た。「白石様でしょうか。空港の遺失物係です」茜ではないと分かった途端、期待に満ちていた顔が曇った。「何でしょうか」晴人の声は、ひどくかすれていた。「星野茜様のものと思われる指輪をお預かりしました。ご本人と連絡が取れず、緊急連絡先に登録されていた白石様へお電話しています。指輪は、ご登録の住所へ発送しております。星野様へお伝えいただけますか」晴人は礼を言って電話を切った。そのとき、玄関前に小さな荷物が届いていることに気づいた。中に入っていたのは、あの指輪だった。事故のあと、晴人は茜のために『ロミオとジュリエット』を滑った。その日、彼は4か月分の収入をつぎ込んで、約束の指輪を買った。視力を失った茜の手のひらへ載せ、指輪がどんなものか、ひとつずつ言葉で説明した。「飾りのない、シンプルな指輪だ。宝石は何もついてない。でも、いつか茜が一番好きなピンクダイヤの指輪に替えるから」茜は指先で丁寧に指輪をなぞり、内側に刻まれた点字へ触れた。そこにあるのは、ひと文字だけだった。【光】晴人は16歳の茜を強く抱きしめ、やさしく囁いた。「茜の夢は俺がかなえる。世界選手権で優勝したら、結婚しよう」晴人は指輪を握りしめた。指の関節が白くなった。茜は風呂へ入るときでさえ、指輪を外さなかった。それほど大切にしていた物を、どうして空港でなくしたのか。いまの晴人なら、ピンクダイヤの指輪も買える。世界選手権でも、約束どおり優勝した。それなのに、どちらの約束も果たしていなかった。まだ時間はあると思っていた。茜なら分かってくれる。何があっても、離れていかない。ずっと、そう思い込んでいた。急に胸が刺すように痛み、晴人はその場で身をかがめた。息を整えようとしても、苦しさは収まらなかった。ふと、週末になると茜が必ず強化センターで踊っていたことを思い出した。メッセージに気づかず、いつものように練習室にいるのかもしれない。わ
Read more

第6話

「茜がどうしてお前に相談しなかったのか、本当に分からないのか!」コーチの厳しい声に、晴人の表情がこわばった。「お前たちが世界選手権で優勝できたのは、茜の振付があったからだ。あの作品を作るために、茜がどれだけの時間を費やしたと思ってる。それなのに、お前は茜の名前を一度も出さなかった。彼女が支えてくれることを、当たり前だと思っていたんじゃないのか」コーチの言葉を聞くうちに、晴人の顔から血の気が引いていった。「ふたりとも、子どもの頃から見てきた大切な教え子だ。どちらにも傷ついてほしくなくて、これまでは黙っていた。だが、お前は知っているのか。試合の日、茜がひとりで泣いていたことを……氷上へ戻れないことを、茜がどれほど悔しがっているか、一度でも考えたか?」晴人は言葉に詰まり、何も答えられなかった。茜はまだ近くにいるかもしれない。そんなわずかな望みも消えた。いまは、茜を見つけて謝りたい。そのことしか考えられなかった。外へ出ると、空は重い雲に覆われていた。遠くで低い雷鳴が続いている。気づけば、晴人は病院へ向かっていた。茜を最後に見た場所だった。「晴人さん、迎えに来てくれたの?」入口にいた晴人を見つけると、美羽はうれしそうに駆け寄り、その腕に抱きついた。以前なら、晴人は笑って受け止めていただろう。けれど、その日は青ざめた顔で美羽の手を振りほどき、そのまま病院へ駆け込んだ。「晴人さん!待って!」美羽の声にも振り返らなかった。茜がどこにいるのかも分からないまま、晴人は院内を探し回った。廊下を行き交う人の中に茜の姿を探し、似た背格好の女性を見つけるたびに足を止めた。だが、どこにも茜はいない。やがて救急外来の前まで来たとき、診察を待つ人々のざわめきの中から、ふと気になる会話が耳に入った。「昨日運ばれた、目の見えない若い患者さん。妊娠していたことに、ご本人も気づいていなかったそうですね」「ひとりで倒れていたなんて、つらかったでしょうね」晴人は駆け寄り、看護師の両肩をつかんだ。「いま話していた女性は、どこにいるんですか!」突然のことに、看護師は悲鳴を上げ、警備員が駆けつけた。「手を離してください!」晴人はすぐに警備員によって床へ取り押さえられた。だが、現役のアスリートである晴
Read more

第7話

晴人は廊下を走り、やがて105号室の前で足を止め、勢いよく扉を開ける。そこは、もう誰もいなかった。ベッドにはまだ交換されていないシーツが残され、乾きかけた暗い血の跡が広がっていた。晴人は、その血から目を離せなかった。「ちょっと!勝手に入らないでください!」追いついた看護師が、晴人の腕をつかんだ。「あの方なら、どうしても帰るとおっしゃって、もう退院されました」晴人は足元から崩れ、その場へ膝をついた。強く打ったはずの膝の痛みさえ感じなかった。胸元の服を握りしめ、どうにか息をしようとした。ふたりで暮らし始めたばかりの頃、晴人は茜を後ろから抱きしめ、髪へ頬を寄せながらこう言ったことがある。「いつか子どもができたら、名前は茜に考えてもらおうかな。茜が選ぶ名前なら、きっと何でもいい名前になる」茜は晴人の腕を軽く押し返し、目を細めて笑った。「誰が晴人の子どもを産むって言ったの」晴人がくすぐると、ふたりは笑いながらじゅうたんへ転がった。窓から差し込む夕日が、笑い合うふたりを温かく照らしていた。あの頃に思い描いた未来は、もうどこにもない。晴人の目から大粒の涙が落ち、握りしめた手の甲をぬらした。「どうして……流産なんて……」声はひどくかすれていた。看護師は息をつき、まだ怒りの残る声で説明した。「強い衝撃を受けたあとに出血が始まったようです。妊娠初期はただでさえ不安定ですから、外傷が重なった可能性もあります」晴人は耳鳴りがして、周囲の音が遠のいた。強い衝撃……「晴人さん!何度も呼んだのに、どうしたんですか!」息を切らした美羽が、晴人を捜して廊下へ駆け込んできた。「急に冷たくするなんて、ひどい。私たち、あの夜一緒に寝たじゃないですか!」晴人は美羽を見上げ、力なく笑った。「あの夜は、酔ってお前を茜と間違えただけだ。抱きしめただけで、何もしていない」そう言ったあと、アレルギーの腫れがまだ残る美羽の顔を見つめた。美羽の腫れた顔を見て、晴人はあの日のことを思い出した。美羽を抱き起こそうとして、茜を突き飛ばした場面だった。茜が練習器具へ腹部を打ちつけた姿も、視界の端に映っていた。晴人は立ち上がり、何度も首を横に振った。「そんなはずはない……」否定しようとしても、廊下の椅
Read more

第8話

画面には、大きな見出しが表示されていた。【振付家兼ダンサー、星野茜が新たに加入】添えられた写真には、舞台に立つ茜の横顔が写っていた。背筋を伸ばした姿は、静かで落ち着いている。【元フィギュアスケート女子シングル選手の星野茜が、新作ソロ作品を発表します】記事を読み終えるより先に、晴人は腕の点滴を抜いた。針の跡から血が流れても構わず病院を飛び出し、そのまま、星凪市へ向かう一番早い便を予約した。……劇場では、スタッフが照明と音響をひとつずつ確認していた。開演準備は滞りなく進んでいた。「茜は踊ることだけ考えて。ほかは全部、僕たちに任せればいい」先輩の朝倉湊人(あさくら みなと)が、私の肩へそっと手を置いた。「ありがとう、先輩」「礼を言いたいのは僕のほうだよ。茜が来てくれたことを、心からうれしく思ってる」湊人が心から私を迎えてくれていることは、その声だけで分かった。「みんなの期待に応えられるよう、頑張るね。先輩は仕事へ戻って。私はもう少し、ひとりで確認しておくから」湊人は心配そうな声で、もう一度だけ念を押した。「無理はしないこと。少しでも不安があったら、すぐ呼んで」窓から、やわらかな風が入ってきた。星凪市へ来てから、穏やかな日が続いていた。湊人は約束どおり、一番広いスタジオを私のために空けてくれた。彼は、私が転んでもけがをしにくいよう、スタジオの床へ衝撃を吸収するマットを敷いてくれた。舞台稽古のたびに、湊人は立ち位置や移動する歩数を何度でも一緒に確認した。ぶつかるおそれのある物や段差も、ひとつずつ取り除いてくれた。そのおかげで、体調も少しずつ回復していた。踊ることだけを考えて1日を過ごせるのは、本当に久しぶりで、それだけで幸せだった。「茜!」かすれた声に呼ばれた直後、強く抱きしめられた。その腕の感触には、覚えがあった。晴人が来ることに、驚きはなかった。ただ、力があまりにも強く、息が苦しかった。「茜、俺と帰ろう」晴人は私の肩へ顔を埋め、すがるように言った。「しばらく体を休めれば、また子どもはできる。だから、帰ってきてくれ」私は晴人の腕をほどき、静かに距離を取った。かすかな笑いが漏れたが、もう心は動かなかった。「晴人。私たちは別れたの」「俺は認めて
Read more

第9話

翌日。劇場に、壮大なオーケストラの音が満ちていった。目元を布で覆った私は、つま先で床をとらえ、静かに舞台を進んだ。目元を覆っても、私の世界は何も変わらない。そのぶん、音のひとつひとつが体へ鮮明に伝わってきた。音楽は悲劇の頂点へ達し、ジュリエットがロミオの死を知る場面に入った。私は抑えていた感情を解き放ち、大きく踏み込み、宙へ跳んだ。客席のあちこちで、息をのむ音がした。激しい動きはしだいに静まり、最後には静かな覚悟だけが残った。私はゆっくりと最後の姿勢を取った。私が踊るジュリエットは、もう愛する人のあとを追わない。決められた悲劇の結末を捨て、自分の人生を生きていく。以前の『ロミオとジュリエット』には、愛と救い、ひとりの人を待ち続ける思いを込めた。いま踊ったソロは、その悲劇から抜け出し、生まれ直す自分のための作品だった。曲が終わっても、客席は数秒ほど静まり返っていた。次の瞬間、割れんばかりの拍手が劇場を満たした。公演後、舞台裏で晴人が声をかけてきた。「茜が、もう一度『ロミオとジュリエット』を踊ったのは……」晴人はしばらく言葉を探したあと、意を決したように続けた。「俺たちにも……まだ、やり直せる可能性があるって、そう思ってもいいのか?」私は椅子へ腰を下ろし、静かに答えた。「昔の私が心を動かされたのは、死を前にしても変わらなかった、ロミオとジュリエットの愛だったの。でも今は、決められた悲劇の結末を拒んで、自分の人生を歩き出す強さにひかれるの」晴人は黙り込んだ。私の声や踊りから、事故の前の私を思い出したのかもしれない。私はもう、事故のあとにすべてを失った少女ではなかった。自分の才能を信じ、誰よりもまっすぐスケートに向き合っていた頃の私を、ようやく取り戻していた。長い沈黙のあと、晴人がかすれた声で尋ねた。「後悔したことはないのか。あの日、茜は俺をかばった。そのせいで、目も、夢も失った」長いあいだ聞けずにいたことを、ようやく口にしたのだろう。私は少し考えてから答えた。「後悔してないよ。あれは、私が自分で決めたことだから。何度やり直しても、私は同じことをすると思う。それも含めて私だから。いまは、そんな自分を受け入れてる」少し間を置き、続けた。「私が後悔して
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status