Masukフィギュアスケート世界選手権での優勝が決まった直後、白石晴人(しらいし はると)は、ペアを組む桜井美羽(さくらい みう)へその場でプロポーズした。 会場中が沸き立つなか、私、星野茜(ほしの あかね)だけは全身が冷え切り、その場から動けずにいた。 「どうせ見えないんだから、そこまで怒ることないだろ。これまでだって、美羽とは何度も手を取り合ったり、抱き合ったりする演技をしてる。もう慣れてると思ってた」 晴人は舞台裏で私の腕をつかみ、いつものように、すべて演出だと言い訳した。 けれど、私の気持ちはすっかり冷え切っていた。 ふたりが滑った『ロミオとジュリエット』は、視力を失った私に残された、たったひとつの光だったからだ。 16歳のとき、私は国内記録を塗り替え、女子シングル界の若き天才として注目を集めた。だが練習へ向かう途中で交通事故に遭い、とっさに晴人をかばった私は視神経を損傷した。 もう氷上には戻れない。誰もがそう言うなか、晴人だけは私をリンクへ連れていき、何度も『ロミオとジュリエット』を滑ってくれた。 暗闇の中でも踊ることはできる。彼はそう教えてくれた。 「茜の夢は俺がかなえる。世界選手権で優勝したら、結婚しよう」 あの日の少年は、いまや美羽と表彰台へ向かおうとしていた。 「もう機嫌を直せよ。あとで美羽にお祝いの花束を渡してくれ」 遠ざかる彼の足音を聞きながら、私は思った。 この光が私を照らさないのなら、もういらない。 これからは、私が自分の光になる。
Lihat lebih banyak翌日。劇場に、壮大なオーケストラの音が満ちていった。目元を布で覆った私は、つま先で床をとらえ、静かに舞台を進んだ。目元を覆っても、私の世界は何も変わらない。そのぶん、音のひとつひとつが体へ鮮明に伝わってきた。音楽は悲劇の頂点へ達し、ジュリエットがロミオの死を知る場面に入った。私は抑えていた感情を解き放ち、大きく踏み込み、宙へ跳んだ。客席のあちこちで、息をのむ音がした。激しい動きはしだいに静まり、最後には静かな覚悟だけが残った。私はゆっくりと最後の姿勢を取った。私が踊るジュリエットは、もう愛する人のあとを追わない。決められた悲劇の結末を捨て、自分の人生を生きていく。以前の『ロミオとジュリエット』には、愛と救い、ひとりの人を待ち続ける思いを込めた。いま踊ったソロは、その悲劇から抜け出し、生まれ直す自分のための作品だった。曲が終わっても、客席は数秒ほど静まり返っていた。次の瞬間、割れんばかりの拍手が劇場を満たした。公演後、舞台裏で晴人が声をかけてきた。「茜が、もう一度『ロミオとジュリエット』を踊ったのは……」晴人はしばらく言葉を探したあと、意を決したように続けた。「俺たちにも……まだ、やり直せる可能性があるって、そう思ってもいいのか?」私は椅子へ腰を下ろし、静かに答えた。「昔の私が心を動かされたのは、死を前にしても変わらなかった、ロミオとジュリエットの愛だったの。でも今は、決められた悲劇の結末を拒んで、自分の人生を歩き出す強さにひかれるの」晴人は黙り込んだ。私の声や踊りから、事故の前の私を思い出したのかもしれない。私はもう、事故のあとにすべてを失った少女ではなかった。自分の才能を信じ、誰よりもまっすぐスケートに向き合っていた頃の私を、ようやく取り戻していた。長い沈黙のあと、晴人がかすれた声で尋ねた。「後悔したことはないのか。あの日、茜は俺をかばった。そのせいで、目も、夢も失った」長いあいだ聞けずにいたことを、ようやく口にしたのだろう。私は少し考えてから答えた。「後悔してないよ。あれは、私が自分で決めたことだから。何度やり直しても、私は同じことをすると思う。それも含めて私だから。いまは、そんな自分を受け入れてる」少し間を置き、続けた。「私が後悔して
画面には、大きな見出しが表示されていた。【振付家兼ダンサー、星野茜が新たに加入】添えられた写真には、舞台に立つ茜の横顔が写っていた。背筋を伸ばした姿は、静かで落ち着いている。【元フィギュアスケート女子シングル選手の星野茜が、新作ソロ作品を発表します】記事を読み終えるより先に、晴人は腕の点滴を抜いた。針の跡から血が流れても構わず病院を飛び出し、そのまま、星凪市へ向かう一番早い便を予約した。……劇場では、スタッフが照明と音響をひとつずつ確認していた。開演準備は滞りなく進んでいた。「茜は踊ることだけ考えて。ほかは全部、僕たちに任せればいい」先輩の朝倉湊人(あさくら みなと)が、私の肩へそっと手を置いた。「ありがとう、先輩」「礼を言いたいのは僕のほうだよ。茜が来てくれたことを、心からうれしく思ってる」湊人が心から私を迎えてくれていることは、その声だけで分かった。「みんなの期待に応えられるよう、頑張るね。先輩は仕事へ戻って。私はもう少し、ひとりで確認しておくから」湊人は心配そうな声で、もう一度だけ念を押した。「無理はしないこと。少しでも不安があったら、すぐ呼んで」窓から、やわらかな風が入ってきた。星凪市へ来てから、穏やかな日が続いていた。湊人は約束どおり、一番広いスタジオを私のために空けてくれた。彼は、私が転んでもけがをしにくいよう、スタジオの床へ衝撃を吸収するマットを敷いてくれた。舞台稽古のたびに、湊人は立ち位置や移動する歩数を何度でも一緒に確認した。ぶつかるおそれのある物や段差も、ひとつずつ取り除いてくれた。そのおかげで、体調も少しずつ回復していた。踊ることだけを考えて1日を過ごせるのは、本当に久しぶりで、それだけで幸せだった。「茜!」かすれた声に呼ばれた直後、強く抱きしめられた。その腕の感触には、覚えがあった。晴人が来ることに、驚きはなかった。ただ、力があまりにも強く、息が苦しかった。「茜、俺と帰ろう」晴人は私の肩へ顔を埋め、すがるように言った。「しばらく体を休めれば、また子どもはできる。だから、帰ってきてくれ」私は晴人の腕をほどき、静かに距離を取った。かすかな笑いが漏れたが、もう心は動かなかった。「晴人。私たちは別れたの」「俺は認めて
晴人は廊下を走り、やがて105号室の前で足を止め、勢いよく扉を開ける。そこは、もう誰もいなかった。ベッドにはまだ交換されていないシーツが残され、乾きかけた暗い血の跡が広がっていた。晴人は、その血から目を離せなかった。「ちょっと!勝手に入らないでください!」追いついた看護師が、晴人の腕をつかんだ。「あの方なら、どうしても帰るとおっしゃって、もう退院されました」晴人は足元から崩れ、その場へ膝をついた。強く打ったはずの膝の痛みさえ感じなかった。胸元の服を握りしめ、どうにか息をしようとした。ふたりで暮らし始めたばかりの頃、晴人は茜を後ろから抱きしめ、髪へ頬を寄せながらこう言ったことがある。「いつか子どもができたら、名前は茜に考えてもらおうかな。茜が選ぶ名前なら、きっと何でもいい名前になる」茜は晴人の腕を軽く押し返し、目を細めて笑った。「誰が晴人の子どもを産むって言ったの」晴人がくすぐると、ふたりは笑いながらじゅうたんへ転がった。窓から差し込む夕日が、笑い合うふたりを温かく照らしていた。あの頃に思い描いた未来は、もうどこにもない。晴人の目から大粒の涙が落ち、握りしめた手の甲をぬらした。「どうして……流産なんて……」声はひどくかすれていた。看護師は息をつき、まだ怒りの残る声で説明した。「強い衝撃を受けたあとに出血が始まったようです。妊娠初期はただでさえ不安定ですから、外傷が重なった可能性もあります」晴人は耳鳴りがして、周囲の音が遠のいた。強い衝撃……「晴人さん!何度も呼んだのに、どうしたんですか!」息を切らした美羽が、晴人を捜して廊下へ駆け込んできた。「急に冷たくするなんて、ひどい。私たち、あの夜一緒に寝たじゃないですか!」晴人は美羽を見上げ、力なく笑った。「あの夜は、酔ってお前を茜と間違えただけだ。抱きしめただけで、何もしていない」そう言ったあと、アレルギーの腫れがまだ残る美羽の顔を見つめた。美羽の腫れた顔を見て、晴人はあの日のことを思い出した。美羽を抱き起こそうとして、茜を突き飛ばした場面だった。茜が練習器具へ腹部を打ちつけた姿も、視界の端に映っていた。晴人は立ち上がり、何度も首を横に振った。「そんなはずはない……」否定しようとしても、廊下の椅
「茜がどうしてお前に相談しなかったのか、本当に分からないのか!」コーチの厳しい声に、晴人の表情がこわばった。「お前たちが世界選手権で優勝できたのは、茜の振付があったからだ。あの作品を作るために、茜がどれだけの時間を費やしたと思ってる。それなのに、お前は茜の名前を一度も出さなかった。彼女が支えてくれることを、当たり前だと思っていたんじゃないのか」コーチの言葉を聞くうちに、晴人の顔から血の気が引いていった。「ふたりとも、子どもの頃から見てきた大切な教え子だ。どちらにも傷ついてほしくなくて、これまでは黙っていた。だが、お前は知っているのか。試合の日、茜がひとりで泣いていたことを……氷上へ戻れないことを、茜がどれほど悔しがっているか、一度でも考えたか?」晴人は言葉に詰まり、何も答えられなかった。茜はまだ近くにいるかもしれない。そんなわずかな望みも消えた。いまは、茜を見つけて謝りたい。そのことしか考えられなかった。外へ出ると、空は重い雲に覆われていた。遠くで低い雷鳴が続いている。気づけば、晴人は病院へ向かっていた。茜を最後に見た場所だった。「晴人さん、迎えに来てくれたの?」入口にいた晴人を見つけると、美羽はうれしそうに駆け寄り、その腕に抱きついた。以前なら、晴人は笑って受け止めていただろう。けれど、その日は青ざめた顔で美羽の手を振りほどき、そのまま病院へ駆け込んだ。「晴人さん!待って!」美羽の声にも振り返らなかった。茜がどこにいるのかも分からないまま、晴人は院内を探し回った。廊下を行き交う人の中に茜の姿を探し、似た背格好の女性を見つけるたびに足を止めた。だが、どこにも茜はいない。やがて救急外来の前まで来たとき、診察を待つ人々のざわめきの中から、ふと気になる会話が耳に入った。「昨日運ばれた、目の見えない若い患者さん。妊娠していたことに、ご本人も気づいていなかったそうですね」「ひとりで倒れていたなんて、つらかったでしょうね」晴人は駆け寄り、看護師の両肩をつかんだ。「いま話していた女性は、どこにいるんですか!」突然のことに、看護師は悲鳴を上げ、警備員が駆けつけた。「手を離してください!」晴人はすぐに警備員によって床へ取り押さえられた。だが、現役のアスリートである晴