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氷上の光を失っても、私は踊る
氷上の光を失っても、私は踊る
Author: 星乃 光

第1話

Author: 星乃 光
晴人がホテルへ戻ってきたのは、もう深夜だった。

「茜、どうして黙って帰ったんだ?」

晴人は慣れたように私を抱き寄せ、私の首元へ顔を埋めた。試合のあとは、こうして私に触れると元気が戻るのだと、いつも言っていた。

視力を失ってから、匂いには以前より敏感になった。

晴人の服から、美羽がつけているバラの香水が漂ってきた。その香りが、ふたりの間に残っていた最後のぬくもりまで消していった。

「私たち、別れよう」

自分でも驚くほど、冷たい声が出た。

晴人の声が低くなった。

「まだ昼間のことを怒ってるのか?プロポーズはチームに頼まれた演出だ。俺と美羽の注目度が上がれば、ショーの出演料もスポンサー収入も増える。

その分、茜にもっといい暮らしをさせられる。目を治せる方法だって見つかるかもしれないだろ」

私は思わず苦笑した。

「視神経が傷ついてるの。もう治らないって、晴人も知ってるでしょう」

治らないと分かっているからこそ、晴人は何も答えず、話を変えた。

「美羽の実家は裕福じゃないんだ。話題を作れば、スポンサーもつきやすくなる。少しは分かってくれよ。これ以上、俺を疲れさせないでくれ」

演出だから仕方がない。

私も、ずっとそう自分に言い聞かせてきた。

事故のあと、晴人は貯金をすべて使って小さなマンションを買い、私を一生支えると言ってくれた。

けれど、美羽とペアを組んでから、私はひとりで過ごすことが増えた。

私が虫垂炎で意識が遠のくほど苦しんだ日、晴人は美羽の体力測定に付き添っていた。

私が熱湯を浴びて大やけどをした日も、美羽とコンサートへ行っていた。

暗闇の中で何度手を伸ばしても、晴人がその手を握り返してくれることはなかった。

「もう、晴人を疲れさせることはないよ」

私も、もう何も期待していないから。

晴人は私の目元に触れ、涙を拭った。

「茜なら分かってくれると思ってた。もう寝よう。明日は帰国便も早いから」

翌日、空港で美羽が声をかけてきた。

「茜さんのスーツケース、何色ですか?私が持ちますよ」

「大丈夫。ありが……」

言い終わる前に、美羽の声が不自然に高くなった。

「あ、そうでした。茜さんは何も見えないんでしたね」

周囲で小さなざわめきが起きた。その声だけで、好奇の目が私へ集まっているのが分かった。

顔を伏せ、その場を離れようと一歩踏み出した瞬間、美羽に足を引っかけられた。床へ倒れた私に、美羽は持っていたコーヒーまで浴びせた。

「何があった?」

晴人が人垣をかき分け、駆け寄ってきた。

「ごめんなさい。私がうっかりして……」

美羽の声はたちまち震え、今にも泣き出しそうになった。

周囲の人たちも、ふたりがフィギュアスケート選手だと気づいたのだろう。スマホのシャッター音が次々と響いた。

晴人は私のそばまで来たが、触れようとはしなかった。

人目を気にしている。それだけは、見えなくても分かった。

そこへ空港職員が来て、床に座り込んだままの私へ声をかけた。

「お召し物をきれいにしますので、休憩室へご案内します」

続いて、晴人へ尋ねた。

「こちらの方とご一緒ですか?」

「違います」

晴人は、間を置かずに答えた。

そのひと言に、息が詰まった。

世界選手権で優勝したばかりの美羽と、コーヒーまみれで床に倒れている目の見えない私。人前で関係を認めたくないのも、無理はないのかもしれない。

それでも、鼻の奥がつんと痛み、涙をこらえるのがやっとだった。

休憩室へ移り、しばらくすると、ようやく呼吸が落ち着いた。

私は左手の薬指から指輪を外した。

内側に刻まれた点字を、指先でゆっくりとなぞる。

――もう、いらない。

私はコーヒーで汚れた服を畳み、その内側に指輪をそっと包み込むと、何もなかったように係員へ処分を頼んだ。

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