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12 Capítulos

第1話

「春花(はるか)、野坂さんの息子さんが近いうちに帰ってくるそうなの。あなたと年も近いし、一度会ってみない?」タブレットの画面をなぞっていた私の指が止まった。ビデオ通話の向こうに映っているのは、養母だった。私が何も答えずにいると、彼女はさらに説得を続けた。「大学の先生をしていて、若いのに将来有望なんですって。顔立ちも素敵らしいわよ」断ろうと口を開きかけたとき、画面の向こうから別の声が聞こえてきた。「またそんなくだらないことを......」駿斗だった。苛立ちを隠そうともしない彼の口調に、それまで黙っていた養父が腹を立てた。「口を慎め!」小さく鼻で笑う声が聞こえてくる。「何だ、その態度は!」家の中で言い争いが起きるのはいつものことだった。私は再びタブレットへ視線を戻した。画面には、最近流行しているウエディングドレスがいくつか表示されている。「春花、今週末に会うというのはどう?」向こうがようやく静かになると、養母は私の顔色をうかがうように尋ねた。「どうせ行かないだろ」駿斗の冷ややかな声がした。彼は養母の後ろに座っており、画面の隅にその姿が映っていた。駿斗は、目を引くほど整った顔立ちをしている。かつての私は、その顔にどうしようもなく心を奪われていた。彼を前にすると、嫌だの一言すら言えなかったほどだ。「でも春花、まだ何も言っていないじゃない」養母が不満そうに振り返った。「紹介した人は誰も気に入らないなんて......そんなはずないわ」画面の隅で、駿斗は興味なさそうにスマホへ目を落としていた。以前の私なら、またあの元カノのSNSを見ているのではないかと勘繰っていただろう。けれど、今はもう違う。養母は眉をひそめ、駿斗を急き立てた。「暇なら自分の部屋に帰りなさい」しかし珍しく、駿斗は言い返すことも、素直に2階へ上がることもしなかった。養母がためらいながら、もう一度口を開こうとする。私はかすかに笑って言った。「お母さん、その必要はないわ」「やっぱりな」駿斗が淡々と言った。「私、好きな人がいるの」「ありきたりな嘘だな」駿斗は馬鹿にしたように笑うと、スマホをしまい、立ち上がって2階へ向かった。私が彼を好きだと、駿斗は確信している。き
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第2話

駿斗を好きになるということは、喜びよりも苦しみのほうがずっと多かった。いつから彼を好きになったのかは、もう記憶が曖昧になっている。ただ覚えているのは、彼に追いつこうと必死になり、同じ大学へ進学したこと。そして、どうにか彼の目に留まろうと努力し続けたことだった。いま振り返ってみれば、私の学生時代の記憶はどこを切っても彼の面影で溢れていた。彼が忘れられずにいたあの女性は、芸術学部で舞踊を専攻していた。あの頃の私は、もっと上手に踊れるようになれば、彼も少しは私を見てくれるかもしれないと無邪気に信じていた。そのため、大きな舞台に立てるダンス公演には欠かさず参加した。なかでも強く印象に残っているのは、大学2年のときの新入生歓迎公演だ。本番を目前に控えても、私は落ち着かない気持ちで彼からの返事を待っていた。舞台に立つたびに、見に来てくれるかと彼にメッセージを送っていた。けれど彼はいつも、別の用事があると言った。今回も、来てくれるとは期待していなかった。それでも返事がないと、もしかしたらという淡い期待を捨てきれなかった。私は慣れた手つきで彼のアイコンをタップし、SNSの投稿ページを開いた。彼はめったに投稿しない。ページを開いても、いつも同じ数枚の写真が表示されるだけだった。けれど、その日は違った。【ようやく、花が咲く日を迎えた。】添えられていたのは、重なり合う二人の手の写真だった。私はその日の舞台に立たなかった。寮へ戻ると、駿斗が建物の前の木にもたれ、スマホを見ていた。彼はいつも、どこか苛立たしげに眉を寄せている。「遅い」「ごめん......舞台があったから」彼は頷くとスマホをしまい、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。立ち昇る煙が揺らめき、彼の顔をぼんやりと覆う。煙草を吸うときの彼には、どこか気だるく無頓着な雰囲気があった。私はそんな彼に、どうしようもなく惹かれていた。「駿斗!誰が煙草を吸っていいって言ったの?この子に煙がかかるでしょう」愛らしい声が聞こえた。白いワンピースを着た若い女性が歩み寄り、駿斗の手から煙草を取り上げる。駿斗は不満そうに舌打ちしたものの、目から苛立ちは消えていた。彼は女性が火傷しないよう気遣いながら煙草を受け取り、火を消した
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第3話

けれど、彼がためらいもなく私をほかの男に勧めるのを聞くと、やはり胸が痛んだ。「ええ、会わないわ」私の答えを聞き、駿斗は小さく笑った。「そうか。ちゃんと自分の体も大事にしろよ。ずいぶん痩せた」私は彼を見上げた。駿斗は端正な顔立ちをしており、瞳は吸い込まれそうなほど深い。あの頃の私は、こんな眼差しに惹かれて彼を好きになったのかもしれない。私は視線をそらし、小さく頷いた。――私と駿斗が付き合っていたのは、1年間だった。始まりは唐突で、終わりもまた唐突だった。ルームメイトに連れられて一度バーへ行ったことをきっかけに、私はカクテル作りに興味を持った。大学2年の頃から、ずっと大学近くのバーでアルバイトをしていた。駿斗はよくバーへ行く人だった。だから、いつかアルバイト先で偶然会えるのではないかと、何度も期待した。けれど不思議なことに、2年間で一度も彼と顔を合わせることはなかった。大学4年のある日までは。閉店時間になっても、帰ろうとしない客が一人いた。近づいてみると、泥酔していたのは駿斗だった。「起きて」私は彼の肩を軽く揺すった。彼は酔いで霞んだ目を開き、私の顔を見つめた。「まだ俺のことが好きなのか?」頭の中で、何かが大きく鳴った。「未鈴、行かないでくれ......」私に言ったのではなかった。染谷未鈴(そめや みすず)とは、かつて彼がSNSで交際を発表した、忘れられないあの女性のことだ。二人は2年間付き合っていた。だが少し前、未鈴は海外へ行ってしまった。私が呆然としていると、駿斗の手がうなじに回り、強く引き寄せられた。彼の唇が重なる。体がこわばり、身動きひとつできなかった。彼は激しく唇を求めてきた。次第に息ができなくなり、脚から力が抜けていく。その瞬間、ふいに我に返った私は、力いっぱい彼を押しのけた。彼は戸惑ったように私を見つめた。「未鈴......」顔を上げると、店長がカウンターの向こうから笑顔でこちらを眺めていた。「知り合い?」私は頷いた。「長年片想いしてる相手って、この人?」私は驚いて店長を見た。「見ていれば誰だって分かるよ。ちょうどいい、連れて帰ってあげて。うちはもう閉店だから」私は駿斗を支えて店を出ると、タ
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第4話

駿斗は一日中、私と一緒にテーマパークを駆け回ってくれた。手をつないで観覧車に乗り、お化け屋敷にも入り、話題のフードをいくつも食べ歩いた。本当に、恋人同士になれたような気がした。そして、待ちに待った夜の花火ショーが始まった。私はスマホを取り出した。夜空を彩る花火と、一緒に花火を見ている彼の姿を動画に収めた。「SNSに載せたいな」私は笑いながら、撮った動画を彼に見せた。駿斗がスマホを受け取ろうとしたとき、彼のスマホにも通知音が鳴った。どんなメッセージが届いたのかは分からない。けれど、彼の呼吸が突然速くなった。「載せるな」彼は言った。「俺たちは、人に知られていい関係じゃない」胸の奥が鈍く痛んだ。嫌な予感に突き動かされ、私は未鈴のSNSを開いた。【やっぱり、家のごはんが一番】投稿には、たくさんの料理が並ぶ食卓の写真が添えられていた。駿斗が忘れられずにいた女性が、帰ってきたのだ。花火は終わった。私たちの束の間の幸せも、これで終わりだった。「それなら、もう終わりにしよう」――養母が退院した日、私は柳井家へ帰った。養父は食卓いっぱいに料理を用意してくれていた。「春花、せっかく帰ってきたんだ。父さんの料理の腕が上がったか、食べてみてくれ」私は笑って頷き、自分の前に置かれた煮物を一口食べた。「おいしい。お父さん、また腕を上げたね」そのとき、玄関の扉が突然開いた。駿斗が上着を手に、姿を現した。私を見た瞬間、彼の目がわずかに止まる。別れてから、顔を合わせるのはこれが二度目だった。「遅いじゃないか。家族より大事な用事でもあったのか?」養父が眉をひそめて尋ねた。「悪い。会社に用事が」駿斗は、私の隣の席に腰を下ろした。険悪になりかけた空気を和らげようと、養母が口を開いた。「駿斗、将吾さんの帰国祝いには行くでしょう?」「もちろん。あいつが海外へ行く前は、かなり親しかったからな」「じゃあ、春花も一緒に連れていってあげて」養母が私を見る。「将吾さんは野坂さんの息子さんよ。覚えている?」「はい」野坂将吾(のさか しょうご)は、私が結婚する予定の相手だ。覚えていないはずがない。ただ、彼の苗字が野坂だとは知らなかった。養母が
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第5話

将吾と初めて会ったのは、私が柳井家に引き取られて3か月が経った頃だった。場所は、マンションのエントランス前だった。近所には犬を飼っている人が多かった。けれど、私は幼い頃から犬が苦手だった。駿斗の友達の家では、大きな白いサモエドを飼っていた。その友達が犬を散歩させている姿を見かけるたび、私は遠く離れるようにしていた。「え、犬が怖いの?」友達がリードを持ちながら、笑って尋ねた。私は駿斗の後ろに隠れ、こくりと頷いた。「この子はおとなしいし、噛んだりしないよ。ほら、触ってみて?」犬というものは、なぜか人混みの中から自分を怖がっている人を正確に見つけ出す。友達がリードから手を離すと、サモエドは嬉しそうに私へ飛びついてきた。驚いた私は、その場に転んでしまった。駿斗は苛立たしげにリードをつかみ、犬を引き離した。「大げさだな」そう吐き捨てると、友達を振り返って冷淡に尋ねた。「これは何のつもりだ?」「お前の仕返しをしてやったんだよ。こいつが来てから、父親にいつも叱られるようになったって言ってただろ?」「余計なことするな。春花、早く立て。帰るぞ」そう言い残し、駿斗は先に歩いていった。手のひらは擦りむけていた。さっきはかなり強く地面へ打ちつけてしまったのだ。「大丈夫?」まだ少年だった将吾が駆け寄り、懸命に私を立たせてくれた。当時の彼は頬にまだ幼さが残っていて、とても素直そうな子に見えた。私は首を横に振った。「誰かにいじめられたの?」柳井家へ来てからの3か月間、私はずっと平気なふりをしていた。みんなに迷惑をかけたくなかったからだ。けれど、見ず知らずの彼からかけられたたった一言の優しさに、張り詰めていたものが一気に崩れた。私は堪えきれず、声を上げて泣いた。将吾は大人の真似をするように、私の肩を抱き寄せてくれた。どれくらい時間が経ったのだろう。私は涙を拭き、顔を上げた。「少しは落ち着いた?」私は頷いた。彼は私の前で手のひらを広げた。その小さな手の上には、色鮮やかなキャンディーが一つ載っていた。「先生がね、甘いものを食べると元気になるって言ってた」「ありがとう」私はキャンディーを受け取り、口に入れた。本当に少しだけ、元気になれた気がした。
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第6話

けれど結局、私は何も言えなかった。覚悟を決め、暗闇の中を手探りで進んだ。そしてようやく、ミッションで指定された古びた花嫁の籠を見つけた。暗く広々とした部屋は、物音一つせず静まり返っていた。花嫁の籠だけが赤い照明に照らされている。ひどく不気味だった。私は籠の中から婚礼の誓約書を取り、先ほどの部屋まで戻らなければならない。かすかに震える手で、籠の御簾を持ち上げた。中には、白無垢をまとった人が座っていた。心臓が激しく鳴り、その振動で胸まで痺れるようだった。誓約書を手に入れ、腕を引っ込めようとした、その瞬間――白無垢姿の人が突然動いた。白く長い指が、私の手首をつかむ。私は悲鳴を上げた。必死になって腕を引き抜こうとする。すると、低い笑い声が聞こえた。視界が大きく回った。気づけば私は、白無垢姿の人の膝に座っていた。「目を開けて」頭上から、澄んだ声が降ってくる。私は恐る恐る、ほんの少しだけ目を開けた。目の前に、驚くほど端正な顔が現れた。「そんなに怖がりなのに、お化け屋敷へ来たの?」将吾が、楽しそうに目を細めて私を見ていた。ようやく胸を撫で下ろす。「......一度、体験してみたかったから」「もう誰も驚かさないから。安心して帰って」私は彼の膝から立ち上がり、改めてその姿を見た。将吾は白無垢をまとい、狭い花嫁の籠の中に座っている。顔が見えてしまうと、もう不気味さはなかった。白無垢という女物の装いが、かえって彼の端正な顔立ちを引き立てている。「......その衣装、似合ってる」私が言うと、彼は眉を上げた。「褒め言葉か?」私は笑った。「ありがとう」戻る道では、本当にお化けが飛び出してくることはなかった。その代わり、後ろを歩く駿斗と彼女ばかりが、何度も驚かされていた。「駿斗のせいだからね。どうしてもここに入りたいなんて言うから、服まで破れちゃったじゃない」女の子は不満そうに文句を言った。「はいはい、俺が悪かった。じゃあお前が好きなハンバーガーを食べに行こう。それで機嫌直してくれるか?」駿斗は一日中、彼女の機嫌を取っていた。幼い頃、私もつらい目に遭うたび、誰かに悲しんでいることを察してほしいと思っていた。優しく慰めてほしか
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第7話

「彼女さんは、ほかの女性が助手席に座っても気にしないの?」「彼女はいないよ」「そうなんだ」「大学まで送ろうか?」養母から、明日は実家で一緒に食事をしようと言われていた。今日これほど飲んでしまったら、明日はおそらく起きられない。「......悪いけど、家まで送ってくれる?」「もちろん」この時間なら、養父母はもう眠っているはずだ。そうでなければ、酒の匂いを漂わせたまま帰る勇気などなかった。「春花さん」将吾が突然、私の名前を呼んだ。私は揺れる頭をどうにか支えながら、彼を見た。「もう柳井駿斗を好きでいるのはやめて、俺のことを見てくれないか?」酔いで混濁した頭では、彼の言葉を理解できなかった。「実は俺、ずっと前から春花さんのことが好きだった」彼の口が動いているのは見えたが、何を言っているのかは分からない。信号が赤になり、車がゆっくりと停まった。彼は期待に満ちた目で、こちらを振り返った。私は深く頷いた。「よし、下がってよろしい」将吾は一瞬ぽかんとしたあと、ほっとしたように笑って首を振った。「まったく、酔っ払いめ」将吾は、柳井家の玄関前まで送ってくれた。彼は心配そうに私を見つめた。「明日は絶対、今夜のことを忘れたりしないでね」鍵を取り出して扉を開けようとしたとき、内側から先に扉が開いた。駿斗は私たちを見て、意外そうな顔をした。彼は将吾から、まともに立つこともできない私を引き取った。「どうしてお前が?」「偶然会ったんだ」「こいつのことが好きなのか?」将吾は黙ったまま、駿斗を見つめた。「俺が間を取り持ってやろうか?こいつは押しに弱いから、すぐ落とせるぞ」「ありがとう。でも必要ない」将吾は低い声で言った。「春花さんが押しに弱くなるのは、駿斗に対してだけだ」――私は普段、ほとんど酒を飲まない。けれど、飲むときはいつも駿斗が関係していた。1か月前、彼と別れた夜は、これまでで一番多く酒を飲んだ。親友の橋場美緒(はしば みお)は、どうしようもないものを見るような目で私を見た。「柳井のどこがそんなにいいわけ?」私は酒を一気にあおった。「いいところなんて一つもない」「それでも好きなんでしょ」私はもう一口あおった。
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第8話

親友は、真剣な表情で私に念を押した。そして私のスマホを手に取り、その占い師の連絡先を追加した。翌日、酔いがさめた私は、見知らぬ連絡先が増えている画面を眺め、黙って額を押さえた。中学生の頃なら、私もこういうものを信じていた。運気が上がるというパワーストーンを買ったり、占いにお金を使ったりもした。けれど、今の私はもう大人だ。気づけば、占い師のSNSを開いていた。【人生は短い。まずは一歩踏み出してみませんか。誰かを忘れることは、思っているほど難しくありません】私はメッセージ画面へ戻った。家で飼っている猫の写真を撮り、彼に送ってみた。すぐに返事が届いた。【かわいい猫ですね。うちにも一匹います】彼からも猫の写真が送られてきた。その日を境に、私たちは頻繁にメッセージを交わすようになった。文学や音楽の話から、人生観や将来の夢まで、話題は尽きなかった。価値観がよく似ているだけでなく、笑いのツボまで同じだと分かった。雨の日には傘を持っているか、酒を飲んだ翌日には頭が痛くないか、体調を崩したときには薬を飲んだかと、いつも気遣ってくれた。次第に、駿斗を思い出すことは少なくなっていった。美しい景色やおいしい料理を見つけたとき、真っ先に思い浮かぶのは、いつも占い師の彼だった。本名を尋ねたこともある。けれど彼は、実際に会うときまで秘密にしておきたいと言った。そのほうが特別な瞬間になるから、と。私は特に気に留めなかった。名前など、その人を指すための呼び名にすぎない。大切なのは、彼が驚くほど私と気の合う人だということだった。【一度、会いませんか?】メッセージを送信すると、心臓の鼓動が少し速くなった。【いいですよ】オンラインで知り合った人と恋をし、実際に会うことになるなんて、自分には縁のない話だと思っていた。その日を待つ時間が、これほど長く感じられるとも思わなかった。猫カフェ「ニャンコの部屋」。店へ入ると、私は店内を見回した。黒いロングコートを着た男性が、入口に背を向け、猫たちの前にしゃがんでいた。どこかで見たことがあるような気がする。けれど、どうしても誰なのか思い出せない。私は彼に近づき、そっと肩を叩いた。「こんにちは」彼が振り返る。その顔を見た瞬
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第9話

帰国祝いの前日。将吾からプロポーズされた。私が一番好きな歌手のコンサート会場で。無数のライトが私たちを照らしていた。周囲からは、祝福に満ちた眼差しが注がれている。そして目の前には、私の愛する人がいた。これ以上にロマンチックなことなど、きっとないだろうと思った。将吾が私の指に指輪をはめるとき、その手は震えていた。「春花さん、俺は一生、君を大切にする」近くにいた観客が大声を上げた。「彼氏、めちゃくちゃかっこいい!」「彼女もすっごくきれい!」「結婚しちゃえー!」私はまた酔ってしまったかのように、幸せで頭がくらくらした。「一生って、とても長いよ」「分かってる。でも君と一緒なら、もっと長くてもいいくらいだ」私たちのプロポーズ動画はSNSで少し話題になった。共通の知人も大勢その動画を目にし、次々と祝福のメッセージを送ってくれた。美緒は電話の向こうで絶叫していた。「ロマンチックすぎる!春花、ものすごくきれいだったよ!将吾にはもったいないくらい!」帰国祝いの当日、駿斗は早くから会場に来ていた。「将吾、結婚するらしいぞ」テーブルにいた一人が言った。「誰と?俺たちも知ってる相手?」「ネットに上がってた動画、見てないのか?」「あのコンサート会場でプロポーズしてた男、将吾だったのか?」「そうだよ。雰囲気がかなり変わったよな」「じゃあ相手の女性は?」駿斗の周囲にいる人のほとんどは、私たちの事情を知っていた。テーブルにいた全員が、そろって駿斗を見る。彼は眉をひそめ、おかしそうに言った。「どうして俺を見るんだよ。俺、そういう動画には興味ないんだ」その場の空気が一瞬、重くなった。私が会場へ入ると、動画を見たらしい何人かが、何か面白い展開を期待するような顔でこちらを見た。「春花が来たぞ」誰かが言った。私は駿斗の隣に座った。「遅い」「道が混んでたの」「春花の会社では、海外へ研修に行ける枠が一つ用意されたらしいな。春花は行かないの?」そう尋ねたのは、駿斗の幼なじみだった。駿斗も顔をこちらへ向け、私を見つめた。「うん。行かない」以前断ろうとしていたのは、駿斗が遠距離恋愛を嫌がっていたからだ。今行かないのは、結婚の準備があるからだった
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第10話

コンサート会場で大勢の前に立ち、私へプロポーズしてくれた人が、臆病なはずがない。面白みのない人であるはずもなかった。将吾が私の後ろまで歩み寄り、肩を抱いた。「駿斗、俺と春花さんは来月の8日に結婚する。必ず来てくれよ」駿斗の表情が曇った。「ああ」――私は将吾のマンションへ引っ越す準備をしていた。家には駿斗の私物がたくさん残っていたため、一つずつ整理して箱に詰めた。今度、柳井家へ帰ったときに渡すつもりだった。玄関の外から、暗証番号を入力する音が聞こえた。【暗証番号が違います。もう一度入力してください】外にいる人物は諦めず、何度も番号を入力し続けていた。私は立ち上がり、扉を開けた。「暗証番号、変えたのか?」酒の匂いを漂わせた駿斗が、扉の前に立っていた。「別れてからまだ1か月しか経ってないのに、もうほかの男と付き合ってるのか?お前が一番好きなのは俺だっただろ。子どもの頃からずっと俺のあとをついてきて、いつも俺だけを見ていた。いつからそんな風に変わってしまったんだ......お前は、俺だけのものだったはずなのに......」私たちは告白して交際を始めたわけでもない。それなのに、別れたなどと言えるのだろうか。彼のスマホが鳴った。画面には、着信相手の名前が表示されていた。――未鈴。「会社で用事があったんだ。切る。早く寝ろよ」彼はそう言って電話を切った。私は思わず笑ってしまった。駿斗という男は、どこまでも欲深い。一人をつなぎ留めたまま、別の女性に目を向ける。手放したはずの私が他の男のものになると分かった途端、慌てて追いかけてくる。何年も彼を想い続けてきた自分が、滑稽に思えた。こんな最低な男を好きになったことが、心底馬鹿らしかった。「会社で用事があるんでしょう?早く行けば?」私は扉を閉めようとした。彼が扉の縁に手をかけ、閉まるのを阻んだ。「春花、将吾とは付き合わないでくれないか?」「嫌よ」「あいつが好きなのか?」「ええ」「そんなはず......」駿斗は酔いで霞んだ目を伏せ、呟いた。しばらくすると、彼はポケットから一枚の紙を取り出した。幼い頃、授業の課題で私が書いたメッセージカードだった。「ずっとお兄ちゃんの言うことを聞
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