登入
「春花は物じゃない。そんなふうに賭けの対象にするべきじゃない」「は。賭けるのが怖いだけだろ。何年も俺だけを好きだった女だぞ。今はお前を好きだと、本当に言い切れるのか?」「たとえ俺を好きでなくても、俺は彼女を幸せにする」一つの人影がバルコニーを離れていった。私が洗面所から部屋へ戻ると、将吾がベッドの端に座っていた。「どこへ行ってたの?」捨てられた子犬のように、寂しそうで不安げな顔をしている。「将吾さんは甘えん坊さんだね」私が言うと、彼はわずかに唇を開き、傷ついたような目をした。私は笑って言葉を付け加えた。「でも、そういうところが好き」彼はほっと息をついた。私は顔を寄せ、彼の唇にキスをした。将吾は、いつもどこか不安を抱えている。だからこれからは、好きだと何度でも伝えよう。今日からずっと。――結婚後、私と将吾は穏やかに暮らしていた。朝は一緒に朝食を取り、それぞれ仕事へ向かう。夕方は二人で家の近所を散歩した。夜はソファで寄り添い、恋愛映画を見る。けれど最近、彼の会社で何か問題が起きているようだった。何日も続けて帰りが遅く、酒の匂いを漂わせて帰宅していた。一人で映画を見てもつまらない。私は会社のメールを開き、仕事を片づけることにした。時間はあっという間に過ぎた。11時になっても彼は帰ってこなかった。私はあくびをしてノートパソコンを閉じた。そのとき、スマホが鳴った。――将吾だ。私は電話に出た。「寝てた?」「まだ。ちょうど寝ようと思ってたところ」「俺が何時に帰るのか、少しも気にならないの?」電話の向こうから、わずかに拗ねたような気配が伝わってきた。「私、将吾さんを信じてるから」「でも、同僚はみんな奥さんから早く帰ってこいって連絡が来てるのに、俺だけ何もない」「酔ってるの?」「ほんの少しだけ」まるで子どものような口調に、私は思わず笑みを浮かべた。「早く帰ってきて。温かいはちみつレモンを作ってあげるから」将吾の声が少し遠くなった。どうやら同僚に話しかけているらしい。「妻が早く帰ってこいって言ってるから、俺は先に帰るよ」「あの野坂社長が、奥さんの尻に敷かれてるんですか?」「仕方ないだろ。うちの妻は寂しがり屋だから
将吾は、手のひらを少し擦りむいているだけだった。「俺は平気だよ」彼は笑顔で私を見つめた。そこでようやく、私は駿斗へ目を向けた。彼はかなりの怪我を負っていた。腕にも脚にも包帯が巻かれている。駿斗は私を見つめ、必ず自分の味方をすると確信した口調で言った。「俺はこんな目に遭わされたんだぞ。お前はこんな男と付き合うのか?」私は将吾を振り返った。彼は何か言おうと口を開いたものの、結局何も言わなかった。そのまま目を伏せ、まるで判決を待つ罪人のように立っている。以前の私なら、駿斗がどんな騒ぎを起こしても、必ず彼の後始末をしていた。けれど、今はもう違う。私の愛情は、愛する価値のある人に注ぎたい。「彼が、理由もなくあなたを殴るはずがないでしょう?あなたが彼の会社へ押しかけて騒がなければ、殴られることもなかったはずよ」将吾は、褒めてもらった子犬のようだった。その瞳が一気に輝く。彼は駿斗を見ると、勝ち誇ったように眉を上げた。私はおかしくなり、将吾の手を取った。「行こう」背後から駿斗の声が聞こえた。「......俺がこんなに怪我してるのに、面倒も見てくれないのか?」私は振り返らず、病院の入口で目を赤くして立っている未鈴を見た。「あなたの面倒を見てくれる人なら、ほかにいるでしょう」――お正月の家族の集まりは、私が将吾を正式に恋人として柳井家へ連れていく初めての機会だった。彼はひどく緊張していた。前の晩から、柳井家へ行くときはグレーと黒、どちらのネクタイを締めるべきか悩んでいたほどだ。「もう......お父さんとお母さんに会うのは、初めてじゃないでしょう?」「でも、君の恋人として会うのは初めてだから。やっぱりきちんとしておきたいんだ」翌日、彼はグレーのネクタイを選んだ。それは、私が買ってあげたものだった。食卓では、駿斗が険しい顔で誰とも口を利こうとしなかった。一方の将吾は、次第に口数が増えていった。養父とも楽しそうに話が弾んでいる。「春花、将吾さんとの結婚式の準備はどうなっているの?」養母が尋ねた。「ほとんど終わってるよ。あとは衣装を決めるだけ」「そう。二人が幸せに暮らしてくれることが、何より大切だからね」私は笑って頷いた。「駿斗から聞
コンサート会場で大勢の前に立ち、私へプロポーズしてくれた人が、臆病なはずがない。面白みのない人であるはずもなかった。将吾が私の後ろまで歩み寄り、肩を抱いた。「駿斗、俺と春花さんは来月の8日に結婚する。必ず来てくれよ」駿斗の表情が曇った。「ああ」――私は将吾のマンションへ引っ越す準備をしていた。家には駿斗の私物がたくさん残っていたため、一つずつ整理して箱に詰めた。今度、柳井家へ帰ったときに渡すつもりだった。玄関の外から、暗証番号を入力する音が聞こえた。【暗証番号が違います。もう一度入力してください】外にいる人物は諦めず、何度も番号を入力し続けていた。私は立ち上がり、扉を開けた。「暗証番号、変えたのか?」酒の匂いを漂わせた駿斗が、扉の前に立っていた。「別れてからまだ1か月しか経ってないのに、もうほかの男と付き合ってるのか?お前が一番好きなのは俺だっただろ。子どもの頃からずっと俺のあとをついてきて、いつも俺だけを見ていた。いつからそんな風に変わってしまったんだ......お前は、俺だけのものだったはずなのに......」私たちは告白して交際を始めたわけでもない。それなのに、別れたなどと言えるのだろうか。彼のスマホが鳴った。画面には、着信相手の名前が表示されていた。――未鈴。「会社で用事があったんだ。切る。早く寝ろよ」彼はそう言って電話を切った。私は思わず笑ってしまった。駿斗という男は、どこまでも欲深い。一人をつなぎ留めたまま、別の女性に目を向ける。手放したはずの私が他の男のものになると分かった途端、慌てて追いかけてくる。何年も彼を想い続けてきた自分が、滑稽に思えた。こんな最低な男を好きになったことが、心底馬鹿らしかった。「会社で用事があるんでしょう?早く行けば?」私は扉を閉めようとした。彼が扉の縁に手をかけ、閉まるのを阻んだ。「春花、将吾とは付き合わないでくれないか?」「嫌よ」「あいつが好きなのか?」「ええ」「そんなはず......」駿斗は酔いで霞んだ目を伏せ、呟いた。しばらくすると、彼はポケットから一枚の紙を取り出した。幼い頃、授業の課題で私が書いたメッセージカードだった。「ずっとお兄ちゃんの言うことを聞
帰国祝いの前日。将吾からプロポーズされた。私が一番好きな歌手のコンサート会場で。無数のライトが私たちを照らしていた。周囲からは、祝福に満ちた眼差しが注がれている。そして目の前には、私の愛する人がいた。これ以上にロマンチックなことなど、きっとないだろうと思った。将吾が私の指に指輪をはめるとき、その手は震えていた。「春花さん、俺は一生、君を大切にする」近くにいた観客が大声を上げた。「彼氏、めちゃくちゃかっこいい!」「彼女もすっごくきれい!」「結婚しちゃえー!」私はまた酔ってしまったかのように、幸せで頭がくらくらした。「一生って、とても長いよ」「分かってる。でも君と一緒なら、もっと長くてもいいくらいだ」私たちのプロポーズ動画はSNSで少し話題になった。共通の知人も大勢その動画を目にし、次々と祝福のメッセージを送ってくれた。美緒は電話の向こうで絶叫していた。「ロマンチックすぎる!春花、ものすごくきれいだったよ!将吾にはもったいないくらい!」帰国祝いの当日、駿斗は早くから会場に来ていた。「将吾、結婚するらしいぞ」テーブルにいた一人が言った。「誰と?俺たちも知ってる相手?」「ネットに上がってた動画、見てないのか?」「あのコンサート会場でプロポーズしてた男、将吾だったのか?」「そうだよ。雰囲気がかなり変わったよな」「じゃあ相手の女性は?」駿斗の周囲にいる人のほとんどは、私たちの事情を知っていた。テーブルにいた全員が、そろって駿斗を見る。彼は眉をひそめ、おかしそうに言った。「どうして俺を見るんだよ。俺、そういう動画には興味ないんだ」その場の空気が一瞬、重くなった。私が会場へ入ると、動画を見たらしい何人かが、何か面白い展開を期待するような顔でこちらを見た。「春花が来たぞ」誰かが言った。私は駿斗の隣に座った。「遅い」「道が混んでたの」「春花の会社では、海外へ研修に行ける枠が一つ用意されたらしいな。春花は行かないの?」そう尋ねたのは、駿斗の幼なじみだった。駿斗も顔をこちらへ向け、私を見つめた。「うん。行かない」以前断ろうとしていたのは、駿斗が遠距離恋愛を嫌がっていたからだ。今行かないのは、結婚の準備があるからだった
親友は、真剣な表情で私に念を押した。そして私のスマホを手に取り、その占い師の連絡先を追加した。翌日、酔いがさめた私は、見知らぬ連絡先が増えている画面を眺め、黙って額を押さえた。中学生の頃なら、私もこういうものを信じていた。運気が上がるというパワーストーンを買ったり、占いにお金を使ったりもした。けれど、今の私はもう大人だ。気づけば、占い師のSNSを開いていた。【人生は短い。まずは一歩踏み出してみませんか。誰かを忘れることは、思っているほど難しくありません】私はメッセージ画面へ戻った。家で飼っている猫の写真を撮り、彼に送ってみた。すぐに返事が届いた。【かわいい猫ですね。うちにも一匹います】彼からも猫の写真が送られてきた。その日を境に、私たちは頻繁にメッセージを交わすようになった。文学や音楽の話から、人生観や将来の夢まで、話題は尽きなかった。価値観がよく似ているだけでなく、笑いのツボまで同じだと分かった。雨の日には傘を持っているか、酒を飲んだ翌日には頭が痛くないか、体調を崩したときには薬を飲んだかと、いつも気遣ってくれた。次第に、駿斗を思い出すことは少なくなっていった。美しい景色やおいしい料理を見つけたとき、真っ先に思い浮かぶのは、いつも占い師の彼だった。本名を尋ねたこともある。けれど彼は、実際に会うときまで秘密にしておきたいと言った。そのほうが特別な瞬間になるから、と。私は特に気に留めなかった。名前など、その人を指すための呼び名にすぎない。大切なのは、彼が驚くほど私と気の合う人だということだった。【一度、会いませんか?】メッセージを送信すると、心臓の鼓動が少し速くなった。【いいですよ】オンラインで知り合った人と恋をし、実際に会うことになるなんて、自分には縁のない話だと思っていた。その日を待つ時間が、これほど長く感じられるとも思わなかった。猫カフェ「ニャンコの部屋」。店へ入ると、私は店内を見回した。黒いロングコートを着た男性が、入口に背を向け、猫たちの前にしゃがんでいた。どこかで見たことがあるような気がする。けれど、どうしても誰なのか思い出せない。私は彼に近づき、そっと肩を叩いた。「こんにちは」彼が振り返る。その顔を見た瞬
「彼女さんは、ほかの女性が助手席に座っても気にしないの?」「彼女はいないよ」「そうなんだ」「大学まで送ろうか?」養母から、明日は実家で一緒に食事をしようと言われていた。今日これほど飲んでしまったら、明日はおそらく起きられない。「......悪いけど、家まで送ってくれる?」「もちろん」この時間なら、養父母はもう眠っているはずだ。そうでなければ、酒の匂いを漂わせたまま帰る勇気などなかった。「春花さん」将吾が突然、私の名前を呼んだ。私は揺れる頭をどうにか支えながら、彼を見た。「もう柳井駿斗を好きでいるのはやめて、俺のことを見てくれないか?」酔いで混濁した頭では、彼の言葉を理解できなかった。「実は俺、ずっと前から春花さんのことが好きだった」彼の口が動いているのは見えたが、何を言っているのかは分からない。信号が赤になり、車がゆっくりと停まった。彼は期待に満ちた目で、こちらを振り返った。私は深く頷いた。「よし、下がってよろしい」将吾は一瞬ぽかんとしたあと、ほっとしたように笑って首を振った。「まったく、酔っ払いめ」将吾は、柳井家の玄関前まで送ってくれた。彼は心配そうに私を見つめた。「明日は絶対、今夜のことを忘れたりしないでね」鍵を取り出して扉を開けようとしたとき、内側から先に扉が開いた。駿斗は私たちを見て、意外そうな顔をした。彼は将吾から、まともに立つこともできない私を引き取った。「どうしてお前が?」「偶然会ったんだ」「こいつのことが好きなのか?」将吾は黙ったまま、駿斗を見つめた。「俺が間を取り持ってやろうか?こいつは押しに弱いから、すぐ落とせるぞ」「ありがとう。でも必要ない」将吾は低い声で言った。「春花さんが押しに弱くなるのは、駿斗に対してだけだ」――私は普段、ほとんど酒を飲まない。けれど、飲むときはいつも駿斗が関係していた。1か月前、彼と別れた夜は、これまでで一番多く酒を飲んだ。親友の橋場美緒(はしば みお)は、どうしようもないものを見るような目で私を見た。「柳井のどこがそんなにいいわけ?」私は酒を一気にあおった。「いいところなんて一つもない」「それでも好きなんでしょ」私はもう一口あおった。