研究センターでの初めてのリハビリを終え、夕暮れの街を奏介くんの車がゆっくりと走っていた。 車内には上品で穏やかなクラシックが小さく流れている。 私は窓の外へ視線を向けながら、今日一日の出来事を思い返していた。 歌えなかったけれど、不思議と心は軽かった。 音楽はまだ、自分の中に残っている。そう教えてもらえたから。「今日は、お疲れさまでした」 信号で車が止まる。ハンドルを握る奏介くんが私のほうを見た。「初日としては、本当に良かったと思います」 私は少しだけ眉を下げながら笑って頷いた。【歌えなかったけどね】 手話でそう返すと、奏介くんは小さく首を横へ振る。「歌えなかった、じゃありません」 一拍置いて続ける。「今日は音楽に戻れた日です」 その言葉に、私は静かに目を伏せた。胸の奥が、また少しだけ温かくなる。とくとくと心臓が高鳴っている。瞼の裏に、学生時代、大きなホールで歌った日のことが昨日のことのように思い浮かんだ。◇ 車は住宅街へ入り、やがて私のマンションの前で停まった。「着きましたよ」 奏介くんは車を降りると、助手席のドアを開けてくれる。 私は「ありがとう」と唇を動かしながら車を降りた。けれど奏介くんは、すぐには歩き出さなかった。 周囲を静かに見回している。 道路の向こう。 駐車場。 建物の影。 まるで誰かがいないか確認するように視線を巡らせている。 私は不思議に思って首を傾げた。しばらくして、奏介くんはようやく安心したように小さく息を吐き出した。「……今日は、大丈夫そうですね」 私はその言葉の意味を理解して、胸が少し締めつけられた。 奏介くんは、晩餐会の後にあった出来事を考えてくれていたのだ。 雅臣が突然現れた、あの日のことを――。 奏介くんはその
Última actualización : 2026-10-11 Leer más