コトコトと、小さな鍋が優しい音を立てていた。 私はお玉でゆっくりとスープをかき混ぜる。「……ん」 ひと口味見をして、そして小さく頷いた。(今日は少し薄味かな) 夫の桜小路雅臣は、生まれつき胃が弱い。 仕事が忙しくなるとすぐ食欲が落ちてしまうから、味付けはいつも控えめを心掛けていた。 冷蔵庫から刻んだパセリを取り出し、最後にふわりと散らす。 湯気とともに立ち上る優しい香りに、自然と頬が緩んだ。(今日は結婚記念日だもん) ――結婚五周年。 そして、私の誕生日。 今夜は久しぶりに二人で食事へ行く約束をしていた。 雅臣はここ数ヵ月、海外との大型契約でほとんど家に帰れていない。 だけど、今日はゆっくり二人で過ごそうと、何日も前から約束していた。 ふと、鼻歌を歌おうと息を吸う。 けれど……。「……ぁ」 喉が震えただけで、声は出なかった。 彩羽はゆっくり目を閉じ、小さく笑う。「……」 もう五年になる。 それでも時々、昔の癖が抜けない。 歌うことは、呼吸をすることと同じだったから。 リビングの隅には、一台のアップライトピアノ。 その上には、学生時代に受賞したコンクールのトロフィーが並んでいる。 『最年少金賞』 『教授推薦特別賞』『未来のプリマドンナ』 そんな文字が刻まれた盾も、今では静かに埃をかぶっていた。 その横には、一枚の写真。 病院のベッドで笑う母と、制服姿の自分。 写真の中の母は、優しく笑っている。『いつか世界中のお客さんの前で歌う彩羽を見てみたいな』 幼いころから歌うことが好きだった私。 そして、母の夢。 それを叶えるために、私は走り続けてきた。 世界的なオペラ歌手になる。 それが私の人生であり、命だった。 ――五年前、すべてを失うまでは。 テーブルの上でスマートフォンが震えた。 画面に映る『雅臣』の名前を見て、私は自然と笑顔になる。 ビデオ通話をタップすると、スーツ姿の雅臣が画面いっぱいに映った。『彩羽』 穏やかな声だった。 仕事中とは思えないほど柔らかな笑顔に、彩羽の胸は温かくなる。『彩羽、悪い』 その一言で、彩羽はすべてを察した。『これから本社で役員との打ち合わせが入った。今日のディナー、行けそうにない』 少しだけ胸が痛んだ。 でも、それを顔には出さない。 雅臣
Última atualização : 2026-08-27 Ler mais