九十九の贈り物は初恋の呪い~声を失った償い妻は世界の歌姫となり、元夫の復縁を拒む

九十九の贈り物は初恋の呪い~声を失った償い妻は世界の歌姫となり、元夫の復縁を拒む

last updateLast Updated : 2026-10-28
By:  暁万里Updated just now
Language: Japanese
goodnovel12goodnovel
Not enough ratings
24Chapters
4.4Kviews
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

かつて「十年に一人の逸材」と呼ばれ、世界的オペラ歌手を夢見ていた彩羽。だが五年前、愛する夫・桜小路雅臣をかばって毒入りの酒を飲み、声と夢を失った。それでも雅臣を愛し、五年間尽くし続けてきた。しかし結婚記念日、夫が忘れられなかった女性の存在を知る。毎年贈られた九十九個のサファイアは、すべてその女性が手掛けたブランドのものだった――。絶望の中で再会したのは、世界的ピアニストとなった後輩・白鳥奏介。もう償いの妻は終わり。これは、声を失った女性が世界最高の歌姫となり、自分の人生を取り戻す逆転ラブストーリー。

View More

Latest chapter

More Chapters
No Comments
24 Chapters
第1話 あなたのためのスープ
 コトコトと、小さな鍋が優しい音を立てていた。 私はお玉でゆっくりとスープをかき混ぜる。「……ん」 ひと口味見をして、そして小さく頷いた。(今日は少し薄味かな) 夫の桜小路雅臣は、生まれつき胃が弱い。 仕事が忙しくなるとすぐ食欲が落ちてしまうから、味付けはいつも控えめを心掛けていた。 冷蔵庫から刻んだパセリを取り出し、最後にふわりと散らす。 湯気とともに立ち上る優しい香りに、自然と頬が緩んだ。(今日は結婚記念日だもん) ――結婚五周年。 そして、私の誕生日。 今夜は久しぶりに二人で食事へ行く約束をしていた。 雅臣はここ数ヵ月、海外との大型契約でほとんど家に帰れていない。 だけど、今日はゆっくり二人で過ごそうと、何日も前から約束していた。 ふと、鼻歌を歌おうと息を吸う。 けれど……。「……ぁ」 喉が震えただけで、声は出なかった。 彩羽はゆっくり目を閉じ、小さく笑う。「……」 もう五年になる。 それでも時々、昔の癖が抜けない。 歌うことは、呼吸をすることと同じだったから。 リビングの隅には、一台のアップライトピアノ。 その上には、学生時代に受賞したコンクールのトロフィーが並んでいる。 『最年少金賞』 『教授推薦特別賞』『未来のプリマドンナ』 そんな文字が刻まれた盾も、今では静かに埃をかぶっていた。 その横には、一枚の写真。 病院のベッドで笑う母と、制服姿の自分。 写真の中の母は、優しく笑っている。『いつか世界中のお客さんの前で歌う彩羽を見てみたいな』 幼いころから歌うことが好きだった私。 そして、母の夢。 それを叶えるために、私は走り続けてきた。 世界的なオペラ歌手になる。 それが私の人生であり、命だった。 ――五年前、すべてを失うまでは。 テーブルの上でスマートフォンが震えた。 画面に映る『雅臣』の名前を見て、私は自然と笑顔になる。 ビデオ通話をタップすると、スーツ姿の雅臣が画面いっぱいに映った。『彩羽』 穏やかな声だった。 仕事中とは思えないほど柔らかな笑顔に、彩羽の胸は温かくなる。『彩羽、悪い』 その一言で、彩羽はすべてを察した。『これから本社で役員との打ち合わせが入った。今日のディナー、行けそうにない』 少しだけ胸が痛んだ。 でも、それを顔には出さない。 雅臣
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more
第2話 私の嫌いも知らない夫
 ロビーの白い床に、野菜の入ったスープが静かに広がっていた。 割れた保温容器の破片が散らばり、慌てた清掃員が駆け寄ってくる。 あんなに時間をかけて作ったスープ。 雅臣の身体を気遣って、味付けも何度も確かめた。 それなのに、届けることすら、できなかった。 私は清掃員の女性に頭を下げて、床にしゃがみ込み、散らばった破片を拾うために手を伸ばす。「……あれ? 桜小路の奥さんじゃん」 背後から聞こえた男の声に、私はゆっくりと振り返った。 高級スーツを身にまとった若い男性が数人、こちらを見て立ち止まっていた。「本当だ」 その中の一人が面白半分と言った感じで、スマートフォンを構える。 パシャッ。 シャッター音が、静かなロビーに響いた。 私は思わず顔を伏せた。「ちょっ、お前、勝手に撮るなよ」 隣の男がそう言いながらもクスクスと笑った。「いいじゃん。あとでグループチャットで共有しとくわ」 軽い笑い声がロビーに広がる。「しかしさぁ、あの事故がなかったら、雅臣と結婚なんてできなかったよな」「命の恩人って最強だよ」「それだけで社長夫人だもんな」 私の喉がぎゅっと締めつけられる。「でも雅臣も大変だよな。五年間も縛られて。」「……声も出ない奥さん相手にさ」「おい、さすがに言い過ぎだって。雅臣にチクられたら――」 一人がそう言う。 その言葉に、少しだけ救われる気がした。 けれど……「は? 別に大丈夫だろ」 別の男が笑った。「だって声、出ないんだろ? どうせ何も言えない。文句も言いつけもできないんだから」 その言葉を、その場にいた誰もが否定しなかった。 私は俯き、ただぐっと唇を噛み締めることしかできなかった。 涙が一粒、白い大理石の床へと落ちていく。 その瞬間だった。「奥様!」 清掃員が慌てて声を上げる。 私の手から、割れた保温容器の破片が滑り落ち、軽い音を鳴らした。 気付けば私は、破片を強く握り締めてしまっていたらしい。 掌から赤い血が滲み、床に広がるスープの中へとぽたりと落ちていった。 私は逃げるようにロビーを飛び出した。 激しい雨が、全身を容赦なく打ちつける。 冷たい。 苦しい。 息が、できない。 喉が震える。 何かを叫びたいのに、私の声はどこにもなかった。◇ 気が付くと、私は自宅のベッドに寝か
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more
第3話 私に贈られたもの
「ああ、そうだ」 雅臣は、何かを思い出したように、サイドテーブルに置いてあった小さな箱を手に取った。 そして私の目を見つめて、柔らかく微笑む。「誕生日、おめでとう。」 差し出されたのは、濃紺のリボンがかけられたジュエリーケースだった。 私はそれを受け取り、ゆっくりとリボンを解いて、蓋を開く。 中には、美しい深海を思わせる、濃く透明な青を宿したサファイアのピアスが収められていた。 でも――。 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。 この五年間、誕生日も、結婚記念日も、雅臣が贈ってくれたものは、いつもサファイヤのアクセサリーだった。 気付けば、それは九十九個。 最初は、私に似合うと思って選んでくれたのだと信じていた。 私は宝石のことなんて詳しくなかったから、雅臣が私のために選んでくれたものというそれだけの理由で、少しずつ好きになった。 ひとつひとつを毎日大切に磨いて、専用のジュエリーケースに並べてきた。 百個目になるはずだったこのサファイヤのピアスを見つめながら、私は小さく微笑み、静かに蓋を閉じた。 どうしても、ケースへしまう気にはなれなかった。◇ 夕方。雅臣は少しだけ仕事を片付けてくると、一度書斎に戻った。 静かな部屋の中。熱でぼんやりする頭のまま、私はスマートフォンを開く。 何気なく眺めていたSNSの記事に、ふと指が止まる。『世界的ジュエリーデザイナー・金城麗華、待望の日本凱旋』 その見出しの下には、一枚の写真。 シャンパングラスを掲げて笑う金城麗華。その隣には、楽しそうに笑う雅臣の姿があった。 私の心臓が、どくりと跳ねる。 記事の写真には、私が一度も見たことのない、少年のような笑顔を浮かべる雅臣。 震える指先でそっと画面をスクロールし、記事を読み進める。――金城麗華が手掛けるジュエリーブランドは、サファイアを象徴とした人気ブランド。――桜小路雅臣は、金城麗華の作品を熱心に愛する者のひとり。桜小路コーポレーションが、金城麗華のジュエリーブランド『プリマヴェーラ・デッラ・ヴィータ』の日本でのプロモーションに携わる。 それを読んだ瞬間、呼吸が止まった。 サファイア。 胸が嫌な音を立てる。 私は寝室の棚へ視線を向けた。 ガラスケースの中には、九十九個のサファイアジュエリー。 私はふらつく身体を支えながら棚へ近
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more
第4話 恩人
 扉に触れた指先が、小さく震える。 中から聞こえてくる笑い声に、心臓が早鐘を打ち出す。「なぁ雅臣、お前の奥さんさぁ――」 男の笑い声と、「……ぁ……」 掠れた私の声を真似するような声が聞こえた。 どっと爆笑が起こる。「お前、最低だな!」「いや、似てるだろ?」「本人より喋れてるじゃねぇか」 誰かが机を叩いて笑っている。 私は息を呑んだ。 その笑い声の中に紛れ、雅臣の苦笑いのような声が聞こえる。 けれど、止める言葉は、ひとつも聞こえなかった。 そのときだった。「ねぇ、雅臣」 女性のどこか甘さを含んだ声。彩羽には聞き覚えがあった。あの日、スピーカーから聞こえてきた声だ。金城麗華――。「どうして彩羽さんと結婚したの?」 あんなにも笑い声に満ちていたのに、部屋の中が静まり返った。 私も扉の外で、そっと耳をそばだて、雅臣の答えを待った。 しばらく沈黙が流れたあと、雅臣の低く優しい声が聞こえて来る。「……彼女……彩羽には、恩がある」 小さく息を飲んだ。 聞こえてきた答えは、「好きだから」でも「愛しているから」でも、そのどれでもなかった。 ただ一言、「恩」という言葉だけ。 私の視界が、ぐらりと揺れた。脳裏に、五年前のあの日の記憶がフラッシュバックした。◇ 五年前。 音楽学院を卒業した私は、留学までの間、各地で歌う仕事をしていた。 会社の歓迎会や送迎会、イベントやホテルのレストランなどに呼ばれて、ジャズやオペラの歌を披露する、そんな仕事。 その中で、私は何度か雅臣の会社に呼ばれ、関わるうちにひっそりと優しい雅臣に心惹かれ始めていた。 その日も、桜小路コーポレーションの送別会があって、私は歌を歌うために呼ばれていた。 歌を披露しながらも、自然と目は雅臣を探してしまう。 食事を嗜みながら、私の歌を聞いてくれる人たち。そこから少し離れたカウンターの隅で、雅臣は一人、グラスを傾けていた。 ふと、誰かが話している声が聞こえた。「桜小路社長はフラれたらしい」って。「今日は海外に行くその人を送り出す日だったようだ」って。 雅臣のその背中が、ひどく寂しそうに私には見えて、放っておけなくて。私は自分の出番が終わると、衣装もそのままに、そっと彼に近付いた。「大丈夫ですか?」 そう声を掛けると、雅臣は少しだけ笑った。「はは。
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more
第5話 もう、意味がない
 彩羽が振りかぶって投げた結婚指輪は、金城麗華の頬をかすめ、そのまま床へ転がった。 無機質な金属音が静かに響く。「……っ」 金城麗華の白い肌に細い赤い線が浮かび上がる。部屋の空気が一瞬で凍りついた。 金城麗華は驚いたように目を見開き、自分の頬へそっと触れる。 指先に滲んだ赤を見つめると、小さく首を振った。「違うの……彩羽さん」 震える声だった。「私と雅臣は、本当にただの同級生なの」 そう言いながら、テーブルの上にあったワイングラスを手に取り、ゆっくりと私へ歩み寄ってくる。「誤解させてしまったなら、ごめんなさい」 その姿は、まるで本当に謝ろうとしているようだった。 私は何もできず、ただ静かに立ち尽くしていた。「これで仲直りしましょう?」 金城麗華がグラスを差し出してくる。私は反射的に、それを受け取ろうと手を伸ばした。 その瞬間だった。「きゃっ!」 パシッ、と乾いた音が響く。 私の指先へ触れた麗華の手が、大きく弾かれたように見えた。 グラスが宙を舞う。 赤いワインが私の胸元へ降りかかる。 ガシャンッ――。 割れたグラスが床へと散らばった。 麗華はその場へしゃがみ込み、小さく顔をしかめる。「痛っ……」「麗華!」 雅臣が真っ先に駆け寄ったのは、金城麗華だった。雅臣の大きな手が金城麗華の華奢な肩を包み、抱き起こす。「大丈夫か?」 そう金城麗華に優しく問いかけながら、雅臣は私へと視線を向けた。その眉根が寄せられているのを見て、私は息を呑んだ。 雅臣は、私が金城麗華を振り払ったと思っているのだと、その目を見ただけで分かった。 違う、と首を横に振ろうとした。けれど、それを遮ったのは、「私は平気……」 という、金城麗華の弱々しい声だった。「だから、彩羽さんを責めないであげて」 涙を浮かべながら首を振る麗華のその姿に、その場にいた全員が麗華を囲みだす。「怪我はないか?」「血が出てるじゃないか!」「救急箱!」 次々と飛び交う心配の声。 その一方で――。「おい、謝れよ」「さすがにやりすぎだろ」「社長夫人だからって何してもいいわけじゃないぞ」 鋭い視線と責める声が一斉に私へと突き刺さった。「……っ」 息が苦しい。 喉が締め付けられるように閉じていく。 違う。違うのに。 そう言いたいのに、声になら
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more
第6話 もう迷わない
 夜更けに雨が降ったらしい。 駅前の小さなビジネスホテルの窓の下。アスファルトには水溜まりができている。私は、雲の切れ間に覗く青空をぼんやりと見つめていた。 昨日、あの料亭を飛び出してから家へは帰らなかった。 あのまま雅臣の待つ家へ帰れるほど、私は強くなかった。 雅臣の隣で笑っていた金城麗華。私との結婚に対して、「恩がある」とだけ静かに告げた雅臣。 私の声を真似して笑っていた人たち。 どれも目を閉じれば鮮明によみがえってくる。 私はゆっくりとスマートフォンを手に取った。 連絡先を開く。 指が止まった名前は――。『朝倉珠理奈』 音楽学院時代からの親友。 海外の音楽大学へ留学し、卒業後は音声リハビリの研究にも携わっている彼女は、この五年間、一度も私を見捨てなかった。 震える指で発信ボタンを押す。 数回のコール音のあと、明るい声が耳に届いた。『彩羽!?』 その一言だけで胸が熱くなる。 私は小さく息を吸い、掠れた声を絞り出した。「……珠理奈」 それ以上は続かなかった。代わりに涙が溢れる。 電話の向こうの珠理奈は何も急かさず、静かに待っていてくれている。その優しさが、今はいつも以上に私の胸に沁みた。『無理に声を出さなくていいわ。文字でも会話はできるもの』 その言葉に私は軽く頷き、スマートフォンを耳から離す。そして、震える指でメッセージを打ち始めた。【もう、迷わない】 そうメッセージを送信すると、数秒もしないうちにビデオ通話へと切り替わった。向こうは夕方なのだろう。彼女の後ろにある窓からは西日が差し込んでいる。『本当に?』 瞳を丸くする珠理奈に、私はゆっくり頷いた。そして、もう一度文章を送る。【うん。歌を取り戻したい】 珠理奈は画面越しに私のメッセージへ視線を落とした。 画面いっぱいに映った珠理奈の目がみるみる潤んでいく。『……待ってた』 小さく呟かれた珠理奈の言葉に、こちらまでまた涙が溢れてしまう。『私、ずっと待ってたんだからね。彩羽』 珠理奈は指で涙を拭いながら、まるでデコピンでもするかのように指をカメラに近付けてくる。私は少しだけ笑いながら、頷き返した。『研究センターの受け入れも、先生との面談も、全部いつでも行けるように準備してあるの。彩羽が「行く」って言ってくれる日を信じてた』
last updateLast Updated : 2026-09-07
Read more
第7話 認められない離婚
「……私と……離婚してください」 震えるその声が落ちた瞬間だった。 雅臣の瞳が大きく見開かれる。「彩羽……」 掠れた声で名前を呼ばれる。「……今、なんて言った?」 私は雅臣を拒むように瞳を閉じた。 五年前。あの日の病室が、鮮明によみがえった。◇ 消毒液の匂いが鼻を刺す。 真っ白な天井。 白いカーテン。 静かに鳴り続ける心電図モニターの電子音。 私はベッドの上で、自分の喉へそっと触れた。 熱い。 焼けるように痛い。 何度息を吸っても、声は出なかった。「……」 口を開く。 何も聞こえない。 ただ空気だけが漏れていく。 怖かった。 歌えない。 その現実を、まだ心が受け止められない。 病室のドアが静かに開く。 入ってきたのは担当医と母だった。 医師はカルテを閉じると、静かに私を見つめた。「命に別状はありません」 その言葉に、母は涙を流して私の手を握り締めた。「よかった……」 何度もそう繰り返して泣いている。 私は安心して、小さく微笑んだ。 でも、次に続いた医師の言葉で、世界が止まった。「ただ……声帯の損傷が大きく、以前と同じように歌うことは難しいでしょう」 時間が止まる。 耳鳴りとともに、周囲の音が遠ざかっていく。 私は歌うために生きてきた。 最年少で金賞を受賞し、教授からは『十年に一人の逸材』と言われた。 海外音楽院への留学も決まっていた。病気がちな母へ、世界中の舞台で歌う姿を見せ
last updateLast Updated : 2026-09-08
Read more
第8話 置いていくもの
 レストランを出ると、秋風が頬を撫でた。 昼間の陽射しはまだ夏の名残りがあって暖かいのに、どこか季節の終わりを知らせるような風だった。 私はバッグを抱きしめるように歩き出す。 振り返らないと決めた。 雅臣は最後まで、私のことをなにも理解してくれようとはしなかった。 それどころか、私の話を最後まで聞こうともせず、金城麗華からの連絡を嬉しそうに受け、それを優先した。 それが、私をどんな気持ちにさせるかも、きっと考えていないのだろう。――……麗華。私が一度も聞いたことのない、甘く蕩けるような雅臣の声が蘇る。――我慢なんて、できるわけないだろ。君のことを、この五年間……ずっと忘れられなかったんだから。 そんな風に金城麗華を求めるのに、どうして私との離婚は受け入れてくれないのだろう。 ……どれだけ考えてもその答えはでなかった。けれど、そんな雅臣とこれからもずっと一緒にいられるほど、私は強くない。 店を出ると、雅臣が用意した車が止まっていた。一瞬、乗るかどうか躊躇ったが、どうせ家に帰るつもりだったのだ。運転手に促され後部座席に乗り込む。やがて車はゆっくりと走り始める。 窓の外を流れていく街並みを眺めながら、私はバッグの中にある離婚届にそっと触れた。◇ 桜小路家へ戻ると、誰もいない家の中は静まり返っていた。 広い玄関。 磨き上げられた床。 数日前までは愛しかった我が家が、今はモノクロに見える。(ここで暮らすのも、今日で終わり) 私は二階へ上がり、自分の部屋へと入った。 クローゼットを開け、ハンガーにかかっている洋服を手に取る。 雅臣に買ってもらったものは置いていく。 自分で選んだものは数着程度しかないけれど、私はそれを一着一着丁寧に畳みながら、段ボールへ入れていく。 ふと、ドレッサーの上へ視線が向いた。 九十九個のサファイアのジュエリー。 先日もらったばかりのピアスは箱に入ったまま、一度も開けなかった。 私は静かにそれを持ち上げる。 しばらく見つめてから、そっと棚へ戻した。(これは……いらない) 全部。 ガラスケースの中で青く輝くサファイアたちは、私と雅臣の五年間の思い出そのものだった。 ひとつひとつに、誕生日。 結婚記念日。 クリスマス。 いろいろな記憶が詰まっている。 でも、それに幸せや愛を感じていたの
last updateLast Updated : 2026-09-09
Read more
第9話 ようこそ
 珠理奈から指定されたカフェは、ホテルから十分ほど歩いた場所にあった。 ガラス張りの落ち着いた店。 開店したばかりなのか、店内に人はまばらで、穏やかな音楽が流れている。 私は入り口から、ぐるりと店内を一度見回した。(まだ来ていない……?) パッと見た感じでは、誰かを待っていそうな人は店内にいないようだった。窓際の席に座っていたら分かりやすいだろうかと、足を進めようとしたときだった。「彩羽先輩」 背後から聞こえた懐かしい声に、私の心臓が小さく跳ねた。 ゆっくり振り返ると、そこには、数日前、街で偶然再会した後輩――白鳥奏介くんが立っていた。 学生時代より少し大人びた笑顔。けれど、学生時代から感じていた穏やかな雰囲気は、今日も健在だった。「お待たせしました。今日の約束の相手は、俺です」 しばらく日本にいる予定だとは聞いていたけれど……。 まさか珠理奈が言っていた相手が奏介くんだったなんて。 私は驚きでただただ目を丸くするしかない。「びっくりしました?」 悪戯っぽく笑う奏介くんに、私は何度も頷く。 本当に、驚いた。 すると、奏介くんのスマートフォンが鳴った。奏介くんは通話を取ると、私にも画面が見えるようにスマートフォンをこちらに向けてくれる。『ふふふ。成功だったかしら?』 画面の向こうでは珠理奈が愉快そうに笑っている。「大成功です」 奏介くんも満足気に笑いながら頷いた。『でしょ? 日本にいるなら奏介しかいないと思ったの』「でもこの人、俺から彩羽先輩には絶対言うなって言ってたんですよ」 奏介くんは呆れたように言う。けれどその顔は、なんだかとても楽しそうだ。 そんな二人のやり取りを見ているうちに、思わず私も笑ってしまった。 久しぶりに自然と零れた笑顔だった。『彩羽』 珠理奈が優
last updateLast Updated : 2026-09-10
Read more
第10話 晩餐会
 朝日がレースのカーテンを柔らかく透かしていた。 私はまだ荷物の片付けが終わっていない部屋を見渡す。 段ボール箱は壁際に積まれたままで、家具は最低限しかない。 それでも、この部屋は不思議と居心地がよかった。 誰かのためではなく、自分のための場所。 それだけで、胸の奥のおもりが減って、少しだけ軽くなる。 テーブルの上に置いていたスマートフォンが何かの通知で震えた。 画面を開くとそこには、私が家にいないことに気付いた雅臣からのメッセージが何十件も並んでいた。――どこにいる?――帰ってこい。――話をしよう。――今日中には戻れ。 最初はそんな内容ばかりだった。 けれど、時間が進むにつれて、その文章は少しずつ変わっていく。――まだ怒っているのか?――もう十分だろう。――荷物まで持ち出して……いい加減にしろ。――いつまで子どもみたいな真似をするつもりだ。 私は静かに画面を閉じた。 胸はもう痛まない。返信しようとも思わなかった。 もう、伝えるべきことは全部伝えた。 届かなかっただけだ。 テーブルの隅には、昨日、奏介くんのご実家でお母さまからいただいた研究センターの資料が置かれている。 それから、珠理奈が送ってくれた英語試験のためのスクーリングや入学手続きの資料。半年後の留学へ向けたスケジュール。 私は資料を一枚ずつ確認し、小さく息を吐いた。(少しずつでいいから、前に進もう) そのときだった。スマートフォンがもう一度震える。 また雅臣だろうか、とおそるおそる画面を見ると、『白鳥奏介』の文字が表示されていた。 私は慌てて通話を取った。『彩羽先輩、おはようございます』 画面はすぐにビデオ通話へと切り替わった。穏やかな笑顔が画面に映る。 私の頬も自然と緩んだ。
last updateLast Updated : 2026-09-11
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status