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呼吸の仕方①

Penulis: 藍沢咲良
last update Tanggal publikasi: 2026-09-02 22:03:23

「朝比奈」

背後から落ちた低音で、背筋が勝手に伸びる。

氷室所長だ。笑わない。褒めない。雑談しない。

スーツの選び方が皇帝で、店の空気を静かに支配している。

「この申込、保証会社の承認待ち? 連帯保証人の収入証明、揃ってない」

「はい、今お母様にお願いしてて——」

「電話。いま。『今日中に』って言え」

「……はい」

所長は、それ以上言わない。

怒ってるのか、淡々としてるだけなのか、分からない目。私生活は全く見えない。

指示がいつも最短で、結果だけ出るのが悔しい。プロだ。

閉店後。ようやく電話が切れた瞬間、私は小さいチョコの箱を所長に渡した。

今日、契約が一件決まったのは所長の一言が効いたから。

「お疲れさまでした。今日、助けていただいたので」

所長は一瞬だけ箱を見て、いつもの無表情で言う。

「気を遣うな」

そう言いながら、受け取る。

受け取るんかーい。っていう混乱を残して。

その夜。

スマホが震えた。

『チョコありがとうございます!

いま電車の中で食べてます!めっちゃ美味しいです!』

……え?

今、電車?電車の中だって?

あの“氷の皇帝”が?

人の内見ルートと鍵の在庫には鬼みたいに厳しいのに、チョコは待てないの?

私はそのまま固まって、既読だけ付けた。

♢♢♢

翌朝。開店準備。

新着物件の図面を出して、内見用の鍵をまとめる。申込書を補充していると、背後からまた低音が降ってきた。

「朝比奈」

振り向くと、所長がカウンター越しではなく、ちゃんと仕事の距離で立っている。

目は鋭いまま。手には鍵束。

「昨日のLINE、既読だけだったな」

……そこ拾うんすか?

「すみません、夜遅くて……」

「問題でもあったか?」

真顔。

氷みたいな目で、聞いてくる内容が小学生。

(いや、問題って……何!?)

「問題は……ないです。ただ……」

「ただ?」

「……意外すぎて、びっくりしました」

所長は一拍置いて、首を少しだけ傾けた。

「意外か?」

「意外です」

「そうか」

そこで終わる。終わるんかい!

私は耐えきれずに言ってしまった。

「所長、電車で食べるんですね」

「うん」

「……家まで我慢とか」

「しない」

「……子どもみたい」

言った瞬間、やばいと思った。

こういうの、地雷だ。氷結されるやつ。

でも所長は怒らなかった。

ほんの少しだけ、口元の影が揺れた。笑うのを堪える時の、あの感じ。

「チョコは、食べるだろ」

(だろ、じゃない)

「そういうこと言うの、反則です」

「何が?」

「自覚ないんですか?」

「ない」

鈍感暴力。

私はここで、心臓を撃ち抜かれた。

そして追い打ちみたいに、所長が鍵束を差し出して言う。

「このあと内見二件。朝比奈、案内できる?」

──仕事に戻すのも暴力。

私は笑顔を作り、鍵を受け取った。

「……はい。行けます」

(行けるけど、今の私の心拍数も確認してください)

この鍵束を受け取った瞬間、視線を感じていた。

振り向かなくても分かる、あの“近い気配”。

──榊くんが、笑っていない。

内見車のドアが閉まった瞬間、空気が変わる。

「助手席、どうぞ。いつも通り」

榊くんはハンドルに手を置いたまま、当たり前みたいに言った。私は反射で「ありがとう」と返してしまう。断る理由がない。理由がないことが、いちばん厄介だ。

シートベルトの金具を差し込む音が、やけに大きい。私の胸の内側だけが、先に騒いでいる。

「さっき、所長と何話してたんです?」

信号待ち。榊くんは前を見たまま、声だけ落とす。雑談の皮をかぶった確認。私は窓の外を見て答える。

「昨日のお礼、チョコ渡したから。その話」

「へえ」

短い返事。次の瞬間、榊くんは笑った。笑ったのに、目は笑っていない。運転中の横顔って、逃げ場がない。

「朝比奈さん、所長には素でいきますよね」

“素”って言葉が、肌を撫でるみたいに刺さる。私は笑顔の筋肉だけ動かす。

「素じゃないよ。仕事だよ」

「じゃあ、僕には?」

アクセルが少し踏まれる。車が滑るみたいに前へ出る。私は喉の奥で息を止めた。

「……榊くんにも、仕事」

言い切ったつもりだった。けれど榊くんは、そこで黙らない。

「そっか。じゃ、距離も仕事の距離にしよ──守るために」

……何を?

“仕事”の名目で、榊くんの左手がセンターコンソールに置かれる。そこは私の太もものすぐ横。触れてない。触れてないのに、触れられてるみたいに体が固まる。待って。息、吸ったら吐くの。忘れないで。

私は窓の外の看板を読むふりをして、指先だけ膝の上で握った。

──目を合わせないのに、距離だけ詰めてくる。

“仕事”って言葉は、便利だ。拒否を悪にできる。

内見車の後部座席には、若いカップルが乗っている。

彼氏は物件サイトを見ながら「この辺、家賃安いっすね」と無邪気で、彼女は窓の外を見たまま静かだ。

榊くんは運転しながら、完璧な営業の声を出す。

「駅距離は徒歩九分。夜道は明るいです。スーパーも近い」

私は助手席で、資料を開いて相槌を打つ。仕事。仕事。仕事。

──後ろにお客さんがいる。だから私は安全だ。そう思った。

信号で止まった瞬間、榊くんが小さく笑って言う。

「朝比奈さん、ちょっと固くないです?」

声だけが近い。私は窓の外を見たまま返す。

「そう?いつもこんなもんでしょ。仕事中なんだから」

「じゃあ、僕も仕事中なんで、効率よくいきましょう」

榊くんの左手が、またセンターコンソールに置かれた。私の太もものすぐ横。触れてない。でもあと1ミリ。それが一番、言い訳に便利な距離だ。肺が一瞬、空打ちする。ぞわっとしたのは気のせいだ。触れてないのに、触れられてるみたいに息が止まる。

後ろの彼女が、視界の隅でバッグの紐を握り直した。彼氏は、まだ物件サイトをスクロールしている。

気づいた?……いや、気づかないで。

──目を合わせないのに、距離だけ詰めてくる。これが、榊くんの手法だ。

客がいる。だから私は、逃げられない。

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