妊婦健診の日、私は夫の佐藤直人(さとう なおと)がいるすぐそばで、妊娠中絶の同意書に署名した。直人は気づかなかった。教え子の莉奈と、子どもの名前を考えるのに忙しかったのだ。看護師が「佐藤紗月(さとう さつき)さんのご家族の方」と3度呼んでも、2人とも聞こえていなかった。私が目の前まで行って、ようやく直人は顔を上げた。昼食は何にするかとでも聞くような調子で言う。「莉奈が、この2つならどっちもいいって。好きなほうを選んで」ふっと笑いがこぼれた。妊娠20週。お腹の子の名前を決めるのは、夫と私の教え子で、私の役目はどちらかを選ぶことだけ。よくできている。この半年、胎教に流す音楽も、子ども部屋の壁の色も、粉ミルクのメーカーも、2人が私に代わって決めてくれたのだから。私は直人のメモアプリを開き、並んだ2つの名前の下に1行書き足した。【もう、選ばなくていい】直人が眉をひそめた。何か言う前に、莉奈の携帯が鳴る。電話に出て十数秒ほど聞いただけで、彼女の顔色が変わった。「佐藤先生、3番のサンプルでサイトカインの値がまた異常に上がっています。ベクターに問題があるのかもしれません」直人は上着を取り落としそうな勢いで立ち上がった。「研究室に戻ろう」2歩ほど進んでから、私がまだここに座っていることを思い出したらしい。「紗月、運転手に送らせるよ。研究が大事なところなんだ。あとの検査は1人で受けてきて」少し膨らんだお腹に手を当て、私は尋ねた。「今日が何の日か、覚えてる?」直人は携帯に目を落とした。「木曜日だろ」私はそれ以上、何も言わなかった。今日は5回目の結婚記念日で、医師が子どもの4D超音波検査を予定していた日でもあった。この検査のために、1か月前から直人のスケジュールに入れておいた。昨夜も寝る前に、研究室で何が起きても、今日だけは私を1人にしないでと頼んだ。直人はパソコンを抱え、メールを返しながら、顔も上げずに「わかった」と答えた。確かに、わかってはいたのだろう。ただ、大事だとは思っていなかった。隣で莉奈が、申し訳なさそうな顔をした。「師匠、すみません。今は佐藤先生がいないと研究が進まなくて。よかったら、私が残りましょうか?」残ると言いながら、その手にはもう直人の上着があった。莉奈の手首に光るシ
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