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この先は、あなたと歩かない

この先は、あなたと歩かない

작가:  国王は超多忙완결
언어: Japanese
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9챕터
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보고서
개요
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妊娠して、私は長年取り組んできた生命科学の研究から身を引いた。後を任せたのは、一から育てた教え子の水野莉奈(みずの りな)だった。 それ以来、莉奈は頻繁に家へ来るようになった。食卓では、夫と2人で研究データの議論に熱中し、私のことなど目に入らない。心血を注いできた私の研究なのに、今では口を挟む余地すらなかった。 その日の健診でも、2人は診察室の外で、周囲も気にせず子どもの名前を言い合っていた。 夫が振り返り、何でもないことのように言った。「莉奈は、この2つのほうが響きがいいって。どっちか好きなほうを選んで」 私は何も答えず、向き直って中絶の同意書に署名した。 そんなに気が合うのなら、もういい。あなたも、この子も、もういらない。

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1화

第1話

妊婦健診の日、私は夫の佐藤直人(さとう なおと)がいるすぐそばで、妊娠中絶の同意書に署名した。

直人は気づかなかった。教え子の莉奈と、子どもの名前を考えるのに忙しかったのだ。看護師が「佐藤紗月(さとう さつき)さんのご家族の方」と3度呼んでも、2人とも聞こえていなかった。

私が目の前まで行って、ようやく直人は顔を上げた。昼食は何にするかとでも聞くような調子で言う。

「莉奈が、この2つならどっちもいいって。好きなほうを選んで」

ふっと笑いがこぼれた。妊娠20週。お腹の子の名前を決めるのは、夫と私の教え子で、私の役目はどちらかを選ぶことだけ。よくできている。

この半年、胎教に流す音楽も、子ども部屋の壁の色も、粉ミルクのメーカーも、2人が私に代わって決めてくれたのだから。

私は直人のメモアプリを開き、並んだ2つの名前の下に1行書き足した。

【もう、選ばなくていい】

直人が眉をひそめた。何か言う前に、莉奈の携帯が鳴る。電話に出て十数秒ほど聞いただけで、彼女の顔色が変わった。

「佐藤先生、3番のサンプルでサイトカインの値がまた異常に上がっています。ベクターに問題があるのかもしれません」

直人は上着を取り落としそうな勢いで立ち上がった。

「研究室に戻ろう」

2歩ほど進んでから、私がまだここに座っていることを思い出したらしい。

「紗月、運転手に送らせるよ。研究が大事なところなんだ。あとの検査は1人で受けてきて」

少し膨らんだお腹に手を当て、私は尋ねた。

「今日が何の日か、覚えてる?」

直人は携帯に目を落とした。

「木曜日だろ」

私はそれ以上、何も言わなかった。今日は5回目の結婚記念日で、医師が子どもの4D超音波検査を予定していた日でもあった。

この検査のために、1か月前から直人のスケジュールに入れておいた。

昨夜も寝る前に、研究室で何が起きても、今日だけは私を1人にしないでと頼んだ。

直人はパソコンを抱え、メールを返しながら、顔も上げずに「わかった」と答えた。

確かに、わかってはいたのだろう。ただ、大事だとは思っていなかった。

隣で莉奈が、申し訳なさそうな顔をした。「師匠、すみません。今は佐藤先生がいないと研究が進まなくて。よかったら、私が残りましょうか?」

残ると言いながら、その手にはもう直人の上着があった。

莉奈の手首に光るシルバーの腕時計から、しばらく目を離せなかった。直人の30歳の誕生日に私が贈った、限定モデル。裏蓋には、私たちが初めて会った日付が刻まれている。

2か月前、直人はメンテナンスに出したと言っていた。預け先は、莉奈の手首だったわけだ。

私の視線を追った直人が、一瞬、気まずそうな顔をした。「クリーンルームでは携帯を見づらいから、時間を測るのに貸しただけだよ。変に考えないで」

まだ何も聞いていないのに、もう彼女をかばう言葉が出てくる。

莉奈は慌てて時計を外した。「師匠、誤解しないでください。佐藤先生が、どうしても着けていてほしいって……」

「どうしても」。かすかな声なのに、その言葉だけがやけにはっきりと耳に残った。

私は時計を受け取り、親指で文字盤を拭った。莉奈のハンドクリームの甘い香りが、まだ残っていた。

「誤解なんてしてないよ」

時計を直人に渡して、2人に笑いかけた。

「戻って。実験を待たせたら悪いから」

直人はほっとしたようだった。

「紗月、やっとわかってくれたんだね」

そのとき、お腹の中がかすかに動いた気がした。赤ちゃんが蹴ったのかもしれない。まるで、ママはいつまで我慢するの、と問いかけているみたいだった。

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第1話
妊婦健診の日、私は夫の佐藤直人(さとう なおと)がいるすぐそばで、妊娠中絶の同意書に署名した。直人は気づかなかった。教え子の莉奈と、子どもの名前を考えるのに忙しかったのだ。看護師が「佐藤紗月(さとう さつき)さんのご家族の方」と3度呼んでも、2人とも聞こえていなかった。私が目の前まで行って、ようやく直人は顔を上げた。昼食は何にするかとでも聞くような調子で言う。「莉奈が、この2つならどっちもいいって。好きなほうを選んで」ふっと笑いがこぼれた。妊娠20週。お腹の子の名前を決めるのは、夫と私の教え子で、私の役目はどちらかを選ぶことだけ。よくできている。この半年、胎教に流す音楽も、子ども部屋の壁の色も、粉ミルクのメーカーも、2人が私に代わって決めてくれたのだから。私は直人のメモアプリを開き、並んだ2つの名前の下に1行書き足した。【もう、選ばなくていい】直人が眉をひそめた。何か言う前に、莉奈の携帯が鳴る。電話に出て十数秒ほど聞いただけで、彼女の顔色が変わった。「佐藤先生、3番のサンプルでサイトカインの値がまた異常に上がっています。ベクターに問題があるのかもしれません」直人は上着を取り落としそうな勢いで立ち上がった。「研究室に戻ろう」2歩ほど進んでから、私がまだここに座っていることを思い出したらしい。「紗月、運転手に送らせるよ。研究が大事なところなんだ。あとの検査は1人で受けてきて」少し膨らんだお腹に手を当て、私は尋ねた。「今日が何の日か、覚えてる?」直人は携帯に目を落とした。「木曜日だろ」私はそれ以上、何も言わなかった。今日は5回目の結婚記念日で、医師が子どもの4D超音波検査を予定していた日でもあった。この検査のために、1か月前から直人のスケジュールに入れておいた。昨夜も寝る前に、研究室で何が起きても、今日だけは私を1人にしないでと頼んだ。直人はパソコンを抱え、メールを返しながら、顔も上げずに「わかった」と答えた。確かに、わかってはいたのだろう。ただ、大事だとは思っていなかった。隣で莉奈が、申し訳なさそうな顔をした。「師匠、すみません。今は佐藤先生がいないと研究が進まなくて。よかったら、私が残りましょうか?」残ると言いながら、その手にはもう直人の上着があった。莉奈の手首に光るシ
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第2話
署名した同意書を看護師に渡すと、看護師は入口に目をやってから、私を見た。「ご家族の付き添いはないんですか?」付き添いはいません、と答えた。廊下の奥で、直人の足が一瞬止まった。聞こえたのかどうかはわからない。すぐに莉奈が彼を呼び、直人は振り返りもせずエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まると、私の目にかろうじて残っていた光も消えた。子どもを失ったのは、その3日後だった。意地を張ったわけでも、誰かに仕返しをしたかったわけでもない。医師からは、すでに2度説明を受けていた。胎児の検査で複数の異常が見つかり、このまま妊娠を続ければ私の身体にも危険が及ぶおそれがある。その先も、無事に育つと約束はできない、と。それでも私は決められずにいた。どんな子が生まれても、2人で一緒に受け止めよう。直人がそう言ってくれたから。その言葉を信じていた。仕事を辞めても、この先の人生が病院と子どもを中心に回っていくことになっても、家族が一緒なら、何とかやっていける。そう思っていた。健診の日、ようやくわかった。本当に支えが必要なとき、直人はいない。1回の超音波検査にさえ最後まで付き添えない人に、いつ終わるかもわからない治療やリハビリを共に担えるはずがなかった。処置の前、看護師がもう1度尋ねた。「佐藤さん、お気持ちに変わりはありませんか?」天井の白い照明を見つめていた。目尻からこぼれた涙が髪にしみた。「ありません」麻酔が血管に入ってくると、妊娠7週目のことを思い出した。初めて子どもの心拍を確認した直人は、病院の階段でしゃがみ込み、10分も泣いていた。いつもは感情をほとんど表に出さない人だったのに。私の手を握り、「紗月、家族をつくってくれてありがとう」と言った。あのときは想像もできなかった。あの男は今、別の女と子どもの名前を相談しているなんて。私が1人で処置台に横たわっている間も、失敗した実験のデータを前に、その女に付き添っているなんて。目を覚ましたとき、病室は静かだった。枕元には、すっかり冷めたほうじ茶が置かれていた。隣のベッドの人の付き添いが、私を気の毒に思い、買い物のついでに買ってくれたものだ。携帯には17件のメッセージが届いていた。15件は研究チームのグループからで、直人からは2件。最初の1件は、正午に送られていた。【検査は終わっ
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第3話
直人と知り合ったころ、私たちは雲川大学の生命科学研究科で博士課程に在籍していた。彼の専門はアルゴリズム、私は腫瘍免疫。ウェット実験のわからない彼と、プログラムの書けない私が、指導教員の取りまとめる共同研究でコンビを組むことになった。当時の直人には、まともなパソコンを買う余裕もなかった。起動するだけで10分もかかる古い1台を毎日持ち歩き、データを処理していた。初めて会ったときも、研究棟の廊下にしゃがみ込んで修理の最中だった。ブルースクリーンになった画面と同じくらい、本人も青ざめていた。予備のパソコンを貸すと、直人は丸3か月使った。返されたパソコンのバッグには、手書きの手紙といちごの飴が1つ入っていた。手紙にあったのは、たった1行。【紗月。お金ができたら、世界でいちばん高いご飯をごちそうする】やがて直人は、本当にお金を手にした。ただ、私とゆっくり食事をすることは、もう長いことなかった。研究が最も難航した時期には、実験が17回続けて失敗した。私は昼間に細胞を培養し、夜は計画を練り直した。眠くなれば折り畳みベッドで2時間だけ眠る。直人も付き合ってくれて、3か月もの間、一緒にインスタントラーメンを食べた。18回目の実験が成功した夜、研究室の入口に2人で座り、すっかり麺の伸びたカップラーメンを分け合っていた。直人が唐突に言った。「紗月、この先もずっと、僕と一緒にいてくれない?」私は麺をくわえたまま、もごもごと答えた。「プロポーズにしては、ずいぶん安く済ませるんだね」直人は、たった1枚しか持っていない銀行のキャッシュカードを私の手に押し込んだ。「今は安くても、この先、全部埋め合わせるから」私は、その「この先」を信じた。海外の研究所を辞め、直人と帰国して、若葉バイオを立ち上げた。莉奈は帰国して初めて指導した学生だった。家は裕福ではなく、修士1年目には白衣をもう1着買うことさえためらっていた。地道に頑張る姿を見て、若葉バイオの中核チームに入れた。奨学金の申請も、卒業時の優秀者表彰に向けた書類も、初めて投稿した論文も、私がつきっきりで直した。妊娠10週目に、研究室で小規模な漏洩事故が起きた。私の曝露量はごくわずかだったが、医師からは念のため、危険性の高い環境をしばらく離れるように言われた。離れたくはなかった。若葉バイオの研究は、動物実験の
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第4話
あの健診から数日、直人からは電話が1本もなかった。処置を受けた日から4日目、病院で診てもらって帰ってきたばかりの私のお腹は、まだしくしくと痛んでいた。直人が目の前に保温ボトルを置いた。「最近、食欲がないって聞いて、莉奈がわざわざ豚汁を作ってくれたんだ」蓋を開けると、濃い肉の匂いが広がった。表面には脂が浮いている。処置のあとで胃腸も弱っているから、しばらくは脂っこいものや重い食事を避けるように。医師にはそう言われていた。莉奈の専門は生命科学で、臨床医学ではない。術後の食事について知らなくても仕方がない。でも、直人は知っているべきだった。退院後の注意事項はリビングのテーブルに置いてある。彼は1度も読んでいなかった。私は蓋を閉じた。「いらないわ」隣に立つ莉奈が、傷ついたような声を出した。「師匠、3時間もかけて作ったんです」「それなら、自分で飲んで」直人の顔が、たちまち険しくなった。「紗月、人の好意を踏みにじらないと気が済まないの?」私は顔を上げた。「私がどうして飲めないか、わかる?」「飲みたくないなら、それでいい。わざわざ理由をつけなくてもいいだろう」「直人」私は名前を呼んだ。「赤ちゃん、もういないの」リビングが静まり返った。莉奈の手からバッグが落ちる。直人は言葉の意味がつかめないように、その場に立ったまま、長いこと私を見つめていた。「何て言った?」「3日前に、妊娠中絶の処置を受けた」直人の顔から血の気が引いた。次の瞬間、駆け寄ってきて私の手首をつかむ。「もう1度言って」点滴の痕のあざを、強い力で押さえられた。痛みに眉を寄せたけれど、振りほどこうとはしなかった。「赤ちゃんは、もういない」「どうして?」目を真っ赤にして、直人は声を裏返らせた。「紗月、どうして僕に黙ってそんなことをしたんだ?」彼を見ていると、その問いがおかしくてたまらなくなった。「私が同意書に署名したとき、あなたはすぐ外にいたよ」私をつかむ手がこわばった。「あれは、健診の書類じゃなかったの?」「聞いてくれた?」直人は何度か唇を動かしたが、言葉は出てこなかった。私は手を引き抜き、用意しておいた検査結果を渡した。「赤ちゃんの発育に異常があって、このまま妊娠を続
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第5話
直人が勢いよく顔を上げた。「何て?」私はローテーブルの引き出しから、離婚協議書を取り出した。私の署名は、もう済んでいる。この家は結婚前からの私の財産。会社の株式は婚前契約に従い、それ以外の共有財産の分割は弁護士に任せることにしていた。取り分を余計に求めたりはしていない。もう、求めたいとも思わなかった。協議書を見つめる直人の目から驚きが消え、怒りが浮かんだ。「子どものことで、僕に仕返しするつもり?」「違う」「じゃあ、莉奈のこと?」「それも違う」10年間愛してきた人を見て、私は言った。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「もう、あなたを愛していないから」直人は胸を殴られたような顔をした。数秒して、ぎこちない笑みを作る。「紗月、自分が何を言ってるか、わかってる?」「わかってる」「僕と結婚するために海外の仕事を辞めて、会社のために親から譲られた家まで売ってくれた。なのに今さら、愛してないって?」「そう」「本当に、捨てられるの?」その問いには、私ができるはずがないという確信さえにじんでいた。昔の私を、よく知っているからだ。昔の私なら手放せなかった。10年の思いも、一緒にくぐり抜けた苦しい日々も、病院の階段で子どものために泣いた直人も。けれど、傷つききってしまえば、手放せないと思っていたものにも、すがる価値はなくなる。私はペンを取り、直人の前に置いた。「署名して」直人はペンを取らなかった。協議書をつかみ、そのまま引き裂いた。紙切れが床に散らばる。「離婚には同意しない」私は散らばった紙を見た。腹は立たなかった。弁護士のところには、まだ何部もある。「それなら、まず調停を申し立てる」直人の胸が大きく上下した。「このところ忙しくて、健診に付き添わなかっただけで?」「まだ、わからないんだね」「だったら教えてよ。僕の何がいけなかったのか。直すから」この半年で初めて、直人が自分にも非があると認めようとしていた。残念だけれど、もう遅い。私は莉奈を指さした。「彼女に出ていくように言って」莉奈の顔が白くなった。直人は迷った。たった2秒。それでも、その2秒で十分だった。私はうなずいた。「もういい。出ていかなくて」立ち上がって部屋へ戻り、荷造りしてあった
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第6話
しばらく、友人の藤原真由(ふじわら まゆ)の家に身を寄せた。産婦人科医の真由は、手術のことを知っていた、ただ1人の友人でもあった。ドアを開けて私の顔を見ると、真由は何も聞かずにスーツケースを受け取り、温かい料理を出してくれた。2口ほど食べたところで、急に吐き気がこみ上げた。洗面所へ駆け込み、身体が震えるほど吐いた。真由が隣にしゃがみ、背中をさすってくれる。「泣きたかったら、泣いていいんだよ」泣きたくなんかないと答えた。そう言い終えた途端、涙が洗面台に落ちた。その夜、私は長いこと泣いた。直人と別れるのがつらかったわけじゃない。生まれてこられなかった子どもと、愛されていると信じてきた、この10年間の自分のために泣いた。翌朝目を覚ますと、着信履歴は直人の名前で埋め尽くされていた。メッセージも何通も届いていた。【どこにいる?】【薬は持っていった?】【医者は何て言ってた?】【術後に脂っこいものを食べちゃいけないなんて、知らなかったんだ】【莉奈にはもう帰ってもらった】【紗月、話をしよう】最後のメッセージは、午前5時に送られていた。【迎えに行く。一緒に家に帰ろう】私はひと言も返さなかった。午前10時、弁護士から直人へ、離婚調停に向けた書類が送られた。30分後、また電話がかかってきた。今度は、そのまま着信を拒否した。昼になると、会社の人事担当からメールが届いた。研究開発責任者を解任し、株主としての地位は残すものの、今後は研究の通常の意思決定には関与させないという内容だった。末尾の承認者欄には、直人の名前があった。送信されたのは、昨夜の23時40分。私が離婚を切り出してから、わずか2時間後だった。読んだ真由が、怒りに任せてカップをテーブルにたたきつけた。「これ、脅してるつもり?」私は首を振った。「私が会社に戻って、莉奈に何かすると思ってるの」子どもを失ったことも、離婚を切り出したことも、直人にとっては、私が感情を抑えられなくなった結果でしかなかった。だからまず私を役職から外して、研究を守る。莉奈も守る。いつも自分は理性的だと言っていた。けれど、本当に理性的な人なら、研究開発責任者を、生データにまで平気で手を加える学生に交代させたりしない。パソコンを開いて会社のクラウドにログインしよ
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第7話
ファイルをすべて外付けドライブにコピーし、岡田に連絡した。電話に出た彼は、私の声を聞くと十数秒黙り込んだ。「佐藤先生、やっと連絡をくださったんですね」ほかにどれだけ証拠があるのか尋ねると、たくさん残っているという。「水野主任が研究を引き継いでから、少なくとも4回、データを書き換えています。そのたびに社長から、僕たちも協力するように言われました」「誰も反対しなかったの?」「反対した人は、みんな異動させられました」私は一度、目を閉じた。「どうして、そのときに通報しなかったの?」岡田が苦笑した。「会社の法務担当に言われたんです。研究資料を外に漏らしたら、何もかも失うほどの賠償金を払わせるって。佐藤先生は、この研究を立ち上げた人ですから、何とかしてくださると思っていました。でも、そのうち社長から、先生は妊娠して精神的に不安定だから、会社のことで煩わせるなと言われて……」私がおかしくなったと思っていたのは、私1人ではなかった。直人は周りの人たちにも、私がおかしくなったと吹き込んでいた。電話を切り、かつて指導を受けた北村教授にメッセージを送った。【先生、研究室に戻りたいです】北村先生は、すぐに電話をくれた。理由も、今の私に研究ができるかどうかも尋ねなかった。ただ、ひと言だけ。「君の実験台は、ずっと空けてあるよ」携帯を握ったまま、また涙がこぼれそうになった。10年を捧げなくても、私を1人の人間として尊重してくれる人はいた。1週間後、私は雲川大学共同研究センターに正式に復帰した。手術後の身体はまだ弱っていて、働けるのは1日4時間だけだった。それでも、再び白衣を着てマイクロピペットを握った瞬間、長い悪夢からようやく目が覚めた気がした。北村先生は、独立した研究チームを1つ任せてくれた。テーマはこれまでと同じ腫瘍免疫だが、若葉バイオの特許には抵触しない範囲で進める。新しい研究には、「夜明け」と名づけた。夜は、いつか明ける。闇の中で腐っていく人たちは、そのままにしておけばいい。直人が研究センターを訪ねてきた日、私はちょうどチームのミーティングを終えたところだった。彼は建物の前で3時間も待っていた。いつも身なりに気を使う人なのに、シャツはひどくしわが寄り、目は充血していた。私が出てくると、直人は足早に近づ
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第8話
直人はその場に立ち尽くし、顔からすっかり血の気が引いた。長い沈黙のあと、低い声で言った。「莉奈とは、一線を越えていない」「そんなことは、もういいの」「本当なんだ」焦ったように、彼が1歩近づいてきた。「時計は実験中だけ貸していたんだ。シャツのことだって、たまたまだよ。僕は1度も、莉奈に手を出してない」直人を見ていても、心は少しも動かなかった。「直人、まだわからないの?あなたたちが寝たかどうかなんて、もうどうでもいい。1度、10度、100度と、私よりあの子を優先してきたでしょう。その時点で、この結婚は終わっていたの」彼の目から、少しずつ光が消えていった。「研究を優先しすぎただけなんだ」「そう?」私は携帯を取り出し、岡田から届いた生データを開いた。「だったら教えて。どうして、あの子のデータ削除に手を貸したの?」直人の顔が、はっとこわばった。私は画面を彼の目の前に差し出した。「あなたのアカウントよ。変更した時刻も、あなたが会社のシステムにログインした時刻と重なってる。何も知らないなんて、言わないで」直人は記録を見つめたまま、なかなか口を開かなかった。私はふいに笑ってしまった。「あの子のためなら、あれほど大事にしていた研究者としての一線まで越えられるのね」「莉奈のためじゃない」声がひどくかすれていた。「資金調達の大事な時期だったんだ。実験が失敗したと公表したら、会社の資金が回らなくなる」「だからデータを消したの?」「一時的に調整しただけだ」「改ざんは、改ざんよ」直人が顔を上げた。「紗月、あの会社の半分は、紗月が心血を注いで作ったものだ。僕はそれを守りたかっただけなんだ」「私を言い訳にしないで」ひと言ずつ、はっきりと告げた。「100回研究に失敗するほうが、まだいい。会社を守るために、患者の命を犠牲にするつもりはない」直人はその場に縫い止められたように動かなかった。私は背を向けて、研究棟へ歩き出した。背後から、直人が叫んだ。「僕を告発するつもりなの?」私は足を止めた。振り返りはしなかった。「あなたを告発するためじゃない。あってはならない間違いを、正すだけ」3日後、若葉バイオに監督当局から調査の通知が届き、臨床試験の申請手続きが緊急に止められた。
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第9話
電話の向こうが静かになった。数秒後、莉奈が鼻で笑った。「師匠、負けを認めたくないなら、そう言えばいいじゃないですか。私が後任に選ばれたのは、師匠のものを奪ったからじゃありません。師匠がもう研究についていけなくなったから、直人さんは私を選んだんです。妊娠してからは毎日疑ってばかりで、正常なデータ1つだって何度も調べ直してましたよね。直人さんの言うとおり、そんな状態で研究なんてできるわけないんです」最後まで聞いても、怒りは湧かなかった。「莉奈」「何ですか?」「7番の実験群、6日目の蛍光画像の生データ。どうして5番の群の画像を使ったの?」莉奈が息をのんだ。私は問いを重ねた。「3番のサンプルの炎症性サイトカインのデータは、どうして最大値を削除したの?2番のマウスの異常死についても、記録には操作ミスと書いてあるけど、解剖報告では重いサイトカインストームが死因になっている。自分が何をしているか、本当にわかってる?」莉奈は、黙っていた。ようやく口を開いたときには、声が震え始めていた。「全部、直人さんが認めたことです」「じゃあ、認めるのね」一方的に電話が切れた。私は録音画面を見て、保存ボタンを押した。莉奈は忘れたのかもしれない。善意を貫くためにも、反撃の力が必要だということ。そう私に最初に教えたのは、莉奈だ。そして私があの子に最初に教えたのは、実験をする人間が細部をどれほど覚えているか、決して侮ってはいけないということだった。ほどなく調査チームは、若葉バイオの研究で複数のデータ隠蔽と画像の使い回しがあったことを確認した。直接手を下した莉奈は、会社から職務停止を命じられた。承認した立場にある直人も、すべての職務を停止された。出資者は資金をすべて引き揚げ、若葉バイオの資金繰りは完全に行き詰まった。会社の前には毎日、支払いを求める取引業者や、賠償を求める投資家が詰めかけた。直人は私を恨むだろうと思っていた。けれど、職務を停止された翌日、彼はまた研究センターに来た。その日は、ひどい雨だった。直人は傘も差さずに研究棟の入口に立っていた。私が仕事を終えて出るころには、全身ずぶ濡れになっていた。「紗月」彼は私の前まで来て、雨に濡れた封筒を差し出した。中には、署名済みの離婚届と離婚協議書が入っていた
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