로그인妊娠して、私は長年取り組んできた生命科学の研究から身を引いた。後を任せたのは、一から育てた教え子の水野莉奈(みずの りな)だった。 それ以来、莉奈は頻繁に家へ来るようになった。食卓では、夫と2人で研究データの議論に熱中し、私のことなど目に入らない。心血を注いできた私の研究なのに、今では口を挟む余地すらなかった。 その日の健診でも、2人は診察室の外で、周囲も気にせず子どもの名前を言い合っていた。 夫が振り返り、何でもないことのように言った。「莉奈は、この2つのほうが響きがいいって。どっちか好きなほうを選んで」 私は何も答えず、向き直って中絶の同意書に署名した。 そんなに気が合うのなら、もういい。あなたも、この子も、もういらない。
더 보기電話の向こうが静かになった。数秒後、莉奈が鼻で笑った。「師匠、負けを認めたくないなら、そう言えばいいじゃないですか。私が後任に選ばれたのは、師匠のものを奪ったからじゃありません。師匠がもう研究についていけなくなったから、直人さんは私を選んだんです。妊娠してからは毎日疑ってばかりで、正常なデータ1つだって何度も調べ直してましたよね。直人さんの言うとおり、そんな状態で研究なんてできるわけないんです」最後まで聞いても、怒りは湧かなかった。「莉奈」「何ですか?」「7番の実験群、6日目の蛍光画像の生データ。どうして5番の群の画像を使ったの?」莉奈が息をのんだ。私は問いを重ねた。「3番のサンプルの炎症性サイトカインのデータは、どうして最大値を削除したの?2番のマウスの異常死についても、記録には操作ミスと書いてあるけど、解剖報告では重いサイトカインストームが死因になっている。自分が何をしているか、本当にわかってる?」莉奈は、黙っていた。ようやく口を開いたときには、声が震え始めていた。「全部、直人さんが認めたことです」「じゃあ、認めるのね」一方的に電話が切れた。私は録音画面を見て、保存ボタンを押した。莉奈は忘れたのかもしれない。善意を貫くためにも、反撃の力が必要だということ。そう私に最初に教えたのは、莉奈だ。そして私があの子に最初に教えたのは、実験をする人間が細部をどれほど覚えているか、決して侮ってはいけないということだった。ほどなく調査チームは、若葉バイオの研究で複数のデータ隠蔽と画像の使い回しがあったことを確認した。直接手を下した莉奈は、会社から職務停止を命じられた。承認した立場にある直人も、すべての職務を停止された。出資者は資金をすべて引き揚げ、若葉バイオの資金繰りは完全に行き詰まった。会社の前には毎日、支払いを求める取引業者や、賠償を求める投資家が詰めかけた。直人は私を恨むだろうと思っていた。けれど、職務を停止された翌日、彼はまた研究センターに来た。その日は、ひどい雨だった。直人は傘も差さずに研究棟の入口に立っていた。私が仕事を終えて出るころには、全身ずぶ濡れになっていた。「紗月」彼は私の前まで来て、雨に濡れた封筒を差し出した。中には、署名済みの離婚届と離婚協議書が入っていた
直人はその場に立ち尽くし、顔からすっかり血の気が引いた。長い沈黙のあと、低い声で言った。「莉奈とは、一線を越えていない」「そんなことは、もういいの」「本当なんだ」焦ったように、彼が1歩近づいてきた。「時計は実験中だけ貸していたんだ。シャツのことだって、たまたまだよ。僕は1度も、莉奈に手を出してない」直人を見ていても、心は少しも動かなかった。「直人、まだわからないの?あなたたちが寝たかどうかなんて、もうどうでもいい。1度、10度、100度と、私よりあの子を優先してきたでしょう。その時点で、この結婚は終わっていたの」彼の目から、少しずつ光が消えていった。「研究を優先しすぎただけなんだ」「そう?」私は携帯を取り出し、岡田から届いた生データを開いた。「だったら教えて。どうして、あの子のデータ削除に手を貸したの?」直人の顔が、はっとこわばった。私は画面を彼の目の前に差し出した。「あなたのアカウントよ。変更した時刻も、あなたが会社のシステムにログインした時刻と重なってる。何も知らないなんて、言わないで」直人は記録を見つめたまま、なかなか口を開かなかった。私はふいに笑ってしまった。「あの子のためなら、あれほど大事にしていた研究者としての一線まで越えられるのね」「莉奈のためじゃない」声がひどくかすれていた。「資金調達の大事な時期だったんだ。実験が失敗したと公表したら、会社の資金が回らなくなる」「だからデータを消したの?」「一時的に調整しただけだ」「改ざんは、改ざんよ」直人が顔を上げた。「紗月、あの会社の半分は、紗月が心血を注いで作ったものだ。僕はそれを守りたかっただけなんだ」「私を言い訳にしないで」ひと言ずつ、はっきりと告げた。「100回研究に失敗するほうが、まだいい。会社を守るために、患者の命を犠牲にするつもりはない」直人はその場に縫い止められたように動かなかった。私は背を向けて、研究棟へ歩き出した。背後から、直人が叫んだ。「僕を告発するつもりなの?」私は足を止めた。振り返りはしなかった。「あなたを告発するためじゃない。あってはならない間違いを、正すだけ」3日後、若葉バイオに監督当局から調査の通知が届き、臨床試験の申請手続きが緊急に止められた。
ファイルをすべて外付けドライブにコピーし、岡田に連絡した。電話に出た彼は、私の声を聞くと十数秒黙り込んだ。「佐藤先生、やっと連絡をくださったんですね」ほかにどれだけ証拠があるのか尋ねると、たくさん残っているという。「水野主任が研究を引き継いでから、少なくとも4回、データを書き換えています。そのたびに社長から、僕たちも協力するように言われました」「誰も反対しなかったの?」「反対した人は、みんな異動させられました」私は一度、目を閉じた。「どうして、そのときに通報しなかったの?」岡田が苦笑した。「会社の法務担当に言われたんです。研究資料を外に漏らしたら、何もかも失うほどの賠償金を払わせるって。佐藤先生は、この研究を立ち上げた人ですから、何とかしてくださると思っていました。でも、そのうち社長から、先生は妊娠して精神的に不安定だから、会社のことで煩わせるなと言われて……」私がおかしくなったと思っていたのは、私1人ではなかった。直人は周りの人たちにも、私がおかしくなったと吹き込んでいた。電話を切り、かつて指導を受けた北村教授にメッセージを送った。【先生、研究室に戻りたいです】北村先生は、すぐに電話をくれた。理由も、今の私に研究ができるかどうかも尋ねなかった。ただ、ひと言だけ。「君の実験台は、ずっと空けてあるよ」携帯を握ったまま、また涙がこぼれそうになった。10年を捧げなくても、私を1人の人間として尊重してくれる人はいた。1週間後、私は雲川大学共同研究センターに正式に復帰した。手術後の身体はまだ弱っていて、働けるのは1日4時間だけだった。それでも、再び白衣を着てマイクロピペットを握った瞬間、長い悪夢からようやく目が覚めた気がした。北村先生は、独立した研究チームを1つ任せてくれた。テーマはこれまでと同じ腫瘍免疫だが、若葉バイオの特許には抵触しない範囲で進める。新しい研究には、「夜明け」と名づけた。夜は、いつか明ける。闇の中で腐っていく人たちは、そのままにしておけばいい。直人が研究センターを訪ねてきた日、私はちょうどチームのミーティングを終えたところだった。彼は建物の前で3時間も待っていた。いつも身なりに気を使う人なのに、シャツはひどくしわが寄り、目は充血していた。私が出てくると、直人は足早に近づ
しばらく、友人の藤原真由(ふじわら まゆ)の家に身を寄せた。産婦人科医の真由は、手術のことを知っていた、ただ1人の友人でもあった。ドアを開けて私の顔を見ると、真由は何も聞かずにスーツケースを受け取り、温かい料理を出してくれた。2口ほど食べたところで、急に吐き気がこみ上げた。洗面所へ駆け込み、身体が震えるほど吐いた。真由が隣にしゃがみ、背中をさすってくれる。「泣きたかったら、泣いていいんだよ」泣きたくなんかないと答えた。そう言い終えた途端、涙が洗面台に落ちた。その夜、私は長いこと泣いた。直人と別れるのがつらかったわけじゃない。生まれてこられなかった子どもと、愛されていると信じてきた、この10年間の自分のために泣いた。翌朝目を覚ますと、着信履歴は直人の名前で埋め尽くされていた。メッセージも何通も届いていた。【どこにいる?】【薬は持っていった?】【医者は何て言ってた?】【術後に脂っこいものを食べちゃいけないなんて、知らなかったんだ】【莉奈にはもう帰ってもらった】【紗月、話をしよう】最後のメッセージは、午前5時に送られていた。【迎えに行く。一緒に家に帰ろう】私はひと言も返さなかった。午前10時、弁護士から直人へ、離婚調停に向けた書類が送られた。30分後、また電話がかかってきた。今度は、そのまま着信を拒否した。昼になると、会社の人事担当からメールが届いた。研究開発責任者を解任し、株主としての地位は残すものの、今後は研究の通常の意思決定には関与させないという内容だった。末尾の承認者欄には、直人の名前があった。送信されたのは、昨夜の23時40分。私が離婚を切り出してから、わずか2時間後だった。読んだ真由が、怒りに任せてカップをテーブルにたたきつけた。「これ、脅してるつもり?」私は首を振った。「私が会社に戻って、莉奈に何かすると思ってるの」子どもを失ったことも、離婚を切り出したことも、直人にとっては、私が感情を抑えられなくなった結果でしかなかった。だからまず私を役職から外して、研究を守る。莉奈も守る。いつも自分は理性的だと言っていた。けれど、本当に理性的な人なら、研究開発責任者を、生データにまで平気で手を加える学生に交代させたりしない。パソコンを開いて会社のクラウドにログインしよ