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第3話

Auteur: 国王は超多忙
直人と知り合ったころ、私たちは雲川大学の生命科学研究科で博士課程に在籍していた。彼の専門はアルゴリズム、私は腫瘍免疫。ウェット実験のわからない彼と、プログラムの書けない私が、指導教員の取りまとめる共同研究でコンビを組むことになった。

当時の直人には、まともなパソコンを買う余裕もなかった。起動するだけで10分もかかる古い1台を毎日持ち歩き、データを処理していた。初めて会ったときも、研究棟の廊下にしゃがみ込んで修理の最中だった。ブルースクリーンになった画面と同じくらい、本人も青ざめていた。

予備のパソコンを貸すと、直人は丸3か月使った。返されたパソコンのバッグには、手書きの手紙といちごの飴が1つ入っていた。手紙にあったのは、たった1行。

【紗月。お金ができたら、世界でいちばん高いご飯をごちそうする】

やがて直人は、本当にお金を手にした。ただ、私とゆっくり食事をすることは、もう長いことなかった。

研究が最も難航した時期には、実験が17回続けて失敗した。私は昼間に細胞を培養し、夜は計画を練り直した。眠くなれば折り畳みベッドで2時間だけ眠る。直人も付き合ってくれて、3か月もの間、一緒にインスタントラーメンを食べた。

18回目の実験が成功した夜、研究室の入口に2人で座り、すっかり麺の伸びたカップラーメンを分け合っていた。直人が唐突に言った。「紗月、この先もずっと、僕と一緒にいてくれない?」

私は麺をくわえたまま、もごもごと答えた。「プロポーズにしては、ずいぶん安く済ませるんだね」

直人は、たった1枚しか持っていない銀行のキャッシュカードを私の手に押し込んだ。「今は安くても、この先、全部埋め合わせるから」

私は、その「この先」を信じた。海外の研究所を辞め、直人と帰国して、若葉バイオを立ち上げた。

莉奈は帰国して初めて指導した学生だった。家は裕福ではなく、修士1年目には白衣をもう1着買うことさえためらっていた。地道に頑張る姿を見て、若葉バイオの中核チームに入れた。奨学金の申請も、卒業時の優秀者表彰に向けた書類も、初めて投稿した論文も、私がつきっきりで直した。

妊娠10週目に、研究室で小規模な漏洩事故が起きた。私の曝露量はごくわずかだったが、医師からは念のため、危険性の高い環境をしばらく離れるように言われた。

離れたくはなかった。若葉バイオの研究は、動物実験の重要な段階に入っていた。たった1つのデータのずれで、5年間積み重ねてきたものが覆りかねなかった。

けれど、直人は社内会議で初めて声を荒らげた。

「研究はだめになっても、やり直せる。子どもを失ったら、どうするの?」

皆の前で私の入館カードを取り上げ、今すぐ帰って休むように言った。会議が終わると私を抱きしめ、離れるのは数か月だけだ、子どもが生まれたらいつでも戻ってくればいい、と言ってくれた。

誰に研究を引き継ぐのかと尋ねても、直人は迷わなかった。

「莉奈は紗月が育てたんだろう。紗月の考え方をいちばんよくわかってる」

確かに、莉奈は頭がよかった。私の仕事を引き継ぐのにも向いている。最後は私が折れた。

直人は私の髪を優しくなでた。

「赤ちゃんのためにも、ゆっくり休んで。あれこれ心配しなくていい。僕が見てるから」

それから私は、自分から研究の進み具合を聞かなくなった。

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  • この先は、あなたと歩かない   第9話

    電話の向こうが静かになった。数秒後、莉奈が鼻で笑った。「師匠、負けを認めたくないなら、そう言えばいいじゃないですか。私が後任に選ばれたのは、師匠のものを奪ったからじゃありません。師匠がもう研究についていけなくなったから、直人さんは私を選んだんです。妊娠してからは毎日疑ってばかりで、正常なデータ1つだって何度も調べ直してましたよね。直人さんの言うとおり、そんな状態で研究なんてできるわけないんです」最後まで聞いても、怒りは湧かなかった。「莉奈」「何ですか?」「7番の実験群、6日目の蛍光画像の生データ。どうして5番の群の画像を使ったの?」莉奈が息をのんだ。私は問いを重ねた。「3番のサンプルの炎症性サイトカインのデータは、どうして最大値を削除したの?2番のマウスの異常死についても、記録には操作ミスと書いてあるけど、解剖報告では重いサイトカインストームが死因になっている。自分が何をしているか、本当にわかってる?」莉奈は、黙っていた。ようやく口を開いたときには、声が震え始めていた。「全部、直人さんが認めたことです」「じゃあ、認めるのね」一方的に電話が切れた。私は録音画面を見て、保存ボタンを押した。莉奈は忘れたのかもしれない。善意を貫くためにも、反撃の力が必要だということ。そう私に最初に教えたのは、莉奈だ。そして私があの子に最初に教えたのは、実験をする人間が細部をどれほど覚えているか、決して侮ってはいけないということだった。ほどなく調査チームは、若葉バイオの研究で複数のデータ隠蔽と画像の使い回しがあったことを確認した。直接手を下した莉奈は、会社から職務停止を命じられた。承認した立場にある直人も、すべての職務を停止された。出資者は資金をすべて引き揚げ、若葉バイオの資金繰りは完全に行き詰まった。会社の前には毎日、支払いを求める取引業者や、賠償を求める投資家が詰めかけた。直人は私を恨むだろうと思っていた。けれど、職務を停止された翌日、彼はまた研究センターに来た。その日は、ひどい雨だった。直人は傘も差さずに研究棟の入口に立っていた。私が仕事を終えて出るころには、全身ずぶ濡れになっていた。「紗月」彼は私の前まで来て、雨に濡れた封筒を差し出した。中には、署名済みの離婚届と離婚協議書が入っていた

  • この先は、あなたと歩かない   第8話

    直人はその場に立ち尽くし、顔からすっかり血の気が引いた。長い沈黙のあと、低い声で言った。「莉奈とは、一線を越えていない」「そんなことは、もういいの」「本当なんだ」焦ったように、彼が1歩近づいてきた。「時計は実験中だけ貸していたんだ。シャツのことだって、たまたまだよ。僕は1度も、莉奈に手を出してない」直人を見ていても、心は少しも動かなかった。「直人、まだわからないの?あなたたちが寝たかどうかなんて、もうどうでもいい。1度、10度、100度と、私よりあの子を優先してきたでしょう。その時点で、この結婚は終わっていたの」彼の目から、少しずつ光が消えていった。「研究を優先しすぎただけなんだ」「そう?」私は携帯を取り出し、岡田から届いた生データを開いた。「だったら教えて。どうして、あの子のデータ削除に手を貸したの?」直人の顔が、はっとこわばった。私は画面を彼の目の前に差し出した。「あなたのアカウントよ。変更した時刻も、あなたが会社のシステムにログインした時刻と重なってる。何も知らないなんて、言わないで」直人は記録を見つめたまま、なかなか口を開かなかった。私はふいに笑ってしまった。「あの子のためなら、あれほど大事にしていた研究者としての一線まで越えられるのね」「莉奈のためじゃない」声がひどくかすれていた。「資金調達の大事な時期だったんだ。実験が失敗したと公表したら、会社の資金が回らなくなる」「だからデータを消したの?」「一時的に調整しただけだ」「改ざんは、改ざんよ」直人が顔を上げた。「紗月、あの会社の半分は、紗月が心血を注いで作ったものだ。僕はそれを守りたかっただけなんだ」「私を言い訳にしないで」ひと言ずつ、はっきりと告げた。「100回研究に失敗するほうが、まだいい。会社を守るために、患者の命を犠牲にするつもりはない」直人はその場に縫い止められたように動かなかった。私は背を向けて、研究棟へ歩き出した。背後から、直人が叫んだ。「僕を告発するつもりなの?」私は足を止めた。振り返りはしなかった。「あなたを告発するためじゃない。あってはならない間違いを、正すだけ」3日後、若葉バイオに監督当局から調査の通知が届き、臨床試験の申請手続きが緊急に止められた。

  • この先は、あなたと歩かない   第7話

    ファイルをすべて外付けドライブにコピーし、岡田に連絡した。電話に出た彼は、私の声を聞くと十数秒黙り込んだ。「佐藤先生、やっと連絡をくださったんですね」ほかにどれだけ証拠があるのか尋ねると、たくさん残っているという。「水野主任が研究を引き継いでから、少なくとも4回、データを書き換えています。そのたびに社長から、僕たちも協力するように言われました」「誰も反対しなかったの?」「反対した人は、みんな異動させられました」私は一度、目を閉じた。「どうして、そのときに通報しなかったの?」岡田が苦笑した。「会社の法務担当に言われたんです。研究資料を外に漏らしたら、何もかも失うほどの賠償金を払わせるって。佐藤先生は、この研究を立ち上げた人ですから、何とかしてくださると思っていました。でも、そのうち社長から、先生は妊娠して精神的に不安定だから、会社のことで煩わせるなと言われて……」私がおかしくなったと思っていたのは、私1人ではなかった。直人は周りの人たちにも、私がおかしくなったと吹き込んでいた。電話を切り、かつて指導を受けた北村教授にメッセージを送った。【先生、研究室に戻りたいです】北村先生は、すぐに電話をくれた。理由も、今の私に研究ができるかどうかも尋ねなかった。ただ、ひと言だけ。「君の実験台は、ずっと空けてあるよ」携帯を握ったまま、また涙がこぼれそうになった。10年を捧げなくても、私を1人の人間として尊重してくれる人はいた。1週間後、私は雲川大学共同研究センターに正式に復帰した。手術後の身体はまだ弱っていて、働けるのは1日4時間だけだった。それでも、再び白衣を着てマイクロピペットを握った瞬間、長い悪夢からようやく目が覚めた気がした。北村先生は、独立した研究チームを1つ任せてくれた。テーマはこれまでと同じ腫瘍免疫だが、若葉バイオの特許には抵触しない範囲で進める。新しい研究には、「夜明け」と名づけた。夜は、いつか明ける。闇の中で腐っていく人たちは、そのままにしておけばいい。直人が研究センターを訪ねてきた日、私はちょうどチームのミーティングを終えたところだった。彼は建物の前で3時間も待っていた。いつも身なりに気を使う人なのに、シャツはひどくしわが寄り、目は充血していた。私が出てくると、直人は足早に近づ

  • この先は、あなたと歩かない   第6話

    しばらく、友人の藤原真由(ふじわら まゆ)の家に身を寄せた。産婦人科医の真由は、手術のことを知っていた、ただ1人の友人でもあった。ドアを開けて私の顔を見ると、真由は何も聞かずにスーツケースを受け取り、温かい料理を出してくれた。2口ほど食べたところで、急に吐き気がこみ上げた。洗面所へ駆け込み、身体が震えるほど吐いた。真由が隣にしゃがみ、背中をさすってくれる。「泣きたかったら、泣いていいんだよ」泣きたくなんかないと答えた。そう言い終えた途端、涙が洗面台に落ちた。その夜、私は長いこと泣いた。直人と別れるのがつらかったわけじゃない。生まれてこられなかった子どもと、愛されていると信じてきた、この10年間の自分のために泣いた。翌朝目を覚ますと、着信履歴は直人の名前で埋め尽くされていた。メッセージも何通も届いていた。【どこにいる?】【薬は持っていった?】【医者は何て言ってた?】【術後に脂っこいものを食べちゃいけないなんて、知らなかったんだ】【莉奈にはもう帰ってもらった】【紗月、話をしよう】最後のメッセージは、午前5時に送られていた。【迎えに行く。一緒に家に帰ろう】私はひと言も返さなかった。午前10時、弁護士から直人へ、離婚調停に向けた書類が送られた。30分後、また電話がかかってきた。今度は、そのまま着信を拒否した。昼になると、会社の人事担当からメールが届いた。研究開発責任者を解任し、株主としての地位は残すものの、今後は研究の通常の意思決定には関与させないという内容だった。末尾の承認者欄には、直人の名前があった。送信されたのは、昨夜の23時40分。私が離婚を切り出してから、わずか2時間後だった。読んだ真由が、怒りに任せてカップをテーブルにたたきつけた。「これ、脅してるつもり?」私は首を振った。「私が会社に戻って、莉奈に何かすると思ってるの」子どもを失ったことも、離婚を切り出したことも、直人にとっては、私が感情を抑えられなくなった結果でしかなかった。だからまず私を役職から外して、研究を守る。莉奈も守る。いつも自分は理性的だと言っていた。けれど、本当に理性的な人なら、研究開発責任者を、生データにまで平気で手を加える学生に交代させたりしない。パソコンを開いて会社のクラウドにログインしよ

  • この先は、あなたと歩かない   第5話

    直人が勢いよく顔を上げた。「何て?」私はローテーブルの引き出しから、離婚協議書を取り出した。私の署名は、もう済んでいる。この家は結婚前からの私の財産。会社の株式は婚前契約に従い、それ以外の共有財産の分割は弁護士に任せることにしていた。取り分を余計に求めたりはしていない。もう、求めたいとも思わなかった。協議書を見つめる直人の目から驚きが消え、怒りが浮かんだ。「子どものことで、僕に仕返しするつもり?」「違う」「じゃあ、莉奈のこと?」「それも違う」10年間愛してきた人を見て、私は言った。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「もう、あなたを愛していないから」直人は胸を殴られたような顔をした。数秒して、ぎこちない笑みを作る。「紗月、自分が何を言ってるか、わかってる?」「わかってる」「僕と結婚するために海外の仕事を辞めて、会社のために親から譲られた家まで売ってくれた。なのに今さら、愛してないって?」「そう」「本当に、捨てられるの?」その問いには、私ができるはずがないという確信さえにじんでいた。昔の私を、よく知っているからだ。昔の私なら手放せなかった。10年の思いも、一緒にくぐり抜けた苦しい日々も、病院の階段で子どものために泣いた直人も。けれど、傷つききってしまえば、手放せないと思っていたものにも、すがる価値はなくなる。私はペンを取り、直人の前に置いた。「署名して」直人はペンを取らなかった。協議書をつかみ、そのまま引き裂いた。紙切れが床に散らばる。「離婚には同意しない」私は散らばった紙を見た。腹は立たなかった。弁護士のところには、まだ何部もある。「それなら、まず調停を申し立てる」直人の胸が大きく上下した。「このところ忙しくて、健診に付き添わなかっただけで?」「まだ、わからないんだね」「だったら教えてよ。僕の何がいけなかったのか。直すから」この半年で初めて、直人が自分にも非があると認めようとしていた。残念だけれど、もう遅い。私は莉奈を指さした。「彼女に出ていくように言って」莉奈の顔が白くなった。直人は迷った。たった2秒。それでも、その2秒で十分だった。私はうなずいた。「もういい。出ていかなくて」立ち上がって部屋へ戻り、荷造りしてあった

  • この先は、あなたと歩かない   第4話

    あの健診から数日、直人からは電話が1本もなかった。処置を受けた日から4日目、病院で診てもらって帰ってきたばかりの私のお腹は、まだしくしくと痛んでいた。直人が目の前に保温ボトルを置いた。「最近、食欲がないって聞いて、莉奈がわざわざ豚汁を作ってくれたんだ」蓋を開けると、濃い肉の匂いが広がった。表面には脂が浮いている。処置のあとで胃腸も弱っているから、しばらくは脂っこいものや重い食事を避けるように。医師にはそう言われていた。莉奈の専門は生命科学で、臨床医学ではない。術後の食事について知らなくても仕方がない。でも、直人は知っているべきだった。退院後の注意事項はリビングのテーブルに置いてある。彼は1度も読んでいなかった。私は蓋を閉じた。「いらないわ」隣に立つ莉奈が、傷ついたような声を出した。「師匠、3時間もかけて作ったんです」「それなら、自分で飲んで」直人の顔が、たちまち険しくなった。「紗月、人の好意を踏みにじらないと気が済まないの?」私は顔を上げた。「私がどうして飲めないか、わかる?」「飲みたくないなら、それでいい。わざわざ理由をつけなくてもいいだろう」「直人」私は名前を呼んだ。「赤ちゃん、もういないの」リビングが静まり返った。莉奈の手からバッグが落ちる。直人は言葉の意味がつかめないように、その場に立ったまま、長いこと私を見つめていた。「何て言った?」「3日前に、妊娠中絶の処置を受けた」直人の顔から血の気が引いた。次の瞬間、駆け寄ってきて私の手首をつかむ。「もう1度言って」点滴の痕のあざを、強い力で押さえられた。痛みに眉を寄せたけれど、振りほどこうとはしなかった。「赤ちゃんは、もういない」「どうして?」目を真っ赤にして、直人は声を裏返らせた。「紗月、どうして僕に黙ってそんなことをしたんだ?」彼を見ていると、その問いがおかしくてたまらなくなった。「私が同意書に署名したとき、あなたはすぐ外にいたよ」私をつかむ手がこわばった。「あれは、健診の書類じゃなかったの?」「聞いてくれた?」直人は何度か唇を動かしたが、言葉は出てこなかった。私は手を引き抜き、用意しておいた検査結果を渡した。「赤ちゃんの発育に異常があって、このまま妊娠を続

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