All Chapters of 母は養妹を救い、実の娘を見殺しにした: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

拓海があまりにも強く手を振り払ったため、負傷していた私はバランスを崩し、廊下の床に激しく倒れ込んだ。その瞬間、背中から何かが裂けるような鈍い音がした。短いうめき声が喉から漏れた。倒れた拍子に、背中に刺さっていたガラス片がさらに深く体内へめり込んだ。私は床にうずくまった。照明が目に刺さり、周囲の景色がぐるぐると回って見えた。「看護師さん……」ナースステーションにいた看護師が一人立ち上がり、こちらを見た。だが、すぐにまた座った。「起こして……先生を呼んでください……」誰も答えなかった。カルテの整理を続ける者もいれば、背を向け、大きな音を立ててスマホの動画を見始める者までいた。「看護師さん……」「高梨さん、自分で起きて、待合スペースで待っていてください」ようやく一人が口を開いたが、その声には苛立ちがにじんでいた。「高梨院長から何度も言われています。あなたに近づいて、特別扱いを求めようとする者は厳しく処分する、と。先週だって、宮下先生がブライダルチェックのときにあなたを優先して案内しなかったというだけで、リネン室へ回されたんですよ」私は言葉を失った。「優先」といっても、宮下先生は整理し終えた検査結果を、その場で私に渡してくれただけだった。それなのに、「身内だからと特別扱いはしない」という母の方針で、医師の仕事から外され、シーツの消毒をさせられていたのだ。説明しようと口を開いたが、背中の傷に響き、また激しいめまいに襲われた。冷や汗が止まらなかった。それでも、看護師たちの話は続いた。「高梨院長は厳しいけど、公平さだけは徹底しているよね」「そうそう。余計なことはしないほうがいいよ。医師でさえあんな処分を受けるんだから、私たちが逆らったら、仕事を失うかもしれないし」床の冷たさと、背中に広がる生温かい湿り気が混ざり合い、奇妙な感覚になった。呼吸はどんどん重くなっていくのに、意識だけは妙にはっきりしていた。アドレナリンが効いているのだと分かった。それが切れたとき、最悪の事態が訪れる。床の目地に爪を立て、必死に体を起こそうとした。だが、そのたびに、さらに無様な格好で床に崩れ落ちた。「大変!」待合スペースにいた中年の女性が、口元を押さえて私を指さした。「床に血が……」ナー
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第2話

真帆が5分近く扉を叩き続けた末、固く閉ざされていた扉がようやく開いた。母は険しい顔で出てきた。「佐伯さん、何を騒いでいるの?」真帆は床に横たわる私を指さし、緊張でつかえながら説明した。「高梨院長、千紘さんは内出血を起こしているかもしれません!」母は眉をひそめ、私のそばにしゃがみ込むと、背中の服を無造作にめくった。「傷はあるけれど、ただの表皮の損傷よ」立ち上がって手を払い、あからさまに苛立った目を真帆に向けた。「佐伯さん、看護学校で何を学んできたの?こういう擦り傷は見た目こそひどいけれど、細い静脈がいくつか傷ついて、出血が多く見えるだけよ。待合の患者ならともかく、あなたまで大騒ぎしてどうするの?」真帆は顔を真っ赤にして訴えた。「院長、本当に、下に硬いものが……」「もういい!」母は真帆の言葉を遮った。「背中は骨の構造が複雑だから、看護師のあなたが骨を異物と勘違いしても無理はないわ。慎重に確認した姿勢だけは評価するわ。でも、これ以上、救命処置の妨げになるなら、実習評価を見直さなければならないわね」そう言い終えると、母は私の腕を乱暴に引いた。「いつまで床に寝ているつもり?」ガラス片がずれ、どこか別の場所に突き刺さった。私は歯を食いしばり、母のズボンの裾をつかんだ。「お母さん、助けて。本当に痛いの……」裾が勢いよく引き抜かれた。母の声が耳の奥で鈍く響いた。「拓海も言っていたでしょう。事故のとき、あなたは一番安全な後部座席にいたって。美月は助手席にいて、あなたの代わりにけがをしたのよ。それなのに、まだ順番を争うつもり?」真帆が突然、私の手首を指さした。「高梨院長、千紘さん、赤いタグをつけています!」母の声が一瞬止まった。だが次の瞬間、その目には、すべて分かったというような色が浮かんだ。「搬送を担当した医師に、私のことを話したのね?院長の娘だからと赤いタグをつけてもらって、優先的に運び込ませたんでしょう?千紘、私はあなたをそんなふうに育てた覚えはない」母は突然声を張り上げた。救急外来の隅々まで響くほどの大声だった。「外では大勢の患者が処置を待っているのよ。それなのに、私との関係を使って順番を抜かそうとするなんて。私が許したところで、ほかの患者が納得すると思う?」待合スペ
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第3話

父と離婚したあと、母は一人で私を育てた。私は幼い頃から体が弱かった。外科医として将来を嘱望されていた母は、私の世話をしやすいよう、わざわざ小児科の医局へ移ったほどだった。拓海は隣の家に住んでいて、子どもの頃からいつも私を守ってくれた。母が夜勤の日に高熱を出したことがあった。あのときも、拓海は頑として私のそばを離れず、一晩中看病してくれた。大学へ進むときには、難関大学を目指せる成績だったにもかかわらず、迷わず医学部を選び、母の最後の教え子になった。「千紘、俺が一生、お前を守るから」いったい、いつから変わってしまったのだろう。母が、私の同級生で家庭に恵まれなかった美月を養女に迎えてからだった。美月は色白で美しく、風に吹かれただけで倒れてしまいそうなほど華奢だった。それでも、いつもけなげに「大丈夫」と言って、つらさをこらえているように見せていた。初めのうち、母はこう言っていた。「美月には両親がいないうえ、体も弱いの。あなたが面倒を見てあげて」だが、そのうち美月を抱き寄せながら、眉をひそめて私を見るようになった。「美月を見てみなさい。あんなに聞き分けがよくて、気丈でしょう。あなたも少しは自立したら?些細なことで、いつまでも甘えないの」私が傷ついていることに気づいた拓海も、当初は美月を嫌っていた。「あの子、いかにも計算高そうだな。お母さんの前で演技ばかりしてる」ところが、少しずつ、美月を見つめる時間が長くなった。「あいつも大変だったんだろ。それでも気丈に振る舞ってるのを見ると、放っておけない……千紘、お前が少し譲ってやれよ」今日も、私は拓海と婚姻届を出しに行くはずだった。ところが、美月が「お祝いに話題の店のケーキを買いたい」と言い出した。拓海は迷わず遠回りし、遅れを取り戻そうと赤信号まで無視した。そして大型トラックと衝突した。事故の直前、拓海は勢いよくハンドルを切り、車体を横向きにした。拓海と美月は、ほとんどけがをしなかった。だが、私のいた後部座席は、数トンもあるトラックに押しつぶされた。割れたガラスが皮膚を切り裂き、体の奥へ入り込んだ。あのガラスは心臓にでも刺さったのだろうか。そうでなければ、心臓が止まりそうなほど痛むはずがない。血の匂いが何度も込み上げ、腹部を中心に
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第4話

1週間前のブライダルチェックで、原因不明の血液凝固障害が見つかっていた。検査結果を手に母のもとを訪ねたが、話を切り出す前に、美月から電話がかかってきた。「また低血糖を起こしたの?心配しないで。お母さんがすぐ行くから」母はバッグをつかみ、振り返ることもなく私の横を通り過ぎた。「机の引き出しに入れておいて。帰ったら見るから」今、目の前で戸惑った表情を浮かべる母を見れば、あの検査結果はまだ引き出しに入ったままだと分かった。息を切らしながら、弱々しい声を絞り出した。「お母さん、私には血液凝固障害があるの……献血なんてできない……」母は一瞬、動きを止めた。私の服に手を触れ、すぐに冷笑した。「服についた血は、もう乾きかけているじゃない。血が固まらないなんて、よくそんな嘘を思いついたわね」「それは、ガラスが……」「もういい!」母は鋭い声で遮った。視線は氷のように冷たかった。「美月はあなたの代わりにけがをしたのよ。それなのに、少し血を分けることさえ嫌がるなんて。本当に見損なったわ」母は警備員を手招きした。「この子を処置室へ連れていって!」ぐったりと力を失った私は、そのまま処置台へ運ばれた。私の顔色を見た拓海が、はっと眉を寄せた。「先生、千紘の顔色、本当におかしくありませんか……」「嘘を見抜かれて、怯えているだけよ!」母は器具トレーを動かしながら、振り返りもせずに答えた。「私は何年、医師をしていると思っているの。本当にけがをしているのか、後ろめたいだけなのか、一目で分かるわ」美月は設備の整った特別患者用のベッドで上半身を起こし、各診療科の医長たちに囲まれていた。汚れきった私とは違い、美月の服には汚れ一つなく、腕の傷もすでにきれいに処置されていた。美月は青白い顔で私を見たあと、何かをこらえるようにうつむいた。「お姉ちゃんが嫌なら、もういいの。お母さんには育ててもらった恩がある。今日、助手席でお姉ちゃんの代わりにけがをしたことだって、何とも思ってないよ。お姉ちゃんを助けられるなら、命を差し出したって構わない」殊勝な言葉とは裏腹に、その声には深い悲しみがにじんでいた。まるで、助手席に座る権利を得意げに奪ったのが彼女ではなかったかのようだった。母は慌てて美月を抱きしめると、今度
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第5話

息苦しさが消えた。背中をむしばみ続けた痛みも、一瞬ですべてなくなった。体は、これまでにないほど軽かった。もう、どこも痛くなかった。気づくと、私は呆然と宙に浮かんでいた。下を見れば、隅のベッドに、私とまったく同じ姿をした体が横たわっていた。その体は影の中で動かず、顔を壁側に向けていた。肌は恐ろしいほど青白く、唇は生気のない紫色に変わっていた。そこには、もう命の気配がなかった。私は自分の体を黙って見つめ、苦く笑った。これが、死ぬということなのか。一方、明るい照明の下にある処置室の中央では、美月が心地よさそうに母に寄りかかっていた。顔色はよく、瞳まで輝いていた。母は包帯を巻いた美月の腕をそっと持ち上げ、丁寧に撫でた。「もう大丈夫よ。安心して。お母さんが痛くないように縫ったから、すぐによくなるわ」拓海は隣で器具トレーを片づけながら、ときおり優しい目を美月に向けていた。その光景が、ふいに記憶の中の情景と重なった。けれど、大切に守られている人は、とっくに私ではなくなっていた。反射的に手を伸ばし、母の肩に触れようとした。だが、指先は母の体をすり抜け、空をつかんだ。「お母さん、お姉ちゃん、ずっと黙ったままだね。私に怒ってるのかな?」美月の目が突然赤くなった。声には不安がにじんでいた。「私が血をもらったせいなら……私、返してもいいよ……」母は美月を強く抱きしめ、私の体があるほうに顔を向けた。「千紘、いつまで拗ねているの?呼んでいるのに、顔も向けないつもり?」私は宙に浮いたまま、大声で叫んだ。「違うよ、お母さん。私はここにいる!もう……死んだの……」けれど、空気がかすかに揺れただけだった。誰にも私の声は届かなかった。隅のベッドに横たわる私が、いつまでたっても顔を向けないため、母の表情はすっかり険しくなった。「千紘、本当に見損なったわ。あなたは父親と同じ。自分のことしか考えない、冷たい人間よ!姉なのに、妹がけがをしても一言も気遣わない。それどころか、何でも張り合って、治療まで遅らせようとした!」母の口調はますます厳しくなり、目には嫌悪があふれていた。「今すぐ起きて美月に謝らないなら、もう娘だとは思わない。そんな心の狭い子に育てた覚えもない。お父さんそっくりのその顔も
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第6話

拓海はその場で少しためらったあと、私のほうへ足を踏み出した。だが、わずか一歩進んだところで、背後から慌てた声が上がった。「美月、美月!どうしたの?」美月は目を閉じ、力なくベッドへ倒れ込んだ。拓海はすぐさま向きを変え、迷うことなく美月のもとへ駆け戻った。倒れ込んだ美月を抱き起こし、そのまま腕の中で支えた。美月はゆっくり目を開けると、拓海の袖を弱々しくつかんだ。瞳には涙がたまっていた。「拓海くん、はさみも鉗子も怖くて……そばにいてくれない?」美月は拓海の肩越しに私を見て、声をかけた。「お姉ちゃん……本当に怖いの。ほんの少しだけ拓海くんにそばにいてもらうこと、許してくれるよね……」拓海もその視線を追って私を見た。声がわずかに和らいだ。「千紘、美月の処置はすぐに終わる。もう少しだけ待ってくれ。終わったら、すぐに行くから……」けれど、隅に横たわる私は、何の反応も示さなかった。美月はつらそうに唇をかみ、涙をぽろぽろとこぼした。拓海の目に苛立ちが浮かび、声が冷たくなった。「千紘、今日はどうしたんだ?みんな何度も穏やかに説明したのに、まだわがままを通すつもりか。最近のお前は、あまりにも身勝手だ」拓海は美月の腕の傷に目を落とし、息をのんだ。「どうして、いつまでも血が止まらないんだ……」その言葉が終わらないうちに、処置室の扉が勢いよく開いた。検査報告書を手にした検査部の医師が、切迫した表情で飛び込んできた。「高梨院長、大変です。美月さんの血液検査に異常が出ました!血液凝固因子を侵食し、破壊する特殊なウイルスが検出されています。傷から再び出血したのは、そのせいです!」それを聞いた美月は顔面蒼白になり、声を上げて泣き始めた。母も顔色を変え、検査報告書を奪うように受け取った。だが、詳しく確認すると、少しだけ眉間のしわを緩めた。「美月、怖がらなくていいのよ。このウイルスは、初期なら確実に治せるわ。お母さんを信じて。あなたは絶対に助けるから」美月は顔を覆い、すすり泣きながら私を見た。「でも、今までは何ともなかったのに……まさか、お姉ちゃんが……私はけがをしていたのに、ウイルスに感染した血を入れて、お姉ちゃんは私を……」「え?」美月が最後まで言う前に、母は美月を抱く腕の力を緩めた。「
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第7話

指先に触れたのは、ぞっとするほど冷たく、硬くなった体だった。母の顔から一瞬で血の気が引き、瞳孔が急激に縮んだ。「千紘……ねえ……お母さんを怖がらせないで……」母は反射的に私を揺さぶり続けた。手に込める力は、ますます強くなった。もともとベッドの端に寄っていた硬直した体は、その勢いでまっすぐ床に落ちた。鈍い音を立てて仰向けになった。顔はすでに生気のない青白さに変わり、わずかに開いた目には、戸惑いと苦痛が残っていた。口元の血は、黒く固まっていた。「いやあっ!」母の悲鳴が処置室を切り裂いた。膝から力が抜け、その場で意識を失った。その騒ぎで、拓海もようやく異変に気づいた。足早に駆け寄り、床に倒れた私の顔を見た瞬間、拓海は息をのんで立ち尽くした。次いで、膝から床に崩れ落ちた。震える二本の指を、私の首筋に伸ばした。指先に脈はまったく触れなかった。その冷たさに、拓海は動けなくなった。胸だけが激しく上下し、引きつった息が喉から漏れた。母は看護師の応急処置で意識を取り戻すと、目を開けるなり拓海の腕をつかんだ。その瞳には、まだ一縷の望みが残っていた。「拓海……どうなの?千紘は気を失っているだけでしょう?どうして早く蘇生しないの!私がいつも教えているでしょう!」拓海は目を真っ赤にし、震える声を絞り出した。「先生……千紘は、もう……亡くなっています……」「そんなはずはない!」母は半狂乱になり、拓海を突き飛ばした。両手を重ね、硬くなった私の胸を強く圧迫した。「早く蘇生して!AEDとアドレナリンを!何をしているの!」周囲は騒然となった。拓海は床に膝をついたまま顔を覆い、声を抑えきれずに泣いていた。「1、2、3……っ!」母は全力で胸骨圧迫を続けたが、数回目で突然手を止めた。呆然と、自分の手のひらを見つめた。私の体内に埋まっていたガラス片が、強い圧力で胸を貫き、胸骨圧迫をしていた母の手のひらに深く突き刺さっていた。そのガラス片が引き抜かれると同時に、胸腔と腹腔にたまっていた血が、開いた傷口から一気にあふれ出した。母は流れ出る血を凝視し、うわ言のようにつぶやいた。「どうして……どうして、こんなに血が……」突然我に返り、血まみれの両手で傷口を塞ごうとした。「千紘
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第8話

数分後、処置室の扉が開いた。清掃用の作業着を着て、モップまで手にした宮下先生が入ってきた。母は宮下先生を見るなり飛びかかり、作業着の襟元をきつくつかんだ。「教えて。千紘の検査結果は、いったいどういうことなの?どうして血液凝固障害になったの!」血だまりの中に横たわる私を見て、宮下先生の目に驚きと痛ましさがよぎった。だが、すぐに母に冷ややかな笑みを向けた。「高梨院長。千紘さんのブライダルチェックでは、確かに珍しいウイルスへの感染と、それによる血液凝固障害が確認されました。でも、治療困難な病気ではありません。早期に治療を始めれば、外科の名医である院長にとっては、薬を数種類処方するだけのことでしょう」宮下先生は母を見下ろした。「まさか、これだけ時間がたっているのに、ご自分の娘の体調をご存じなかったんですか?」母の体が激しく震えた。何度も話を切り出そうとした私を、苛立って遮った場面を思い出したのだろう。「今は忙しいの。あとで見るから」母は目を赤くし、宮下先生の腕をつかんで問い詰めた。「危険だと分かっていたなら、どうして私に直接知らせなかったの?」宮下先生は力任せにその手を振りほどき、あざけるように笑った。「高梨院長、お忘れですか?私は『身内を特別扱いし、院内のルールを乱した』という理由で、医師の仕事を外され、リネン室へ回されたんです。院長は、私のように医師としての倫理に欠ける人間には、今後一切、診療に関わらせないとまでおっしゃいました。ですから、私はただ、そのご指示どおりにしただけです」母は口を大きく開いたまま、何も言えなかった。宮下先生はさらに追い打ちをかけた。「それに、院長がご覧になっていなくても、結果が出た日に美月さんも見ています。何も聞いていないんですか?」騒がしかった処置室が、突然、死んだように静まり返った。母と拓海は同時に振り向き、ベッドの美月をにらみつけた。美月は顔面蒼白になり、反射的に首を横に振った。「知らない……私は何も知らない。あの日は、自分の貧血の検査結果を取りに行っただけ!お姉ちゃんに血液凝固障害があると知っていたら、血をもらおうなんて思うわけないでしょう……」宮下先生が横で鼻を鳴らした。「貧血?あれだけ元気なのに、どこが貧血なの?」母は美月から
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第9話

待合スペースで順番を待っていた患者の中に、新聞社の社会部記者に情報を提供している人物がいた。待ち時間の長さにしびれを切らし、処置室の中で何をしているのか探ろうと、扉に耳を当てた。ところが、中から聞こえてきたのは整然と治療を進める声ではなく、激しい言い争いだった。「死亡」「偽造」「報復」といった言葉まで、断片的に聞こえた。長年の経験から、病院が重大な医療事故を隠そうとしているのではないかと疑い、すぐに知り合いの記者に連絡した。急行した記者たちは、交通事故の事情確認に訪れた警察官たちと、ちょうど病院の前で鉢合わせた。警察官の一人が室内を見回し、私の遺体に目を止めると、眉を動かした。「高梨千紘さんは、けがが原因で亡くなったんですか?現場では最優先の救命措置が必要だと判断されていたはずです。見たところ、すぐには治療を受けられなかったようですが」母はふらつきながら、警察官の袖をつかんだ。「娘の事故は、いったいどうして起きたんですか?運転席の後ろは、一番安全な席だと言われているでしょう?」警察官は真剣な表情で袖を引き抜き、重い口調で答えた。「確かに、一般的な交通事故では、運転席の後ろは比較的安全だとされています。危険を感じた運転者が、無意識に自分を守ろうとするからです。しかし、今回、運転者が取った行動は普通ではありませんでした」警察官はタブレットを操作し、全員に見えるよう掲げた。「復元した車内カメラの映像です。事故が起きるまでの様子が、すべて記録されています」画面には、ハンドルを握る拓海と、助手席で楽しそうに笑う美月が映っていた。美月は話題の店のケーキを手にし、フォークですくって一口食べると、親しげに拓海の口元へ差し出した。拓海はそれを食べただけでなく、片手をハンドルから離し、美月の頬を愛おしそうにつまんだ。そのまま美月の手を握り、シフトレバーの上に重ねた。後部座席では、私は静かに窓に寄りかかり、目を閉じていた。前で起きていることには、まったく気づいていなかった。美月は口元を押さえながら私をちらりと見ると、突然、身を乗り出して拓海の頬に口づけた。拓海は美月をたしなめるように見たが、交差点の信号が赤に変わったことには気づかなかった。そのまま交差点へ進入し、正面から来た大型トラックへ突っ込んでい
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第10話

宙に浮かぶ私も含め、その場にいた全員が言葉を失った。拓海が美月を特別扱いしていることには、私も気づいていた。けれど私は、「兄のような気持ちで妹を守っているだけだ」と、意地になって自分をだまし続けていた。母の顔は怒りで真っ赤になり、突き出した指が激しく震えていた。「私はあんたを実の娘と同じように育ててきたつもりよ。千紘にしてやることは、何だってあんたにも同じようにしてきた。あんたを粗末に扱った覚えなんてない。私に恨みがあるなら、私にぶつければよかったでしょう!どうして千紘を殺したの!」母の叫びに、美月の顔が激しくゆがんだ。「粗末にしてない?あんなの、ただの施しじゃない!どうして私は、生まれてすぐ親に捨てられて、人の世話にならなきゃ生きていけなくて、どこへ行っても邪魔者みたいに扱われなきゃいけなかったの?千紘だって父親に捨てられたのは同じでしょう。それなのに、あの子には愛してくれる母親がいて、欲しいものだって何でも手に入った!」美月は、床に横たわる私を指さした。「初めて会った日のこと、覚えてる?千紘はあなたに甘えて高級化粧品を2セット買ってもらい、そのうち1セットを私にくれた。そのうえ、何も知らない顔で笑いかけてきたのよ。あか抜けない私を見下して、自分がどれだけ恵まれてるか見せつけながら、恵んでやったつもりだったんでしょう!」美月は唇をゆがめた。「あの日、決めたの。千紘が持ってるものを、全部奪ってやるって。母親も、婚約者も、この子が当たり前みたいに手にしてたものも……何もかも!」美月は狂ったように笑い、目には涙まで浮かんでいた。処置室の者たちは、化け物でも見るような目で美月を見ていた。記者たちのカメラは、その一部始終を記録していた。私は力なく宙に座り込み、あまりのばかばかしさに笑いたくなった。善意で分けただけの化粧品が、私の人生を壊すほどの憎しみを招いていたなんて。「殺してやる!」母は看護師の手を必死に振りほどき、はさみをつかんで美月に襲いかかろうとした。だが、それより先に動いた者がいた。目を真っ赤にした拓海が、美月の首を両手で絞め、ベッドに押し倒した。「お前が俺を陥れたんだ。俺を酔わせて、あんなことをさせて……俺が愛しているのは千紘だけだ。お前なんかが、千紘の代わりになれると思うな!」
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