All Chapters of 私の理想の家を愛人に贈った夫: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

私は壁に手をついてゆっくり立ち上がり、平らになったお腹に触れる。止まったはずの涙が、また頬を伝った。本当なら、靖は私が流産したことに気が付くはずだった。今朝、浴室で血の塊が次々と出てきたとき、私はすぐに靖へ、病院に連れていってほしいと頼んだ。しかし、書類を整理していた靖は、私を見てわずかに眉をひそめただけ。「なんでそんなに血が出てるんだよ。生理の処理くらいちゃんとできないのか?そんなことで病院についていく暇ないから。早くきれいにしろよ。床まで汚れるだろ。まだ内装してないからって、汚していいわけじゃないんだからな」私が血を流しているのを見て、靖が真っ先に見せたのは心配でも動揺でもなく、隠しきれない嫌悪だった。タイルすら貼られていないコンクリートの床のほうが、私の血より大事らしい。私は激しい痛みをこらえながら、床についた血をきれいに拭き取った。それから上着を着て、もう一度靖に病院へ連れていってもらおうとしたその時、美月から靖に電話がかかってきた。「靖、朝ごはんにあそこのパン屋さんのパンが食べたいの。少し遠回りになるけど、寄ってきてくれない?ほら、私、朝ごはん抜くと図面描けないから……」スピーカーにしていたわけでもないのに、美月の甘ったるい声は、私のところまではっきり聞こえてくる。私は慌てて靖を引き止めようとしたが、靖は私をちらりと見ただけで、そのまま私の後ろの床を指さした。「また汚れてる」その一言で、私は動けなくなった。靖は美月には優しい声で答えながら、振り返りもせず玄関を出ていった。私がまだ血を流し続けているのに……靖にとっては、私を病院へ連れていくことより、美月の朝食を買っていくほうが大事だったのだろう。その時、私のスマホが震え、我に返った。親友の吉川園子(よしかわ そのこ)からのメッセージ。【智世、後悔してる?】子宮内容除去術を受けると決めたことだ。病院で一通り検査を終え、切迫流産と書かれた診断結果を見たとき、私は泣きながらも笑っていた。妊娠を喜ぶ暇さえないまま、先に切迫流産を突きつけられた。あの時、医師から示された選択肢は二つだった。妊娠を継続するための治療を受けるか、それとも、妊娠を終わらせるか。家を出る前の靖の態度を思い返し、私は迷うことなく後者を選ぶ
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第2話

帰り道、SNSを開くとずいぶん賑わっていた。美月が、新居の工事がようやく始まったと何件も写真を投稿している。その中でも一番目立つ位置に置かれていたのは、靖とのツーショットで、わざわざハートの加工まで施されている。【靖の全面協力に大感謝!靖がいなかったら、こんな素敵なおうちはできなかった】コメント欄はすぐに盛り上がった。【靖さん、美月さんの新居を設計するために、決まってた仕事を何件も断ったらしいよ!】【最近ずっと事務所に泊まり込んでるって聞いたから、起きてる時間はほとんど美月さんの図面描いてるんじゃない?】【さすがインテリア業界のトップコンビ。仕事へのこだわりまで息ぴったりじゃん!】私は無表情のまま画面をスクロールした。どの完成予想図にも見覚えがある。寝室の間接照明も、テレビ背面の壁に使われている素材も、どれも私が靖に何度も話していたものだった。靖は、私が思い描いていた理想の家を、そっくりそのまま別の女に与えた。しばらく画面を見つめてから、私は美月の投稿すべてに「いいね」を押した。SNSを閉じようとしたところで、同僚からメッセージが届く。【智世さん、もし良かったら、ご自宅の設計図って見せてもらえませんか?参考にしたくて。靖さんってすごく腕のいいデザイナーだし、ご自宅もきっと素敵なんでしょうね!】私は冷めた気持ちで笑った。結婚したばかりの頃、友人たちはみんな、有名なインテリアデザイナーと結婚した私を羨ましがった。「あの有名デザイナーの浅倉靖だよ?どんな人の理想の家でも形にできるって有名じゃん。そんな人が旦那さんなんて、絶対幸せだよね」「智世、靖さんと結婚したなら家のことは何も心配いらないじゃん!」あの頃の私も、本気でそう思っていた。けれど家に入った日、目の前にあったのは剥き出しの壁とコンクリートの床や、そこら中を走る配管や配線。一瞬、あまりの見窄らしさに、私は部屋を間違えたのかと思ったが、それでも靖は平然としていた。結婚1年目、通勤に便利だからという理由で、私たちはその未完成の部屋にそのまま住み始めた。私は何度も内装工事の話をしたけれど、そのたびに靖は適当な理由をつけて先延ばしにした。「智世、子どもが生まれてから子ども部屋も一緒にやったほうが楽だろ。内装したあとで気に
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第3話

翌朝、私はスマホの通知音で目を覚ました。昨日送った数枚の写真は、何人もの手を経て、いつの間にか事務所の社内グループにまで広まっていた。画面の議論を確かめる間もなく、それらの投稿はすべて削除されていた。おそらく靖が消したのだろう。次の瞬間、スマホがけたたましく鳴った。「智世、もう気は済んだだろ?昨日、出かける前に少しきつく言ったくらいで、こんな仕返しまでしてくるなんてさ」靖の声には疲れが滲んでいて、一晩中、煙草でも吸っていたような掠れた声だった。私は気持ちを落ち着けて答えた。「仕返しするような気力もないよ。靖、私は事実を言っただけ。それを見た人がどう思うかまで、私にはどうしようもないことだから」電話の向こう側で、しばらく沈黙が続く。私の我慢が限界に近づいた頃、ようやく靖が淡々と口を開いた。「智世、この3年、君がずっと不満だったのは分かってる。でも、安心してくれ。数日中には俺たちの家の設計を始めるから。ただその前に……」声に有無を言わせない冷たさが混じる。「まず社内のグループチャットで謝って、俺とふざけていただけだって説明するんだ。俺たちの家は、俺と美月が担当することになってるのに、今回のことで、美月の評判にまで影響が出てるんだよ」受話器越しにライターの音がした。靖はどこか笑いを含んだ声で続ける。「心配しなくていい。智世が謝ったら、俺もすぐグループで今回のことは許すって返事するからさ。みんなの前で恥をかかせたりはしないよ」思わず笑いが漏れた。この人が何度も私に温かい家庭を作ろう、と約束してくれたのに。「靖、謝るのは私じゃないよ。それに、もうあの家を設計してもらう必要もないから。ねえ、私たち離婚しよう」それだけ言って電話を切り、私はすぐに事務所の担当者へ連絡した。「お疲れ様です、浅倉です。事情が変わったので、家の工事をキャンセルしたいのですが……」「浅倉さん、本当によろしいんですか?規定上、キャンセルとなっても着手金は返金できかねます」担当者は明らかに驚いている。「この3年間、浅倉さんとは何度もこの工事についてご相談させていただきましたよね。記録も確認したのですが、もう60回近くお話しさせていただいてます。それに、この工事はすでに始まっていますし、担
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第4話

「智世さん、インテリアの確認に来ました!」美月は部屋に入るなり、ごく自然に靖の腕へ自分の腕を絡めた。けれど、傍らに置かれた書類に気づくと、一瞬だけ動きを止める。「智世さん……靖と離婚するんですか?」私は答えず、美月が手にしている鍵を見た。そこには、私が靖に贈ったお守りがついていた。「どうして、うちの鍵を持ってるんですか?」美月の顔がさっと青くなり、次の瞬間には、目に涙が浮かぶ。「智世さん、まだ靖が私の工事現場を見に来て、家に帰らなかったことを怒ってるんですか……ごめんなさい。私のせいで靖と喧嘩しないでください……」「美月のせいじゃないから、謝る必要なんてない」靖は眉間を揉みながら、美月をそっと自分の後ろへかばった。「智世、もう子供じゃないんだから、いい加減にしろよ。美月はこの家のインテリアを担当するんだぞ。現地を確認してプランを作るために、鍵を持ってたほうが便利だろ?美月の工事現場を見に行ったのだって、仕事のうちだ」私は目の前の靖を見つめた。彼があまりにも真剣な口調で言うから、一瞬、また自分のほうが間違っているような気にさせられそうになる。靖はいつもそうだった。私を傷つけたことさえ、まるで自分が正しいことをしているように語るのだ。靖は私の反応など気にも留めず、美月を連れて部屋の中を見て回り始めた。「靖、東向きのこの部屋、ウォークインクローゼットにしたらどう?一番日当たりがいいし!こっちのゲストルームは書斎にぴったりじゃない?そうしたら一緒に図面も描けると思うんだけど」東向きの部屋は、私が子ども部屋にするつもりで空けていた。ゲストルームは、私の両親が盛沢市へ遊びに来たときのために、靖が用意してくれた部屋。それなのに今、靖は美月を優しい目で見つめ、笑って頷いている。「美月の好きなようにしよう」家の工事はもう中止したとはいえ、それでも、私の傷口を踏みつけるように美月の好き勝手を許す靖を、黙って見ていることはできなかった。「靖、これが二人の言う設計プランなの?いつもこんなふうに依頼を受けてるなら、そのうち事務所が潰れるんじゃない?」図面にメモを取っていた美月の手が止まった。再び口を開いたときには、もう泣きそうな声になっている。「智世さん……私はただ、自分の意見を言った
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第5話

その後の3日間、靖は一度もあの家に戻らなかった。工事のことはすべて事務所の実習生に任せ、靖自身は美月の新居へ行って、引き続き現場を監督する。日常は、何事もなかったように元へ戻った。違うことがあるとすれば、智世から「帰ってきて」と何度も連絡が来なくなったことくらい。そもそも新居の内装をずっと先延ばしにしていたのは、智世がまだ妊娠しておらず、子ども部屋をどうするか決めきれていなかったことも理由の一つだった。けれど、一番大きかったのは、一つの家に縛られたくなかったから。内装さえしなければ、そこはまだ「家」にはならない。決まった時間に帰る必要もなければ、夜を過ごす場所は事務所でもいいし、会社近くに借りてある小さな部屋でもいいのだ。それこそ、美月の新居に泊まることだってできる。靖は何の通知もないスマホを見つめていて、ふと、今まで気づかなかったことに思い至った。いつからか、自分は智世がいる場所を「帰る家」だと思わなくなっていたらしい。「靖、ここに造り付けのテレビボードを入れるのはどう?横に飾り棚を作って、二人の写真とか賞状とかトロフィーを並べたいな」美月が笑いながら、靖の肩にもたれかかる。「テレビ見ながら、写真も一緒に見られるでしょ?」靖はほとんど考えもせずに答えた。「完成品のフロートタイプにするって言ってなかったか?掃除もしやすいし、あとから替えられるし……」そう言いかけて、靖はその場で固まった。それは美月の希望じゃなく、智世が以前、何度も話していた案だった。美月が不思議そうに顔を上げる。「靖、疲れてるの?私が言ったことまで忘れちゃった?」「悪い……」靖は顔を手で覆うようにして擦った。それから家の鍵を強く握りしめ、立ち上がる。「職人さんたちには話を通してあるから、工事のことは直接やり取りしてくれ。智世から3日も連絡がないから、一度戻るよ」美月が引き止めても、靖は初めて振り返らずに出ていった。ほとんど飛ばすようにして家へ戻り、鍵を差し込む手はなぜか小さく震えていた。帰る途中から、胸の奥でずっと声がしていた。今、戻らなければ後悔する。玄関を開けても、中は見慣れたままだった。剥き出しの壁、でこぼこのコンクリート床、むき出しの配管と配線。智世がいないところを見ると、
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第6話

江川市の秋は、すぐそこまで来ていた。到着口を出ると、もう待っていた園子。「智世!あなたが傷つけられた街から脱出おめでとう!今日から江川市で新生活だね!」園子は勢いよく私の肩を抱き、そのまま荷物まで持ってくれた。「ようやく踏ん切りがついたんだね。本当に良かった。出る前に、靖さんには言ったの?」私はマフラーを寄せ、小さく頷いてから、再び首を振る。「離婚協議書とか、手術記録とかの関係ある書類は全部テーブルに置いてきた。それ以外は、もう話すことないから」園子はカラカラと明るく笑い、それ以上靖の話をしようとはしなかった。靖をブロックしてからも、知らない番号から何度も電話がかかってくる。私は、全部無視した。やがて研修が始まった。初日の受付で、担当の長谷川雫(はせがわ しずく)が笑顔で手を差し出してくれた。「浅倉さん、今回の研修で異業種から選ばれたのは、あなただけなんです。応募時に提出された資料も拝見しましたが、インテリアデザインに対して、独自の考えをお持ちだと感じました」雫はパソコンの画面を私に向ける。「異業種出身でありながら、ここまで完成度の高いイメージをまとめられるのは本当にすごいです。差し支えなければ、デザインの着想について教えていただけますか?」私は視線を落として、少しだけ微笑んだ。「自分の理想の家を、いつか形にしたかったんです」雫さんの目がわずかに明るくなる。「頭の中にある家をちゃんと形にしたくて、独学で作図ソフトを覚えました。専門書も何冊か買って、少しずつ勉強して……大きな夢があるわけじゃないんですが、ただ、自分が後悔しないようにはしたいんです」雫が優しく私の肩を叩き、称賛の眼差しを向けてくれた。「浅倉さん、ようこそ。ここでたくさんのものを得られることを願っていますね」その日の研修を終え、会場を出たところで、思いがけない人影が目に入った。化粧もしておらず、ずいぶん憔悴して見えたが、それは美月だった。私を見つけると彼女は身体を震わせ、ぎこちない笑みを浮かべながら近づいてくる。「智世さん……やっと、見つけました……一度、盛沢市に戻ってくれませんか?靖があなたを探して、おかしくなりそうなんです……」彼女は泣きそうな声で言いながら、スマホの動画を開いた
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第7話

靖の顔を見た途端、美月の目から涙がこぼれ落ちた。「靖……私、さっきは焦って……」けれど靖は最後まで聞かなかった。すぐに私へ向き直り、怪我がないか確かめるように全身を見つめる。私に怪我がないと分かると、彼はようやく肩の力を抜いた。「智世。流産したばかりなんだから、ちゃんと休まないと駄目だろ?」彼は無理に笑みを作り、私の手を取ろうとする。「盛沢市への航空券はもう取ったから、とりあえずは社宅で暮らそう。住み込みで世話してくれる人も手配したから、ちゃんと休めるはずだ。食べたいものがあれば言ってくれ。俺が覚えて作るし、家の設計も、もう一度やり直して、工事も始めてるから」少し間を置いて、靖はスーツのポケットから、丁寧に折りたたまれた図面を取り出した。「君の希望通りにしたよ。子ども部屋もゲストルームも、もう勝手に用途を変えたりしない……」「靖。自己満足はもう終わった?」靖の笑顔が固まる。「終わったなら帰って。もう二度と私の前に現れないでくれる?」そう言って背を向けようとした私の手首を、靖が強く掴んだ。けれど強く掴みすぎたことに気づいたのか、すぐに力を緩める。「智世、全部君の望み通りにしたんだ。美月の家の工事にはもう関わらないし、これから事務所でも、あいつと同じ案件には入らない」靖は目の前の研修施設を見上げた。「智世がインテリアデザインをやりたがってたことも知ってるよ。前から広報を辞めて、設計のほうへ移りたがってたよな?そのとき俺は……君の気持ちを考えずに、異動申請を何度も差し戻した」私は思わず目を見開いた。「……あれ、靖が却下してたの?」靖は顔をそらし、力なく笑った。それは、まるで殴られたような顔だった。「最初は名前すら見てなかったんだ。専門外の人間が、よく設計に異動しようなんて思えるなって。でも、10回目に申請が来たときやっと名前を見た。そうしたら、そこに智世の名前があった」靖の声が、どんどん小さくなっていく。「最初に思ったのが……君なんかにできるわけない、だった」胸の奥に穴が開いたようだった。そこから冷たい風が吹き込み、過去の記憶が一気に押し寄せてくる。私は、好きな人といつか肩を並べて働きたいと思っていた。でもその人は、私にはその資格がないと思っていたらしい。
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第8話

以前、同じ会社で働いていた頃、私は靖のオフィスへ自由に出入りすることすら許されていなかった。会社にそんな規則があるわけでもないのに、夫婦だからこそ職場では距離を置くべきだと言われたのだ。だから、私は職場で靖を見かけても、わざと別の道を通った。昼休みも隣には座らず、遠くから美月と楽しそうに話す靖を見るだけ。仕事が終われば、警備室の近くで一緒に帰れるのを待っていた。まあ、一度だって彼が来ることはなかったけれど。同僚たちは、私を公私の区別ができる妻だと褒め、靖もそれを当然のように受け入れていた。その間ずっと、私は3年間も靖から冷たく遠ざけられていたというのに。「靖、私の言ってること分からない?」私は表情を消して言った。「私は帰ってって言ったの。今さら何の魅力もない条件を並べて、私を連れ戻してほしいなんて頼んでない」靖の体がこわばる。「3年前にそれを言われてたら、嬉しくて仕方なかったと思う。2年前なら、何もない家に住み続けることだって、きっと希望を持って耐えられた。1年前でも、弁護士に離婚協議書を作ってもらおうとは、まだ思わなかったかもしれない」私は数秒黙ってから、ゆっくりと顔を上げた。「でも今は違う。流産して、ようやくあなたから離れるって決めたあとになって、今さら全部差し出されても、私が感謝して戻ると思う?」靖は長い間、何も言わなかった。まるでこの3年間を振り返って、それでも思い出せるものがほとんどないことに気づいたようだった。私は息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。「靖、約束にも、間に合う時期ってあるんだよ。あなたの言葉はもう遅すぎた。だから私も、これ以上付き合うつもりはない」靖は何度か口を開いたが、まともな言葉にはならなかった。代わりに、ポケットから小さなお守りを取り出し、私にそっと差し出してきた。それは私が昔、彼にプレゼントしたお守り。「君が俺のために山奥のお寺まで行って、買ってきてくれたやつだよ。ずっとデスクに入れていたんだけど、いつの間にか美月が持っていってたみたいで。でも、もう彼女から取り返したし、監視カメラも確認し直して、警察にも相談してる。智世、君が俺の無事を願ってくれたように、俺も君には無事でいてほしいんだ」私は手のひらのお守りを見つめ
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第9話

1ヶ月後、私は盛沢市に戻った。懐かしくなったわけでも、気持ちが揺らいだわけでもない。離婚についての話し合いと必要な手続きがすべて整い、あとは離婚届を提出するだけになったからだ。久しぶりに会った靖を前にしても、以前よりずっと落ち着いていられた。もう感情はなく、これから条件を詰める取引相手を見ているような感覚で、あるのは自分にとって何が一番いいかということだけ。そして今の私にとって、この結婚を終わらせること以上に正しい選択などないのだ。対する靖は、ひどく落ち着かない様子だった。役所の前でいつまでも足を止め、強い風が吹いているのに、中へ入ろうとしない。「すみません。ずっと入り口に立っていられると、他の来館者様のご迷惑になりますので……」職員にも何度か注意された靖は、5回目の煙草に火をつけ損ねたところで、渋々中へ入った。必要な確認を終え、私は迷わず離婚届を提出した。「お願いします」職員は私たちの離婚届を受け取り、淡々と従う作業をする。靖は最後まで顔を上げなかった。ただ、膝の上に置かれた両手を握りしめるだけ。手続きはすぐに終わった。たった一枚の紙切れで、私たちの結婚生活は幕を閉じた。私にはもう、靖へ言いたいことはなかったが、靖のほうから口を開いた。「智世……最後に一度だけ、桜葉台に戻ってくれないか?」桜葉台――私たちが暮らしていた、あの家がある場所。「あの部屋は智世の名義にするから、これからどうするかは全部君が決めていい。俺はもう何も口を出さないから」彼は一言ずつ絞り出すように続ける。「……内装も、全部終わったんだ。最後に一緒に見てくれないか?」私は断らなかった。あの家には、この3年間の私の期待があまりにも多く詰まっていたから。寂しくて、がらんとして、薄暗い。まるで傷だらけになった、この3年間の私そのものだ。久しぶりに足を踏み入れると、家は見違えるほど変わっていた。剥き出しだった壁も、でこぼこのコンクリート床ももう姿を消し、今では明るく清潔な内装が施され、部屋全体が柔らかな光に包まれている。東向きの子ども部屋も、温かな雰囲気に整えられていた。家具も小物もきちんと揃えられ、かつて私が思い描いていた通りの部屋。靖は近づいてきたが、数歩後ろで立ち止まって、それ以上は近
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