LOGIN子宮内容除去術を終えたばかりの私・浅倉智世(あさくら ちよ)に、浅倉靖(あさくら やすし)から電話がかかってきた。 「今日、美月の新居が着工なんだ。現場を見てくるから、夕飯は待たなくていいぞ。 智世は生理中なんだろ?だったら、あんまり出歩かないで、早く帰って休めよ」 私は平らになったお腹に手を当てたまま、しばらく何も言えなかった。 靖と西条美月(さいじょう みつき)は、昔から私たちが働く建築設計事務所の看板デザイナーだった。 靖は内装工事に強く、美月はインテリアのセンスに定評がある。 私と靖の家も、二人が設計することになっていたのだが、打ち合わせをしていても、最後にはいつも靖が別の図面を取り出した。 それは何度も何度も手を入れた、美月の新居のための設計図。靖はそれを広げ、美月のために考えた内装プランを一つひとつ丁寧に説明していく。 しかも、そこに描かれているのは、かつて私と靖が二人で思い描いていた、理想の家そのものだった。 「美月は一人暮らしだし、部屋もそんなに広くないから、ついでに設計するくらい、大した手間じゃない。 智世はまだ妊娠してないんだし、子どもが生まれてから子ども部屋もまとめてやったほうが楽だろ」 その「楽だから」という言葉を信じて、私は壁にクロスすら貼られていない家で3年も待った。 けれど待っていたのは、靖のその場しのぎの言葉と、果たされない約束ばかりだった。 だから、靖は私が妊娠していたことすら知らないし、切迫流産の症状も生理だと思っている。 電話の向こうから、美月の甘えた声が聞こえてきた。 「靖、サボってないで洗面台の寸法、一緒に確認してよ!」 通話はプツリと途切れた。耳障りな通話終了音を聞きながら、私は深く息を吸う。 3年間待ち続けた、あの何もない家。でも、もう待つのはやめよう。
View More1ヶ月後、私は盛沢市に戻った。懐かしくなったわけでも、気持ちが揺らいだわけでもない。離婚についての話し合いと必要な手続きがすべて整い、あとは離婚届を提出するだけになったからだ。久しぶりに会った靖を前にしても、以前よりずっと落ち着いていられた。もう感情はなく、これから条件を詰める取引相手を見ているような感覚で、あるのは自分にとって何が一番いいかということだけ。そして今の私にとって、この結婚を終わらせること以上に正しい選択などないのだ。対する靖は、ひどく落ち着かない様子だった。役所の前でいつまでも足を止め、強い風が吹いているのに、中へ入ろうとしない。「すみません。ずっと入り口に立っていられると、他の来館者様のご迷惑になりますので……」職員にも何度か注意された靖は、5回目の煙草に火をつけ損ねたところで、渋々中へ入った。必要な確認を終え、私は迷わず離婚届を提出した。「お願いします」職員は私たちの離婚届を受け取り、淡々と従う作業をする。靖は最後まで顔を上げなかった。ただ、膝の上に置かれた両手を握りしめるだけ。手続きはすぐに終わった。たった一枚の紙切れで、私たちの結婚生活は幕を閉じた。私にはもう、靖へ言いたいことはなかったが、靖のほうから口を開いた。「智世……最後に一度だけ、桜葉台に戻ってくれないか?」桜葉台――私たちが暮らしていた、あの家がある場所。「あの部屋は智世の名義にするから、これからどうするかは全部君が決めていい。俺はもう何も口を出さないから」彼は一言ずつ絞り出すように続ける。「……内装も、全部終わったんだ。最後に一緒に見てくれないか?」私は断らなかった。あの家には、この3年間の私の期待があまりにも多く詰まっていたから。寂しくて、がらんとして、薄暗い。まるで傷だらけになった、この3年間の私そのものだ。久しぶりに足を踏み入れると、家は見違えるほど変わっていた。剥き出しだった壁も、でこぼこのコンクリート床ももう姿を消し、今では明るく清潔な内装が施され、部屋全体が柔らかな光に包まれている。東向きの子ども部屋も、温かな雰囲気に整えられていた。家具も小物もきちんと揃えられ、かつて私が思い描いていた通りの部屋。靖は近づいてきたが、数歩後ろで立ち止まって、それ以上は近
以前、同じ会社で働いていた頃、私は靖のオフィスへ自由に出入りすることすら許されていなかった。会社にそんな規則があるわけでもないのに、夫婦だからこそ職場では距離を置くべきだと言われたのだ。だから、私は職場で靖を見かけても、わざと別の道を通った。昼休みも隣には座らず、遠くから美月と楽しそうに話す靖を見るだけ。仕事が終われば、警備室の近くで一緒に帰れるのを待っていた。まあ、一度だって彼が来ることはなかったけれど。同僚たちは、私を公私の区別ができる妻だと褒め、靖もそれを当然のように受け入れていた。その間ずっと、私は3年間も靖から冷たく遠ざけられていたというのに。「靖、私の言ってること分からない?」私は表情を消して言った。「私は帰ってって言ったの。今さら何の魅力もない条件を並べて、私を連れ戻してほしいなんて頼んでない」靖の体がこわばる。「3年前にそれを言われてたら、嬉しくて仕方なかったと思う。2年前なら、何もない家に住み続けることだって、きっと希望を持って耐えられた。1年前でも、弁護士に離婚協議書を作ってもらおうとは、まだ思わなかったかもしれない」私は数秒黙ってから、ゆっくりと顔を上げた。「でも今は違う。流産して、ようやくあなたから離れるって決めたあとになって、今さら全部差し出されても、私が感謝して戻ると思う?」靖は長い間、何も言わなかった。まるでこの3年間を振り返って、それでも思い出せるものがほとんどないことに気づいたようだった。私は息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。「靖、約束にも、間に合う時期ってあるんだよ。あなたの言葉はもう遅すぎた。だから私も、これ以上付き合うつもりはない」靖は何度か口を開いたが、まともな言葉にはならなかった。代わりに、ポケットから小さなお守りを取り出し、私にそっと差し出してきた。それは私が昔、彼にプレゼントしたお守り。「君が俺のために山奥のお寺まで行って、買ってきてくれたやつだよ。ずっとデスクに入れていたんだけど、いつの間にか美月が持っていってたみたいで。でも、もう彼女から取り返したし、監視カメラも確認し直して、警察にも相談してる。智世、君が俺の無事を願ってくれたように、俺も君には無事でいてほしいんだ」私は手のひらのお守りを見つめ
靖の顔を見た途端、美月の目から涙がこぼれ落ちた。「靖……私、さっきは焦って……」けれど靖は最後まで聞かなかった。すぐに私へ向き直り、怪我がないか確かめるように全身を見つめる。私に怪我がないと分かると、彼はようやく肩の力を抜いた。「智世。流産したばかりなんだから、ちゃんと休まないと駄目だろ?」彼は無理に笑みを作り、私の手を取ろうとする。「盛沢市への航空券はもう取ったから、とりあえずは社宅で暮らそう。住み込みで世話してくれる人も手配したから、ちゃんと休めるはずだ。食べたいものがあれば言ってくれ。俺が覚えて作るし、家の設計も、もう一度やり直して、工事も始めてるから」少し間を置いて、靖はスーツのポケットから、丁寧に折りたたまれた図面を取り出した。「君の希望通りにしたよ。子ども部屋もゲストルームも、もう勝手に用途を変えたりしない……」「靖。自己満足はもう終わった?」靖の笑顔が固まる。「終わったなら帰って。もう二度と私の前に現れないでくれる?」そう言って背を向けようとした私の手首を、靖が強く掴んだ。けれど強く掴みすぎたことに気づいたのか、すぐに力を緩める。「智世、全部君の望み通りにしたんだ。美月の家の工事にはもう関わらないし、これから事務所でも、あいつと同じ案件には入らない」靖は目の前の研修施設を見上げた。「智世がインテリアデザインをやりたがってたことも知ってるよ。前から広報を辞めて、設計のほうへ移りたがってたよな?そのとき俺は……君の気持ちを考えずに、異動申請を何度も差し戻した」私は思わず目を見開いた。「……あれ、靖が却下してたの?」靖は顔をそらし、力なく笑った。それは、まるで殴られたような顔だった。「最初は名前すら見てなかったんだ。専門外の人間が、よく設計に異動しようなんて思えるなって。でも、10回目に申請が来たときやっと名前を見た。そうしたら、そこに智世の名前があった」靖の声が、どんどん小さくなっていく。「最初に思ったのが……君なんかにできるわけない、だった」胸の奥に穴が開いたようだった。そこから冷たい風が吹き込み、過去の記憶が一気に押し寄せてくる。私は、好きな人といつか肩を並べて働きたいと思っていた。でもその人は、私にはその資格がないと思っていたらしい。
江川市の秋は、すぐそこまで来ていた。到着口を出ると、もう待っていた園子。「智世!あなたが傷つけられた街から脱出おめでとう!今日から江川市で新生活だね!」園子は勢いよく私の肩を抱き、そのまま荷物まで持ってくれた。「ようやく踏ん切りがついたんだね。本当に良かった。出る前に、靖さんには言ったの?」私はマフラーを寄せ、小さく頷いてから、再び首を振る。「離婚協議書とか、手術記録とかの関係ある書類は全部テーブルに置いてきた。それ以外は、もう話すことないから」園子はカラカラと明るく笑い、それ以上靖の話をしようとはしなかった。靖をブロックしてからも、知らない番号から何度も電話がかかってくる。私は、全部無視した。やがて研修が始まった。初日の受付で、担当の長谷川雫(はせがわ しずく)が笑顔で手を差し出してくれた。「浅倉さん、今回の研修で異業種から選ばれたのは、あなただけなんです。応募時に提出された資料も拝見しましたが、インテリアデザインに対して、独自の考えをお持ちだと感じました」雫はパソコンの画面を私に向ける。「異業種出身でありながら、ここまで完成度の高いイメージをまとめられるのは本当にすごいです。差し支えなければ、デザインの着想について教えていただけますか?」私は視線を落として、少しだけ微笑んだ。「自分の理想の家を、いつか形にしたかったんです」雫さんの目がわずかに明るくなる。「頭の中にある家をちゃんと形にしたくて、独学で作図ソフトを覚えました。専門書も何冊か買って、少しずつ勉強して……大きな夢があるわけじゃないんですが、ただ、自分が後悔しないようにはしたいんです」雫が優しく私の肩を叩き、称賛の眼差しを向けてくれた。「浅倉さん、ようこそ。ここでたくさんのものを得られることを願っていますね」その日の研修を終え、会場を出たところで、思いがけない人影が目に入った。化粧もしておらず、ずいぶん憔悴して見えたが、それは美月だった。私を見つけると彼女は身体を震わせ、ぎこちない笑みを浮かべながら近づいてくる。「智世さん……やっと、見つけました……一度、盛沢市に戻ってくれませんか?靖があなたを探して、おかしくなりそうなんです……」彼女は泣きそうな声で言いながら、スマホの動画を開いた
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