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9 Chapters

第1章

病院で、直哉の聴力が確実に回復しつつあると診断されたとき、私は自分のことのように嬉しかった。慣れた手つきで手話を使い、おめでとうと伝える。三年間ずっと沈んでいた直哉の顔に、初めて心からの笑みが浮かんだ。「真帆、この三年間、本当にありがとう」私は笑って首を振った。愛している人のためだ。これくらい苦労のうちに入らない。いつもの癖で直哉の手を握ろうとしたが、伸ばした手は空を切った。胸の奥にも、ぽっかりと穴が開いたような感覚が残る。顔を上げると、直哉は何事もなかったかのような顔をしていた。「真帆、みんな待ってる。早く行こう」一瞬だけ戸惑ったものの、すぐにその感情を押し込め、私も穏やかに笑った。「そうだね。行こうか」私たちはもう大人だ。何かあったとしても、取り乱さずに振る舞うくらいはできる。バッグの中には、少し前に直哉の父から渡された株式譲渡契約書が入っている。それもあってか、今は些細なことで気分が落ちるわけでもなかった。病院を出るとき、直哉は私の支えを待っているかのように手を差し出しかけた。私はそれに気づかないふりをして、一足先に外へ出る。きっと忘れているのだろう。この三年間、誰かの愛情や世話を必要としていたのは直哉であって、私ではない。直哉が聴力を失ったばかりの頃、私は心配で仕方なかった。小さい頃から一緒に育ってきた幼なじみだったし、何より当時の私はずっと直哉に片想いしていた。だから迷うことなく直哉と同じマンションへ引っ越した。直哉の隣の部屋で暮らし、必要とされればいつでもそばにいた。ドアの開け閉めのような些細なことまで、自然と私が手を貸すようになっていた。直哉も途中で気づいたらしい。差し出しかけた手を気まずそうに引っ込めると、何も言わず私の後ろをついてきた。パーティールームの扉を開けた瞬間、私は足を止めた。中はすでに大盛り上がりだった。主役である直哉の到着など待ちきれなかったらしく、友人たちはとっくに乾杯を始めている。そしてその輪の中心にいたのは、つい先日海外から帰国したばかりの美緒だった。なるほど。直哉が私の手を避けたのは、別に自尊心が傷ついたからではなかったらしい。さっきまで私の後ろを歩いていた直哉は、美緒を見つけた途端、思わず一歩前へ出た。緊張したときの癖なのか、無意識に耳たぶへ触
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第2章

私は直哉の言葉など聞こえなかったふりをして、ただ目の前で私をまっすぐ見つめる蓮に笑いかけた。「いいよ」大きくも小さくもないが、その場にいる全員にはっきり聞こえるくらいの声だった。もちろん、聴力を取り戻したばかりの直哉にも。直哉の表情が一瞬で変わった。今度こそ構わずこちらへ来ようとしたそのとき、美緒が手を滑らせグラスを床に落とした。甲高い音を立ててガラスが砕ける。そこへ美緒のか細い悲鳴まで重なり、まるで黒板を爪で引っかいたような耳障りな音が響いた。やり方は単純だが、効果は抜群だった。直哉は迷うことなく振り返ると、美緒の両手を取って怪我がないか確かめた。美緒の目に浮かんだ涙を指先でそっと拭い、優しい声で宥めている。美緒は形ばかり手を引こうとしたあと、甘えるように直哉の胸元へ身を寄せた。「直哉くん、真帆さんのところに行ってあげて。怒らせたらダメだよ。私はちょっと脚をガラスで切っただけ。大丈夫だから」二言目を聞いた瞬間、直哉は美緒を横抱きにした。「病院に行くぞ」焦りきった声だった。私はその光景を興味深く眺めていた。高校時代、私がいじめっ子にガラスを投げつけられて怪我をしたときも、直哉はあんなふうに私を心配してくれたからだ。華奢でか弱い美緒は、確かに男の庇護欲をそそる。でも直哉はまた忘れている。どん底にいる人間を引っ張り上げるのは、ただ守られるだけの存在では無理なのだ。三年前、私は海外で学ぶ機会を断った。昔から目をかけてくれていた先生は、そんな私に失望を隠そうともしなかった。先生が一人で去っていくのを見送りながらも、私の頭の中にあったのは直哉のことだけだった。17歳の頃の直哉は、私にとって大きくて頼れる存在だった。いじめられていた私を助けてくれたのも直哉。泣く私を抱きしめてくれたのも直哉。自分の身を自分で守る方法を教えてくれたのも直哉だった。けれど24歳になった彼は変わってしまった。両耳を押さえ、暗い部屋の隅で力なくうずくまるようになった。恋人に捨てられたあとは、意識が飛ぶほど酒を飲み、私の腕の中で泣きじゃくった。そして私が海外へ行くと知ったとき、直哉は私の小指を頼るように握り、今にも壊れそうな声で言った。「真帆。俺にはもうお前しかいない」そんな直哉を、私はどうしても置いていけなかった
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第3章

私は最後にもう一度だけ直哉を信じてみようと決めた。直哉が帰ってきたのは夜の十一時を過ぎてからだった。私はソファでうとうとしていた。最初に感じたのは、直哉の香りが染みついた上着が、そっと私に掛けられる感触だった。少しだけ心がほどける。私は半分眠ったまま、思わず不満をこぼした。「耳が治ってから、全然私を頼ってくれなくなっ……」だが最後まで言い切ることはできなかった。部屋の明かりはついていない。それでも窓から差し込む月明かりの下で、直哉の上着についた深紅の口紅の跡だけは、嫌になるほどはっきり見えた。胸に刺さっていた棘が、一気に根を張ったような気がした。美緒はわざと私に見せつけている。そして直哉もそれを許したのだ。直哉は昔から女性が化粧をするのが好きではなかった。以前、私の頬をつまみながら、嫌そうに言ったことがある。「化粧したまま近づくなよ。匂いがきつい」私は昔からおしゃれが好きだった。それでも直哉が嫌がるから、この三年間ずっとほとんど化粧をせず、香水さえ使わなかった。なのに今、少し遅れて直哉の上着から女性物の香水の匂いが漂ってきた。もう平静ではいられなかった。気がつけば私は直哉の手を強くつかんでいた。大きく息を吸う。心臓は激しく脈打ち、胸の奥が引き裂かれそうに痛かった。「直哉。まだ私のことを愛してる?それとも……私ともう結婚するつもりはないの?」直哉は答えなかった。その沈黙だけで、足元が崩れ落ちていくようだった。全身が冷たくなっていく。もう駄目なんだ。そう思い、直哉をつかんでいた手から力が抜けていったその瞬間、直哉が私を強く抱きしめた。一気に希望が戻ってくる。泣きそうになるほど嬉しかった。そうだ。三年間、毎日のように一緒にいたのだ。そんな関係が、たった一日で壊れるはずがない。やがて直哉がゆっくり口を開いた。「真帆、ごめん」その言葉は、ずっと頭上に吊るされていた刃が、とうとう落ちてきたようだった。胸の真ん中を一刀両断された気がして痛かった。私はゆっくりと腕を下ろした。目の前にいる27歳の直哉を通り越して、その向こうに17歳の直哉が見えた気がした。青々とした並木道の中、17歳の直哉が、笑いながら私に手を振っているところだ。「真帆。自分の身は自分でちゃんと守らなきゃだぞ」17歳の夏の
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第4章

海外へ向かう飛行機で、まさか蓮に会うとは思わなかった。蓮はごく自然に私の隣へ座ると、薄いブランケットをかけてくれた。それから私の手首を取って、薬を塗り始める。両腕には直哉につかまれたときの赤い跡がくっきり残っていた。白い肌の上ではそれが余計に痛々しく見える。蓮は驚くほど優しい手つきで薬を塗っていた。表情は真剣そのものだ。しばらくその横顔を眺めていた私は、とうとう堪えきれず笑ってしまった。「蓮、耳すごく赤いよ」蓮は余った包帯を切りながら顔を上げた。笑われたせいか、今度は開き直ったらしい。私のほうへ顔を寄せる。「真帆、ちゃんと見て。実は顔も赤い」……何この人、ちょっと可愛い。そう思った途端、今度は私のほうが妙に落ち着かなくなった。「出張?」蓮は首を振った。「真帆についてきた」……先生と再会したときも、私はまだ状況を理解できていなかった。私はいずれ小林家の会社と資産を継ぐ立場だ。一方で、おしゃれをするのが好きだったこともあり、副業としてモデルの仕事もしている。とはいえ本格的に活動しているわけではなく、気が向いたときに仕事を受ける程度だ。蓮までついてきたということはもしかして、この人もモデルをやるつもり?腹筋あるのかな?そう考えていると、蓮が小声で囁いた。「あるよ、腹筋。触ってもいいけど」思わず咳き込みそうになった。ずいぶん素直だ。先生に睨まれ、私は慌ててそちらへ向かった。素直に昔のことを謝ってから、ようやく蓮がここへ来た理由を知る。モデルではなく、絵を描きに来たらしい。なるほど。小林家と中村家の跡取りが二人そろって、本業そっちのけで芸術活動とは、なかなか面白い。ところが蓮はまた首を振った。「別に絵が目的じゃないよ。真帆の気晴らしに付き合いたかっただけ」失恋なんてものは、一人で抱え込むより誰かがそばにいてくれたほうがいい。実際、蓮と一緒にオーロラを見に行った頃には、私は自分が失恋したことさえほとんど忘れていた。ただ目の前に広がる圧倒的な景色に見入っていた。スマートフォンに入金通知が届くまでは。何気なく画面を開いた瞬間、自分でも驚いた。もう胸が痛まなかった。あれほど心に刻みつけられた恋だったのに。結局、どんな傷だって傷でしかない。かさぶたになれば、いつかは痛まなくなるのだ。
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第5章

直哉はスマートフォンの画面に映る一枚の絵を見つめていた。SNSで瞬く間に拡散され、今や至るところで目にするその絵は、見ているだけで、目の奥がじくじくと痛んだ。真帆が自分のもとを去ってから、もう一か月近く経っている。それでも直哉は、真帆が本当に自分から離れていくなどとは、微塵も思っていなかった。せいぜい、怒って意地を張っているだけだと。これまでも似たようなことはあった。真帆が愛を伝えてくれた直後に、直哉が冷たく突き放す。そんなことを何度繰り返したかわからない。真帆が昔から気の強い性格なのは知っていた。自分の態度が彼女をどれほど傷つけているのかも、わかっていた。それでも直哉は、真帆が差し出す真っすぐな想いを、何度もわざと突き返した。真帆の目の前で、美緒が残していった日記をことさら大切に扱った。真帆がその日記に触れようとしただけで、何度も声を荒らげた。恋人でもないのに一方的に尽くしていると周囲から笑われても、聞こえないふりをした。真帆が無理に笑顔を作り、それでもそばに残ろうとする姿を、黙って見ていた。潔癖症だからと嘘をつき、化粧までやめさせた。そうやって何度も真帆の限界を試した。まるでそうすることで、真帆の愛が自分だけに向けられた純粋で揺るぎないものだと確かめられる気がしていた。そして実際、直哉はそれを手に入れていた。どれだけ傷つけても、真帆が姿を消すのはほんの数時間だけ。泣いた跡を隠し、最後にはいつも笑って戻ってきた。真帆が泣いたことも知っていた。自分のせいで苦しみ、何度も悩んだことも知っていた。それが何だというのだ。真帆は自分を愛している。だから今だってただ怒っているだけだ。そのうち必ず戻ってくる。直哉はずっとそう自分に言い聞かせていた。あの絵を見るまでは。鮮やかな色彩の中で、真帆は自由に笑っていた。好きなように化粧をして、真っ赤なドレスをまとっている。風に舞うドレスの裾。華やかな笑顔。そのすべてを描く筆致から、描き手が彼女をどれほど愛おしく思っているのかが伝わってきた。絵の隅には、中村蓮、と作者の署名がある。そして作品につけられた題名は、【たった一人のミューズ】だった。自らの手で描いた肖像画は、どんな愛の言葉よりも雄弁で、どんな告白よりもロマンチックだった。SNSでは二人の関係を祝福する声が溢れ
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第6章

直哉から電話がかかってきた頃には、私と蓮はもう正式に付き合い始めていた。見慣れた名前が再びスマートフォンの画面に浮かぶ。だが以前のように、それだけで胸が高鳴ることはなかった。通話ボタンを押したのに、向こうはなかなか口を開かなかった。だんだん苛立ってきて、切ろうとしたところで、ようやく直哉の掠れた声が聞こえた。「真帆。前にも電話したのになんで出なかった?」その言い方に思わず腹が立った。「直哉から電話がきたら、私は絶対に出なきゃいけないの?忘れたなら教えてあげる。私たちはもう別れたの。今の私にとって、直哉からの電話なんて知らない人からかかってくるのと同じだから」直哉は傷ついたようだった。小さく息を呑む音が聞こえる。そして消え入りそうな声で尋ねてきた。「蓮と付き合ってるのは本当なのか?」急に何もかもどうでもよくなった。直哉はもう恋人ではない。最後の最後に、きれいに別れることさえできなくしたのは直哉自身だ。今では友達ですらない。私は眉間を軽く揉みながらはっきり答えた。「うん。前に直哉からかかってきた電話を切ったのも蓮。悪いけど、彼氏が嫉妬するからブロックする」そう言って電話を切った。そのまま勢いに任せて、直哉の連絡先を電話もSNSもすべてブロックする。全部終えたところで私は大きく息を吐いた。胸に残っているのが寂しさなのか、解放感なのか、自分でもよくわからなかった。蓮を見るまでは。蓮はなぜか私の女性用のマフラーを無理やり巻いて、少しおかしな格好のままこちらへ駆けてきた。私は自分の首に巻かれた、蓮の大きなマフラーへそっと触れる。思わず心から笑っていた。やっぱりこれは、解放感だ。実家の会社では少し前に大きな事業転換があった。今回の海外滞在は気分転換という名目だったけれど、実際には市場調査も兼ねていた。そのため、帰国は予定より数日延びた。帰国してからは、しばらく仕事漬けの日々を送った。そしてようやく一段落したと思ったら、今度は母に半ば強引に連れ出され、クラシックのコンサートへ付き合わされることになった。私はそれほど乗り気ではなかったけれど、蓮はすっかり「未来の婿」気取りだった。母の機嫌を取るのが妙に上手くて、終始楽しそうに話している。途中で化粧室へ行った。手を洗い、顔を上げると、鏡越しに美緒が立って
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第7章

直哉は恐ろしいほど険しい表情でまっすぐ私を見つめていた。その視線は氷の破片でも混じっているかのように鋭い。そして直哉の手元にある真っ白なピアノの鍵盤には、真っ赤な血が流れていた。自分の命とも言える両手を、力任せに鍵盤へ叩きつけたのだ。ピアニストにとっては、自分自身を壊すのと同じだった。蓮が片手を伸ばし、私の目を覆う。「真帆。見なくていい」心臓が激しく跳ねていた。私は思わず蓮へ軽く口づけて、安心させるように言った。「大丈夫。もう私には何の関係もない人だから」私たちが席を立とうとすると、直哉が突然ステージの端まで駆けてきた。周囲の目も気にせず、私の名前を叫ぶ。「真帆!なんでだよ!昔は、俺が傷つくのをあんなに嫌がってただろ!」直哉は今でも人目を引く男だった。青白いほど整った顔。声を荒らげていてもなお、今にも壊れそうな危うさがある。その場にいた記者の中には、早くも「すれ違った恋人同士の悲劇」などと囁き、直哉に同情する者までいた。だが私たちの間で、ずっと必死に愛していたのは私だけだ。今更すれ違ったところで、それのどこが悲劇だというのだろう。私は振り返り淡々と告げる。「自分でわかってるでしょ。それは昔の話」そのまま背を向けた。すると蓮がその隙を狙うように私の左手を取った。そして薬指にするりと指輪をはめる。さらに逃がさないとでも言うように、強引に指を絡めてきた。見るからに上機嫌だった。蓮がこっそり耳元で囁く。「真帆、かっこよすぎ」……それから直哉は本格的におかしくなった。私と蓮がデートをしていれば、すぐ隣の席に座り、瞬きもせずこちらを見ている。雨の日、私と蓮が一本の傘に入って歩いていれば、少し離れたところを傘も差さずについてくる。私は徹底して無視した。私が何年も直哉を追い続けていたことを考えれば、今さらこの程度で何だというのだ。蓮との仲睦まじい姿が見たいなら、好きなだけ見ればいい。話しかけてこない。邪魔もしない。それなら私に追い払う権利まであるわけではない。ところが直哉が何度もついてくるようになると、美緒まで一緒についてくるようになった。直哉が雨に濡れないよう必死に傘を差しながら、その口では私を延々と罵る。「真帆さんって本当に性格悪いよね!直哉くんが私に贈ってくれた曲を台無しにして、そんな
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第8章

まさか直哉の父から電話がかかってくるとは思わなかった。直哉のことなら無視できても、彼の父親まで無下にはできない。これから先仕事で関わる可能性もある。それに、手元にある藤井グループのかなりの株式を思えば、この親子は本当に性格が違うのだと認めざるを得なかった。電話越しにも、その声がずいぶん老け込んだことがわかる。私は小さく息を吐いた。「おじさま、ご無沙汰しております」直哉の父は苦笑した。「真帆ちゃん……直哉が本当にすまなかった。父親の私からも謝らせてほしい」私は礼儀正しく笑った。「直哉さんなら、きっと素敵な方が見つかりますよ」「そうだな、そうなんだが……また昔の症状が出ていてね。真帆ちゃんも知っているだろう、あの子は以前から精神的に……」私はその言葉を遮った。「具合が悪いなら、きちんと専門の先生に診てもらったほうがいいですよ。早く元気になられるといいですね」つまり、私を頼らないでほしい。それくらい言わなくても伝わるはずだった。長年会社を率いてきた人だ。私の言葉の意味がわからないはずもない。直哉の父は乾いた笑いを漏らし、それから何でもない話を二、三交わして電話を切った。直哉の症状が再び悪化したという話は本当らしい。耳はもう完全に回復していた。だが聴力を失っていた三年間に抱えた心の問題まで簡単に消えるわけではなかった。少し前にはSNSでも話題になっていた。また情緒が不安定になり、あまりの荒れように美緒まで逃げ出したらしい。わずか三日で家政婦を五人、付き添いのスタッフを三人も辞めさせたという。私はスマートフォンの画面を眺めながら、いつの間にかぼんやりしていた。私がそばにいた頃、直哉はそこまでひどくなかった。最初の頃こそ冷たかった。私が想いを伝えても、聞こえなかったふりをした。薬もわざと飲まず、私が注意するまで放っておくことがあった。癇癪を起こして物を壊すときでさえ、一人で部屋に閉じこもり、私を中へ入れようとしなかった。どれほど荒れていても、私の前では必死に感情を抑えようとしていた。唯一ひどかったのは、一人になる不安が最も強かった時期に、私へ仕事を辞めろと迫ったことくらいだろう。今になってようやく気づく。直哉は確かに、私を愛していたのだ。でも少なすぎた。その愛はあまりにも少なくて
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第9章

【番外編】結局、直哉は真帆の結婚式には出席しなかった。本当はその日、何度も悩みながらスーツを選んでいた。気持ちを落ち着かせる薬まで飲み、花束を抱えて会場まで来ていた。だが最後の一歩が踏み出せなかった。美緒はもう追い払った。これ以上、美緒が真帆を煩わせることはない。でももし、真帆が嫌っているのが美緒ではなく、自分自身だったら?だから直哉は、真帆から届いた招待状を握りしめたまま、会場の外に立ち尽くしていた。真帆の結婚式はとても華やかだった。次々と訪れる招待客、会場を埋め尽くす花、そして鮮やかな赤いドレスをまとった真帆。本来の彼女は、昔からあんなふうに華やかで、誰よりも目を引く女性だった。自分のために三年間、化粧もせず地味に過ごしてくれた。それだけで十分だったはずなのだ。結婚式は最初から最後まで滞りなく進んだ。そこに誰か一人が欠けているからといって、止まることなど一度もなかった。直哉は会場の外で静かに中の声を聞いていた。そして新郎の誓いの言葉が聞こえた瞬間、ついに堪えきれず、涙が溢れた。あの場所で誓いを立てるのは自分のはずだった。真帆の隣に立つ新郎は自分のはずだった。結婚式が終わってからも、真帆と蓮の話題は長い間、周囲で語られ続けた。長続きしないだろうと言う人も多かった。蓮は昔から自由奔放で、真帆もまた何より自由を好む。二人とも、家庭に落ち着くタイプには見えない。中には、二人の結婚生活が何か月続くかを賭ける者までいた。直哉も心の中では、その賭けに加わっていた。直哉は信じ込んでいたのだ。自分以上に真帆を愛せる人間などいるはずがないと。真帆には幸せになってほしい。でもその幸せは自分が与えるものであってほしかった。そんな身勝手な願いを捨てきれなかった。けれど三か月が過ぎ、半年が過ぎ、一年、また一年と時が流れていった。長続きしないと言われた二人は、支え合いながら結婚十周年を迎え、その後も何十年もの歳月をともに歩んだ。真帆も蓮も、決して大人しく誰かに従うような人間ではない。そんな二人が手を組んだのだから、仕事の面でも強かった。小林家と中村家の事業は、その後さらに大きく成長していった。そして最初にその波に飲み込まれたのが、衰退の一途をたどっていた藤井家だった。直哉の母はずいぶん前に亡くなっていた。
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