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第3章

Author: さざ波
私は最後にもう一度だけ直哉を信じてみようと決めた。

直哉が帰ってきたのは夜の十一時を過ぎてからだった。私はソファでうとうとしていた。最初に感じたのは、直哉の香りが染みついた上着が、そっと私に掛けられる感触だった。

少しだけ心がほどける。私は半分眠ったまま、思わず不満をこぼした。

「耳が治ってから、全然私を頼ってくれなくなっ……」

だが最後まで言い切ることはできなかった。

部屋の明かりはついていない。それでも窓から差し込む月明かりの下で、直哉の上着についた深紅の口紅の跡だけは、嫌になるほどはっきり見えた。

胸に刺さっていた棘が、一気に根を張ったような気がした。

美緒はわざと私に見せつけている。そして直哉もそれを許したのだ。

直哉は昔から女性が化粧をするのが好きではなかった。

以前、私の頬をつまみながら、嫌そうに言ったことがある。

「化粧したまま近づくなよ。匂いがきつい」

私は昔からおしゃれが好きだった。それでも直哉が嫌がるから、この三年間ずっとほとんど化粧をせず、香水さえ使わなかった。

なのに今、少し遅れて直哉の上着から女性物の香水の匂いが漂ってきた。もう平静ではいられなかった。気がつけば私は直哉の手を強くつかんでいた。

大きく息を吸う。心臓は激しく脈打ち、胸の奥が引き裂かれそうに痛かった。

「直哉。まだ私のことを愛してる?それとも……私ともう結婚するつもりはないの?」

直哉は答えなかった。その沈黙だけで、足元が崩れ落ちていくようだった。全身が冷たくなっていく。

もう駄目なんだ。そう思い、直哉をつかんでいた手から力が抜けていったその瞬間、直哉が私を強く抱きしめた。

一気に希望が戻ってくる。泣きそうになるほど嬉しかった。そうだ。三年間、毎日のように一緒にいたのだ。そんな関係が、たった一日で壊れるはずがない。

やがて直哉がゆっくり口を開いた。

「真帆、ごめん」

その言葉は、ずっと頭上に吊るされていた刃が、とうとう落ちてきたようだった。胸の真ん中を一刀両断された気がして痛かった。

私はゆっくりと腕を下ろした。

目の前にいる27歳の直哉を通り越して、その向こうに17歳の直哉が見えた気がした。青々とした並木道の中、17歳の直哉が、笑いながら私に手を振っているところだ。

「真帆。自分の身は自分でちゃんと守らなきゃだぞ」

17歳の夏の熱い風は、長い年月を漂った末に、とうとうどこかへ消えてしまった。

夢のようだった。夢が覚めたのなら、もう行かなくてはいけない。

直哉はまだ、私を宥めるように肩を軽く叩いていた。かつてはそれだけで安心できた手が、今は恐ろしいほど他人のものに感じられた。

「何があっても、真帆がしてくれたことは一生忘れない」

私は涙を拭い、どうにか感情を隠した。その言葉に思わず笑いそうになった。

何それ。まるで私が、これまで尽くしたことを盾にして、自分を愛せと迫っているみたいじゃない。

私は深く息を吸い、できるだけいつも通りの声で言った。

「忘れていいよ。もう愛してないなら、この三年間は取引だったってことにしよう。お父さんから株も十分もらったし。

婚約を解消したいならそれでもいい。その代わり慰謝料はちゃんと払って」

一言口にするたび、胸から血が流れていくように痛かった。それでもせめて最後くらいは惨めになりたくなかった。

直哉の表情が一変した。

「真帆……お前、俺の世話をしてたのは金のためだったのか?」

顔から一気に余裕が消える。私の腕をつかむ両手にも、無意識に力がこもっていた。

私は思いきり直哉を振りほどいた。

「離して。痛い!」

押し返された直哉は、一瞬、傷ついたような表情を浮かべた。呆然と私を見つめながら、小さく呟く。

「蓮に触られるのは平気だったじゃないか」

私は思わず聞き返した。

「直哉は今、どういう立場で私を抱きしめてるの?それにどういう立場で蓮に嫉妬してるの?今日、美緒を抱いて出ていったとき、私たちがまだ別れてもいなかったって、一度でも思い出した?」

美緒の名前を出した途端、直哉は我に返ったようだった。眉を寄せる。

「美緒はお前とは違う。あいつは弱いんだ。俺が守ってやらないと」

いつもそうだった。私にはあれほど深い愛情を見せ、あれほど私を必要としていたのに、美緒が絡んだ途端、まるで別人になる。

急にもう話す気さえなくなった。私はソファの背もたれに頭を預け、目を閉じた。

そして何となく、煙草に火をつける。直哉がまた眉をひそめた。

「真帆。俺、煙草の匂い嫌いだって言っただろ。それに香水も。今日、香水つけたのか?匂いきついから、これからは……」

私は鼻で笑った。淡々と言う。

「私じゃなくて美緒の香水だけど」

直哉は喉を塞がれたように言葉を失った。煙草の先だけが静かに燃えている。

長い沈黙のあと、直哉はようやく苦しそうに言った。

「……ごめん」

もう聞き飽きていた。

何の意味もない「ごめん」なんてもういらない。

青灰色の煙越しに、私は最後にもう一度だけ、十年近く愛し続けた男を見つめた。

それから煙草を灰皿に押しつけ、静かに言った。

「別れよう。もう直哉が何をしようと、私には関係ない。振込先は知ってるでしょ。婚約破棄の慰謝料はそこに入れておいて」

直哉は何も言わなかった。私が玄関のドアを開けたときになって、突然顔を上げる。声が不自然なほど震えていた。

「真帆。俺、今でもお前のこと愛してる。ただ……」

その先は聞かなくてもわかった。ただ、美緒を捨てられない。ただ、私は何があってもずっと同じ場所で待っていると思っている。全部わかっていた。

だから私はそれ以上聞かなかった。そのままドアを閉めて出ていった。

その言葉はあまりにも遅すぎた。もう私は同じ場所で直哉を待ったりしない。

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