All Chapters of 死後、私の日記を読んだ夫は壊れた: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

私は死んだ。魂はつかみどころのない煙のようにふわふわと漂い、意思に反して颯人のそばから離れられなかった。執着が深すぎたのかもしれない。肉体を失ってなお、10年愛し、同じだけ恨んだこの男から遠ざかることができなかった。私の訃報を知らせる電話を受けても、颯人の顔には何の変化もなかった。それどころか、すぐに押し隠されたごくわずかな嫌悪と安堵を、私は見逃さなかった。「死んだなら、それでいい。葬儀社に任せて、そのまま火葬しろ」颯人が電話の相手に冷たく命じる声には、何の感情もなかった。まるで、どうでもいいごみの処分について話しているかのようだった。「遺骨?取りに行く暇なんかない。森下に処分させればいい」もう心臓など残っていないはずなのに、それでも鋭い痛みが走った。魂そのものを引き裂かれたようだった。5年も夫婦として暮らしていれば、どれだけ冷たい人でも、少しくらいは情が移ると思っていた。だが颯人の心は、決して解けない氷よりも冷たかった。次に私の死を知ったのは、実の両親である榊原隆之(さかきばら たかゆき)と佳代子(かよこ)だった。二人は私の最期の姿を見に来ることもなく、怜奈を固く抱き締めて泣き崩れていた。「怜奈……これから榊原家の娘は、あなただけよ」佳代子は声を詰まらせた。隆之は怜奈の背中を撫で、痛ましげに見つめていた。私のために涙を流す者は、一人もいなかった。二人にとって私の死は重荷からの解放であり、怜奈に対する「負い目」をようやく清算できる出来事だったらしい。【私は、取り違えられた榊原家の実の娘。15歳のとき、寂れた田舎から連れ戻された。15年間、私の代わりに榊原家の娘として育った怜奈は、私が屋敷へ足を踏み入れた途端、泣きながら飛び出していった。私がすべてを奪ったのだと、声を枯らして訴えながら。あのとき、怜奈の隣にいた颯人は、仇でも見るような目で私を射抜き、一言ずつ噛みしめるように言った。「榊原希、お前みたいな性悪女のせいで、怜奈は家を失ったんだ」けれど、本当は私のほうが、怜奈に15年分の恵まれた人生を奪われ、養父母に虐げられてきた。どうして、誰もが私を責めるの?】眠れない夜が来るたび、私はこの言葉を非公開のブログに書き込んでいた。そこだけが、苦しみを打ち明けられる唯一の場
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第2話

だが、その驚きはすぐに激しい怒りへ変わった。「彼の子どもだと?」颯人は歯を食いしばり、冷たく吐き捨てた。「希、よくもやってくれたな。死んでまで、俺に恥をかかせるつもりか!」ああ、なんてばかばかしいのだろう。颯人は、私が不倫をしたと思い込んでいた。無理もない。颯人の目に映る私は、恥知らずで、腹黒い女でしかなかったのだから。あの「彼」が自分を指しているなど、考えもしなかったのだろう。私と颯人の結婚は、家同士の利害を結ぶだけのものだった。そこに愛情はなかった。それでも私は、5年も一緒にいれば、いつかは振り向いてくれる。怜奈のせいでこじれた誤解だって、いつかは解ける。そんなふうに、馬鹿みたいに信じていた。だが颯人は、私を見るだけでも目が汚れると言わんばかりに、心の底から嫌っていた。数えるほどしかなかった夫婦の営みでも、颯人は目を閉じ、わざと怜奈の名を呼んだ。その声を聞くたび、胸をえぐられるようだった。そのたび、さらし者にされ、逃げ場もないまま傷つけられているようだった。颯人は画面の文字をにらみつけていた。顔は怒りで青ざめ、目には炎が燃えているかのようだった。本人さえ気づかない焦りが、激しい怒りと共に胸の内で渦巻いていた。私の書いた「彼」が誰なのか、突き止めずにはいられなかったのだ。この女は、自分に隠れてほかにどれほど卑しい真似をしてきたのか、と。颯人は汚れのついた画面を乱暴になぞり、ほとんど無意識に自分の誕生日を入力した。画面のロックが解除された。颯人は一瞬、呆然とした。まだ私が榊原家へ戻ったばかりの頃、私はおずおずと颯人の誕生日を尋ねたことがあった。誕生日プレゼントを用意したいと伝えて。颯人はうっとうしそうに私を一瞥し、適当に日にちを答えただけだった。私がそれを何年も大切に覚えているとは、思いもしなかったのだろう。颯人の目に、一瞬だけ言葉にできない感情が浮かんだ。何をしても離れない私に慣れきり、どこかで、私を思いどおりにできると思っていたのかもしれない。だがそれも、すぐにより激しい怒りにのみ込まれた。「ほかの男を作っても、まだ俺に未練があるのか。どこまで卑しい女なんだ」低く吐き捨て、未公開の記事を開いた。全文が画面に映し出された。【結婚記念日に、このことを彼
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第3話

それから数日後。颯人と怜奈が慌ただしく結婚式の準備を進めるなか、颯人の携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。電話の相手は中年の女性だった。声は感謝で震えていた。「榊原希さんのご家族でしょうか。宮下琴音の母です。希さんには、いくら感謝してもしきれません。角膜を提供してくださったおかげで、娘はまた光を見ることができました。家族一同、どうお礼をすればいいのか分かりません。希さんは娘の恩人です」私は思い出していた。事故の日、現場へ真っ先に駆けつけたのは、意外にも養父母だった。血だまりの中で息も絶え絶えになっている私を見ても、二人は動揺も悲しみもしなかった。あるのは、ぞっとするほど露骨な欲と打算だけだった。養母は私の耳元に顔を寄せ、冷酷な声で吐き捨てた。「希、あんたにも少しは使い道があったね。海外の資産家が、あんたの臓器に大金を出すと言っている。だから、ここで死んでもらうよ。私たちを恨まないで。怜奈の邪魔をするために榊原家へ戻った、あんたが悪いんだから」あの事故は、養父母と怜奈が前から仕組んでいたものだった。そもそも、私たちは偶然取り違えられたのではない。養父母は、自分たちの娘を裕福な家で育ててもらうため、わざと私と怜奈を入れ替えたのだ。私を殺すだけでは飽き足らず、臓器まで金に換え、その金を、怜奈が裕福な家へ嫁ぐための資金にするつもりだった。意識が薄れていくなかで、私はもう助からないと悟った。完全に意識を失う前に、残る力を振り絞った。以前から携帯していた臓器提供意思表示カードに、血に濡れた指でどうにか署名した。万一に備え、前もって用意していたものだった。自分の死が誰かの明日につながるのなら、惨めだった人生にも、最後に一つだけ意味を残せる気がした。もちろん、颯人は何も知らなかった。火葬炉へ送られたとき、私の体には提供できる臓器も組織も、ほとんど残っていなかったことを。私の最後の「価値」まで他人に利用されたのに、颯人は何一つ知らず、知ろうともしなかった。電話を握ったまま、颯人はしばらく黙り込んだ。受話口からは、感極まった女性の声が聞こえ続けていた。その言葉が、颯人の思い込みを少しずつ崩していく。「角膜を……提供した?」声はかすれ、目には戸惑いが浮かんでいた。――希が、そんなことを?颯人
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第4話

ほどなく、颯人と怜奈の結婚式の日が来た。会場は華やかで、夢のように飾りつけられていた。純白のバラとシャンパンゴールドの布が、シャンデリアの光を受けてきらめいていた。慌ただしく、寂しく、屈辱しか残らなかった私たちの式とは、比べものにならないほど盛大だった。着飾った人々で埋まる華やかな会場を眺めても、胸は少しも動かなかった。私と颯人の結婚式が脳裏に浮かんだ。怜奈から、「お姉ちゃんに婚約者を奪われてつらい」と泣きつく電話が一本入っただけで、颯人は私を式場へ置き去りにした。私はたった一人で、周囲のささやきや嘲笑、好奇の目にさらされた。あの日の惨めさは、一生忘れられない。もっとも、私はもう死んでいる。忘れられない一生そのものが、すでに終わっていた。それでも消えない執着が、私をこの世につなぎ止めていた。実の両親は満面の笑みで招待客を迎えていた。怜奈に向けるまなざしには、娘を嫁がせる喜びと誇らしさが満ちていた。まるで、怜奈だけが二人のかけがえのない娘であるかのように。颯人は遅れて姿を現した。仕立てのよい黒のスーツに身を包み、相変わらず人目を引く容姿をしていた。だが眉間には苛立ちが残り、どこか疲れて見えた。ここ数日、森下から私に関する調査結果が少しずつ報告されていた。まだ核心には届いていない。だが断片が増えるほど、胸の内の不安は輪郭を帯びていった。ウェディングマーチが流れた。怜奈は隆之の腕を取り、幸せそうにはにかみながら、バージンロードの先にいる颯人に一歩ずつ近づいた。高価なウェディングドレスをまとい、ベールの下の顔には入念な化粧が施されていた。誰が見ても、幸せの絶頂にいる花嫁だった。誓いの言葉を交わし、指輪を交換しようとした、そのときだった。颯人のポケットでスマホが鳴った。静まり返ったチャペルに、着信音が鋭く響いた。森下からだった。颯人は苛立たしげに眉を寄せ、そのまま切ろうとした。だが、ここ数日の調査結果と、このタイミングでの電話が気にかかった。不吉な予感を振り払えない。司式者に中断するよう合図し、電話に出た。受話口から聞こえた森下の声には、抑えきれない焦りと驚き、それにわずかな恐怖が混じっていた。「社長、すべて分かりました。奥様は間違いなく、社長のお子さんを妊娠していました。
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第5話

式場は一瞬で静まり返った。すべての視線が、血の気を失った颯人の顔に集まった。異変に気づいた怜奈の幸せそうな笑みは凍りつき、代わりに動揺と恐怖が広がった。怜奈は一瞬、逃げ道を探すように視線を巡らせた。すぐに胸を押さえて苦しげな声を漏らし、力を失ったふりをして床へ倒れ込もうとした。「怜奈!」「怜奈、どうした!」隆之と佳代子が声を上げて駆け寄り、会場は騒然となった。だが颯人は、その場に縫いつけられたように動かなかった。目はうつろで、焦点さえ定まっていなかった。森下の報告が、頭の中で何度も反響していた。妊娠していた。自分の子どもを。あれほど嫌っていた女が、自分の子どもを身ごもっていた。診療記録は偽造され、怜奈は病気ですらなかった。自分は何も知らず、愚かにも怜奈の思うままに操られていた。事故は仕組まれたものだった。怜奈と養父母は、金で運転手を雇い、希を殺した。痛みをこらえていた私の青ざめた顔。怜奈の痛ましげな訴え。そして、自分が浴びせた冷酷な言葉。過去の光景が次々と脳裏をよぎった。それまで別々だった記憶が、一つの真実につながっていく。気づいた瞬間、息が詰まった。怜奈は救急搬送された。我に返った颯人も、足取りのおぼつかないまま病院へ向かった。その途中、突然何かを思い出し、運転手に行き先を変えさせた。先に斎場に立ち寄ったのだ。隆之と佳代子は、血相を変えて詰め寄った。「怜奈が病院にいるのに、斎場で何をするつもりだ!」颯人は何も答えず、両手で頭を抱えた。今にも取り乱しそうだった。青ざめた三人は、一言も交わさなかった。重苦しい沈黙のまま、車は斎場に入っていった。颯人は、小さく冷たい骨壺を引き取った。私の遺骨だった。かつては見向きもせず、自分の手で触れようとさえしなかったものだった。それを今、震える両手で胸に抱き締めていた。ようやく見つけた、たった一つの拠り所のように。隆之と佳代子は、その取り乱しように戸惑っていた。何度も事情を尋ねようとしたが、颯人は答えなかった。病院に着く頃には、怜奈の「救命処置」はすでに終わっていた。ベッドに横たわる怜奈の顔はまだ青白かったが、先ほどほど弱ってはいなかった。颯人と榊原夫妻が扉を開けようとしたとき、中から怜奈の押し殺した声が聞こえた。声を
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第6話

颯人は打ちのめされたまま、私と暮らしていた家へ戻った。かつては心の底から嫌い、足を踏み入れることすら避けていた場所だった。だが今は、そこにいるときだけ、かろうじて息ができた。骨壺を抱いたまま、がらんとしたリビングに座り込んだ。頭の中はひどく混乱していた。怜奈の言葉が呪いのように、何度も耳の奥で響いていた。ふいに、自分の手で壊したタブレットを思い出した。あの中には、私が誰にも言えなかった思いも、颯人が見落としてきた真実も残っているかもしれない。颯人は血相を変えて家中を捜し回った。「タブレットはどこだ。俺が壊した、あのタブレットは?」使用人の長谷川の腕をつかみ、切羽詰まった声で問いただした。長谷川は怯えながら答えた。「颯人様、あれは……画面がひどく割れておりましたので、ご指示どおり処分いたしました」処分した――目の前が暗くなり、立っていることさえできなくなった。私はその後を追った。颯人は家を飛び出し、郊外の廃棄物処理施設へ車を走らせた。積み上がったごみの山に分け入り、汚れも悪臭も気にせず、素手で探し続けた。それから丸一日と一晩、探し続けた。鋭いガラス片で指を切り、血まみれになっても気に留めなかった。翌朝、ようやく泥まみれになったタブレットを見つけた。画面は粉々に割れていた。颯人は震える両手でそれを拾い上げ、胸に抱き締めた。失った私を、ようやく取り戻したかのように。家へ戻ると、湿らせた布で泥を丁寧に拭い、経験豊富なデータ復旧の専門業者を呼んだ。中のデータだけでも取り戻してほしいと、縋るように頼んだ。幸い、画面と外装は激しく壊れていたものの、記憶媒体までは完全に損傷していなかった。一昼夜に及ぶ作業の末、データは奇跡的に復旧した。颯人は震える手で、私のブログを開いた。15歳で榊原家へ戻り、初めて書いた日記から読み始めた。【15歳。今日、初めて榊原家へ来た。お父さんもお母さんも、私をあまり好きではないみたい。知らない人を見るように、上から下まで値踏みされた。あの目には……嫌悪も混じっていた。颯人には、憎い敵を見るような目を向けられた。私が怜奈のすべてを奪ったのだと言われた。けれど、15年分の人生を奪われたのは私なのに。どうして誰も、私がこの15年をどう生き
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第7話

【22歳。また黒岩山の夢を見た。全身傷だらけだった男の子。私はその子を背負い、長い山道を歩き続けた。たった一枚だけ持っていた、きれいなハンカチで血を拭いた。彼は黒川颯人と名乗り、いつか必ず恩を返す、私を一生守ると約束してくれた。なのに、今の颯人はどうして私をまったく覚えていないのだろう】【25歳。妊娠したみたい。検査薬で2回確かめた。どちらも陽性だった。颯人に話すのが怖い。あれほど私を嫌っているのだから、子どもができたと知れば、迷わず産むなと言うかもしれない。一人で病院へ行った。赤ちゃんは順調だと医師に言われた。うれしくて、同じくらい怖い。それでも、この子を産みたい】【25歳。怜奈が白血病になり、骨髄移植が必要なのだという。適合したのは私だけだった。みんなが怜奈を助けろと言った。颯人には、怜奈の人生を奪ったのだから、そのくらい返して当然だと冷たく言われた。お父さんとお母さんも、家族のために我慢しろ、怜奈を死なせるわけにはいかないと言った。私の気持ちを尋ねる人は、誰もいなかった。妊娠3か月だということも、骨髄を提供すれば赤ちゃんにどれほど負担がかかるのかも、誰も知らない。みんなが心配しているのは、怜奈の命だけ】【引き受けることにした。あの人たちのために何かをするのは、これで最後にしようと思う。これで、もうあの人たちには何の借りもない。これまで貯めたお金は、地方の児童養護施設に匿名で寄付した。家のない子どもたちが、私より少しでも幸せに暮らせますように。おなかいっぱい食べて、寒い冬を暖かく過ごせますように】【明日は病院へ行く。赤ちゃんのために編んでいる小さなセーターは、まだ片方の袖しかできていない。颯人。もし、あの黒岩山で助けたのが怜奈ではなく私だったと知ったら、少しだけでも優しくしてくれた?本当に、ほんの少しでいい。そうしてくれたなら、この世界に生まれてきたことにも、少しは意味があったと思える】記事を読み進めるたび、颯人の顔から血の気が引いていった。見ようとしなかった真実。悪意だと決めつけた好意。笑い飛ばしてきた苦しみ。それらが今、否定しようのない事実となって目の前に並んでいた。颯人は画面から目をそらせなかった。そこにいたのは、誰にも知られない
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第8話

実の両親も、すべての真相を知った。とりわけ、誰にも言えずに抱え込んでいた苦しみを綴った私のブログを読んだとき、二人は自分たちのしたことを思い知らされ、深い後悔に沈んだ。佳代子はその場で気を失った。目を覚ました後も放心したまま、片袖だけが編み上がった小さなセーターを抱いて泣き崩れた。私が榊原家へ来たばかりの頃、安物のネックレスをおずおずと差し出した姿を思い出していた。あのときの私は、期待に満ちた目で母を見ていた。だが佳代子が返したのは、軽蔑と嫌悪のまなざしだけだった。何かを説明しようと口を開きかけた私を、煩わしそうに何度も遮ったことも思い出した。隆之は一晩で髪が白くなった。仕事では誰にも引けを取らなかった男が、今はソファに力なく座り、一枚の写真を繰り返し眺めていた。私が15歳で戻った直後、使用人が何気なく撮った、たった一枚の写真だった。写真の私は痩せ、顔色も悪かった。不安そうで、それでも瞳にはわずかな希望が残っていた。隆之はこのとき初めて、実の娘について、何一つ知らなかったことに気づいた。両親は、私の遺品に縋るようになった。小さく冷たい骨壺だけが、私を悼み、自分たちを慰めるよすがになった。遺骨を誰が引き取るかをめぐり、颯人の前で醜く言い争いさえした。斎場の職員から、火葬された私の体には、提供可能な臓器や組織がほとんど残っていなかったと聞かされた。颯人は、角膜提供の礼を告げてきた電話を思い出した。颯人は取り乱したまま、移植を担当した病院へ駆け込んだ。記録を確認するうち、血の跡が残る臓器提供意思表示カードを見つけた。署名欄には、力の抜けた、それでもかろうじて判読できる文字で「榊原希」と書かれていた。意思表示の日付は、事故が起きた当日だった。そのそばには、小さな文字で希望が添えられていた。【もし適合し、制度上可能であれば、私の心臓は待機者名簿にいる小野寺湊くんに優先的に提供してください。先天性の心臓病を患う5歳の子です。あの子には、この世界を見てほしい】颯人は、その薄いカードを見つめた。そこに書かれた一文字一文字が、胸の奥を焼いた。血の海に倒れ、死の間際まで力を振り絞っていた私の姿が、目に浮かんだ。颯人はずっと、私を自分のことしか考えない女だと思っていた。けれど私は、
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第9話

颯人が見つけた「霊能者」の大半は、金目当ての詐欺師だった。それでも颯人は惜しげもなく金を注ぎ込み続けた。後悔と執着に取りつかれた末、ついに、本物だとうわさされる世捨て人のような霊能者にたどり着いた。その霊能者の儀式によって、颯人はほんのわずかな間だけ、私の姿を見ることができた。その日、颯人は骨壺を抱き、やつれ果てた姿で冷たい床にひざまずいていた。目の前には私の写真と、編みかけの小さなセーターが置かれていた。透けるような私の姿が現れると、かつて傲慢だった男は泣き崩れた。助けを求める子どものように、言葉もまともに続かない。「希……本当に、希なのか?すまなかった。全部、俺が悪かった。信じようともせず、傷つけて、あんなにつらい思いをさせた……」颯人は私に触れようと手を伸ばしたが、その手は何もない空間をすり抜けた。「俺は何も見えていなかった。愚かにもほどがある。本当のことを何一つ信じず、希の気持ちを踏みにじった。希、殴っても罵ってもいい。何でもする。頼むから、俺を見捨てないでくれ……行かないでくれ。頼む、行かないでくれ。俺の命だって差し出す。だから戻ってきてくれ!愛しているんだ、希。本当はずっと前から愛していた。それを認めるのが怖くて、気づかないふりをしていた。怜奈を裏切ることになると思って……俺は最低だ。俺は……」私はその前に浮かび、泣きながら必死に訴える颯人を静かに見つめた。心は穏やかだった。波立つことも、憎しみが湧くこともなかった。かつてあれほど深かった愛も痛みも、死と共に薄れていた。私は静かに答えた。「颯人。私の子どもは、たった一人で向こうへ行った。ずっと待たせてしまったから、もうそばへ行ってあげたいの」そこで言葉を切り、私はかすかに笑った。苦しみも未練も、もう手放していた。「それに、もう遅い。冷たい言葉を浴びせられ、何度も嘲られるうちに、あなたへの愛は少しずつ消えていった。もう、ずっと前になくなっていたの。もう疲れた。あなたのことも、もういらない」それを聞くと、颯人はさらに激しく泣いた。残りの人生をすべて償いに使う。もう一度だけ機会をくれ。何でもする。そう何度も繰り返した。けれど、私にはもうどうでもよかった。愛も憎しみも、あの大型トラックに命を奪われた瞬間から、少しずつ薄れていった。
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第10話

実の両親は後悔に囚われ、毎日のように私を思って泣いた。体は日に日に衰え、急速に老け込んでいった。二人が経営を顧みなくなり、黒川グループからの圧力と怜奈の不祥事も重なった。榊原グループは急速に傾いていった。やがて競合企業に事業を買い取られ、榊原家には何も残らなかった。両親は裕福な暮らしから転落し、寂しい晩年を送った。一方、颯人は日を追うごとに私への執着を深め、降霊術の研究にのめり込んでいった。私のブログをすべて印刷してまとめ、何度も読み返した。骨壺を何より大切にし、毎晩、抱いたまま眠った。臓器提供を受けた人々から寄せられた感謝の寄付金に私財を加え、私の名を冠した「のぞみ基金」を設立した。経済的な事情で学ぶ機会を得られない女の子や、先天性疾患のある子どもを支援する基金だった。颯人は財産のほとんどを投じ、少しでも償おうとした。だが、すべてが遅すぎた。どれほどの代償を払っても、もう一度だけ私に会いたい。せめて、もう一言だけ声を聞きたい。それだけを願っていた。社内では、社長は完全に正気を失ったとうわさされていた。かつて経済界で名を馳せた経営者の面影はない。そこにいるのは、過去に囚われた哀れな男だけだった。颯人はきっと、死ぬまで自分を責め続けるのだろう。それが颯人に与えられた、最も残酷で、最も公平な罰なのかもしれなかった。私はあの人たちを許すつもりはなかった。それでも、颯人が後悔に沈み、怜奈と養父母が報いを受け、実の両親が自責に苦しむ姿を見届けた頃には、私をこの世につなぎ止めていた未練は、もう消えていた。魂は少しずつ透き通っていった。まもなくこの世から消え、行くべき場所へ向かうのだと分かった。ただ、来世では平凡でも愛情に満ちた家に生まれたい。もう二度と、胸を引き裂かれるような苦しみを味わいたくなかった。遠くから差し込んだ光が、私の魂を柔らかく包んだ。少し離れた場所で、私の子どもが小さな手を伸ばし、無邪気に笑っているような気がした。さようなら、颯人。さようなら、かつて私を苦しめ続けたこの世界。(おわり)
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