All Chapters of 四度目の婚姻届、もうあなたを待たない: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

蒼士が市役所を出ていったとき、受付案内の画面にはまだ私たちの番号が表示されていた。窓口の職員は私を見て、それから玄関のほうへ目をやった。「お手続きは、どうなさいますか?」口を開いたものの、声が出なかった。後ろから、順番を待つ人の苛立った声が聞こえた。私はようやく窓口から離れ、次の二人に場所を譲った。手の中の婚姻届は、強く握りしめたせいでしわだらけになっていた。朝、家を出る前に、自分でバッグに入れたものだった。そのとき蒼士は、緊張する私を笑っていた。「婚姻届を出すだけだろ。そんなに身構えるなよ」そう言って、私の白いシャツの襟を整えてくれた。「出し終わったら、夜は千紗が好きな牛すじうどんの店に行こう」あのときの私は、今日だけは蒼士が私だけを見てくれると、本気で信じていた。けれど由良から電話がかかってくると、蒼士は振り返りもしなかった。17時半、市役所では窓口を閉める準備が始まった。職員がカウンターの書類を片づけながら、私に声をかけた。「本日の受付は終了します。改めてお二人でいらしてください」私は待合用の長椅子に座ったまま、足がしびれて立ち上がれなかった。ようやく蒼士からメッセージが届いた。【電気は直った】【先に帰ってて。俺もあとで戻る】その2行を、私はいつまでも見つめていた。まだ市役所にいるのかと尋ねる言葉はなかった。謝罪の一言さえなかった。外はすっかり暗くなっていた。私は一人で新居に帰った。玄関には、スリッパが3足並んでいた。グレーは蒼士のもの。アイボリーは私のもの。その隣には、ピンク色の起毛素材のスリッパがあった。前に遊びに来た由良が、床が冷たいと言ったからだ。蒼士はその翌日に買ってきた。私の分も、ついでに暖かいものに替えてくれないのかと尋ねたことがある。蒼士は届いた荷物を開けながら、こちらも見ずに答えた。「千紗は寒さに強いだろ?」玄関の鍵が開いたのは、もうすぐ22時になろうというころだった。蒼士が、夜風の冷たさをまとって入ってきた。手には焼き栗の紙袋を提げていた。リビングに立ったまま、私は蒼士を見つめた。「帰りに買ったの?」蒼士は一瞬、言葉に詰まった。「由良が食べたいって言うから、並んでるついでにもう一つ買
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第2話

翌朝早く、蒼士が寝室のドアを軽く叩いた。目を覚ますと、蒼士はもう着替えを済ませていた。白いシャツに、黒いスラックス。昨日と同じ服装だった。「起きろよ」昨夜よりも、いくらか穏やかな声だった。「先に写真を撮り直して、それから市役所へ行こう」蒼士を見つめた瞬間、胸が鈍く一度脈打った。消えかけた灰の奥で、小さな火種が再び灯ったようだった。顔を洗い、メイクをして、シャツにもう一度アイロンをかけた。家を出る直前、蒼士のスマホに電話がかかってきた。玄関に立ったまま、私の指先には少しずつ力が入った。蒼士は私を一度見ると、そのままスピーカーモードに切り替えた。由良の甘く弱々しい声が流れてくる。「蒼くん、二人の邪魔をするつもりじゃなかったの。今日は写真スタジオを予約してるんだ。つらかったことに区切りをつけたくて、記念写真を撮ろうと思って」由良はそこで言葉を切った。「でも、急に午後まで待ってほしいって言われたの。一人で待っているのが、少しつらくて……」蒼士は数秒、黙り込んだ。次に何を言うのか、私にはもう分かっていた。案の定、蒼士は私を見た。「先に写真スタジオへ行こう」私はかすかに口元をゆがめた。「それから?」「俺たちも結婚の記念写真を撮り直すんだし、ちょうどいいだろ。一緒に撮ればいい」ごく当然のことのように言った。私たちのために取っておいた時間を由良に譲ることなど、蒼士にとっては大した問題ではないのだろう。写真スタジオには、すでに由良が来ていた。オフホワイトのワンピースを着て、髪を肩まで下ろした姿は、清楚で無垢に見えた。私を見ると、由良は申し訳なさそうに笑った。「千紗、二人の邪魔にならない?」私が答えるより早く、蒼士が口を開いた。「大丈夫だ」カメラマンが受付票を手にやってきた。「どなたから撮影しますか?」蒼士は由良を見た。「由良からお願いします。やっと気持ちが落ち着いたところなので」私は脇の椅子に座り、由良が背景布の前に立つのを見ていた。1枚目では、由良の笑顔がぎこちなかった。蒼士がそばへ行き、顔にかかった髪を整えてやった。「そんなに硬くなるなよ。昔みたいに笑えばいい」2枚目では、由良がスカートの裾がきれいに広がらないと言った。
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第3話

蒼士は、私がまだ機嫌を損ねているだけだと思っていた。夜、新居へ戻ってきた蒼士は紙袋を一つ持っていた。中に入っていたのは、白いボレロだった。「昨日も今日も、千紗のことまで気が回らなかったから」蒼士はそれを私に羽織らせた。「この色、千紗に似合うと思って」私はボレロに目を落とした。値札さえ外されていない。サイズは小さめだった。由良ならちょうどいいが、私には肩まわりがきつい。蒼士は気づかなかった。いや、私に何が合うのか、初めからきちんと見たことなどなかったのだ。3日目、蒼士は仕上がったばかりの新居を見に、私を連れていった。二人で選んだ部屋だった。けれど、実際にインテリアショップを回り、カーテンを決め、取りつけに立ち会ったのは、ずっと私一人だった。蒼士は仕事が忙しく、そういうことを面倒がった。「千紗の好きなようにすればいいよ。俺はどこに住んでも構わないから」以前の私は、その言葉がうれしかった。私の好みを尊重してくれているのだと思っていた。今なら分かる。ただ、どうでもよかっただけだ。リビングの隅には、月をかたどったランプが置かれていた。時間をかけて選んだものだった。すりガラスのシェードは、明かりをつけると柔らかな霧をまとった小さな月のように見える。蒼士は初めて見たとき、子どもっぽいと笑った。「こんなのを新居に置いたら、子ども部屋みたいだな」けれど今日は、由良も来ていた。由良はランプの前に立ち、長い間眺めていた。「きれい。私の部屋、夜になると暗いの。天井の照明はまぶしすぎるし」蒼士の目元が、たちまち和らいだ。「気に入ったなら持って帰れよ」私の指先に力が入った。「これは、新居に置くために私が買ったものだよ」蒼士が振り返った。「また買えばいいだろ?」由良が唇をかんだ。「やっぱりいいよ。千紗も気に入ってるみたいだし」蒼士は構わず、作業員に配線を外すよう頼んだ。「千紗はそんなに心が狭くない」私はその場に立ったまま、ランプが部屋の隅から運び出されるのを見ていた。コードが巻かれ、由良の車に積み込まれていく。その瞬間、ずっと昔のことを思い出した。蒼士と初めて夜店へ行った日。星をかたどったランプが欲しくて、私は財布を握ったまま長いこと
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第4話

4日目は、もう一度、二人で婚姻届を出すと約束した日だった。昨夜、眠る前に蒼士が私を抱きしめた。蒼士から抱きしめてくることは、めったにない。腕に力がこもると、服からほのかなウッディ系の香りがした。「千紗、もう意地を張るなよ」蒼士は顎を私の頭にのせた。「明日はどこにも行かない」私は離れようとはしなかった。けれど、抱き返すこともしなかった。ただ一つ、尋ねた。「蒼士、本当に私と結婚したいの?」蒼士の体が一瞬、こわばった。ほんのわずかな変化だった。腕の中にいなければ、気づかなかったかもしれない。「もちろん」蒼士は私の髪をなでた。「ここまで来たんだから」ここまで来たから。愛しているからではない。長く一緒にいたから。結婚相手として無難だから。そして由良に選ばれなかった蒼士のそばに、ちょうど私がいたから。翌朝、私は早く起きた。白いシャツにアイロンをかけ、髪をまとめ、必要書類をバッグに入れた。玄関で靴を履いていた蒼士のスマホが鳴ったとき、私はもう顔を上げなかった。画面を見た蒼士の眉が、わずかに動いた。受話口から由良の声が漏れてきた。「蒼くん、私、今日ここを離れるの。切符も取った。改札まででいいから、見送りに来てくれない?」蒼士は何も言わなかった。私は蒼士を見た。蒼士は私の目を避けた。「千紗」私は、その先を代わりに口にした。「由良を見送りに行くんだね」蒼士は眉間を指で押さえた。「今度こそ、本当にこの街を離れるらしい。見送るだけだ。婚姻届は午後からでも出せる」私はバッグを肩に掛けた。「午前中に二人で行くって約束したよね」「じゃあ、午後に変えればいい」「午後の予約枠はもう空いていない」蒼士はついに苛立ちを見せた。「だったら明日でいいだろ。千紗、婚姻届は今日しか出せないわけじゃない」私は黙って蒼士を見つめた。「じゃあ、私は?」蒼士は動きを止めた。私はゆっくりと、蒼士の前まで歩み寄った。「由良が暗いところを怖がれば、駆けつける。写真を撮りたがれば、付き添う。ランプが欲しいと言えば、持たせる。今度は見送ってほしいと言われたから、また行くんだね」声はひどく静かだった。「蒼士、私だって怖いものはあるよ」一瞬、蒼士の表情
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第5話

蒼士が市役所へ駆け込んだとき、すでに窓口の受付は終わっていた。職員はカウンターの書類を片づけながら、改めて二人で来るよう伝えた。蒼士の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。「先ほど、白いシャツを着た女性が来ませんでしたか?」職員は少し考えた。「いいえ、そのような方はお見えになっていません」蒼士の顔色が変わった。スマホを取り出し、千紗に電話をかけた。1度目は、つながらなかった。2度目も同じだった。3度目には、無機質な案内音声が流れた。蒼士は何が起きたのか分からないように、画面を見つめていた。由良が玄関のそばに立ち、小さな声で言った。「千紗、怒ってるのかな?」蒼士は答えなかった。背を向けて外へ出ると、足を速めていった。由良は後を追い、その袖をつかんだ。「蒼くん、そんなに焦らないで。千紗はあれだけ蒼くんのことが好きなんだから、本当にいなくなったりしないよ」蒼士は突然、足を止めた。「改札に入ったんじゃなかったのか?」由良の手がこわばった。「それは……」蒼士は由良を見た。「一人で改札を通るのが怖いって言ったよな?」由良はうつむき、かすかな声で答えた。「出発を明日に変えたの」「いつ?」由良は唇をかんだ。「蒼くんが来る前」市役所の玄関から、風が吹き込んだ。蒼士の顔から少しずつ血の気が引いていく。玄関に立った千紗が尋ねた言葉を、蒼士は思い出した。——「じゃあ、私は?」あのとき蒼士は、結婚を盾にして俺を縛るな、と言った。由良の目に涙がにじんだ。「蒼くんが本当に見送りに来てくれるか、確かめたかっただけ。ずっと私の面倒を見るって、前に言ったでしょう?」蒼士はしばらく由良を見つめたあと、不意に笑った。ひどく引きつった笑いだった。「今日が何の日か、知ってたんだな」由良は何も言わなかった。「俺が行けば、千紗が一人で市役所に残されることも分かってた」由良の声が震えた。「でも、蒼くんは来てくれた」その一言は、蒼士を一気に水底へ突き落とした。初めて、由良をかばおうとしなかった。悪気はなかったのだとも言わなかった。ただ背を向け、駐車場へ歩いていった。新居へ戻ると、部屋の明かりは消えていた。玄関から、アイボリーのスリッパ
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第6話

汐見町は海に面している。列車を降りると、潮気を含んだ風が吹いていた。改札の前では、坂口朱音(さかぐち あかね)が待っていた。私のスーツケースを見ると、何も尋ねずに手を伸ばした。「まず帰って寝よう」私はうなずいた。遅れて追いついてきたように、涙がこぼれた。朱音は私の手にティッシュを押し込んだ。「泣くのはいいよ。振り返らなければ、それでいい」朱音は汐見町の古い商店街で、小さなランプ店を営んでいた。店先には、ガラスのランプがいくつか吊るされている。昼間は何の変哲もないが、夜に明かりが灯ると、静かな月が並んでいるように見えた。昔の私は、こういうものを作るのが何より好きだった。学生のころ、古い針金と色セロハンで、小さなランプを作ったことがある。それを見た蒼士は、いつまでも笑っていた。「こんなの、何の役に立つんだ?」それ以来、私は何も作らなくなった。汐見町に着いた最初の夜は、深く眠った。蒼士からの電話を待つこともなかった。玄関の鍵が開く音に耳を澄ませることもなかった。夜中に目を覚まし、また由良にメッセージを返しているのだろうかと考えることもなかった。翌日、朱音は縁の欠けたランプシェードを私の前に押し出した。「直せる?」ガラスの縁を指でなぞり、私はうなずいた。初めのうち、手は少し震えていた。けれど次第に落ち着いていった。接着剤を少しずつ塗り、亀裂を押さえ、シェードを元の形に戻した。夕方になるころ、ランプに明かりが灯った。暖かな黄色い光が、手のひらを照らした。それを見つめていると、不意に鼻の奥がつんとした。一度壊れたからといって、捨てるしかないわけではない。ただ、もう一度、壊した人の手に戻してはいけないのだ。そのランプは、通りかかった女性が買っていった。胸に抱き、何度も眺めていた。「このひび、すてきですね。月の上に細い川が流れているみたい」私は思わず目を見開いた。蒼士は、それは壊れていると言った。けれど彼女は、川のようだと言った。カウンターにもたれていた朱音が、私に向かって顎をしゃくった。「聞いた?千紗の作るものが役に立たないんじゃない。見る目のない人がいただけ」私は笑ったが、目の奥は熱くなった。蒼士は知らない番号から、私に
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第7話

蒼士が汐見町を探し当てたのは、雨の降る午後だった。私は店先のランプを店の中に運び込んでいた。細い雨が斜めに降り、石段をぬらしていた。黒い傘を差した誰かが、私の前で足を止めた。顔を上げると、蒼士がいた。ずいぶん痩せていた。目は充血し、ジャケットにも皺が寄っている。いつも身なりを整えていた以前の蒼士とは、まるで違っていた。「千紗」声はひどくかすれていた。私は最後のランプを店内に運び入れた。「何か用?」その一言に傷ついたように、蒼士の顔がこわばった。「ずっと捜してた」「そう」私は背を向け、カウンターを拭き始めた。蒼士も店へ入り、手にした小箱を強く握りしめた。「指輪の刻印を直した。俺たち二人の名前だけにした」私は目を向けなかった。「蒼士は今でも、問題は指輪にあったと思ってるの?」蒼士の手が止まった。雨が軒を打ち、絶え間なく音を立てていた。「違う。それくらい分かってる」蒼士は低い声で続けた。「これまで俺が千紗を大切にしなかったからだ」私は思わず笑った。これまで。7年の間に、何度置き去りにされたことだろう。何度、由良と比べられただろう。何度、物分かりのいい人間でいることを求められただろう。それなのに蒼士の口にかかれば、たった一言の「これまで」で片づけられてしまう。蒼士は指輪の箱をテーブルに置いた。「一緒に帰ろう。部屋は一から整え直す。あのランプも、もう誰にも渡さない」私は蒼士を見た。「帰らない」蒼士の喉仏が上下した。「どうして?」入り口のベルが鳴った。奥村郁人(おくむら いくと)が、電球の入った袋を提げて入ってきた。隣の古いカメラ店の店主で、普段は口数が少ない。ときどき、朱音の荷物運びを手伝ってくれる。蒼士に気づくと、郁人は一瞬だけ足を止めた。「どこに置けばいい?」私は袋を受け取ろうとした。「私がやるよ」郁人は何も尋ねず、傘を入り口の脇に立てかけた。「雨がひどい。あとで二人を送る」蒼士の視線が郁人に移り、その顔が少しずつ険しくなった。「誰なんだ?」私は電球を引き出しにしまった。「友達」蒼士は私を見据えた。「ここへ来て、まだ大して経ってないだろ?」口にした本人も、その言葉
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第8話

由良が汐見町へやってきたのは、それから3日後だった。淡い色のワンピースを着て、店の前に立っていた。相変わらず、か弱く無垢な顔をしていた。「千紗、少し話せる?」カウンターの奥で、朱音が鼻で笑った。私は手にしていた銅線を置いた。「ここで話して」由良が店内を見回した。「ここでは、ちょっと……」私は由良を見上げた。「私と由良の間に、人に聞かれて困る話なんてないでしょう」由良の笑みが一瞬こわばった。けれど、すぐに元に戻った。「蒼くん、この何日か電話に出てくれないの。もう私のことには関わらないって言われた」由良は私を見つめた。「千紗はうれしいでしょう?」私は再び、銅線を巻き始めた。「どうして?」由良が一歩近づいた。「やっと私に勝ったんだから」銅線が、指先で小さな輪を作った。私は顔を上げなかった。「由良と張り合ったことなんてないよ」数秒の沈黙のあと、由良は突然笑った。笑みは薄く、もう無垢なふりをしてはいなかった。「でも、昔はあんなに気にしてたじゃない。私が電話を一本かければ、蒼くんは必ず来てくれた。暗いところが怖いと言えば、千紗を置き去りにした。写真を撮りたいと言えば、私のために時間を空けてくれた。千紗たちの新居にあったランプが欲しいと言えば、配線まで外させた」由良の声は、ため息のように軽かった。「千紗が、いつまで我慢できるのか知りたかったの」カウンターの奥で、朱音の顔色が変わった。私はかえって冷静になった。私の考えすぎではなかった。物分かりが悪かったわけでもない。些細なことにこだわっていたのでもない。これまで感じてきた痛みの一つ一つは、由良が意図的に与えたものだった。由良は、カウンターに並ぶランプに目をやった。「本当は、あの月のランプなんて好きじゃなかった」私の指が止まった。「蒼くんが私にくれるかどうか、確かめたかっただけ」由良はうつむき、かすかに笑った。「そしたら、本当にくれた。婚姻届を出す日も同じ。私の部屋は停電なんてしてなかった。明かりを消しただけ。4日目の切符も、とっくに変更してた」朱音が勢いよく立ち上がった。「そこまでやるなんて、どうかしてる」由良は朱音を無視した。私を見据え、長い間隠していた言葉をよう
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第9話

蒼士は汐見町に滞在するようになった。私に帰れと迫ることは、もうなかった。ただ毎日、夕方になると店の前に来て、しばらく座っていた。温かい飲み物を持ってくる日もあった。新しい傘を持ってくる日もあった。何も持たず、通りの向かい側に立って、ランプが一つずつ灯るのを眺めている日もあった。朱音は蒼士をうっとうしがった。「追い払おうか?」私は首を横に振った。「いいよ」蒼士は私が引いた一線を越えなかった。けれど静かにしていればいるほど、どれほど後悔しているのかが伝わってきた。ある日、店が停電した。商店街全体が、突然暗闇に沈んだ。朱音は店の奥へ懐中電灯を探しに行った。カウンターのそばにいた私の指が、わずかに止まった。本当は、私も暗いところが怖い。ただ、これまで誰も尋ねなかっただけだ。店の外から、慌ただしい足音が聞こえた。蒼士が、充電式の小さなランプを手に駆け込んできた。その手の中で、明かりが広がっていた。蒼士は息を切らしていた。「こっちが暗くなったのが見えた。千紗、怖くないか?」柔らかな光を見つめると、胸がかすかに締めつけられた。以前の私なら、泣いていたかもしれない。ようやく見つけてもらえたのだと思っただろう。けれど今の私は、ランプを受け取り、カウンターに置いただけだった。「ありがとう」蒼士の目が曇った。「昔から暗いところが怖かったなら、どうして言わなかった?」私は蒼士を見た。「言ったよ」蒼士が息をのんだ。私はゆっくりと思い出させた。「前に映画を見た帰り、外は雨で、地下駐車場の照明が故障してたことがあったよね。私、蒼士の袖をつかんで、怖いって言った。でも由良から電話が来て、由良も暗いところが怖いからって、私には一人でタクシーに乗って帰れと言った」蒼士の顔から、少しずつ血の気が引いていった。やはり、覚えていなかったのだ。けれど私は覚えている。一人で駐車場に長いこと立っていた。最後にはスマホのライトを頼りに外まで走った。靴の中まで雨水が入り、寒さと恐怖で震えていた。その夜、帰ってきた蒼士には、雨にぬれた跡一つなかった。それどころか、私を責めた。「いい大人が、一人でタクシーにも乗れないのか?」蒼士はカウンターに手をつき、震え
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第10話

1年後、汐見町の古い商店街は改修工事を終えた。ランプ店の入り口には、新しい木の看板が掛かった。看板を彫ってくれたのは郁人だった。達筆とは言えないが、一画ずつ丁寧に刻まれていた。【千紗の灯り】朱音は、腕が落ちたんじゃないかと笑った。郁人は木屑を払い、素っ気なく朱音を見た。「読めればいい」私は店先に立ち、最後のガラスランプを吊るした。風が吹くと、灯りの影が静かに揺れた。この看板を掲げるまで、実はずいぶん迷った。ここに残ると決めたのなら、本当に自分のものだと言える名前をつけるべきだと、朱音に言われたからだ。刻まれた文字をなぞると、胸の奥にゆっくりと、言葉にできない思いが満ちていった。誰かの苗字を借りなくても、自分の名前だけを掲げた店を持てる日が来るなんて、以前は思いもしなかった。この1年は、想像していたほど順調ではなかった。手にやけどを負ったこともある。客から預かったランプを割ってしまったこともある。1週間かけて、小さなナイトランプが一つしか売れなかったこともあった。初めのころは、値段のつけ方さえ分からなかった。朱音は、材料費と作業時間、廃棄分を一つずつ記録するよう教えてくれた。郁人は傾いた陳列棚を、まっすぐに取りつけ直してくれた。口数の少ない人だった。私がランプ作りに失敗し、裏口に座り込んでいたときも、隣に白湯を置いただけだった。「割れたなら、作り直せばいい」私は尋ねた。「また失敗したら?」「もう一度やる」郁人は穏やかな口調で言った。「いつかはできる」それから私は、本当に何度も作り直した。かつては不揃いなのが嫌で仕方なかったランプも、少しずつ、それぞれの形を持つようになった。ショーウインドーに並ぶ量産品のようには見えない。それでも足を止め、表面のひびに触れて、わざと残したものなのかと尋ねる人がいた。そのたびに、違います、と答えた。一度壊れたけれど、捨てなかっただけだと。最初にまとめて作ったランプは、思いのほかよく売れた。形が整っていないと言う人もいた。細かなひびが、潮の引いたあとに残る跡のようだと言う人もいた。以前の私は、完璧でないことが何より怖かった。今は、完璧でなくても明かりは灯ると思える。その後、蒼士から何
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