蒼士が市役所を出ていったとき、受付案内の画面にはまだ私たちの番号が表示されていた。窓口の職員は私を見て、それから玄関のほうへ目をやった。「お手続きは、どうなさいますか?」口を開いたものの、声が出なかった。後ろから、順番を待つ人の苛立った声が聞こえた。私はようやく窓口から離れ、次の二人に場所を譲った。手の中の婚姻届は、強く握りしめたせいでしわだらけになっていた。朝、家を出る前に、自分でバッグに入れたものだった。そのとき蒼士は、緊張する私を笑っていた。「婚姻届を出すだけだろ。そんなに身構えるなよ」そう言って、私の白いシャツの襟を整えてくれた。「出し終わったら、夜は千紗が好きな牛すじうどんの店に行こう」あのときの私は、今日だけは蒼士が私だけを見てくれると、本気で信じていた。けれど由良から電話がかかってくると、蒼士は振り返りもしなかった。17時半、市役所では窓口を閉める準備が始まった。職員がカウンターの書類を片づけながら、私に声をかけた。「本日の受付は終了します。改めてお二人でいらしてください」私は待合用の長椅子に座ったまま、足がしびれて立ち上がれなかった。ようやく蒼士からメッセージが届いた。【電気は直った】【先に帰ってて。俺もあとで戻る】その2行を、私はいつまでも見つめていた。まだ市役所にいるのかと尋ねる言葉はなかった。謝罪の一言さえなかった。外はすっかり暗くなっていた。私は一人で新居に帰った。玄関には、スリッパが3足並んでいた。グレーは蒼士のもの。アイボリーは私のもの。その隣には、ピンク色の起毛素材のスリッパがあった。前に遊びに来た由良が、床が冷たいと言ったからだ。蒼士はその翌日に買ってきた。私の分も、ついでに暖かいものに替えてくれないのかと尋ねたことがある。蒼士は届いた荷物を開けながら、こちらも見ずに答えた。「千紗は寒さに強いだろ?」玄関の鍵が開いたのは、もうすぐ22時になろうというころだった。蒼士が、夜風の冷たさをまとって入ってきた。手には焼き栗の紙袋を提げていた。リビングに立ったまま、私は蒼士を見つめた。「帰りに買ったの?」蒼士は一瞬、言葉に詰まった。「由良が食べたいって言うから、並んでるついでにもう一つ買
Read more