LOGIN婚姻届を提出する日、市役所の受付番号が私たちの番になった途端、榎本蒼士(えのもと そうし)のスマホが鳴った。 画面を見た蒼士は、婚姻届をすぐに私・藤岡千紗(ふじおか ちさ)のバッグに戻した。 「由良のマンションが停電して、廊下の照明まで消えたらしい。あいつは暗いところが苦手だから、ちょっと行ってくる」 私は必要書類を握りしめ、窓口の前に立ち尽くした。 「蒼士、今日中に手続きを済ませるって約束したよね」 蒼士はもう出口へ向かっていた。焦りを帯びた声だけが返ってきた。 「1日遅れたって何も変わらないだろ。千紗は物分かりがいいんだから、こんなときくらい我慢してくれよ」 朝から夕方まで待ち続け、やがて市役所が閉まる時間になった。 そのころ、スマホには小宮由良(こみや ゆら)がLINEのタイムラインに投稿した写真が流れてきた。 添えられた言葉は、たった一言だった。 【人生の大事な用事を放り出してまで、誰かが駆けつけてくれるって、こんな気持ちなんだ】 ふいに、昔からずっとそうだったことを思い出した。 映画が始まった直後、由良から電話がかかってくると、蒼士は私だけを席に残した。 「あいつは暗いところが苦手だから、家まで送ってくる」 私の誕生日には、落ち込んでいる由良に付き添って川沿いを歩き、翌日になってようやく「誕生日おめでとう」と言った。 私にプロポーズしたのも、由良の婚約が破談になった夜だった。 ようやく私を見てくれたのだと思っていた。 けれど本当は、行き場を失った蒼士のそばに、たまたま私がいただけだった。 市役所のガラス扉に映る私の顔は青ざめ、それでもひどく静かだった。 今度こそ、もう蒼士を待たない。
View More1年後、汐見町の古い商店街は改修工事を終えた。ランプ店の入り口には、新しい木の看板が掛かった。看板を彫ってくれたのは郁人だった。達筆とは言えないが、一画ずつ丁寧に刻まれていた。【千紗の灯り】朱音は、腕が落ちたんじゃないかと笑った。郁人は木屑を払い、素っ気なく朱音を見た。「読めればいい」私は店先に立ち、最後のガラスランプを吊るした。風が吹くと、灯りの影が静かに揺れた。この看板を掲げるまで、実はずいぶん迷った。ここに残ると決めたのなら、本当に自分のものだと言える名前をつけるべきだと、朱音に言われたからだ。刻まれた文字をなぞると、胸の奥にゆっくりと、言葉にできない思いが満ちていった。誰かの苗字を借りなくても、自分の名前だけを掲げた店を持てる日が来るなんて、以前は思いもしなかった。この1年は、想像していたほど順調ではなかった。手にやけどを負ったこともある。客から預かったランプを割ってしまったこともある。1週間かけて、小さなナイトランプが一つしか売れなかったこともあった。初めのころは、値段のつけ方さえ分からなかった。朱音は、材料費と作業時間、廃棄分を一つずつ記録するよう教えてくれた。郁人は傾いた陳列棚を、まっすぐに取りつけ直してくれた。口数の少ない人だった。私がランプ作りに失敗し、裏口に座り込んでいたときも、隣に白湯を置いただけだった。「割れたなら、作り直せばいい」私は尋ねた。「また失敗したら?」「もう一度やる」郁人は穏やかな口調で言った。「いつかはできる」それから私は、本当に何度も作り直した。かつては不揃いなのが嫌で仕方なかったランプも、少しずつ、それぞれの形を持つようになった。ショーウインドーに並ぶ量産品のようには見えない。それでも足を止め、表面のひびに触れて、わざと残したものなのかと尋ねる人がいた。そのたびに、違います、と答えた。一度壊れたけれど、捨てなかっただけだと。最初にまとめて作ったランプは、思いのほかよく売れた。形が整っていないと言う人もいた。細かなひびが、潮の引いたあとに残る跡のようだと言う人もいた。以前の私は、完璧でないことが何より怖かった。今は、完璧でなくても明かりは灯ると思える。その後、蒼士から何
蒼士は汐見町に滞在するようになった。私に帰れと迫ることは、もうなかった。ただ毎日、夕方になると店の前に来て、しばらく座っていた。温かい飲み物を持ってくる日もあった。新しい傘を持ってくる日もあった。何も持たず、通りの向かい側に立って、ランプが一つずつ灯るのを眺めている日もあった。朱音は蒼士をうっとうしがった。「追い払おうか?」私は首を横に振った。「いいよ」蒼士は私が引いた一線を越えなかった。けれど静かにしていればいるほど、どれほど後悔しているのかが伝わってきた。ある日、店が停電した。商店街全体が、突然暗闇に沈んだ。朱音は店の奥へ懐中電灯を探しに行った。カウンターのそばにいた私の指が、わずかに止まった。本当は、私も暗いところが怖い。ただ、これまで誰も尋ねなかっただけだ。店の外から、慌ただしい足音が聞こえた。蒼士が、充電式の小さなランプを手に駆け込んできた。その手の中で、明かりが広がっていた。蒼士は息を切らしていた。「こっちが暗くなったのが見えた。千紗、怖くないか?」柔らかな光を見つめると、胸がかすかに締めつけられた。以前の私なら、泣いていたかもしれない。ようやく見つけてもらえたのだと思っただろう。けれど今の私は、ランプを受け取り、カウンターに置いただけだった。「ありがとう」蒼士の目が曇った。「昔から暗いところが怖かったなら、どうして言わなかった?」私は蒼士を見た。「言ったよ」蒼士が息をのんだ。私はゆっくりと思い出させた。「前に映画を見た帰り、外は雨で、地下駐車場の照明が故障してたことがあったよね。私、蒼士の袖をつかんで、怖いって言った。でも由良から電話が来て、由良も暗いところが怖いからって、私には一人でタクシーに乗って帰れと言った」蒼士の顔から、少しずつ血の気が引いていった。やはり、覚えていなかったのだ。けれど私は覚えている。一人で駐車場に長いこと立っていた。最後にはスマホのライトを頼りに外まで走った。靴の中まで雨水が入り、寒さと恐怖で震えていた。その夜、帰ってきた蒼士には、雨にぬれた跡一つなかった。それどころか、私を責めた。「いい大人が、一人でタクシーにも乗れないのか?」蒼士はカウンターに手をつき、震え
由良が汐見町へやってきたのは、それから3日後だった。淡い色のワンピースを着て、店の前に立っていた。相変わらず、か弱く無垢な顔をしていた。「千紗、少し話せる?」カウンターの奥で、朱音が鼻で笑った。私は手にしていた銅線を置いた。「ここで話して」由良が店内を見回した。「ここでは、ちょっと……」私は由良を見上げた。「私と由良の間に、人に聞かれて困る話なんてないでしょう」由良の笑みが一瞬こわばった。けれど、すぐに元に戻った。「蒼くん、この何日か電話に出てくれないの。もう私のことには関わらないって言われた」由良は私を見つめた。「千紗はうれしいでしょう?」私は再び、銅線を巻き始めた。「どうして?」由良が一歩近づいた。「やっと私に勝ったんだから」銅線が、指先で小さな輪を作った。私は顔を上げなかった。「由良と張り合ったことなんてないよ」数秒の沈黙のあと、由良は突然笑った。笑みは薄く、もう無垢なふりをしてはいなかった。「でも、昔はあんなに気にしてたじゃない。私が電話を一本かければ、蒼くんは必ず来てくれた。暗いところが怖いと言えば、千紗を置き去りにした。写真を撮りたいと言えば、私のために時間を空けてくれた。千紗たちの新居にあったランプが欲しいと言えば、配線まで外させた」由良の声は、ため息のように軽かった。「千紗が、いつまで我慢できるのか知りたかったの」カウンターの奥で、朱音の顔色が変わった。私はかえって冷静になった。私の考えすぎではなかった。物分かりが悪かったわけでもない。些細なことにこだわっていたのでもない。これまで感じてきた痛みの一つ一つは、由良が意図的に与えたものだった。由良は、カウンターに並ぶランプに目をやった。「本当は、あの月のランプなんて好きじゃなかった」私の指が止まった。「蒼くんが私にくれるかどうか、確かめたかっただけ」由良はうつむき、かすかに笑った。「そしたら、本当にくれた。婚姻届を出す日も同じ。私の部屋は停電なんてしてなかった。明かりを消しただけ。4日目の切符も、とっくに変更してた」朱音が勢いよく立ち上がった。「そこまでやるなんて、どうかしてる」由良は朱音を無視した。私を見据え、長い間隠していた言葉をよう
蒼士が汐見町を探し当てたのは、雨の降る午後だった。私は店先のランプを店の中に運び込んでいた。細い雨が斜めに降り、石段をぬらしていた。黒い傘を差した誰かが、私の前で足を止めた。顔を上げると、蒼士がいた。ずいぶん痩せていた。目は充血し、ジャケットにも皺が寄っている。いつも身なりを整えていた以前の蒼士とは、まるで違っていた。「千紗」声はひどくかすれていた。私は最後のランプを店内に運び入れた。「何か用?」その一言に傷ついたように、蒼士の顔がこわばった。「ずっと捜してた」「そう」私は背を向け、カウンターを拭き始めた。蒼士も店へ入り、手にした小箱を強く握りしめた。「指輪の刻印を直した。俺たち二人の名前だけにした」私は目を向けなかった。「蒼士は今でも、問題は指輪にあったと思ってるの?」蒼士の手が止まった。雨が軒を打ち、絶え間なく音を立てていた。「違う。それくらい分かってる」蒼士は低い声で続けた。「これまで俺が千紗を大切にしなかったからだ」私は思わず笑った。これまで。7年の間に、何度置き去りにされたことだろう。何度、由良と比べられただろう。何度、物分かりのいい人間でいることを求められただろう。それなのに蒼士の口にかかれば、たった一言の「これまで」で片づけられてしまう。蒼士は指輪の箱をテーブルに置いた。「一緒に帰ろう。部屋は一から整え直す。あのランプも、もう誰にも渡さない」私は蒼士を見た。「帰らない」蒼士の喉仏が上下した。「どうして?」入り口のベルが鳴った。奥村郁人(おくむら いくと)が、電球の入った袋を提げて入ってきた。隣の古いカメラ店の店主で、普段は口数が少ない。ときどき、朱音の荷物運びを手伝ってくれる。蒼士に気づくと、郁人は一瞬だけ足を止めた。「どこに置けばいい?」私は袋を受け取ろうとした。「私がやるよ」郁人は何も尋ねず、傘を入り口の脇に立てかけた。「雨がひどい。あとで二人を送る」蒼士の視線が郁人に移り、その顔が少しずつ険しくなった。「誰なんだ?」私は電球を引き出しにしまった。「友達」蒼士は私を見据えた。「ここへ来て、まだ大して経ってないだろ?」口にした本人も、その言葉