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四度目の婚姻届、もうあなたを待たない

四度目の婚姻届、もうあなたを待たない

By:  ミルクは甘さ控えめCompleted
Language: Japanese
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婚姻届を提出する日、市役所の受付番号が私たちの番になった途端、榎本蒼士(えのもと そうし)のスマホが鳴った。 画面を見た蒼士は、婚姻届をすぐに私・藤岡千紗(ふじおか ちさ)のバッグに戻した。 「由良のマンションが停電して、廊下の照明まで消えたらしい。あいつは暗いところが苦手だから、ちょっと行ってくる」 私は必要書類を握りしめ、窓口の前に立ち尽くした。 「蒼士、今日中に手続きを済ませるって約束したよね」 蒼士はもう出口へ向かっていた。焦りを帯びた声だけが返ってきた。 「1日遅れたって何も変わらないだろ。千紗は物分かりがいいんだから、こんなときくらい我慢してくれよ」 朝から夕方まで待ち続け、やがて市役所が閉まる時間になった。 そのころ、スマホには小宮由良(こみや ゆら)がLINEのタイムラインに投稿した写真が流れてきた。 添えられた言葉は、たった一言だった。 【人生の大事な用事を放り出してまで、誰かが駆けつけてくれるって、こんな気持ちなんだ】 ふいに、昔からずっとそうだったことを思い出した。 映画が始まった直後、由良から電話がかかってくると、蒼士は私だけを席に残した。 「あいつは暗いところが苦手だから、家まで送ってくる」 私の誕生日には、落ち込んでいる由良に付き添って川沿いを歩き、翌日になってようやく「誕生日おめでとう」と言った。 私にプロポーズしたのも、由良の婚約が破談になった夜だった。 ようやく私を見てくれたのだと思っていた。 けれど本当は、行き場を失った蒼士のそばに、たまたま私がいただけだった。 市役所のガラス扉に映る私の顔は青ざめ、それでもひどく静かだった。 今度こそ、もう蒼士を待たない。

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Chapter 1

第1話

蒼士が市役所を出ていったとき、受付案内の画面にはまだ私たちの番号が表示されていた。

窓口の職員は私を見て、それから玄関のほうへ目をやった。

「お手続きは、どうなさいますか?」

口を開いたものの、声が出なかった。

後ろから、順番を待つ人の苛立った声が聞こえた。

私はようやく窓口から離れ、次の二人に場所を譲った。

手の中の婚姻届は、強く握りしめたせいでしわだらけになっていた。

朝、家を出る前に、自分でバッグに入れたものだった。

そのとき蒼士は、緊張する私を笑っていた。

「婚姻届を出すだけだろ。そんなに身構えるなよ」

そう言って、私の白いシャツの襟を整えてくれた。

「出し終わったら、夜は千紗が好きな牛すじうどんの店に行こう」

あのときの私は、今日だけは蒼士が私だけを見てくれると、本気で信じていた。

けれど由良から電話がかかってくると、蒼士は振り返りもしなかった。

17時半、市役所では窓口を閉める準備が始まった。

職員がカウンターの書類を片づけながら、私に声をかけた。

「本日の受付は終了します。改めてお二人でいらしてください」

私は待合用の長椅子に座ったまま、足がしびれて立ち上がれなかった。

ようやく蒼士からメッセージが届いた。

【電気は直った】

【先に帰ってて。俺もあとで戻る】

その2行を、私はいつまでも見つめていた。

まだ市役所にいるのかと尋ねる言葉はなかった。

謝罪の一言さえなかった。

外はすっかり暗くなっていた。

私は一人で新居に帰った。

玄関には、スリッパが3足並んでいた。

グレーは蒼士のもの。アイボリーは私のもの。

その隣には、ピンク色の起毛素材のスリッパがあった。

前に遊びに来た由良が、床が冷たいと言ったからだ。

蒼士はその翌日に買ってきた。

私の分も、ついでに暖かいものに替えてくれないのかと尋ねたことがある。

蒼士は届いた荷物を開けながら、こちらも見ずに答えた。

「千紗は寒さに強いだろ?」

玄関の鍵が開いたのは、もうすぐ22時になろうというころだった。

蒼士が、夜風の冷たさをまとって入ってきた。

手には焼き栗の紙袋を提げていた。

リビングに立ったまま、私は蒼士を見つめた。

「帰りに買ったの?」

蒼士は一瞬、言葉に詰まった。

「由良が食べたいって言うから、並んでるついでにもう一つ買った」

紙袋を私に差し出した。

「まだ温かいぞ。いつまでもむくれるなよ」

私は受け取らなかった。

蒼士が眉をひそめた。

「今日のことは、わざとじゃない。あっちは本当に真っ暗だったんだ。電話口で泣いてたのに、放っておけるわけないだろ」

私は目を伏せた。

「じゃあ、私は?」

蒼士は少し黙った。

「千紗は違うだろ」

その言葉なら、もう何度も聞いてきた。

千紗は違う。

暗いところも平気だ。

寒さにも強い。

泣いたりしない。

蒼士は焼き栗をローテーブルに置き、少しだけ声を和らげた。

「明日、もう一度行こう。それでいいだろ?」

私は紙袋を見つめた。

袋に印刷されているのは、西町商店街にある店の名前だった。

由良がいちばん気に入っている店だ。

市役所からはずいぶん離れている。

街を横切って焼き栗を買いに行く時間はあっても、私と婚姻届を出すために戻る時間はなかったらしい。

私は本人確認書類をバッグから取り出した。

いつものように蒼士の引き出しに入れず、自分のスーツケースの内ポケットにしまった。

それに気づいた蒼士の顔が険しくなる。

「千紗、今度は何のつもりだ?」

私はファスナーを閉めた。

「別に。明日、話せばいいよ」

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第1話
蒼士が市役所を出ていったとき、受付案内の画面にはまだ私たちの番号が表示されていた。窓口の職員は私を見て、それから玄関のほうへ目をやった。「お手続きは、どうなさいますか?」口を開いたものの、声が出なかった。後ろから、順番を待つ人の苛立った声が聞こえた。私はようやく窓口から離れ、次の二人に場所を譲った。手の中の婚姻届は、強く握りしめたせいでしわだらけになっていた。朝、家を出る前に、自分でバッグに入れたものだった。そのとき蒼士は、緊張する私を笑っていた。「婚姻届を出すだけだろ。そんなに身構えるなよ」そう言って、私の白いシャツの襟を整えてくれた。「出し終わったら、夜は千紗が好きな牛すじうどんの店に行こう」あのときの私は、今日だけは蒼士が私だけを見てくれると、本気で信じていた。けれど由良から電話がかかってくると、蒼士は振り返りもしなかった。17時半、市役所では窓口を閉める準備が始まった。職員がカウンターの書類を片づけながら、私に声をかけた。「本日の受付は終了します。改めてお二人でいらしてください」私は待合用の長椅子に座ったまま、足がしびれて立ち上がれなかった。ようやく蒼士からメッセージが届いた。【電気は直った】【先に帰ってて。俺もあとで戻る】その2行を、私はいつまでも見つめていた。まだ市役所にいるのかと尋ねる言葉はなかった。謝罪の一言さえなかった。外はすっかり暗くなっていた。私は一人で新居に帰った。玄関には、スリッパが3足並んでいた。グレーは蒼士のもの。アイボリーは私のもの。その隣には、ピンク色の起毛素材のスリッパがあった。前に遊びに来た由良が、床が冷たいと言ったからだ。蒼士はその翌日に買ってきた。私の分も、ついでに暖かいものに替えてくれないのかと尋ねたことがある。蒼士は届いた荷物を開けながら、こちらも見ずに答えた。「千紗は寒さに強いだろ?」玄関の鍵が開いたのは、もうすぐ22時になろうというころだった。蒼士が、夜風の冷たさをまとって入ってきた。手には焼き栗の紙袋を提げていた。リビングに立ったまま、私は蒼士を見つめた。「帰りに買ったの?」蒼士は一瞬、言葉に詰まった。「由良が食べたいって言うから、並んでるついでにもう一つ買
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第2話
翌朝早く、蒼士が寝室のドアを軽く叩いた。目を覚ますと、蒼士はもう着替えを済ませていた。白いシャツに、黒いスラックス。昨日と同じ服装だった。「起きろよ」昨夜よりも、いくらか穏やかな声だった。「先に写真を撮り直して、それから市役所へ行こう」蒼士を見つめた瞬間、胸が鈍く一度脈打った。消えかけた灰の奥で、小さな火種が再び灯ったようだった。顔を洗い、メイクをして、シャツにもう一度アイロンをかけた。家を出る直前、蒼士のスマホに電話がかかってきた。玄関に立ったまま、私の指先には少しずつ力が入った。蒼士は私を一度見ると、そのままスピーカーモードに切り替えた。由良の甘く弱々しい声が流れてくる。「蒼くん、二人の邪魔をするつもりじゃなかったの。今日は写真スタジオを予約してるんだ。つらかったことに区切りをつけたくて、記念写真を撮ろうと思って」由良はそこで言葉を切った。「でも、急に午後まで待ってほしいって言われたの。一人で待っているのが、少しつらくて……」蒼士は数秒、黙り込んだ。次に何を言うのか、私にはもう分かっていた。案の定、蒼士は私を見た。「先に写真スタジオへ行こう」私はかすかに口元をゆがめた。「それから?」「俺たちも結婚の記念写真を撮り直すんだし、ちょうどいいだろ。一緒に撮ればいい」ごく当然のことのように言った。私たちのために取っておいた時間を由良に譲ることなど、蒼士にとっては大した問題ではないのだろう。写真スタジオには、すでに由良が来ていた。オフホワイトのワンピースを着て、髪を肩まで下ろした姿は、清楚で無垢に見えた。私を見ると、由良は申し訳なさそうに笑った。「千紗、二人の邪魔にならない?」私が答えるより早く、蒼士が口を開いた。「大丈夫だ」カメラマンが受付票を手にやってきた。「どなたから撮影しますか?」蒼士は由良を見た。「由良からお願いします。やっと気持ちが落ち着いたところなので」私は脇の椅子に座り、由良が背景布の前に立つのを見ていた。1枚目では、由良の笑顔がぎこちなかった。蒼士がそばへ行き、顔にかかった髪を整えてやった。「そんなに硬くなるなよ。昔みたいに笑えばいい」2枚目では、由良がスカートの裾がきれいに広がらないと言った。
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第3話
蒼士は、私がまだ機嫌を損ねているだけだと思っていた。夜、新居へ戻ってきた蒼士は紙袋を一つ持っていた。中に入っていたのは、白いボレロだった。「昨日も今日も、千紗のことまで気が回らなかったから」蒼士はそれを私に羽織らせた。「この色、千紗に似合うと思って」私はボレロに目を落とした。値札さえ外されていない。サイズは小さめだった。由良ならちょうどいいが、私には肩まわりがきつい。蒼士は気づかなかった。いや、私に何が合うのか、初めからきちんと見たことなどなかったのだ。3日目、蒼士は仕上がったばかりの新居を見に、私を連れていった。二人で選んだ部屋だった。けれど、実際にインテリアショップを回り、カーテンを決め、取りつけに立ち会ったのは、ずっと私一人だった。蒼士は仕事が忙しく、そういうことを面倒がった。「千紗の好きなようにすればいいよ。俺はどこに住んでも構わないから」以前の私は、その言葉がうれしかった。私の好みを尊重してくれているのだと思っていた。今なら分かる。ただ、どうでもよかっただけだ。リビングの隅には、月をかたどったランプが置かれていた。時間をかけて選んだものだった。すりガラスのシェードは、明かりをつけると柔らかな霧をまとった小さな月のように見える。蒼士は初めて見たとき、子どもっぽいと笑った。「こんなのを新居に置いたら、子ども部屋みたいだな」けれど今日は、由良も来ていた。由良はランプの前に立ち、長い間眺めていた。「きれい。私の部屋、夜になると暗いの。天井の照明はまぶしすぎるし」蒼士の目元が、たちまち和らいだ。「気に入ったなら持って帰れよ」私の指先に力が入った。「これは、新居に置くために私が買ったものだよ」蒼士が振り返った。「また買えばいいだろ?」由良が唇をかんだ。「やっぱりいいよ。千紗も気に入ってるみたいだし」蒼士は構わず、作業員に配線を外すよう頼んだ。「千紗はそんなに心が狭くない」私はその場に立ったまま、ランプが部屋の隅から運び出されるのを見ていた。コードが巻かれ、由良の車に積み込まれていく。その瞬間、ずっと昔のことを思い出した。蒼士と初めて夜店へ行った日。星をかたどったランプが欲しくて、私は財布を握ったまま長いこと
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第4話
4日目は、もう一度、二人で婚姻届を出すと約束した日だった。昨夜、眠る前に蒼士が私を抱きしめた。蒼士から抱きしめてくることは、めったにない。腕に力がこもると、服からほのかなウッディ系の香りがした。「千紗、もう意地を張るなよ」蒼士は顎を私の頭にのせた。「明日はどこにも行かない」私は離れようとはしなかった。けれど、抱き返すこともしなかった。ただ一つ、尋ねた。「蒼士、本当に私と結婚したいの?」蒼士の体が一瞬、こわばった。ほんのわずかな変化だった。腕の中にいなければ、気づかなかったかもしれない。「もちろん」蒼士は私の髪をなでた。「ここまで来たんだから」ここまで来たから。愛しているからではない。長く一緒にいたから。結婚相手として無難だから。そして由良に選ばれなかった蒼士のそばに、ちょうど私がいたから。翌朝、私は早く起きた。白いシャツにアイロンをかけ、髪をまとめ、必要書類をバッグに入れた。玄関で靴を履いていた蒼士のスマホが鳴ったとき、私はもう顔を上げなかった。画面を見た蒼士の眉が、わずかに動いた。受話口から由良の声が漏れてきた。「蒼くん、私、今日ここを離れるの。切符も取った。改札まででいいから、見送りに来てくれない?」蒼士は何も言わなかった。私は蒼士を見た。蒼士は私の目を避けた。「千紗」私は、その先を代わりに口にした。「由良を見送りに行くんだね」蒼士は眉間を指で押さえた。「今度こそ、本当にこの街を離れるらしい。見送るだけだ。婚姻届は午後からでも出せる」私はバッグを肩に掛けた。「午前中に二人で行くって約束したよね」「じゃあ、午後に変えればいい」「午後の予約枠はもう空いていない」蒼士はついに苛立ちを見せた。「だったら明日でいいだろ。千紗、婚姻届は今日しか出せないわけじゃない」私は黙って蒼士を見つめた。「じゃあ、私は?」蒼士は動きを止めた。私はゆっくりと、蒼士の前まで歩み寄った。「由良が暗いところを怖がれば、駆けつける。写真を撮りたがれば、付き添う。ランプが欲しいと言えば、持たせる。今度は見送ってほしいと言われたから、また行くんだね」声はひどく静かだった。「蒼士、私だって怖いものはあるよ」一瞬、蒼士の表情
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第5話
蒼士が市役所へ駆け込んだとき、すでに窓口の受付は終わっていた。職員はカウンターの書類を片づけながら、改めて二人で来るよう伝えた。蒼士の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。「先ほど、白いシャツを着た女性が来ませんでしたか?」職員は少し考えた。「いいえ、そのような方はお見えになっていません」蒼士の顔色が変わった。スマホを取り出し、千紗に電話をかけた。1度目は、つながらなかった。2度目も同じだった。3度目には、無機質な案内音声が流れた。蒼士は何が起きたのか分からないように、画面を見つめていた。由良が玄関のそばに立ち、小さな声で言った。「千紗、怒ってるのかな?」蒼士は答えなかった。背を向けて外へ出ると、足を速めていった。由良は後を追い、その袖をつかんだ。「蒼くん、そんなに焦らないで。千紗はあれだけ蒼くんのことが好きなんだから、本当にいなくなったりしないよ」蒼士は突然、足を止めた。「改札に入ったんじゃなかったのか?」由良の手がこわばった。「それは……」蒼士は由良を見た。「一人で改札を通るのが怖いって言ったよな?」由良はうつむき、かすかな声で答えた。「出発を明日に変えたの」「いつ?」由良は唇をかんだ。「蒼くんが来る前」市役所の玄関から、風が吹き込んだ。蒼士の顔から少しずつ血の気が引いていく。玄関に立った千紗が尋ねた言葉を、蒼士は思い出した。——「じゃあ、私は?」あのとき蒼士は、結婚を盾にして俺を縛るな、と言った。由良の目に涙がにじんだ。「蒼くんが本当に見送りに来てくれるか、確かめたかっただけ。ずっと私の面倒を見るって、前に言ったでしょう?」蒼士はしばらく由良を見つめたあと、不意に笑った。ひどく引きつった笑いだった。「今日が何の日か、知ってたんだな」由良は何も言わなかった。「俺が行けば、千紗が一人で市役所に残されることも分かってた」由良の声が震えた。「でも、蒼くんは来てくれた」その一言は、蒼士を一気に水底へ突き落とした。初めて、由良をかばおうとしなかった。悪気はなかったのだとも言わなかった。ただ背を向け、駐車場へ歩いていった。新居へ戻ると、部屋の明かりは消えていた。玄関から、アイボリーのスリッパ
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第6話
汐見町は海に面している。列車を降りると、潮気を含んだ風が吹いていた。改札の前では、坂口朱音(さかぐち あかね)が待っていた。私のスーツケースを見ると、何も尋ねずに手を伸ばした。「まず帰って寝よう」私はうなずいた。遅れて追いついてきたように、涙がこぼれた。朱音は私の手にティッシュを押し込んだ。「泣くのはいいよ。振り返らなければ、それでいい」朱音は汐見町の古い商店街で、小さなランプ店を営んでいた。店先には、ガラスのランプがいくつか吊るされている。昼間は何の変哲もないが、夜に明かりが灯ると、静かな月が並んでいるように見えた。昔の私は、こういうものを作るのが何より好きだった。学生のころ、古い針金と色セロハンで、小さなランプを作ったことがある。それを見た蒼士は、いつまでも笑っていた。「こんなの、何の役に立つんだ?」それ以来、私は何も作らなくなった。汐見町に着いた最初の夜は、深く眠った。蒼士からの電話を待つこともなかった。玄関の鍵が開く音に耳を澄ませることもなかった。夜中に目を覚まし、また由良にメッセージを返しているのだろうかと考えることもなかった。翌日、朱音は縁の欠けたランプシェードを私の前に押し出した。「直せる?」ガラスの縁を指でなぞり、私はうなずいた。初めのうち、手は少し震えていた。けれど次第に落ち着いていった。接着剤を少しずつ塗り、亀裂を押さえ、シェードを元の形に戻した。夕方になるころ、ランプに明かりが灯った。暖かな黄色い光が、手のひらを照らした。それを見つめていると、不意に鼻の奥がつんとした。一度壊れたからといって、捨てるしかないわけではない。ただ、もう一度、壊した人の手に戻してはいけないのだ。そのランプは、通りかかった女性が買っていった。胸に抱き、何度も眺めていた。「このひび、すてきですね。月の上に細い川が流れているみたい」私は思わず目を見開いた。蒼士は、それは壊れていると言った。けれど彼女は、川のようだと言った。カウンターにもたれていた朱音が、私に向かって顎をしゃくった。「聞いた?千紗の作るものが役に立たないんじゃない。見る目のない人がいただけ」私は笑ったが、目の奥は熱くなった。蒼士は知らない番号から、私に
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第7話
蒼士が汐見町を探し当てたのは、雨の降る午後だった。私は店先のランプを店の中に運び込んでいた。細い雨が斜めに降り、石段をぬらしていた。黒い傘を差した誰かが、私の前で足を止めた。顔を上げると、蒼士がいた。ずいぶん痩せていた。目は充血し、ジャケットにも皺が寄っている。いつも身なりを整えていた以前の蒼士とは、まるで違っていた。「千紗」声はひどくかすれていた。私は最後のランプを店内に運び入れた。「何か用?」その一言に傷ついたように、蒼士の顔がこわばった。「ずっと捜してた」「そう」私は背を向け、カウンターを拭き始めた。蒼士も店へ入り、手にした小箱を強く握りしめた。「指輪の刻印を直した。俺たち二人の名前だけにした」私は目を向けなかった。「蒼士は今でも、問題は指輪にあったと思ってるの?」蒼士の手が止まった。雨が軒を打ち、絶え間なく音を立てていた。「違う。それくらい分かってる」蒼士は低い声で続けた。「これまで俺が千紗を大切にしなかったからだ」私は思わず笑った。これまで。7年の間に、何度置き去りにされたことだろう。何度、由良と比べられただろう。何度、物分かりのいい人間でいることを求められただろう。それなのに蒼士の口にかかれば、たった一言の「これまで」で片づけられてしまう。蒼士は指輪の箱をテーブルに置いた。「一緒に帰ろう。部屋は一から整え直す。あのランプも、もう誰にも渡さない」私は蒼士を見た。「帰らない」蒼士の喉仏が上下した。「どうして?」入り口のベルが鳴った。奥村郁人(おくむら いくと)が、電球の入った袋を提げて入ってきた。隣の古いカメラ店の店主で、普段は口数が少ない。ときどき、朱音の荷物運びを手伝ってくれる。蒼士に気づくと、郁人は一瞬だけ足を止めた。「どこに置けばいい?」私は袋を受け取ろうとした。「私がやるよ」郁人は何も尋ねず、傘を入り口の脇に立てかけた。「雨がひどい。あとで二人を送る」蒼士の視線が郁人に移り、その顔が少しずつ険しくなった。「誰なんだ?」私は電球を引き出しにしまった。「友達」蒼士は私を見据えた。「ここへ来て、まだ大して経ってないだろ?」口にした本人も、その言葉
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第8話
由良が汐見町へやってきたのは、それから3日後だった。淡い色のワンピースを着て、店の前に立っていた。相変わらず、か弱く無垢な顔をしていた。「千紗、少し話せる?」カウンターの奥で、朱音が鼻で笑った。私は手にしていた銅線を置いた。「ここで話して」由良が店内を見回した。「ここでは、ちょっと……」私は由良を見上げた。「私と由良の間に、人に聞かれて困る話なんてないでしょう」由良の笑みが一瞬こわばった。けれど、すぐに元に戻った。「蒼くん、この何日か電話に出てくれないの。もう私のことには関わらないって言われた」由良は私を見つめた。「千紗はうれしいでしょう?」私は再び、銅線を巻き始めた。「どうして?」由良が一歩近づいた。「やっと私に勝ったんだから」銅線が、指先で小さな輪を作った。私は顔を上げなかった。「由良と張り合ったことなんてないよ」数秒の沈黙のあと、由良は突然笑った。笑みは薄く、もう無垢なふりをしてはいなかった。「でも、昔はあんなに気にしてたじゃない。私が電話を一本かければ、蒼くんは必ず来てくれた。暗いところが怖いと言えば、千紗を置き去りにした。写真を撮りたいと言えば、私のために時間を空けてくれた。千紗たちの新居にあったランプが欲しいと言えば、配線まで外させた」由良の声は、ため息のように軽かった。「千紗が、いつまで我慢できるのか知りたかったの」カウンターの奥で、朱音の顔色が変わった。私はかえって冷静になった。私の考えすぎではなかった。物分かりが悪かったわけでもない。些細なことにこだわっていたのでもない。これまで感じてきた痛みの一つ一つは、由良が意図的に与えたものだった。由良は、カウンターに並ぶランプに目をやった。「本当は、あの月のランプなんて好きじゃなかった」私の指が止まった。「蒼くんが私にくれるかどうか、確かめたかっただけ」由良はうつむき、かすかに笑った。「そしたら、本当にくれた。婚姻届を出す日も同じ。私の部屋は停電なんてしてなかった。明かりを消しただけ。4日目の切符も、とっくに変更してた」朱音が勢いよく立ち上がった。「そこまでやるなんて、どうかしてる」由良は朱音を無視した。私を見据え、長い間隠していた言葉をよう
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第9話
蒼士は汐見町に滞在するようになった。私に帰れと迫ることは、もうなかった。ただ毎日、夕方になると店の前に来て、しばらく座っていた。温かい飲み物を持ってくる日もあった。新しい傘を持ってくる日もあった。何も持たず、通りの向かい側に立って、ランプが一つずつ灯るのを眺めている日もあった。朱音は蒼士をうっとうしがった。「追い払おうか?」私は首を横に振った。「いいよ」蒼士は私が引いた一線を越えなかった。けれど静かにしていればいるほど、どれほど後悔しているのかが伝わってきた。ある日、店が停電した。商店街全体が、突然暗闇に沈んだ。朱音は店の奥へ懐中電灯を探しに行った。カウンターのそばにいた私の指が、わずかに止まった。本当は、私も暗いところが怖い。ただ、これまで誰も尋ねなかっただけだ。店の外から、慌ただしい足音が聞こえた。蒼士が、充電式の小さなランプを手に駆け込んできた。その手の中で、明かりが広がっていた。蒼士は息を切らしていた。「こっちが暗くなったのが見えた。千紗、怖くないか?」柔らかな光を見つめると、胸がかすかに締めつけられた。以前の私なら、泣いていたかもしれない。ようやく見つけてもらえたのだと思っただろう。けれど今の私は、ランプを受け取り、カウンターに置いただけだった。「ありがとう」蒼士の目が曇った。「昔から暗いところが怖かったなら、どうして言わなかった?」私は蒼士を見た。「言ったよ」蒼士が息をのんだ。私はゆっくりと思い出させた。「前に映画を見た帰り、外は雨で、地下駐車場の照明が故障してたことがあったよね。私、蒼士の袖をつかんで、怖いって言った。でも由良から電話が来て、由良も暗いところが怖いからって、私には一人でタクシーに乗って帰れと言った」蒼士の顔から、少しずつ血の気が引いていった。やはり、覚えていなかったのだ。けれど私は覚えている。一人で駐車場に長いこと立っていた。最後にはスマホのライトを頼りに外まで走った。靴の中まで雨水が入り、寒さと恐怖で震えていた。その夜、帰ってきた蒼士には、雨にぬれた跡一つなかった。それどころか、私を責めた。「いい大人が、一人でタクシーにも乗れないのか?」蒼士はカウンターに手をつき、震え
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第10話
1年後、汐見町の古い商店街は改修工事を終えた。ランプ店の入り口には、新しい木の看板が掛かった。看板を彫ってくれたのは郁人だった。達筆とは言えないが、一画ずつ丁寧に刻まれていた。【千紗の灯り】朱音は、腕が落ちたんじゃないかと笑った。郁人は木屑を払い、素っ気なく朱音を見た。「読めればいい」私は店先に立ち、最後のガラスランプを吊るした。風が吹くと、灯りの影が静かに揺れた。この看板を掲げるまで、実はずいぶん迷った。ここに残ると決めたのなら、本当に自分のものだと言える名前をつけるべきだと、朱音に言われたからだ。刻まれた文字をなぞると、胸の奥にゆっくりと、言葉にできない思いが満ちていった。誰かの苗字を借りなくても、自分の名前だけを掲げた店を持てる日が来るなんて、以前は思いもしなかった。この1年は、想像していたほど順調ではなかった。手にやけどを負ったこともある。客から預かったランプを割ってしまったこともある。1週間かけて、小さなナイトランプが一つしか売れなかったこともあった。初めのころは、値段のつけ方さえ分からなかった。朱音は、材料費と作業時間、廃棄分を一つずつ記録するよう教えてくれた。郁人は傾いた陳列棚を、まっすぐに取りつけ直してくれた。口数の少ない人だった。私がランプ作りに失敗し、裏口に座り込んでいたときも、隣に白湯を置いただけだった。「割れたなら、作り直せばいい」私は尋ねた。「また失敗したら?」「もう一度やる」郁人は穏やかな口調で言った。「いつかはできる」それから私は、本当に何度も作り直した。かつては不揃いなのが嫌で仕方なかったランプも、少しずつ、それぞれの形を持つようになった。ショーウインドーに並ぶ量産品のようには見えない。それでも足を止め、表面のひびに触れて、わざと残したものなのかと尋ねる人がいた。そのたびに、違います、と答えた。一度壊れたけれど、捨てなかっただけだと。最初にまとめて作ったランプは、思いのほかよく売れた。形が整っていないと言う人もいた。細かなひびが、潮の引いたあとに残る跡のようだと言う人もいた。以前の私は、完璧でないことが何より怖かった。今は、完璧でなくても明かりは灯ると思える。その後、蒼士から何
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