Semua Bab 契約書は二通、部屋はひとつ: Bab 21 - Bab 30

30 Bab

第21話 「一緒に住んでいる」という言葉

「同じお部屋にお住まいのお二人は、こちらへどうぞ」相談会の受付で言われ、紗良は名札を受け取る手を止めた。間違ってはいない。302号室で、もう4か月近く暮らしている。けれど周りの人までこちらを見たので、つい言葉が出た。「私たち、そういう関係じゃないので」受付の女性が慌てて手元を見た。「あ、すみません。同じ住所とあったので……」「同じ部屋で被害に遭っています」遼が二人分の名札を受け取った。声は普通だった。ただ、紗良の顔は見なかった。高木名義の物件で、確認できた入居者は十三人になっていた。保証協会への相談と認証の申出、行政の窓口への情報提供、民事の請求。説明を聞きながら、紗良は期限の横へ星をつけた。遼も質問を二つした。休憩では自分の分だけ水を買い、席へ戻った。紗良は鞄の中のペットボトルを探した。持ってきていなかった。外は小雨だった。傘は一本。来る時には、何も考えずに寄り添っていた。遼が、その傘を紗良へ渡した。「使って」「遼さんは?」「駅、近いから」「一緒に入ればいいじゃん」「そういう関係じゃないんでしょ」紗良は足を止めた。「その話、今する?」「今じゃなかったら、いつするの」「被害者の集まりで、恋愛してるみたいに見られたくなかっただけ」遼は一度、傘の下から離れた。雨が肩に点々と落ちた。「見られたくないのと、俺と付き合いたくないのは、同じ?」「私たち、いつ付き合ったの?」言ってから、しまったと思った。台所で、玄関で、キスをした。遼の部屋で朝方まで眠った。帰宅を気にし、食べ物を残し、電話が来ればすぐ出た。でも、付き合おうとは言っていない。言わないで、と頼んだのは紗良だった。「そうだな」遼は濡れた髪を払った。「いつまで、このままでいる?」「家のことも片づいてないのに、今決めないとだめ?」「家が片づいたら、俺たちも片づく?」「そういう意味じゃない」「この家じゃなかったら、って聞いたのは紗良だよ」紗良は傘を彼の上へ戻した。柄を持つ手が濡れた。「怖いんだよ」遼が黙った。「お金も家も駄目になって、今度はここで会った人まで生活の全部になったら。部屋を出た日に、そっちまでなくなったら嫌なの」雨が傘をたたいた。遼は柄へ手を添えた。「俺は、紗良の金でも家でもないよ」「分かってる」「じゃあ、一緒に
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第22話 受け取らないお金

翌日の昼休み、紗良は口座残高を二度見た。50万円。振込人は、クロカワ リョウ。《新しい部屋の初期費用、足りない分に使って。借用書は夜に》午前9時に届いたメッセージが、その下にあった。昨日交わしたばかりの約束を、遼はどこへしまったのだろう。数日前、仕事帰りに部屋を三つ見ていた。一つは窓の前が換気口。一つは初期費用が予算を40万円も超えた。最後は駅から遠く、夜道が気になった。だから、別の部屋を探していた。それだけだった。食卓に置いたメモには、敷金、仲介手数料、引っ越し代、ローンの返済と、ボーナスまでの不足額を書いていた。遼は、それを見たのだ。紗良は非常階段へ出て電話した。「この振込、何?」『見た? 部屋の費用に足りないって書いてあったから』「だから、どうして先に送るの」『ごめん、会議に入る。夜話そう』切れた画面を、紗良はしばらく見た。「……は?」返そうとすると、振込限度額に引っかかった。以前、安全のため自分で低くしておいたのだ。変更の確認をしている間に、昼休みが終わった。夜9時半、紗良は印刷した明細を食卓へ置いた。「明日、返す」「急いで返さなくていい」「私が貸してって言った?」遼が眼鏡を外した。「言わないと思ったから」「それが一番むかつく」「必要だろ」「必要かどうかも、私に聞いてよ」紗良は明細を指で押した。「家に238万円払って、返ってくるかも分からない。だからって、付き合った翌日に彼氏から50万円受け取って、それで安心しろってこと?」「ただで渡すんじゃない。貸す」「利息は?」「いらない」「いつ返すの」「余裕ができたら」「それじゃ、いつまでも遼の都合で待ってもらうことになる」遼は唇の内側を噛んだ。紗良は、彼が言葉を選んでいる時の癖だと知っていた。そんなことを知ってしまったのも、今はつらい。「まともな部屋を探してほしかっただけだ」「探してる。私が見て、私が決めて、私が払う」「全部一人で?」「私の契約だから」「同じ事件に遭ってるのに」「同じ事件に遭ったのと、私の生活を遼が引き受けるのは違う」冷蔵庫のモーターが鳴った。遼は明細を見たまま、肩を落とした。「引き受けるなんて言ってない」「行動がそうなってる」「じゃあ、どうすればよかった」「先に聞いて」「聞いたら断るだろ」「断って
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第23話 母にバレた

翌日、紗良は銀行で手続きを済ませ、50万円を返した。遼からは《受け取りました》とだけ届いた。その夜、10時を過ぎてインターホンが鳴った。遼が画面を見て、紗良を振り返る。「お母さん」「……え?」母は買い物袋を二つ下げていた。惣菜店の仕事帰りらしく、いつもの上着のままだ。明日は休みだからと、遅い時間でも娘のところへ来てしまう人だった。「なんで先に連絡しないの……」「俺に言われても」「とりあえず部屋に」「靴は?」玄関の革靴とスニーカーは、今から隠せる量ではなかった。『紗良? 寝てるの?』紗良がドアを開けた。母は娘より先に、その後ろへ立っていた遼を見た。「こんばんは」遼が深く頭を下げる。母はマグカップ、精算表、開いた部屋の中を順に見た。「……冷蔵庫、まだ直らないの?」覚えていた。当然だった。紗良は母を食卓へ案内した。契約書が二通あったこと。家主と仲介担当者がいなくなったこと。一年分の家賃を前払いし、返金の請求をしていること。そして、競売が始まったこと。最初から話すと、自分でもあきれるほど長かった。遼はキッチン脇に立ち、時刻や手続きのことだけ補足した。母は途中で口を挟まなかった。それが一番怖かった。「いくら払ったの」「238万円。仲介と引っ越しは別」「銀行の分は?」「まだ90万円くらい残ってる」母の手が膝へ下りた。仕事でエプロンに手を拭くように、何度も膝をなぞっていた。「どうして言わなかったの」「言ったら、お母さんどうした?」「何か考えたでしょうよ」「定期預金、崩すでしょ。私に持ってきたでしょ」「母親だもの」「だから、言えなかったの」母の手が止まった。紗良は冷蔵庫の取っ手を見た。前に持ってきてくれた容器は、洗って袋に入れたままだった。「お父さんの分も、ずっと払ったじゃない。やっと終わったのに、今度は私のために出してほしくなかった」「あなたが、誰かをだましたの?」紗良が顔を上げた。「だまされた側が、なんで悪いことしたみたいに隠れなきゃいけないの」「……恥ずかしかったから」「何が」紗良は目をこすった。こすると余計に涙が出た。「ちゃんと調べたと思ってた。登記も、免許も、相手の名前も。お母さんに、今度はいい部屋だって言ったのに」「うん」「全然、大丈夫じゃない」そこで声が崩れた。「
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第24話 私たちの部屋を見に来た人たち

引っ越しまで、あと五日になった。二人はそれぞれ法律相談をし、退去予定日と契約を終える意思、返還請求を記した通知を準備した。高木やサクラホームへの送付記録も残してある。明け渡しの状況と鍵の扱いは、最後まで記録すること。転居しても金銭請求が消えるわけではないが、相手に確認を任せず、こちらでも証拠を残すこと。理沙の説明を聞き、ようやく紗良は新しい部屋を契約した。土曜の朝9時、玄関を強くたたく音がした。「302号の方。中、見せてもらえます?」遼がドアを細く開けた。「どちら様ですか」「競売に出てるのを見て。入札を考えてるんです。すぐ済むから」男の後ろには、女性と若い男もいた。全員、こちらの返事より先に室内をのぞいている。「約束はしてませんが」「協力してくれたほうが、高く売れるでしょ。あなたたちだって悪い話じゃない」「裁判所の執行官か、評価人の方ですか」「違うけど、ちょっと見るだけなのに」閉めようとしたドアへ、靴先が入った。「ここ、不法に居座ってるって話もありますよ」紗良はスマホの録画を始め、遼の横へ出た。「足をどけてください」「お姉さんも住んでる人?」「その前に、足をどけてください。入っていいとは言ってません」後ろの女性の目が、物干しへ向いた。紗良はそこを体で隠した。誰に見せる予定もなかった自分の洗濯物が、急に遠慮なく査定される物になっていた。「男女で住んでるんだね」遼が低い声で繰り返した。「足を抜いてください。抜かないなら、今、警察を呼びます」男が舌打ちして引いた。「どうせ売れたら出るんだから」「今は、人が暮らしてます」遼はドアを閉め、補助錠まで掛けた。廊下ではまだ悪態が聞こえた。紗良は録画を止めず、足音が階段へ消えるまで待った。恵美へ相談すると、同じような訪問を受けた人がいると言われた。一般の入札希望者に、突然家を見せる必要はない。正式な調査の連絡とは分けて、次は開けないようにと念を押された。『一人じゃなくてよかったね』紗良は、玄関マットの泥を拭く遼を見た。「……はい。一人じゃなかったです」通話を終え、紗良は洗濯物を取り込んだ。畳もうとしても、角がうまく合わない。「大丈夫?」「大丈夫じゃない。でも、あの人たちに怒っても仕方ない」食卓で遼のスマホが鳴った。表示は、《仙台改修プロジェクト・現場
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第25話 最後の夜

壁際に、引っ越しの箱が並んだ。紗良の箱には『キッチン』『服』『会社サンプル』。遼の箱には、数字だけが書かれている。「12って、何が入ってるの」「本」「11は?」「本」「じゃあ、本って書けばいいじゃん」「一覧がある」「疲れそうな暮らし方」「保存容器に全部日付を書く人が言う?」紗良は笑った。四日ぶりに、必要な連絡以外の話をした。仙台のことが分かってからは、ガスを止める日、ゴミを出す日、引っ越し業者の時間ばかりだった。明日には、その連絡も終わる。引き出しから、最初の合意書が出てきた。紙の端は、水を吸って波打っている。《1 相手の居室へ無断で入らない》《4 冷蔵庫は左を藤崎、右を黒川が使用する》《7 退去日程と共用費の精算は、事前に双方で確認する》遼が肩越しに読んだ。「7番、まだ最後の請求が来てないな」「じゃあ、出たあとも確認することあるね」紗良は紙を捨てかけ、たたんでバッグの脇へ入れた。「仙台へ行くの、いつ?」「明後日。明日は荷物を預ける」「宿舎は?」「現場の近くのマンスリー」「よかったね。この家よりは、ちゃんとしてそう」遼のテープを切る手が止まった。「逃げていくみたいな言い方、しないで」「そこまでは言ってない」「そう聞こえる」紗良は箱の隣へ座った。夕方の光が、段ボールの隙間から床へ落ちていた。「また、いなくなる気がするんだよ」遼も座った。「父も、地方で仕事を探すって言ったの。落ち着いたら呼ぶからって。それが最後だった」「俺は、お父さんじゃない」「分かってる。頭では」遼の膝が箱へ当たった。ずらしてから、紗良を見た。「半年の仕事が終わったら、東京へ戻る。連絡もする」「私が出なかったら?」「またかける」「ずっと出なかったら?」「来ていいか、メッセージで聞く」「そこは聞くんだ」「相談しろって言われたので」紗良は少しだけ笑った。遼が手を伸ばしかけ、止めた。「抱きしめていい?」「……それは、もういいよ」腕を引かれ、箱の狭い隙間で膝が重なった。姿勢を変えようとして、二人の額がぶつかる。「痛っ」「またか」「引っ張るからでしょ」遼が笑うので、紗良は手で口をふさいだ。手のひらへ唇が当たり、くすぐったくなって下ろす。遼が短くキスをした。「大丈夫?」「うん」「もう少し、し
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第26話 二つの部屋が空になった

引っ越しのトラックが二台、同じ路地へ入ってきた。運転手同士が住所を確かめ、顔を見合わせる。「302号室から、二件ですか?」「はい」紗良と遼の声が重なった。初めてここへ来た日と、同じだった。違うのは、荷物が外へ出ていくことだけ。紗良の机、チェスト、保存容器の入った箱。冷蔵庫から最後のマグネットを取ると、そこだけ跡が残っていた。遼が箱を受け取り、業者へ渡した。「これ、割れ物です」「ちゃんと書いてあるよ」「さっき、下に置こうとしてたから」「私が言う。遼も、自分の荷物見て」二人とも、相手へ用事ばかり言いつけた。手を止めたら、別の話をしなければならなくなりそうだった。窓辺に、サンスベリアが残っていた。雨漏りの夜から遼の部屋へ移し、いつの間にか二人で水をやっていた鉢だ。「それ、紗良のだろ」「遼の部屋にあったほうが長いけど」「買ったのは紗良」「一緒に水、やったじゃん」「植物まで財産分与する?」「結婚してません」紗良は鉢を抱えた。「じゃあ、私が持ってく」玄関脇へ置いたところで、業者から家具の配置を聞かれた。新居の簡単な間取りをスマホで見せ、箱の数を確かめる。その間にも、302号室から物がなくなっていった。小さい部屋は、空になるとこんなに狭かったのかと思った。ベッドがあった縁に、薄く埃が残っている。紗良はウェットシートを取った。「そこは、手配した清掃でやってもらえるから」遼が言った。「これくらい、拭いてから」「トラックが待ってる」「追い出さないでよ」遼は言い返さなかった。紗良も手を止めた。この部屋で十分泣いた。最後くらい普通に出たかったのに、鼻の奥が痛くなった。二人は床、壁、雨漏りの跡、メーターを撮影した。鍵の扱いと明け渡しの方法は、弁護士を通じて先に確認してあった。受領の権限を確かめた管理窓口の担当者が立ち会い、室内と残置物を確認する。遼は確認書へ署名する前に、紗良へ差し出した。「もう一度、見る?」紗良は読み直した。鍵を返すことと、家主らへの請求を放棄することは別だと確認し、うなずく。「うん。これでいい」遼は、それを聞いてからペンを取った。「着いたら連絡して」「遼も」「する。明日、仙台へ着いた時も」紗良は玄関で靴を履いた。ドアの向こうへ出れば、隣の部屋に遼はいない。昨夜は平気だと思えた
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第27話 一人暮らしの練習

一人の家では、物が勝手に移動しなかった。冷蔵庫のごはんは入れた場所にあり、洗濯物に黒い靴下が混ざらない。シャワーを30分使っても、誰もノックしない。最初の一か月、紗良はその自由を意地になって楽しんだ。暖房を強めにし、ベッドでポテトチップスを食べ、洗い物を翌朝まで置いた。深夜にドライヤーを使ったら、隣の壁が三度鳴った。「……すみません」止めて、一人で笑った。笑い終わると、部屋が静かになった。302号室でも、遼が壁を軽く鳴らしたことがあった。うるさい、もう寝る。言葉にしなくても何となく分かった。今、同じことをしても、隣の人を困らせるだけだった。引っ越しから二週間後、最後の光熱費が決まった。遼は生活費口座の残額を精算し、紗良の分を送ってきた。《口座の精算、終わった》《ありがとう》二人で使った家計簿は、その日から更新されなくなった。冬が終わり、春になった。事件は、引っ越せば片づくものではなかった。警察から確認が来る。弁護士から資料の依頼が来る。保証協会への相談でも、契約と送金の経緯をもう一度まとめ直した。サクラホームの仲介によって生じた損害のうち、弁済の対象として認証された部分があった。ただし、家主へ送った238万円が、そのまま全額認められたわけではない。実際に住んだ期間の扱いも、ほかの費用も、項目ごとに分けて確認された。理沙は電話で念を押した。『対象になった金額と、今後請求を続ける部分を、混ぜないで管理しましょう。同じ損害を二重に回収することもできません』紗良はノートを開いた。認証を受けた後の還付手続きが終わり、ようやく入った金の多くをローンの繰上返済へ回した。残りの負担は、まだ消えなかった。それでも毎朝会社へ行った。試作品のスープを飲み、企画書を書き、修正依頼に腹を立てた。新入社員が「後味が重い気がします」と言えば、一緒にもう一口飲んだ。「辛さだけ足しても変わらないね。原料の配合、もう一度見よう」昼休みには銀行アプリを開いた。残高を見るのは好きになれない。でも、洗面所へ隠れることはなくなった。母には、月に一度進み具合を話した。『少しは戻ったの?』「うん。でもまだ請求は続ける」『ごはんは食べてる?』「食べてる」『あの人は?』毎回、そこへ来た。「仙台で仕事してると思う」『連絡しないの?』「落ち着いた
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第28話 帰りたい人

紗良は画面を三度見直した。遼がカメラへ顔を上げる。『今、話せる?』聞き慣れた声が、少しだけスピーカーで潰れていた。紗良は玄関へ行った。「……なんでここにいるの」「住所、送ってくれたから」「まだ持ってたんだ」「消す理由、なかったし」遼は以前より髪が短かった。首元に日焼けの境目がある。紗良は手の中の鉢を見た。「それ、なんで遼が持ってるの?」「引っ越しの時、玄関にあっただろ。倒れないように空いた箱へ入れたら、俺の荷物に混ざった」「半年も、そのまま?」「水はやった」紗良は鉢を受け取った。葉の一本が、少し柔らかくなっている。「やりすぎ」「枯れてない」「ぎりぎりね」二人は玄関で黙った。遼が口を開く。「戻ってきたから、鉢を返そうと思って。下で連絡しようとしたら、370円が来た」「じゃあ、返金した時にはここにいたの?」「近くには。……先に電話すればよかった。今日は無理なら帰る」紗良は体をずらした。「入って。ずっと玄関じゃ、話せないし」遼が靴をそろえ、部屋へ入った。小さい食卓とベッドで、ほとんど埋まる1Kだった。「いい部屋だな」「思ったより、って言わないんだ」「言ったら怒るだろ」「分かってるね」来客用のカップを探しかけ、自分のマグに水を入れた。遼が両手で受け取る。見慣れた指が、自分の暮らしの中に戻ってきた。二人の間に鉢を置き、向かい合って座った。「連絡、しなかったね」遼が言った。紗良は一度、口を開いて閉じた。「しようと思ってた」「いつ?」「ベルが鳴る、直前」「ラーメン代で?」「そっちが返すから」少し笑い、紗良は鉢の受け皿を直した。「ごめん。落ち着いたらって、自分でも何が落ち着けばいいか決めてなかった。まだ返ってこないお金もあるし、裁判もある。でも、それを待ってたら、いつになるか分からない」遼はマグへ目を落とした。「俺も、待ってるだけで通じると思ってた。途中で寂しいくらいは言えばよかった」「メッセージ、返事ばっかりでごめん」「返ってくるだけで安心してたから、それ以上聞けなくなった」外でバイクの音がした。紗良は、その音が遠ざかるまで黙っていた。「東京に、部屋を借りた」遼が言った。「どこ?」「会社の近く。家賃9万1000円。ひとまず半年の定期借家」「高いね」「分かってる」「ま
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第29話 今度は、ゆっくり

付き合い直しても、二人は別々の家へ帰った。金曜の夜には、紗良の部屋にいることが多かった。遼の部屋は会社に近いが、窓の前が隣の建物だった。紗良の部屋は5階まで上がるのが面倒な代わりに、少しだけ空が見えた。「歯ブラシ、置いていい?」「一本だけね」「シェーバーは?」「だめ。洗面台が狭い」「化粧品を少し寄せれば」「自分の家でそってきて」「……歯ブラシだけにします」日曜の夜、遼は歯ブラシを残して帰った。紗良はコップを洗い、また二本を立てた。置き忘れではなく、置いていくと話して決めた物だった。半年の間に、大きな喧嘩は三度した。一度目は、遼が服を持ってきてクローゼットの一角を使った時。二度目は、紗良がデート代を毎回1円単位まで送った時。三度目は、物件のリンクだった。《西荻窪・2LDK。駅徒歩9分。敷金1か月、礼金なし。家賃16万8000円》紗良は写真を開いたが、返事をしなかった。夜、遼が来た。「見た?」「見た」「週末、内見しない?」「どうして?」「今の契約が終わったら、一緒に住む家」紗良は長ねぎを切る手を止めた。「いつ、一緒に住むって決めた?」「嫌?」「その話を、どうしてリンクから始めるの」遼は玄関に立ったままだった。「先に言うと、重いかと思って」「物件が来るほうが重いよ」「決めてない。見ただけ」「初期費用は?」「半分ずつなら――」「そこまで考えたなら、先に話して」遼が口を閉じた。紗良は包丁を洗い、食卓を指した。「座って」「ごはんのあとにしない?」「今のまま切ったら、ねぎが全部つながる」「それは困るな」二人で座った。紗良はノートの真ん中へ線を引く。左に《一緒に住むといいこと》、右に《嫌なこと・心配なこと》。家賃を少し節約できる。夕食を一緒に食べられる。具合が悪い時に頼める。荷物を受け取ってもらえる。反対側には、別れる時の退去、初期費用、家事、一人の時間、遼の靴下。「靴下、敷金と同じくらい心配?」「長く暮らすならね」遼は靴下の横へ《改善可能》と書いた。紗良は笑いかけ、まだ笑わないことにした。「どうして一緒に住みたいの」「一緒にいたいから」「節約は?」「それもある」「正直でいいね」「紗良は、何が一番嫌?」紗良はペン先で、初期費用の文字をなぞった。「また家に縛られること。別
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第30話 契約書は一通

「登記事項、もう一度見てもいいですか」紗良が聞くと、仲介の担当者は書類を向け直した。「もちろんです。こちらが今日確認したものです」遼も画面を開き、所有者と所在地、担保の記載などを見比べた。紗良は本人確認の内容と、振込先の名義を確認する。仲介会社の免許情報は、二人とも事前に調べていた。貸主が、少し緊張したように笑った。「何か気になるところがありましたか」「いえ。前に、賃貸の二重契約で詐欺に遭ったことがあって」紗良は自分から言った。失敗したので、とは言わなかった。あの金を取ったのは自分ではないと、もう知っている。高木やサクラホームへの請求は、まだ終わっていなかった。回収できた部分は返済へ充てたが、取り戻せていない金もある。全部片づいたから、ここへ来たのではない。宅地建物取引士が重要事項を説明した。今回は、通常の月払いの契約だった。敷金は1か月、礼金はなし。契約期間と更新、退去予告、原状回復、設備の修理。二人は分からないところで手を止め、確認した。「この費用は、退去時にもう一度請求されますか」「一方が先に転居する場合、契約変更の手続きはどうなりますか」担当者はページを戻し、該当する条項を示した。片方が住まなくなっただけで、その人の契約上の負担が自動的に消えるわけではない。変更は貸主とも合意して行う。敷金の負担割合と、契約が終わって返還される時の扱いも、別紙に残した。二人だけの生活の取り決めは、それとは別にした。洗面所や靴下の話まで、貸主に認めてもらう必要はない。遼が最後のページを読んだ。「半年分や一年分を、先に払う条件はないですね」「はい。毎月、翌月分をお支払いいただきます」紗良も、同じページを見た。借主の欄には、名前が二つあった。藤崎紗良。黒川遼。別々の契約を、同じ家に重ねるのではない。一つの契約に、二人で署名した。同じ内容の控えを受け取り、紗良は自分の名前をもう一度見た。手は、震えていなかった。一週間後、鍵の引き渡しの日が来た。支払いの前に最新の登記事項と相手先を確認し、それぞれ約束した額を負担した。分からないことを残したまま、安いからと急ぐことはしなかった。トラックが二台、同じ道へ入ってきた。「お二人の荷物は、同じお部屋で間違いないですね?」「はい」今度も、返事が重なった。新しい家は、築
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