木曜日、午後1時7分。玄関のドアは、もう開いていた。藤崎紗良はスマホの画面と部屋番号を見比べた。東京都杉並区荻窪。グランメゾン荻窪、302号室。間違いない。間違っていてくれたらよかったのに、と考えるのは、もう少しあとのことだった。午前11時10分、初期費用の残金を振り込んだ。駅から徒歩9分、内装をリフォームした2DK。通常の募集賃料は月19万2000円だと説明された。けれど所有者が海外赴任するため、2年間の定期借家で、初年度の家賃をまとめて払うなら月15万8000円にするという。寝る場所と、仕事の資料を広げる場所を分けられる。母が来たときには、布団だって敷ける。一人には少し贅沢だと思った。それでも、狭いワンルームで食事のたびに書類を片づける暮らしを、そろそろ終わりにしたかった。前払い家賃は189万6000円。敷金は2か月分の31万6000円。鍵交換、保険、設備管理などの名目で16万8000円。所有者側への支払いは、合計238万円だった。仲介手数料と引っ越し代は別。貯金だけでは足りず、100万円は銀行のフリーローンを使った。家賃の差額と返済予定表を何度も見比べ、払えると判断した。宅建業者の免許番号も調べた。重要事項説明も受けた。定期借家は更新されず、2年で終わると書いた別の説明書にも目を通した。所有者名と振込先の名義も一致していた。ずっと住める家ではない。それでも、次の2年間はここへ帰れる。そう思っていた。《入金確認しました。暗証番号は4832です》高木正志からのメッセージを、タクシーの中で二度読み返した。その番号を使うまでもなく、今、ドアは開いている。奥で段ボールを引きずる音がした。「引っ越し屋さん、先に上がったのかな」靴を脱ぎかけた紗良の前に、知らない男が現れた。グレーのTシャツに黒いパンツ。足元には『書斎』『キッチン』『図面』と書かれた箱がある。壁際には大きな時計、シンクには紙コップと工具箱。空っぽのはずの部屋に、もう他人の暮らしが入り込んでいた。「……どちら様ですか」「それ、こっちの台詞なんですけど」スマホが鳴った。引っ越し業者からだった。『藤崎様、ベッドから上げて大丈夫ですか?』「待ってください。まだ何も上げないでください」電話を切っても、男は消えなかった。紗良はバッグから青いファイルを引っ張り出した
Last Updated : 2026-09-16 Read more