All Chapters of 契約書は二通、部屋はひとつ: Chapter 1 - Chapter 10

30 Chapters

第1話 引っ越しの日、知らない男がいた

木曜日、午後1時7分。玄関のドアは、もう開いていた。藤崎紗良はスマホの画面と部屋番号を見比べた。東京都杉並区荻窪。グランメゾン荻窪、302号室。間違いない。間違っていてくれたらよかったのに、と考えるのは、もう少しあとのことだった。午前11時10分、初期費用の残金を振り込んだ。駅から徒歩9分、内装をリフォームした2DK。通常の募集賃料は月19万2000円だと説明された。けれど所有者が海外赴任するため、2年間の定期借家で、初年度の家賃をまとめて払うなら月15万8000円にするという。寝る場所と、仕事の資料を広げる場所を分けられる。母が来たときには、布団だって敷ける。一人には少し贅沢だと思った。それでも、狭いワンルームで食事のたびに書類を片づける暮らしを、そろそろ終わりにしたかった。前払い家賃は189万6000円。敷金は2か月分の31万6000円。鍵交換、保険、設備管理などの名目で16万8000円。所有者側への支払いは、合計238万円だった。仲介手数料と引っ越し代は別。貯金だけでは足りず、100万円は銀行のフリーローンを使った。家賃の差額と返済予定表を何度も見比べ、払えると判断した。宅建業者の免許番号も調べた。重要事項説明も受けた。定期借家は更新されず、2年で終わると書いた別の説明書にも目を通した。所有者名と振込先の名義も一致していた。ずっと住める家ではない。それでも、次の2年間はここへ帰れる。そう思っていた。《入金確認しました。暗証番号は4832です》高木正志からのメッセージを、タクシーの中で二度読み返した。その番号を使うまでもなく、今、ドアは開いている。奥で段ボールを引きずる音がした。「引っ越し屋さん、先に上がったのかな」靴を脱ぎかけた紗良の前に、知らない男が現れた。グレーのTシャツに黒いパンツ。足元には『書斎』『キッチン』『図面』と書かれた箱がある。壁際には大きな時計、シンクには紙コップと工具箱。空っぽのはずの部屋に、もう他人の暮らしが入り込んでいた。「……どちら様ですか」「それ、こっちの台詞なんですけど」スマホが鳴った。引っ越し業者からだった。『藤崎様、ベッドから上げて大丈夫ですか?』「待ってください。まだ何も上げないでください」電話を切っても、男は消えなかった。紗良はバッグから青いファイルを引っ張り出した
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第2話 どちらかが偽物

遼がサクラホームへ電話をかけ直している間、紗良は高木とのやり取りを保存した。振込先、暗証番号、受信時刻。普段なら何でもない操作なのに、指が震えて関係のない画面を何度も開いた。「出ません」「こっちもです」遼は通話を切り、もう一度同じ番号を押した。その脇を引っ越し業者が通っていく。「ベッド、こちらのお部屋ですね」「はい。壁に寄せて……いえ、今は立てておいてください」小さい部屋にマットレスが入ると、ドアを開ける隙間さえ怪しくなった。紗良は請求額を二度聞き直してから支払った。業者が出ていき、玄関が閉まる。急に静かになった家で、男と二人だけになった。「警察に行きましょう」遼が言った。紗良も原本をバッグへ戻した。すぐ出たいのに、財布をどの箱へ置いたのか思い出せない。結局、ずっと脇に挟んでいた。二人は途中で区役所へ寄り、住所変更の窓口で事情を話した。係の職員は二通の契約書に目を落とし、同僚へ確認してから戻ってきた。「お住まいの実態を確認しながら、届出についてご案内します。ただ、どちらの賃貸借契約が優先するかを、こちらで決めることはできません」「住所を届けたほうが勝つ、とかじゃないんですね」「はい。住民登録と、契約の権利関係は別になります」遼が手帳へ書き込んだ。紗良も受付で渡された案内を撮影した。せっかく取った有休なのに、今日やるはずだったことは何一つ予定どおりに進まない。荻窪警察署では、別の担当者に同じ話を最初からした。相談窓口の警察官は、二人の契約書と振込明細を交互に見た。「今ある資料だけで、片方が偽物とは言えません。同じ所有者が、二重に貸す契約をした可能性もあります」「じゃあ、どっちがあの部屋にいればいいんですか」紗良が尋ねると、警察官は一度ペンを置いた。「契約や占有の問題は、弁護士に確認してもらう必要があります。警察がここで一方を退去させることはできません。互いの荷物を外へ出したり、勝手に鍵を変えたりするのはやめてください」「家主と仲介会社が連絡を絶っている件は、記録に残せますか」遼の問いに、警察官がうなずいた。「はい。契約から今日までの経緯を、お一人ずつ書いてください。画像だけでなく、メッセージや送金記録の元データも残しておいてくださいね」二人は離れた机で紙に向かった。遼は9時30分に入金、9時40分に暗証番号
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第3話 被害額、476万円

サクラホーム荻窪店は、空になっていた。ガラス越しに見えるのは、机の脚が残した四角い跡だけ。壁の物件案内もパソコンもない。扉には『テナント募集』の紙が貼られていた。紗良は取っ手を引いた。鍵のかかった扉が、がたんと鳴った。「二日前、ここから電話くれたんですよ」担当の佐伯浩二は、最後まで愛想がよかった。『藤崎さんくらい慎重に確認していただけると、こちらも安心です』褒められた気がして笑った。そのことまで思い出したくなかった。遼は店舗名と番地が一緒に入る位置から写真を撮った。紗良も名刺を取り出し、書かれた住所をもう一度確かめる。隣のクリーニング店から、店主が顔を出した。「不動産屋を探してるの?」「この人、昨日もいましたか」佐伯の名刺を見せると、店主はすぐにうなずいた。昨夜、車が一台来たという。男二人でパソコンや書類箱を積み込んでいたらしい。「閉店するとは聞いてませんでした?」「いや。模様替えだって。机まで出すのかとは思ったけど」店の防犯カメラは、サクラホームの入口が一部映る向きだった。事情を聞いた店主は、映像を消さずに残し、警察から依頼があれば提出すると言ってくれた。遼が連絡先をメモする。紗良は何度も頭を下げた。次に二人は、最新の登記事項を取り寄せて確認した。所有者は高木正志。そこは変わっていない。けれど契約時の書類にはなかった行が、権利部に増えていた。《根抵当権設定》《極度額 1200万円》受付日は、入居の前日だった。「昨日……?」紗良は新旧の書類を重ねた。同じ場所にあった空欄が、文字で埋まっている。「この金額が、今の借金なんですか」「極度額と書いてあります。実際の残高とは違うはずです」「はず、ですよね」「はい。ここは専門家に確認しましょう」断言しない返事に少し苛立って、すぐに思い直した。大丈夫です、と笑って断言したのは佐伯だった。紗良は消費者ホットラインの188へ電話した。つながった相談員に、同じ部屋の契約が二つあることと、家主も仲介担当者も連絡が取れないことを話す。「部屋から出たほうがいいですか」相談員は、電話だけで権利関係を判断することはできないと答えた。契約書と登記、鍵の引き渡しや搬入の記録をそろえて、法律相談につなげるという。「相手の方を無理に退去させるなどはしないでください。今後どうするか、書
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第4話 今夜だけ

美咲のワンルームは、布団を一枚敷くと通路が半分なくなった。玄関には、恋人の健太のスニーカーまである。美咲はそれを壁へ寄せながら、何日でも泊まっていいと言った。「ありがとう。でも三人でここは無理。誰かがトイレ行くたびに全員起きる」「だからって、知らない男と住むの?」「部屋は二つあるから」「そこじゃないでしょ」美咲が笑わないので、紗良も笑うのをやめた。とりあえず服を取りに戻る。そう言って洗面所へ入り、ホテルの予約アプリを開いた。近くのビジネスホテルは、一泊1万2000円前後。長期滞在向けの部屋も、すぐ入れるものはまとまった支払いが必要だった。収納スペースを借りればベッドは置けるが、自分は寝られない。貯金は減り、ローンだけは返していかなければならない。明日になっても、急に宿代が安くなるわけではなかった。紗良は画面を閉じた。「今夜だけ、向こうで寝る。明日、相談してから考える」美咲は玄関までついてきた。「何かあったらすぐ電話して。夜中でもいいから」「分かった」「その人の身元は?」「警察で一緒に確認してもらった。少なくとも、仲介の人よりは確か」冗談のつもりだった。美咲はやっぱり笑わなかった。夜10時を過ぎて、紗良は302号室へ戻った。靴箱の下には革靴が二足。自分のスニーカーを置く場所を探していると、食卓から遼が顔を上げた。「戻らないのかと思ってました」「服も何も、ここにあるので。今夜だけ寝ます」「大きいほう、使いますか。荷物は動かせます」「いいです。そこまでしてもらう理由ないですし」「広いほうが、ベッドを置きやすいだけです」「……今は、こっちでいいです」小さい部屋には段ボールが八箱あった。マットレスを下ろすとドアに引っかかる。押しても動かず、持ち上げると箱が邪魔になる。遼がメジャーを持ってきた。「向きを変えれば開きますよ。その代わり、クローゼットは半分ふさがりますけど」「一人でできます」「分かりました」本当に手を引いた。少しくらい食い下がってもいいのに、と考えた自分に紗良は腹を立てた。断ったのは自分だ。もう一度押して、手の甲を壁へぶつける。「……っ」「必要なら手伝います」紗良はマットレスの端を握ったまま、数秒黙った。「お願いします」二人で持ち上げれば、数分で終わることだった。向きを変えたマット
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第5話 同居契約書

翌朝、紗良は紹介された法律相談へ予約を入れた。受話器の向こうでは、まず契約書を見たいと言われた。二重契約、鍵の引き渡し、入居前に登記された担保。説明するほど、確認する項目が増えていった。電話を切る頃、食卓では遼も誰かと話していた。「慎吾さん、賃貸のトラブルに詳しい弁護士って知りませんか。……そうです。同じ部屋に二人。今、目の前にいます」紗良は自分を指されている気がして、軽く会釈してしまった。電話の相手に見えるはずもない。遼が通話を終える。「出ないほうがいいって、言われました?」「書類を見てから判断するそうです。住み続けなきゃいけないと決まったわけでもない、と」「でも、今すぐ行く先がない」「俺もです」遼は食卓の下に落ちていた靴下を拾った。裏返しだった。紗良はそれを見届けてから、しわの取れないブラウスで会社へ向かった。食品メーカーの商品企画部。高橋美紀課長は紗良の顔と服を見て、片眉を上げた。「引っ越し、大変だった?」「マットレスと格闘しました」「勝った?」「完敗です」美紀はそれ以上聞かず、試食シートを差し出した。「じゃあ、まず食べて。空腹で味を見ても仕方ないから」紗良はうなずいた。会社にいる間くらい、家のことは考えない。そう決めたのに、昼休みには銀行の残高を見ていた。夜8時。二人はそれぞれ受けた相談の内容を持ち寄った。少なくとも、相手を無理に排除しないこと。証拠を失わないこと。そして当面同じ住居を使うなら、今の権利関係を決着させた合意と混同されないよう、生活上の取り決めを別に作ること。安全に不安があれば、同居を続ける必要はないとも念を押された。紗良は一晩考えたホテル代を思い出し、食卓に座った。「じゃあ決めましょう。このまま毎回揉めるのは無理です」遼がパソコンに新しい文書を開いた。「表題は?」「暫定共同居住合意書」「同居契約書でよくないですか」「よくないです。なんか、話が違って聞こえるので」「……分かりました」大きい部屋は遼、小さい部屋は紗良。これは一時的な使い分けであり、どちらの契約を優先させるか決めたものではない。週に一度は続け方を見直す。相手の部屋へ無断で入らない。物を勝手に使わない。玄関の暗証番号を一方的に変えない。来客には事前の同意を取り、外部の人を泊めない。「母もだめですか」「泊まり
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第6話 お風呂は一つしかないので

月曜の朝、7時8分。洗面所のドアが二度鳴った。「藤崎さん。あと2分です」「まだ私の時間です」紗良は髪の泡を流しながら、防水時計をにらんだ。本当にあと2分だった。「ドライヤーまで使ったら超えますよ」「部屋でやります」「昨日はここで使ってましたけど」「昨日は日曜です」ドアの向こうで何か聞こえた。聞き返す時間も惜しくて、紗良は髪をタオルで包んだ。出ると、歯ブラシを持った遼が立っていた。片側だけ跳ねた髪で時間を守れと言われても、あまり説得力がない。「2分しか過ぎてません」「その2分を今から取り返すので、どうぞ」入れ替わりに遼が消えた。紗良は部屋でドライヤーをつけた。コードが短く、ドアを半分開けたところに立たなければ届かない。洗面所から出てきた遼が、こちらへ何か言った。「聞こえません」止めると、遼は口を閉じた。「……何でもないです」「今、絶対何か言いましたよね」「次は騒音のルールも決めましょう」「いいですよ。歯磨きも私が入る前に済ませてください」紗良は半乾きの髪で着替え、保冷バッグを取った。コンビニ向けに開発している、ユッケジャンの試作品が三袋。製造日と配合コードを確かめ、ファスナーを閉じる。食卓には、A3の図面が一面に広がっていた。壁や寸法に、赤字の修正がびっしり入っている。「全部使われると、朝ごはん食べる場所がないんですけど」「朝は食べないのかと思ってました」「どうして」「週末、食べてなかったので」美咲とつまんだたこ焼きと、部屋で食べたカップ麺を思い出す。確かに、遼の前で朝食は取っていない。でも決められると、食べたくなった。「今日から食べます。とりあえず、このバッグ置きますね」空いた隅へ押し込んだバッグが、図面の端に引っかかった。倒れた拍子に、試作パウチの甘かったシールが開いた。漏れたスープがバッグの底にたまり、閉め切れていなかったファスナーの隙間から流れ出した。「うそ、ちょっと……!」紗良はバッグを流しへ移し、キッチンペーパーをつかんだ。図面を押さえようとした手を、遼が止める。「こすらないで。先に紙を持ち上げます」「ごめんなさい。これ、刷り直せます?」「データはあります。手で書いた部分だけ、写し直さないと」「写真は?」「撮ってます」「じゃあ、それを送ってください。私、写しますから」
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第7話 騙された者同士

遼の知人、宮本慎吾から届いたLINEグループの案内には、参加前に確認があると書かれていた。契約書のうち、賃貸人と物件、仲介会社が分かる部分を送る。口座番号や署名など、関係のない個人情報は隠す。紗良は送信前の画像を二度見直した。何かに登録するだけで、もう身構えてしまう。承認後に開いたグループ名は、《高木正志・サクラホーム被害者連絡会》だった。紗良と遼を入れて、十一人。代表の黒田恵美がまとめたノートには、相談先と資料のそろえ方が並んでいた。警察、消費生活センター、法律相談。確認できた店舗の情報もある。《未確認の情報は拡散しないでください》《高木や佐伯を、一人で探しに行かないこと》《原本と電子データは各自で保管してください》紗良はスクロールを止め、その三つを読み返した。犯人を捕まえに行こう、と騒ぐ場所ではなかった。大半の人は、まず明日も仕事へ行かなければならないのだ。練馬の1LDKで、前払い家賃160万円。中野のワンルームで、初期費用130万円。同じ建物の201号室でも、180万円近くを払った人がいた。「201って、下の階ですよね」遼は自分のスマホを見たまま、うなずいた。「ここは二重契約ではないみたいです。ただ、新しい担保の登記に気づいて、問い合わせたら連絡が取れなくなったと」「一部屋に二人なの、私たちだけですか」「今のところは」「何の特典なんでしょうね」「いらない特典です」紗良は302号室のことを書き始めてから、手を止めた。「どこまで書いていいですか」「二人で確認できたところまで。支払額は、俺は出して構いません」「私も。それ以外の個人的なことは、なしで」契約日、入金時刻、番号を受け取った時刻。二人分を並べて投稿すると、すぐに返信がついた。《振込先、うちと同じです》《担当は佐伯でした》《提出用の資料は別に保存してくださいね》十一人の金額を足しかけて、紗良は計算機を閉じた。自分の238万円が、ただの合計の一部になるのが嫌だった。何年かけて貯めたかも、あといくら返すのかも、その数字には出ない。夜7時過ぎ、201号室の入居者の両親が訪ねてきた。娘が仕事で来られないため、代わりに資料を見せに来たという。父親は古い家計簿の間から登記事項証明書を出した。「娘も、ずいぶん無理をして払ってまして。そちらと受付の日が同じみ
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第8話 線を引く男

その週末、遼はダイニングの床に青いテープを貼り始めた。紗良は段ボールをつぶす手を止めた。「何してるんですか」「物を置く範囲を決めようかと」食卓の脚からキッチンの手前まで、見事にまっすぐだった。遼はかがみ込み、浮いたところまで手のひらで伸ばしていく。「国境でも作るんですか」「養生テープです。剥がす時に跡が残りにくいので」「材質の話、してません」次に食卓へ貼ろうとしたので、紗良はその手を押さえた。「食べる場所まで割らないでください」「毎回、使う時間を申告するより楽でしょう」「家で楽にしたい人は、そもそも申告しないんです」靴箱も半分に分けられた。紗良の靴は六足、遼は三足。遼の側だけ、妙に空きがある。「使いますか。ここ、空いてますけど」「あとで増えたら、戻せって言うんでしょう」「まだ増える予定はないです」「じゃあ、空けといてください。今は」自分でも意地を張っていると思った。空いているから使えばいい。それだけのことが、一度受け取ると後戻りできないように感じる。冷蔵庫を開けた時には、さすがに黙っていられなかった。「保存容器、順番変えました?」「左へ寄せただけです」「日付順なんです。古いのを前、新しいのを奥にしてたのに」「そう書いてありませんでした」「書かないとだめですか」遼は言い返さずに場所を空けた。紗良が並べ直すのを見てから、棚の中央にも青いテープを貼る。これで動かさない、と言いたいらしかった。夕食時、紗良は線のこちら側に座った。向こうでは遼がパソコンを見ながら缶コーヒーを飲んでいる。「ごはん、食べないんですか」「まだ腹、減ってません」「今日、コーヒーしか見てないですけど」「食事も申告します?」「倒れられたら困るって話です」「その時は申告します」「遅いです」紗良は箸を持ち直した。からかわれているのか、本気なのか。顔を見ても分からない。午前1時、水の落ちる音で目が覚めた。部屋を出た途端、足の裏が冷えた。青い線を越えて、水が広がっている。備え付けの冷蔵庫の下からだった。「黒川さん、起きてください」大きい部屋をノックする。「冷蔵庫が、今度は床を占領してます」遼が寝癖のまま出てきた。床を見て目を細め、濡れていない場所を確かめてから電源を切った。「タオル、何枚かお願いします」「使っていいほう
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第9話 母には内緒

日曜、午前11時42分。母から届いたメッセージを見て、紗良はベッドから跳ね起きた。《荻窪駅に着いた。おかず持ってきたよ》すぐに電話する。「なんで前もって言わないの!」『今、言ったじゃない』「駅に着いてからは前もってじゃない!」『嫌なら取りに来なさい。渡したら帰るから』紗良が返事をする前に切れた。ダイニングへ飛び出すと、遼は冷蔵庫の前に座り、水受けを交換していた。午前中、型番の合う部品を探して買ってきたところだった。「母が来ます」「いつですか」「今。もう駅にいます」遼のドライバーが止まった。「出ましょうか」「階段で会います。たぶん」男物のシャツ、靴下、洗面道具。さっきまで気にならなかった物が、一度に目へ飛び込んできた。紗良は両手でそれらを抱えた。「修理の人、ってことにしてもらえませんか」「俺が?」「今まさに直してますし」「……職業は違いますけど」「そこは、今だけ」遼の部屋へ私物を戻し、ドアの前に箱を置いた。母なら、ここは何、と言いながら開けかねない。インターホンが鳴る。紗良は息を整える暇もなく、玄関を開けた。「ずいぶん散らかってるじゃない」「まだ片づけてる途中だから」「もう一週間以上たつでしょ。……で、あの方は?」遼が立ち上がった。「こんにちは。冷蔵庫の水受けを交換しています」「引っ越してすぐに壊れたの? 大変ねえ」母はしゃがみ込み、古い部品まで見た。遼は亀裂を指し、昨夜漏れた水と交換の理由を簡潔に説明する。「若いのに、ちゃんと説明してくれるのね」紗良は返事をせず、筑前煮を冷蔵庫へ押し込んだ。母の手土産は、きんぴら、卵焼き、トイレットペーパーまであった。「筑前煮は先に食べて。きんぴらはちょっと濃くなったから、ごはんとね」「うん」「缶コーヒーなんて飲んだ?」母が右側の棚をのぞいた。「会社の人が来た時に出すの」「会社の人が家に来るの?」「お母さんより先に連絡はくれるよ」腕を軽く叩かれた。そのまま母が洗面所へ向かったので、紗良も追いかける。カミソリは片づけた。歯ブラシは、忘れた。「なんで二本あるの?」「新しいの買ったから。古いのは掃除用」「掃除用を同じコップに入れておくの?」「あとで片づける!」青い歯ブラシへ手を伸ばしかけ、やめた。取り上げたら余計に怪しい。母は鏡の水滴を
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第10話 雨漏りする部屋

午後になると、窓の外が白くなるほど雨が降った。紗良は小さい部屋で母と電話していた。「ちゃんと帰れた?」『帰れたわよ。そっちは雨、すごいの?』「出なければ大丈夫」冷蔵庫の人はもう帰ったのか、と聞かれ、直ったから心配しないでと答えた。部屋の外では、その本人がソファに座っている。「冷蔵庫、もう漏れてません?」「今のところは」「よかった。冷蔵庫にまで裏切られたら、何を信じていいか分からないです」「冷蔵庫は裏切りません。壊れるだけです」「……分かってます。冗談です」ぽつ、と音がした。紗良は窓際へ寄った。床の水滴を指で拭うと、同じ場所へ次の一滴が落ちた。「黒川さん」「はい」「次は家が壊れました」遼はパソコンを閉じた。窓枠と壁紙を調べ、濡れたところの下にタオルを敷く。紗良がもう一枚持ってくる間にも、しみは大きくなった。高木の電話は、相変わらずつながらなかった。紗良は動画を撮って送り、送信履歴も保存した。賃貸仲介とは別に案内されていた設備管理の窓口へも連絡する。大雨で出動が重なっており、来られる時間はまだ分からないという。「一か所じゃないです。今、もう一か所……はい。写真を送ります」通話の途中で、ベランダ側の天井からも水が筋になって落ちた。洗濯機のコードへ伸ばした手を、遼が止める。「濡れてます。触らないで」すぐに手を離し、乾いた側から分電盤へ向かった。照明が落ちると、雨音が急に大きくなった。スマホのライトと充電式ランタンを置き、二人は容器を運んだ。設備管理の担当者の指示も確かめ、濡れた範囲は使わないことにする。「バケツ、あります?」「箱のどこかに。たぶん」「たぶんじゃなくて、あると助かります」「買った記憶はあります!」見つけたバケツを抱えて戻ると、遼は冷蔵庫用に使った容器まで窓の下へ並べていた。小さい家なのに、水を受ける場所ばかり増える。紗良は梱包用のビニールを持ち、椅子へ乗った。壁を伝う水を、バケツの側へ流せそうだった。「降りてください」「あと少しで届くから」「椅子が濡れてます」「ここだけ貼ったら――」脚が滑った。身体が傾き、遼の腕が腰と肘を支えた。「だから、降りてって言ったでしょう」紗良は椅子から下りた。足の裏がまだ浮いているようで、思わず壁へ手をつく。「……すみません」「届く場所でやりま
last updateLast Updated : 2026-09-16
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