All Chapters of 契約書は二通、部屋はひとつ: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 ユッケジャン二人前

濡れたタオルが、洗面所からベランダまで並んでいた。雨がやんでも、家の中には湿った壁紙の匂いが残っている。遼は仮止めのテープを押さえ直し、紗良は水を吸った箱を玄関へ寄せた。入居した週に買った小さなサンスベリアは、雨の当たらない遼の部屋へ移してあった。鉢の受け皿まで拭いてある。礼を言いそびれ、紗良は葉の先を一度触った。「下の階、どうでした?」「居間の隅が少し濡れたそうです。管理の担当者にも見てもらいました」「こっちに修理代の話が来たら?」「その場で負担を約束せず、原因と保険を確認するそうです」紗良は証拠フォルダに《雨漏り》を追加した。契約書、登記、警察への相談記録。今度は天井と窓の写真。自分の部屋を撮った写真なのに、家具の配置を楽しむためのものが一枚もない。「これ、提出できなくなっちゃった」箱の中の試作品は、外側の紙が湿っていた。保存できるタイプの密封パウチに破損はないが、外装も含めて見せる予定だったので使えない。「中身は?」「食べられます。会議にこれを持っていけないだけで」遼が時計を見た。午後11時40分だった。「じゃあ、食べませんか。夕飯、まだですよね」紗良は放置したままのおにぎりを思い出した。遼もコーヒーしか飲んでいない。鍋へユッケジャンを二袋入れ、水を少し足した。長ねぎを切って加えると、湯気が湿った匂いを押しのけた。ごはんを温め、二人で食卓についた。遼がスープを一口飲む。「前のより、こっちが好きです」「この前のは、ごはんにかけるほう。これはスープで飲むほうです」「同じ商品でも、そんなに変えるんですね」「黒川さんだって、壁の厚さ一つに理由があるでしょう」「ありますけど。……その呼び方、そろそろ変えませんか」紗良はスプーンを止めた。「黒川さん、が?」「毎朝、点呼みたいで」「じゃあ、何て呼べばいいですか」「遼で。呼びにくければ、さんでも」本人に決められると、妙に照れた。紗良は鍋を見たまま言った。「じゃあ、私も紗良でいいです。藤崎さんって長いので」「分かりました。紗良さん」最後に付いた『さん』が、かえって近かった。「遼さんって、引っ越し慣れてないですよね」「どうして」「箱、全然開けてないから。大きい部屋、まだ半分倉庫じゃないですか」遼はごはんをスープへ入れ、固まりを二度ほぐした。「慣れてるか
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第12話 被害者という名前

椅子は十六脚、会場に来た人は二十二人だった。座れない人が壁際に並んでいる。子どもを抱いた夫婦、契約書を胸に抱えた女性、銀行アプリを閉じない老人。紗良と遼も、最後列に立った。「302号室のお二人ですね」黒田恵美が相談の順番を渡してくれた。「二重契約の件は、個別に時間を取ってもらっています」何人かが振り返った。紗良はファイルの角を押さえた。同じ被害者なのに、珍しい事例として見られるのはつらい。恵美が声を落とした。「お二人で争う前に、専門家に整理してもらいましょう。相手の契約が偽物だって決めつけても、高木たちへの請求は進まないから」遼はうなずき、紗良にも順番表を見せた。担当した弁護士は橘理沙だった。話し方はゆっくりだが、質問に曖昧なところがない。契約書を並べ、鍵の権限を渡された時刻と、荷物を入れた時刻を別々に書いた。「先に契約した、というだけで話は終わりません。ただ、引き渡しを受けた時期には意味があります」理沙は遼の搬入時刻へ線を引いた。「今の資料では、黒川さんのほうが先に入っています。この点は確認が必要です。だからといって、藤崎さんの契約書が偽物になるわけではありません。お二人の利害がぶつかる部分は、個別の相談先も分けて考えます」紗良は背筋を伸ばした。二人で暮らしているから、権利まで同じになるわけではない。理沙は次に、根抵当権の登記を指した。「こちらは、お二人が鍵を受け取る前ですね。買受人に賃貸借を主張できるかどうかでは、この順番が重要です。競売になっても、2年間そのまま住めるとは限りません」「じゃあ、払った家賃は?」「家主への返還請求や損害賠償を検討します。競売代金から、自動的に優先して返してもらえるものではありません」紗良はペンを握り直した。家賃を先に払った。住む権利は後から疑われる。何を先にすればよかったのだろう。「でも、出たら全部なくなるわけでもありません」理沙は二人を見た。「転居と金銭の請求は、分けて考えましょう。使った期間の扱いも含めて、何をいくら請求するか整理します。支払った238万円を、何の計算もせず全額損害と決めるわけにはいきません」まずは二重契約と送金の資料をそろえる。家主と仲介会社への通知を出す。仲介会社の免許窓口へ情報を出し、加入している保証協会にも相談する。「保証協会なら、返してくれるん
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第13話 他人の歯ブラシ

遼が二日続けて、終電近くに帰ってきた。初日は《残業です》と連絡があった。二日目は何もなかった。午後11時、紗良は歯を磨きながら、青い歯ブラシを見た。毛先が乾いている。他人の歯ブラシが濡れているかどうかまで分かるのは、さすがにどうかしている。一緒に住んで、2か月目に入っていた。洗面所を少し長く使っても、最近はノックされない。冷蔵庫の線も守っているし、食卓だって半分空いている。楽なはずだった。なのに外で足音がすると、紗良はパソコンから顔を上げてしまう。被害者グループに新しい連絡が来た。遼も見たか聞こうと、個人のトーク画面を開く。《これ、確認しました?》書いて、消した。同じグループにいるのだから、自分で見る。午前0時17分、暗証番号を押す音がした。紗良は部屋を出なかった。起きていた理由まで聞かれそうで、画面の明るさを下げた。やがてノックがした。「まだ起きてます?」「もう寝ます」「ダイニングの明かり、ついてたので」「私じゃないです」「じゃあ、幽霊ですか」「自分で消し忘れたんじゃないですか」ドアの向こうで、少しだけ気配が止まった。足音が離れてから、紗良はまた画面を明るくした。翌朝、食卓にサンドイッチが二つあった。片方の包装に、《昨日、連絡できず。すみません》と黒いペンで書いてある。紗良は写真を撮り、すぐに消した。会社へ持っていったサンドイッチは、昼前に食べた。昨日の夜、何度玄関を見たかは教えない。けれど、その包装は捨てる前にもう一度読んだ。その日は紗良も残業だった。営業部の相沢俊介が、サンプルの箱を車へ積んで家まで送ってくれた。試作品の塩味について、車内でもずっと意見が合わなかった。「濃いほうが最初の一口は強いんですよ」「最初だけ売れて、次に買ってもらえなかったら意味ないでしょ」「そこは企画の腕で」「営業の腕も使って。あと、箱下ろして」俊介は笑い、トランクを開けた。五箱のうち紗良が二箱、俊介が三箱を抱えて階段を上がる。302号室のドアが開いた。遼がゴミ袋を持って立っていた。「おかえりなさい」遼の目が俊介から箱へ動いた。「同じ会社の相沢です。こんばんは」「黒川です」紗良は戸口を広げ、箱を玄関へ置いてもらった。「ありがとう。ここでいい」「彼氏さんいたんですね。先に言ってくださいよ」「彼氏じ
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第14話 同情なら優しくしないで

「藤崎さん、さっきから電話来てません?」会社の飲み会で言われ、紗良はグラスを置いた。画面には被害者連絡会からの不在着信が三件あった。「銀行です。借り換えの案内か何か」「家、買ったんですか?」「いえ、賃貸です」「最近は借りるのも怖いですよね。詐欺とか」美紀課長がトングで肉を返した。「人の財布をつまみにしない。自分の肉、焦げてるよ」話題はすぐに新人の恋愛へ移った。紗良は笑いながらスマホを伏せた。あとで折り返すと送るだけなのに、誰かに見られている気がした。普段より多く飲んだ。立ち上がった時、床が少し遅れてついてきた。美紀がタクシーを呼ぼうとしたが、まだ電車があると断った。料金を思うと、酔っていても惜しかった。駅を出て、遼へ電話した。何の用かは、呼び出し音が鳴ってから考えた。『どこですか』「家の前」『電車の音、聞こえますけど』駅名を見上げた。一駅手前だった。「……降りるとこ、間違えました」『そこにいてください』「歩けます」『行きますから』15分ほどして、遼がスウェット姿で現れた。水と、紗良が朝置いてきたジャケットを持っている。「なんで、それまで」「寒いでしょう」「私、かわいそうじゃないですよ」差し出された手が止まった。「急にどうしたんですか」「詐欺に遭った、かわいそうな女だからなら、こういうのいりません」「……どれだけ飲みました?」「ビール。あと、サワー三杯くらい」「じゃあ、まず水を飲んで」ジャケットを肩へ掛けられた。脱ごうとすると、遼は前を軽く押さえた。「今だけ着てください。怒るのは家で」「命令しないで」「お願いです」帰り道、ヒールが舗装の隙間へ二度引っかかった。遼は腕をつかまず、紗良が歩き直すのを待った。速度を落とすだけの優しさが、今は余計に苦しかった。家に着くと、遼は蜂蜜を溶かした白湯を出した。紗良は食卓に座り、その手元を見ていた。「どうしてそこまでしてくれるんですか」「一緒に住んでるので」「その答え、嫌です」「じゃあ、何て言えばいいんですか」「かわいそうだからって。そしたら、ちゃんと線を引けるから」遼がカップを置いた。「同情だけなら、こんなふうには暮らしてません」「お互い、行く場所ないだけでしょう」「今もそれだけだと思ってます?」紗良は答えず、カップを見た。
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第15話 競売開始決定

入居から3か月。銀杏の葉がほとんど落ちた頃、橘理沙から連絡があった。《担保不動産競売の開始決定に伴う、差押えの登記を確認しました。最新の登記事項を一緒に確認させてください》紗良は同じ文を三度読んだ。遼と食卓につき、登記情報を開く。《差押》《担保不動産競売開始決定》見慣れた302号室の住所に、知らない事件番号がついていた。「これ……出ていけってことですか」「まだ、違うと思います」「どうして分かるんですか」「前の相談で、聞いたので」「私は覚えてないです」昨夜のことがあって、二人は必要な話しかしていなかった。遼はそれを責めず、理沙へ電話をかけた。『これは売却の手続きが始まったということです。今日、明日すぐに明け渡せ、という通知ではありません』理沙は、今後の現況調査や売却の流れを短く説明した。根抵当権の登記が引き渡しより先なら、今の賃貸借を買受人に主張するのは難しくなる。明け渡しを待ってもらえる制度にも条件があり、前の家主へ家賃を払ったからといって、新しい所有者にずっと無償で住ませてもらえるわけではない。『いずれ移る必要は見込んでください。ただ、今ここで慌てて荷物を出す必要はありません。転居先、契約の終了、明け渡しの記録を順番に整理しましょう』「返してもらうお金は?」『そちらの請求も続けます。競売が始まったことと、返金が決まったことは別です』遼は確認した日程を書き、紗良へ見せた。相談へ持っていくものも、一つずつ付け足している。「これ、保存しておきます。紗良さんの分も」「自分でやります」「……分かりました」スマホを握ったまま、紗良は立った。小さい部屋へ入るつもりが、洗面所へ向かっていた。水を出す。冷たい水が洗面台をたたく音で、頭の中も静かになる気がした。ならなかった。競売。住んでいる場所が、誰かの手続きで値段をつけられている。もともと自分の所有物ではない。それくらい、分かっていた。それでも契約の間は、仕事から帰ってドアを閉められるはずだった。紗良は床へ座った。濡れた足元を避ける気力もなかった。「紗良さん」ドアの外で声がした。「大丈夫です」「水、10分くらい出たままです」立ち上がって蛇口だけ閉め、また座った。今度は、静かすぎた。「開けてもいいですか」鍵はかけていなかった。それでも遼は入ってこない
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第16話 間違いを起こしやすい夜

遼に抱きしめられていたのは、10分にも満たなかった。そのくせ、三日たっても忘れられなかった。洗面所のドアを開ける時。洗濯物の中に遼のシャツを見つけた時。冷蔵庫から水を取ろうとして、同じボトルへ手を伸ばした時。思い出す必要のないところで、いちいち思い出す。遼も、いつもどおりではなかった。朝7時10分に来たのに、紗良と目が合うと「タオルを忘れた」と戻っていく。手には、もうタオルを持っていた。紗良は指摘できず、洗面所を空けた。その三日の間にも、事件の用事は進めなければならなかった。警察へ追加の資料を出し、弁護士から届いた照会に答える。二人の資料が同じ机に載っていても、提出するものはそれぞれの被害として分けた。紗良の記入漏れを遼が指で示した。指先が近づいただけで、紗良はペンを落とした。木曜の夜は、二人とも遅かった。紗良が帰ると、遼はカップ麺へ湯を注いでいた。「また、それですか」「ごはんがなくて」「冷凍庫にあります」「紗良さんの側でしょう」「一つ食べたくらいで通報しません」遼が冷凍庫を開けた。青い境界線の端が、水気で浮いている。紗良はその横から、チャーハンを二袋取った。「こっちも食べません?」「もう湯、入れましたけど」「じゃあ、両方食べればいい」遼は袋を受け取った。温まるまでの時間を、二人とも食卓の前で黙って待った。カップ麺の蓋が、湯気で少し持ち上がった。食後、遼が皿を洗った。紗良は食卓を拭いた。一度で十分な場所を二度、三度と往復する。「この前のこと」遼の手が止まった。「どのことですか」「洗面所で、抱きしめてくれた時の」水の音が小さくなった。紗良は布巾を折り直した。「後悔してます?」「してない」短い返事だった。顔を見たいのに、顔を見たら聞けなくなりそうだった。「かわいそうだったから?」「その質問、もう聞き飽きた」「じゃあ、どうして」遼は皿を水切りかごへ置いた。「抱きしめたかったから」「一緒に住んでるから、そう思っただけじゃ――」「紗良」『さん』のない呼び方に、紗良は顔を上げた。言いかけていた言葉が、そこで止まった。「俺も今、普通じゃないのは分かってる。金もなくなった。家は競売。毎日、紗良の顔を見てる」「最後、一緒にしないで」「最後が一番困ってる」「何が」「帰ったら靴を探す。遅
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第17話 なかったことにしよう

朝7時、食卓にコーヒーが二杯あった。遼は紗良を見ると、片方を手前へ寄せた。「飲まない?」「会社で飲みます」「昨日、あまり寝てないだろ」何気ない声が、昨夜の続きになっている。紗良はバッグをつかみ、玄関へ向かった。靴紐を結び、ほどき、もう一度結んだ。「遼さん」「何」「昨日のこと、なかったことにしませんか」カップが食卓へ触れる音がした。「嫌だった?」「そうじゃなくて」「じゃあ、何」紗良は靴を見たまま立ち上がった。「普通の状況じゃないでしょう。毎日一緒にいて、出たくてもすぐ出られなくて。今の気持ちは、勘違いかもしれないから」「昨日、素面だって言ったのは紗良だよ」「素面でも、間違えることはあります」遼はしばらく黙った。見上げる勇気が出る前に、返事が来た。「分かりました」昨夜だけ近づいた声が、また遠くなった。「そうしましょう」紗良はドアを開けたまま数秒立っていた。呼び止める声はなかった。背後で、コーヒーを片づける音だけがした。その日から、家の中の時間が正確になった。遼は朝6時10分に洗面所へ入り、紗良の時間になる前に出る。冷蔵庫は自分の側だけ使い、帰りが遅くても連絡しない。家計簿には《洗剤498円》《トイレットペーパー878円》と並び、レシートも添えられた。紗良は確認し、必要な分を正確に精算した。文句のつけようがなかった。水曜、味噌汁を二人分作ってしまった。余った分を冷蔵庫へ入れたが、翌日もそのままだった。金曜の朝、紗良は小鍋を流しへ運び、中身を捨てた。その音が遼に聞こえないよう、水を出した。美咲から電話があったのは昼休みだった。『最近、声が暗い。あの人と喧嘩した?』「してない」『じゃあ、寝た?』「ちょっと、声大きい」『電話だよ。そっちにしか聞こえてないから』紗良は非常階段へ移った。キスをしたと小声で言ったのに、コンクリートの壁に響いた気がした。『それで?』「なかったことにしようって言った」『なんで』「ずっと同じ家にいるから、そうなっただけかもしれないでしょ」『キスしてる間、高木の顔は浮かんだ?』「浮かぶわけない」『返済額は?』「それもない」『だったら、その瞬間は普通に好きだったんじゃないの』紗良は手すりへ額を寄せかけ、やめた。「簡単に言わないで」『簡単に終わらせたの、紗良
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第18話 契約になかったこと

「二針縫った手で、何をするつもりですか」紗良は工具箱を受け取った。遼が左手を上げる。「こっちは使えます」「使えるほうまで怪我したらどうするの」「まず、ガラスを片づけましょう。足を動かさないで」遼がほうきを持ってきた。紗良もスリッパを履き、棚の下の物をどける。包帯の端が少し赤くなっているのに気づき、紗良はドライバーを取った遼の前へ座った。「休んでください」「棚、落ちますよ」「だから先に箱で支えます。人より棚を優先しないで」下を支えてから、紗良は救急箱を出した。浮いた包帯をテープで留める。遼が指を開き、紗良の手に預けた。「人には気をつけろって言うのに、自分は素手でガラス拾うんですね」「見てたんですか」「指、切ってるでしょう」紗良は絆創膏を巻いた自分の指を隠し、包帯の端を押さえた。謝るなら、今だった。「なかったことにするって話、撤回してもいいですか」遼の手が動かなくなった。「何を、撤回するの」「キスをなかったことにするって言ったの」「どうして」紗良はテープを指に巻きつけかけ、ほどいた。「この家だから好きになったのか、確かめたいのは本当です。でも、確かめる前に消そうとしたのは違うと思った」「俺は消してない」「じゃあ、どうして分かりましたって言ったんですか」「嫌だって言われたら、引くしかないだろ」言い方が、また近くなった。「……もう一度聞いてほしいって、思ってました」「最初、嫌だったか聞いたよ。答え、変えた?」紗良はうつむいた。遼は責めず、返事を待った。「変えなかったと思います。でも、今は変えました」包帯を留め終えても、手を離せなかった。「ごめんなさい。一人で決めて。遼さんが嫌だったんじゃなくて、私が怖かっただけです」「何が怖い?」「この部屋を出たら終わること。ここにいる間だけの気持ちだったって、あとで分かること」遼は自分の手を見た。「それなら、出たあとで確かめようよ。今、分からないことまで決めなくていい」「簡単に言いますね」「簡単じゃないから、怪我した手で棚なんか直しに来るんだろ」紗良は思わず笑った。遼が包帯の端を示す。「そこ、もう一枚」「……はい」それ以上、謝罪の言葉は重ねなかった。棚の上の化粧品を箱に移し、床を掃いた。ベッドの下から、合意書のコピーが出てきた。「キス禁止、と
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第19話 家の外で会う人

「土曜、外で会いません?」紗良が言うと、遼はコーヒーを飲む手を止めた。「今も会ってるけど」「これは共同生活です」「外だと何になるの」「デート」三秒ほど、間があった。「どこで。何時」「会議の予定みたいに聞かないでください」「遅れたら怒るだろ」土曜の午後2時、荻窪駅の改札前。二人は別々に家を出た。一緒に出ると買い物へ行くのと変わらない、という紗良の主張だった。先に着いた紗良は、鏡の前でリップを塗り直した。遼は約束の10分前に来た。黒いニットを着て、普段より髪が整っている。「今日、ちゃんとしてますね」「いつもは?」「寝癖」前髪へ触れようとすると、遼が頭を引いた。「触るな。崩れる」「セットしたんだ」「紗良も、口紅違うだろ」「分かるの?」「毎日見てるから」紗良は改札へ向き直った。家で聞けば何でもないことが、駅で言われると返事に困る。中央線で吉祥寺へ出た。商店街でメンチカツと、小さな唐揚げを買う。遼が財布を出すより先に、紗良が払った。「これは私。次は遼さん」「精算しなくていいの?」「交互ならいいかなって」「1円まで計算されるかと思った」「300円のメンチカツで揉めたくないので」古本屋にも寄った。紗良がミステリーを選ぶ間、遼は建築雑誌の前にしゃがみ込んでいた。「家でも図面、休みも建物?」「紗良だって、仕事で食べ物見て、休みも食べてる」「食べないと生きられないから」「俺もこれ見ないと生きられない」遼が開いた本には、2400円の値札がついていた。二度めくって、棚へ戻す。「買わないんですか」「今月、カードの請求が多い」買ってあげる、と言いかけて、紗良はやめた。「来月、残ってたら買えば」「じゃあ、来月も一緒に来て」「それは、デートの予約?」「うん」今度は、間がなかった。飲み物を買い、井の頭公園の池の近くへ座った。ここまで一度も、高木の名前を出していないことに気づいた。確かめるために言葉にするのも嫌で、紗良は別のことを聞いた。「家以外で、好きなものは?」「急にどうした」「私たち、契約日とか支払額とか、そういうことばっかり詳しいから」遼はカップの氷を鳴らした。「野球。餃子。古い商店街を歩くこと」「餃子は趣味じゃないです」「紗良は?」「銭湯とミステリー。あとホテルの朝食」「よく
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第20話 会社にバレた

噂は、総務のコピー機の前から広がった。紗良は、今のローンの返済相談に必要な在職証明書と給与関係の書類を受け取りに行った。担当者が封筒を渡しながら、いつもの声量で確認した。「賃貸の詐欺被害で、銀行に返済条件のご相談をされるんですよね」コピー機の前には、営業部の社員が二人いた。紗良は封筒を受け取った。「はい。個人的な話なので、ほかでは話さないでください」「もちろんです」昼になる前に、別の二人から大丈夫かと聞かれた。一人は知り合いの司法書士を紹介しようと言い、もう一人は従兄弟も詐欺に遭ったとため息をついた。4か月近く隠したことが、4時間でフロアを一周した。《大変でしょうけど頑張ってください》と送ってきた人は、廊下で会うなり、いくら取られたのか尋ねた。紗良は返事をせず、化粧室へ入った。自分の顔を鏡で見ても、昨日とどこが違うのか分からない。ただ、みんなの目のほうが変わっていた。昼食時、一人の社員が向かいに座った。「でも最近、ネットで調べれば分かるじゃないですか。登記とか、確認することが」「見ました」「それでも引っかかるんですか」「ええ。それでもです」美紀課長が隣の椅子を引いた。「人の被害をおかずにしてないで、自分の唐揚げ食べな」相手は曖昧に笑い、席を変えた。紗良は箸を持ったが、揚げ物の匂いで胃が重くなった。午後は、仕事でも失敗した。新商品の最終表示で、アレルゲンの一項目を確認から落としていた。原材料表の版は差し替えたのに、別欄との照合をし損ねたのだ。印刷前に品質保証部が見つけ、出荷には至らなかった。それでも印刷会社の予定が一日ずれた。会議室で、美紀が校正紙を置いた。「最後に見たの、藤崎さんだよね」「はい。申し訳ありません」「どこで抜けた?」紗良は二つの版を並べ、確認しなかった箇所を示した。夜中に警察用の資料を作ったことも、眠れなかったことも、今ここで説明してもラベルは直らない。「今日中に修正します。印刷会社との再調整も、私から連絡します」「それでお願いします。次は、差し替えた箇所だけじゃなく、全体を照合して」「はい」美紀は声を落とした。「被害に遭ったことは、あなたの落ち度じゃない。仕事のミスは、別に直せばいい。混ぜて、自分まで駄目だったことにしないで」紗良は校正紙をそろえた。今、顔を上げたら泣くと思
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