大河が帰ったあと、時計は午前一時を回っていた。重い静寂だけが落ちる暗いリビング。カチャリ――バン!玄関が壊れそうな勢いで開き、泥酔した慎吾がよろめきながら入ってきた。強いウイスキーと染みついた煙草の臭いが、澄んでいた空気を一瞬で汚す。ネクタイを引き抜いて床へ投げ、暗がりに立つ美咲へ、呂律の回らない声で吐き捨てた。「おい、美咲。水持ってこい。喉が焼けそうなんだ。早くしろ」美咲は動揺のない冷たい目で歩き、氷水をテーブルへ置いた。慎吾は一気に飲み、ソファへ倒れ込み、そのまま大きないびきをかいて眠った。無防備で醜い姿を見下ろす美咲の目は、氷のように冷え切っていた。ソファの下へ滑り落ちた高級スーツのジャケットを慎重に拾う。かさり。内側の襟から、鼻を刺す知らない香りが流れた。美咲のものではない、甘く華やかな高級フレグランス。白いワイシャツの襟の内側には、濃いピンクの口紅が醜く潰れている。美咲の口元へ、冷たい失笑が浮かんだ。手首を捻り、息が詰まるほど完璧と潔癖を強要してきた夫の、卑劣な素顔だった。息を殺し、慎吾のズボンのポケットから重い革財布を取り出す。ジッ、とファスナーポケットやカード入れを一つずつ開くと、固く折られた数枚のレシートと名刺が指に触れた。スマートフォンの明るさを落とし、印字を順に確認する。【グランルーチェ東京 スイートルーム/180,000円】【銀座・高級おまかせコース二名分/80,000円】【銀座ルミナス百貨店 ダイヤモンドネックレス/600,000円】先週、「地方工場への出張」だと言って一泊した日付と、すべて一致していた。生活費を五千円でも超えれば目を剥き、「そんな家事だから寄生虫と呼ばれるんだ」と髪を掴もうとした男が、外では若い愛人のため、一晩で大金を湯水のように使っている。レシートの裏に挟まれた名刺を開いた。【ルーチェ・インテリアデザイン/代表 水城紗也香】財布の内側には、愛人が自ら書いた、親密で生々しいメモまで残っていた。『ねえ、週末のスイート最高だった。来週は約束どおり、沖縄のプライベートヴィラへ行こうね』どくん――。胸の奥に残っていた最後の迷いと、欠片ほどの罪悪感が、粉々に砕けた。涙は一滴も出なかった。羞恥も悲しみもなく、骨まで冷えるほど明瞭な怒りと、揺るぎない冷静さが全身を満たした。
Última atualização : 2026-09-22 Ler mais