「赴任の承諾書、まだ届いていないようですが」「もう署名しました。メールでお送りしてあります」私は人事部からの電話を切ると、デスクに飾っていたふたりの写真立てを、そっと伏せた。ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。陸が帰ってきたのだ。手にはコンビニのレジ袋。中身は、見切り品のツナサンドがふたつ。「今日の夕飯な」彼は袋をローテーブルへ無造作に放り出す。「値引きでふたつ240円。120円送っといて」私は何も言わずにPayPayを開き、120円を送金した。陸はほんの一瞬画面を眺め、かすかに眉を寄せる。「メッセージ、なんで入れてないんだよ。いつも『夕飯割り勘』って書いてただろ」「忘れてた」私は静かにそう返した。「次から気をつけろよ。月末の精算がややこしくなる」彼はダイニングの椅子を引いて腰を下ろすと、ノートパソコンを開いた。慣れた手つきで立ち上げたのは、「ふたりの家計簿」と名付けられたExcelファイル。陸が何よりも誇りにしている、自慢の力作だ。付き合って7年、ふたりのあらゆる出費がこの表に1円単位で刻み込まれている。「先月の救急外来、2930円は俺が立て替えたよな」すらりとした長い指が、リズムよくキーボードを叩いていく。「お前の未払いは1465円」「わかった。すぐ送る」私はうつむいてスマホを操作し、言われた通りきっちりと送金した。そのとき、彼のスマホの画面がぱっと明るくなった。夏田知佳(なつた ちか)からのボイスメッセージだ。彼が画面をタップすると、しんと静まり返ったリビングに、ひどく甘えた声が耳障りなほど響き渡る。「陸くーん、ダイソンのドライヤーがすっごく欲しいんだけど、めちゃくちゃ高いのー。前に、誕生日は高いものプレゼントしてくれるって言ってたよね?あれってまだ有効?」陸の口元が、自然とゆるんだ。帳簿とにらめっこしているときには決して見せることのない、生き生きとした顔だった。彼はスマホを手に取り、録音ボタンを押す。「有効だよ。リンク送って」すぐさま、知佳からスクリーンショットが届いた。
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