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私の幸せ、もうあなたと割り勘しません

私の幸せ、もうあなたと割り勘しません

Par:  涼木Complété
Langue: Japanese
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杉森陸(すぎもり りく)と付き合って7年。彼が定めた細かなルールにも、すっかり慣れきっていた。 食事は割り勘。光熱費も半分ずつ。クリスマスプレゼントでさえ、互いのレシートを見比べて差額をきっちり精算し合う。 彼が6400円の口紅を贈ってくれたなら、私、与那嶺凪(よなみね なぎさ)も同じ価格帯のネクタイを返す。 私の方が160円高くついたときは、すぐさま彼からPayPayの送金があった。添えられたメッセージ欄には【差額分】と、ただ一言だけ。 友達に愚痴をこぼせば、誰もが呆れたように「あんたの彼氏、歩く家計簿じゃん」と笑い飛ばした。 そのたび、私は彼をかばい続けてきたのだ。この7年間ずっと。 「そういう人なの。誰に対しても公平なだけだから」と。 スーパーセールの夜、陸の幼なじみのSNSを目にするまでは。 画面を埋め尽くす9枚の写真。そこには空っぽになったショッピングカートのスクリーンショットが並んでいた。合計金額は54万円。 添えられていたのは、こんな一文だった。 【陸くん、今年もありがとう!毎年セールの日にカートの中身を全部買ってもらって、もう5年目だね】 その投稿には陸からの「いいね」がついており、コメント欄には返信まで残されている。 【前から言ってるだろ。遠慮すんなって】 指が勝手に過去の投稿を遡っていく。去年のセール。一昨年のセール。その前の年も。 毎年、何ひとつ変わっていなかった。9枚の写真、空っぽのカート、そして【陸くんありがとう】の言葉。 スマホの画面を見つめたまま、ふと先月の出来事を思い出した。胃の痛みに耐えきれず、深夜の救急外来へ駆け込んだあの夜のことだ。 会計窓口で、彼は明細書を受け取るとこちらへ振り返った。 「とりあえず俺が立て替えとくから。あとで半分送ってくれ」 2930円。 この人は、私の診察代すら割り勘にするのだ。 怒りもしなかった。泣きわめきもしなかった。問い詰める気さえ起きなかった。 ただ会社のメールを開き、S国への赴任承諾書に署名をした。本当に、ただそれだけだった。

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Chapitre 1

第1話

「赴任の承諾書、まだ届いていないようですが」

「もう署名しました。メールでお送りしてあります」

私は人事部からの電話を切ると、デスクに飾っていたふたりの写真立てを、そっと伏せた。

ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。

陸が帰ってきたのだ。

手にはコンビニのレジ袋。中身は、見切り品のツナサンドがふたつ。

「今日の夕飯な」

彼は袋をローテーブルへ無造作に放り出す。

「値引きでふたつ240円。120円送っといて」

私は何も言わずにPayPayを開き、120円を送金した。

陸はほんの一瞬画面を眺め、かすかに眉を寄せる。

「メッセージ、なんで入れてないんだよ。

いつも『夕飯割り勘』って書いてただろ」

「忘れてた」

私は静かにそう返した。

「次から気をつけろよ。月末の精算がややこしくなる」

彼はダイニングの椅子を引いて腰を下ろすと、ノートパソコンを開いた。

慣れた手つきで立ち上げたのは、「ふたりの家計簿」と名付けられたExcelファイル。

陸が何よりも誇りにしている、自慢の力作だ。

付き合って7年、ふたりのあらゆる出費がこの表に1円単位で刻み込まれている。

「先月の救急外来、2930円は俺が立て替えたよな」

すらりとした長い指が、リズムよくキーボードを叩いていく。

「お前の未払いは1465円」

「わかった。すぐ送る」

私はうつむいてスマホを操作し、言われた通りきっちりと送金した。

そのとき、彼のスマホの画面がぱっと明るくなった。

夏田知佳(なつた ちか)からのボイスメッセージだ。

彼が画面をタップすると、しんと静まり返ったリビングに、ひどく甘えた声が耳障りなほど響き渡る。

「陸くーん、ダイソンのドライヤーがすっごく欲しいんだけど、めちゃくちゃ高いのー。前に、誕生日は高いものプレゼントしてくれるって言ってたよね?あれってまだ有効?」

陸の口元が、自然とゆるんだ。

帳簿とにらめっこしているときには決して見せることのない、生き生きとした顔だった。

彼はスマホを手に取り、録音ボタンを押す。

「有効だよ。リンク送って」

すぐさま、知佳からスクリーンショットが届いた。

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10
第1話
「赴任の承諾書、まだ届いていないようですが」「もう署名しました。メールでお送りしてあります」私は人事部からの電話を切ると、デスクに飾っていたふたりの写真立てを、そっと伏せた。ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。陸が帰ってきたのだ。手にはコンビニのレジ袋。中身は、見切り品のツナサンドがふたつ。「今日の夕飯な」彼は袋をローテーブルへ無造作に放り出す。「値引きでふたつ240円。120円送っといて」私は何も言わずにPayPayを開き、120円を送金した。陸はほんの一瞬画面を眺め、かすかに眉を寄せる。「メッセージ、なんで入れてないんだよ。いつも『夕飯割り勘』って書いてただろ」「忘れてた」私は静かにそう返した。「次から気をつけろよ。月末の精算がややこしくなる」彼はダイニングの椅子を引いて腰を下ろすと、ノートパソコンを開いた。慣れた手つきで立ち上げたのは、「ふたりの家計簿」と名付けられたExcelファイル。陸が何よりも誇りにしている、自慢の力作だ。付き合って7年、ふたりのあらゆる出費がこの表に1円単位で刻み込まれている。「先月の救急外来、2930円は俺が立て替えたよな」すらりとした長い指が、リズムよくキーボードを叩いていく。「お前の未払いは1465円」「わかった。すぐ送る」私はうつむいてスマホを操作し、言われた通りきっちりと送金した。そのとき、彼のスマホの画面がぱっと明るくなった。夏田知佳(なつた ちか)からのボイスメッセージだ。彼が画面をタップすると、しんと静まり返ったリビングに、ひどく甘えた声が耳障りなほど響き渡る。「陸くーん、ダイソンのドライヤーがすっごく欲しいんだけど、めちゃくちゃ高いのー。前に、誕生日は高いものプレゼントしてくれるって言ってたよね?あれってまだ有効?」陸の口元が、自然とゆるんだ。帳簿とにらめっこしているときには決して見せることのない、生き生きとした顔だった。彼はスマホを手に取り、録音ボタンを押す。「有効だよ。リンク送って」すぐさま、知佳からスクリーンショットが届いた。
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第2話
65980円。陸は迷うそぶりも見せずに決済を済ませた。パスコードを打ち込む指先には、一切のためらいもなかった。クーポンが使えるかどうかを確かめる様子すらない。その手際のよさを眺めたのち、私の視線はテーブルの上の、パサパサになった値引きサンドイッチへと落ちた。6万円を超えるドライヤーは、まばたきひとつせずに買ってやるというのに。私の救急外来の2930円は、1円単位まできっちり半分に分けるのだ。「……知佳さん、誕生日なの?」私はさらりと尋ねてみた。「ああ、来週」彼は顔も上げない。「そんなに高いものを贈って、彼女にも割り勘してもらうつもり?」キーボードを叩く陸の手が止まった。顔を上げたその目には、見慣れた苛立ちがにじんでいる。「なんだ、また揉めたいのか?」「あなたの言う『公平』の基準が気になっただけよ」「あいつは妹みたいなもんだろ。兄貴分が誕生日プレゼントくらい贈って何が悪いんだよ」彼は眉をひそめた。話を遮られたのが、よほど気に入らなかったらしい。「妹相手にそんなムキになるなよ。俺たちが割り勘なのは、対等な大人同士だからだ。俺はお前の自立を尊重してるんだよ」私の自立を尊重してる。7年間、彼はその言葉を一片の迷いもなく口にし続けてきた。昔の私はそれを信じていた。考え方が進んでいて、古い価値観に縛られず、女性を男の付属品のように扱わない人なのだ、と。今となってはただ、胸の奥から吐き気がこみ上げてくるだけだった。「わかった。別にムキになってないけど」私はスマホをしまった。「じゃあ誰に向かって、そんなふてくされた顔してんだよ」「……まだ少し、胃の調子がよくないの。先に寝るね」返事を待たずに背を向け、寝室へ戻る。ドアを閉め、ベッドの下からスーツケースを引っ張り出して、クローゼットの整理を始めた。私の服は少ない。普段より少しでも大きな出費があると、月末には決まって陸の表で赤く表示され、「もう少し節約しろ」と釘を刺されるからだ。けれど、私は知っている。彼が知佳に贈ってきたブランドバッグや化粧品は、どの表にも一度だって記録されたことがないということを。ドアの向こうから、陸の声が聞こえた。「凪、明日は休みだし、ウェディングドレスの手付金を払いに行こう。全部で1
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第3話
ふたりで気に入っていたものの、まだ売買契約までは交わしていなかった新居の購入を取りやめるために、私は不動産会社へ向かった。応対に出てきた担当者は、驚きを隠せない様子だった。「与那嶺様、こちらの物件は杉森様と1か月以上ご検討いただいていましたよね。来週には売買契約の予定でしたが……」「購入はやめます」「何か条件面で気になることがございましたか?でしたら、もう一度こちらでご相談を――」「結構です。結婚しないことになったので」私は購入申込みを取り下げる手続きを済ませ、そのまま不動産会社をあとにした。日差しが、目に痛いほどまぶしかった。スマホが小さく震えた。知佳から、自撮り写真が届いていた。ブライダルサロンの大きな鏡の前で、細かな刺繍がふんだんに施された豪華なドレスを身にまとっている。その後ろには、ソファに座ってスマホに目を落とす陸の姿が写り込んでいる。添えられたメッセージはこうだ。【凪さん、これどうですか?陸くんは肌の色に合ってるって言ってくれたんですけど、ちょっとお高くて】私は写真を拡大する。ドレスの値札が、半分だけのぞいていた。24万円。できるだけ費用を抑えようと、私は16万円の一番安いウェディングドレスを選んだのに、ブライズメイドのドレスのほうが高いなんて……私は返信せず、そのままスマホをマナーモードに切り替えた。30分ほどして、陸から電話がかかってきた。私は通話ボタンを押す。「今どこにいるんだよ。知佳と1時間も待ってるんだぞ」その声には、はっきりと不満がにじんでいた。「ちょっと用事で出てるの」「ドレスの試着より大事な用事って何だよ。知佳は午後からヨガ教室なんだぞ」「そんなに忙しいなら、ふたりで決めればいいじゃない」「凪、すねるにしても時と場所を考えろよ」陸は大きく息を吐いた。「ふぅ……わかった。お前が来ないなら、俺が決めとく。さっき、知佳がブライズメイドのドレスを選んだんだ。24万。高すぎるとは思ったんだけど、あいつがどうしても気に入ったみたいでさ」電話の向こうで、彼は一拍おいた。私の反応を待っているらしい。私は何も言わなかった。「じゃあ、こうしよう。この代金は結婚式の総予算に入れる」彼は自分の案を切り出した。「つまり、このド
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第4話
私はただ、うなずいた。むぎは賢い子だった。拾われた身だとわかっているのか、家の中で無駄吠えをしたことは一度もない。陸が仕事から帰ってくると、いつもスリッパをくわえて玄関で待っていた。そのうち陸も、むぎの頭をなでたり、安いおやつを買ってきたりするようになった。半年前、知佳が家に遊びに来るまでは。むぎを見るなり、彼女は悲鳴をあげてソファに飛び乗った。「キャァー!陸くん、私こういう大きい犬ほんとにダメなの。噛んだりしない!?」陸は慌ててむぎをベランダへ閉め出した。「大丈夫、噛まないよ」「でも毛が抜けるでしょ。犬の毛を吸い込むと、息ができなくなっちゃうの」知佳は胸を押さえ、息苦しそうな様子を見せた。その夜、彼女が帰るとすぐに、陸は私に最後通告を突きつけた。「犬、誰かに譲れよ」「どうして?むぎはこんなにいい子なのに」「知佳は犬アレルギーなんだ。これじゃあいつ、うちに遊びに来られないだろ」私は、それが当然だと言わんばかりの彼の顔を見つめた。「ここは私の家でもあるのよ。むぎだって家族の一員なの」「たかが犬1匹のことで、俺と喧嘩する気か?」彼は眉をひそめた。「田舎の親戚にもう話はつけてある。明日引き取りに来るから」「そんなことしたら、絶対に許さないから!」私が彼の前で目を赤くしたのは、あれが初めてだった。けれど彼は、まるで取り合わなかった。翌日、仕事から帰ると、ベランダはすっかり空っぽになっていた。ぽつんと残されていたのは、いつもの餌皿がひとつだけ。私はまる1週間、むぎを探し回った。陸の親戚の家まで直接訪ねていった。親戚の人は言った。犬は途中で逃げてしまって、どこへ行ったかわからない、と。その夜、私は道端に座り込んで、長いこと泣き続けた。陸から電話がかかってきた。心底わけがわからないといった調子の声だった。「たかが野良犬1匹だろ?そこまで落ち込むことかよ。どうしても飼いたいなら、毛のない猫でも飼えばいいじゃん」そこまでのことじゃない。彼にとって、私が大切にしているものは、いつだって「そこまでのこと」ではなかったのだ。冷たい首輪を握りしめ、ゆっくりと指に力をこめる。そのとき、玄関のドアが開いた。酒のにおいをまとった陸が入ってきたのだ。床に座り
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第5話
私は最後に残ったスーツケースをひとつ、玄関まで引いていく。それからダイニングテーブルにつき、陸のあのExcelファイルを開いた。7年。2555日。彼が記録し続けてきたすべての出費を、ひとつ残らず洗い直す。彼が私に支払うべき分を差し引いても、それでも私の側に、まだ93646円の支払いが残っていた。スマホを取り出し、PayPayからその金額を送る。メッセージ欄には【精算完了】とだけ打ち込んだ。送金を終えた途端、陸から着信があった。「急に金なんか送ってきて、どうしたんだよ」背後がやけに騒がしい。カラオケにでもいるようだ。「お金のことはきっちりしようって、あなたが言ってたでしょ」「もういいって。いつまでもへそ曲げてんなよ」彼の口調が、わずかに和らいだ。「今夜の千葉たちの集まり、タクシーでさっさと来いよ。みんなお前を待ってるんだから」「行かない。ちょっと疲れてるの」「凪、今日知佳が、あの24万のドレスを着てきたんだよ。みんな褒めてたぞ」彼は声をひそめた。人の輪から少し離れたらしい。「俺の顔を立てると思ってさ、ちょっと顔見せるだけでいいから。ドレス代も割り勘にしなくていい。な、それでいいだろ?」24万のドレスで私に恥をかかせておいて、奢ることで恩を着せようとする。7年間、彼のやり方はいつもこうだった。散々ひどい扱いをしておいて、あとからほんの少しの飴を差し出すのだ。「陸」私は彼の名前を呼んだ。「なんだよ」「知佳さんと、どうか末永くお幸せに」電話の向こうが、一瞬しんと静まり返る。「……お前、何を血迷ったこと言ってんだよ」声が一気に冷え込んだ。「俺と知佳は何もないって言ってるだろ。こんな大勢の前で、わざわざ俺に恥かかせたいのか?」「好きに受け取って」「わかったよ。来たくないなら勝手にしろ。家で反省してろ」ブツッと乱暴に通話が切られた。暗くなった画面を見つめても、私の心にはさざ波ひとつ立たなかった。30分後。配車アプリで呼んだタクシーが、マンションの前へ到着した。5年間暮らしたこの部屋を、最後にぐるりと見渡す。濃いグレーのソファクッションは彼が選んだものだ。私は好きじゃなかった。抹茶色のカーテンは、知佳の勧めで決まった。あの色も、ずっと目障り
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第6話
飛行機が空港へ降り立ったとき、S国は雨だった。突然のスコールが降り出し、空気は蒸し暑く、じっとりと湿気を帯びている。支社の同僚が到着ロビーで出迎えてくれ、私の軽いスーツケースを車のトランクへと積み込んだ。「与那嶺主任、社宅はもう手配してあります。会社まで歩いて10分ですよ」「ありがとうございます」見知らぬ街並みを窓越しに眺めながら、私は深く、長く息を吐き出した。7年間、胸の奥にのしかかっていた鈍い痛みが、この瞬間にすっかり洗い流されていくようだった。その頃、陸はといえば、いまだ、ただの喧嘩中のつもりでいた。1日目、彼は私に連絡してこなかった。どうせ友達の家にでも転がり込んでいるのだろう。3日もしないうちに、しおらしく謝りに帰ってくるに決まっている。そう高をくくっていたのだ。実際、これまでどんな喧嘩をしても、彼が頭を下げさえしなければ、最後に折れるのは決まって私だったのだから。2日目、彼の給料日がやってきた。彼はいつもの癖で、光熱費のスクリーンショットを送って割り勘を請求しようとした。LINEを開いてみたが、やはり既読はつかないままだった。彼は苛立たしげにスマホをソファへと放り投げた。3日目、知佳が、ちょっとした物を借りに家へやってきた。「陸くん、凪さんいないの?」彼女はきょろきょろと、空っぽになった靴箱をのぞき込む。「へそ曲げて出てったよ」陸はグラスに水を注ぎながら、鼻であしらうように言った。「えー、凪さんってば心が狭いなあ。もしかして、あのドレスのことで怒ってるの?」知佳は口元に手を当て、わざとらしく驚いてみせた。「私、あのドレス返品しようか?私のせいでふたりの仲がこじれたら悪いし」「返さなくていい。あいつが勝手にすねてるだけだ。何日か外で頭を冷やさせとけばいいさ」陸は眉をひそめた。そして1週間後。マンションの管理会社から電話がかかってきた。「杉森様、今月の管理費がまだお支払いいただけていないようでして。与那嶺様はいつも半月ほど前にはお振り込みくださっていたのですが」陸は言葉を失った。そして、ようやく気づいたのだ。この1週間、特売のトイレットペーパーを買ってくる人も、冷蔵庫の牛乳を補充する人もいなかった。玄関先のゴミ箱さえ、誰も片づけていなかったことに。
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第7話
果てしない割り勘の精算も、陸のスマホにときおり届く、知佳のボイスメッセージもない。私の毎日は、至ってシンプルで無駄のないものになった。支社のディレクターは私を高く評価してくれ、中核となる市場開拓のプロジェクトを任せてくれた。金曜の夜。私はオフィスに残り、データの確認作業をしていた。デスクの内線が鳴った。「与那嶺主任、ロビーに男性の方がお見えです。昔からのお知り合いだとおっしゃっていて」「……昔からの知り合い?」私は眉を寄せた。「お名前は?」「杉森様とおっしゃっています」キーボードを叩いていた指が、宙でぴたりと止まった。一瞬黙ってから、私は答える。「知らない人だと伝えてください」受話器を置き、再び画面に向き直った。けれど10分後、オフィスのガラス扉が乱暴に押し開けられた。入口に立っていたのは、少ししわの寄ったシャツを着て、目の下に濃いくまをつくった陸だった。おそらく飛行機を降りて、その足でここへ来たのだろう。いつだって体裁を気にしていた男が、今はどこかみすぼらしくさえ見えた。オフィスにはまだ何人か残業中の同僚がおり、皆いっせいに顔を上げて彼を見た。私はノートパソコンを閉じて立ち上がった。「外で話しましょう」彼を連れて、ビルの1階にあるオープンカフェへと向かう。S国の夜風は、肌にまとわりつくように蒸し暑い。私を見つめる彼の目には、私には理解できないような焦りが浮かんでいた。「なんで電話に出ない?なんでブロックしたんだ!?」口を開けば、やはりいつもの問い詰める口調だった。「私たちはもう終わったのよ、陸」私は店員を手招きして、アイスアメリカーノを頼んだ。「終わった?お前が一方的に言えば、それで終わりになるのかよ?」彼はテーブルを思いきり叩いた。「7年だぞ。金だけ置いて、さっさと出ていくのかよ。人の気持ちを何だと思ってるんだ!」怒りに歪んだその顔を見ていたら、なんだか滑稽に思えてきた。「気持ち?私たちの間に、そんなものあった?」私は静かに彼を見つめた。「キャンセルしたあの新居、頭金を貯めたのは私よ。あなたは公平のためだって言ってリフォーム代を半分ずつにしたけど、内装プランは全部、知佳さんの好みに合わせて描き直してたわよね。婚約指輪だって、私が
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第8話
翌日、私の社宅の前に陸が立っていた。仕立てのいいスーツに身を包み、手には上品なケーキの箱を提げている。私が昔からいちばん好きだった、パティスリーのものだ。一緒に住んでいた頃、食べてみたいと何度も遠回しに伝えた品だった。そのたびに彼は「高すぎる」「たかがケーキひとつに半日分の給料が飛ぶなんてコスパが悪すぎる」と、まともに取り合おうとはしなかった。「凪」歩み寄ってきた彼は、ことさら優しい声を出した。慣れ親しんだふたりの空気を、なんとか取り戻そうとするかのように。「この店、こっちでずいぶん探したんだ。食べてみてよ。前と同じ味か」金の箔押しロゴが入った箱を見つめたまま、私は手を伸ばさなかった。「いくら?」私は尋ねた。彼は一瞬固まり、あからさまに目を泳がせる。「お前のために買ってきたんだから、金の話なんかするなよ」「前はヨーグルトひとつでもきっちり精算してたのに。こっちへ来たら、ルールが変わったの?」私はスマホを取り出した。「いくらなのか言って。言わないなら、向こうでの値段の倍額を送金するから」「凪、どうしてもそうやって俺を怒らせたいのか?」彼は苛立ったように、ケーキの箱を傍らのベンチへと置いた。「前はいろいろ至らないところがあったのはわかってる。金に細かすぎたのも認めるさ。でもそれだって、俺たちの将来のことを考えてたからだろ!貯金は全部ひとつの口座にまとめてあるし、キャッシュカードの暗証番号だってお前の誕生日なんだぞ。これ以上どうしろって言うんだよ」自分の言葉に酔いしれているような彼の姿に、ただ深い悲しさだけがこみ上げてきた。「あなたの貯金の使い道なんて、資産運用か、知佳さんへのプレゼントくらいでしょう」私は一歩下がり、彼との距離をとった。「陸、そんな深く愛してるみたいな顔をするのはもうやめて。あなたは私を追いかけてきたんじゃない。ずっと自分の思いどおりになっていた人間が、急に手のひらから抜け出したのが許せないだけよ」そのとき、陸のスマホが鳴った。画面に【知佳】の文字が光っている。彼はとっさに切ろうとしたが、私の目にはもうしっかりと入っていた。「出たら?また何か大きな買い物の代金を払ってほしいのかもよ」私は冷ややかに笑う。彼はぎりっと奥歯を噛みしめ、通話ボ
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第9話
添えられていた写真は、ふたつの映画のチケットと、重なり合うふたりの手。男の手首には、まさに彼女が贈ったあの機械式の腕時計が巻かれていた。コメント欄には【これって交際宣言?】という書き込みがある。知佳は照れた顔の絵文字とともに返信していた。【変なこと言わないで。お兄ちゃんみたいに心配して飛んで帰ってきてくれただけだよ】スクリーンショットを眺めても、私の心は驚くほど凪いでいた。詩織には一言だけ返した。【好きにさせておけばいいよ】1か月後。私が担当した市場開拓のプロジェクトは、大成功を収めた。会社は湾岸エリアの高層ホテルにあるレストランで、華やかな打ち上げパーティーを開いてくれた。私は仕立てのいい白のパーティードレスに身を包み、シャンパングラスを片手に、取引先の人たちと和やかに言葉を交わす。ディレクターが私の肩をぽんと叩いた。「与那嶺、見事な仕事だったよ。本社としては、君を正式にこちらに残して、上のポストを用意したいそうだ」「ありがとうございます。精一杯がんばります」私は笑顔でグラスを掲げた。パーティーの中盤、化粧を直しに中座した。出てきたところで、廊下の角に立ちふさがる人影があった。陸だった。ひどく痩せていた。目は落ちくぼみ、顎には無精ひげが伸びている。かつては一分の隙もなく着こなしていた高級スーツが、今はしわだらけのまま体に引っかかっていた。私を見つめるその目は、真っ赤に血走っている。砂漠で長らく渇きに喘いできた、追い詰められた獣のような目をしていた。「……昇進したのか?」かすれた声が、かすかに震えている。「ええ」これ以上関わり合いたくなくて、私は彼の脇をすり抜けようとした。けれど彼は、頑として行く手をふさいだ。「凪、俺、仕事辞めたんだ」思わず足を止め、私は驚いて彼を見た。陸は何よりも仕事を大事にする人間だった。プロジェクトの成功報酬のためなら、半月ものあいだ、ろくに寝ずに働くことも厭わなかったはずだ。「あなたが仕事を辞めたことと、私に何の関係があるの?」「こっちに来て、お前のそばにいる」彼はポケットから、少しくたびれた赤いリングケースを取り出した。ふたを開ける。中には、2カラットのダイヤモンドの指輪が収まっていた。「十数軒の
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第10話
「その一方で、あの子の前では、行き場のない男の庇護欲を思う存分満たせたのよね」彼の顔から、少しずつ色が失われていくのを私は静かに見ていた。「あなたは私を愛していた?もしかしたら、愛していた時期もあったのかもね。でもそれ以上に、上から目線で、何もかもきっちり計算している自分自身を愛していたのよ」私は床から指輪の箱を拾い上げ、彼のポケットへと押し込んだ。「この指輪、高かったんでしょう?大事な妹分の誕生日プレゼントにでも取っておいたら。割り勘はなしでね」踵を返し、ハイヒールの音を響かせながら、振り返ることなく宴会場へと戻る。陸は、もう追ってこなかった。完全に負けたのだと、彼自身が悟ったのだろう。誇りにしていた切り札を自らの手で破り捨てたとき、私はとうに、そのゲームのテーブルから降りていたのだから。数日後、詩織から電話がかかってきた。「ねえ聞いて。陸と知佳、完全に泥沼になったらしいよ」「へえ」私は手元の資料をめくりながら、淡々と相づちを打った。「知佳が酔った勢いで陸の会社に乗り込んできて、大騒ぎしたらしいの。『陸くんは私と寝たくせに責任も取らない』って」電話の向こうで、詩織はいい気味だと言わんばかりに笑う。「陸はもともと退職の手続き中だったんだけどね。この騒ぎが職場中に広まっちゃって、最後の月のボーナスまで全額カットされたんだって。今は毎日、賃貸の部屋に閉じこもってお酒ばっかり飲んで、誰にも会おうとしないんだってさ。それから知佳のほうも、お嬢様ぶってたけど、実はクレジットカードもとっくに限度額いっぱいまで使っていて、今じゃ毎日のように取り立ての人が家まで押しかけてくるんだって」私は黙って耳を傾けていた。胸がすく思いもなければ、同情もわかない。まるで見知らぬふたりの噂話を聞いているかのようだった。「凪、本当に吹っ切れたの?」詩織が尋ねた。窓の外に広がる、澄みきった青空を見上げる。「うん。吹っ切れた」……いつの間にか、暦は立冬を迎えていた。常夏のこの国は、相変わらずどこを見渡しても緑にあふれている。私は新しいマンションへ引っ越した。広いバルコニーがついていて、大好きな紫陽花をいっぱいに育てられる部屋だ。週末の午後、バルコニーで花に水をやっていると、イン
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