第1話 結婚七周年の夜、夫は愛人を連れて帰ってきた午後八時を過ぎたところで、真壁――結婚してからは神崎姓になった沙耶は、ダイニングテーブルに並べた料理をもう一度見渡した。牛肉の赤ワイン煮は火を止めてから随分経っている。サラダはまだ大丈夫だろうが、オーブンから出したばかりなら香ばしかったはずのパンは、とっくに冷えていた。中央には、小さな白い花を飾っている。七年前、結婚式のブーケに使った花と同じ種類だった。豪華にしたかったわけではない。夫の遼一は派手な記念日を好まないし、社長になってからは夜の予定が急に変わることも珍しくなかった。それでも今日は結婚七周年で、朝、家を出ていく夫に「今夜はなるべく早く帰ってきてね」と伝えたとき、彼はネクタイを締めながら確かに頷いていた。「分かってる。九時には帰るよ」その言葉を信じていた。だから七時には食事を整え、八時になっても帰らない夫を待ち、八時半になれば料理を温め直そうと思っていた。けれど九時を過ぎても、玄関が開く気配はない。沙耶はスマートフォンを手に取ったものの、メッセージを送るのをやめた。社長になって二年。予定が押している最中に何度も連絡すれば、遼一はあからさまに嫌な顔をするようになったからだ。以前はそんな人ではなかった。まだ神崎ライフスタイルの営業部にいた頃は、遅くなるなら必ず連絡をくれたし、帰宅してから「待たせたな」とコンビニのプリンを差し出すこともあった。七年も一緒にいれば、人は変わる。そんな当たり前のことを、沙耶は何度自分に言い聞かせただろう。変わることと、冷たくなることは同じではないはずなのに。九時三十六分。ようやく玄関の電子錠が解除される音がした。沙耶は反射的に立ち上がった。「遼一、おかえりなさい。遅かったから、何かあったのかと――」廊下へ向かいかけた足が止まる。玄関から聞こえたのは、夫一人の足音ではなかった。女性の声がした。「あ、ごめんなさい。靴、ここでいいですか?」若い女の声だった。仕事関係の人だろうか。そう思ったのはほんの一瞬で、沙耶の中に小さな違和感が生まれた。午後十時前の自宅へ、夫が女性を連れてくる。取引先なら普通は事前に連絡する。しかも今日は結婚記念日である。それでも沙耶は、まだ最悪の想像をしなかった。しないようにした、と言ったほうが正しいのかもしれ
Huling Na-update : 2026-10-02 Magbasa pa