夫が愛人を家に連れてきたので、私は妻を辞めました ~離婚後に私が幸せになるほど、元夫はすべてを失っていく~

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last updateLast Updated : 2026-10-24
By:  常陸之介寛浩Ongoing
Language: Japanese
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結婚七周年の夜、沙耶の前に夫・遼一が連れてきたのは、若く華やかな愛人だった。「離婚してほしい。彼女と生きていく」七年間、家庭だけでなく仕事まで支えてきた沙耶は、その一言で妻をやめる決意をする。離婚後、かつて諦めた仕事へ戻った沙耶は眠っていた才能を開花させ、自分の名前で評価される女性へと変わっていく。一方、遼一は彼女がいなくなって初めて、成功も日常も沙耶に支えられていたことを思い知る。元妻が輝くほど深まる後悔。それでも沙耶は振り返らない。これは、裏切られた妻が人生を取り戻し、愛も仕事も自分の意思で選び直す再生と逆転の物語。

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Chapter 1

第1話 結婚七周年の夜、夫は愛人を連れて帰ってきた

第1話 結婚七周年の夜、夫は愛人を連れて帰ってきた

午後八時を過ぎたところで、真壁――結婚してからは神崎姓になった沙耶は、ダイニングテーブルに並べた料理をもう一度見渡した。

牛肉の赤ワイン煮は火を止めてから随分経っている。サラダはまだ大丈夫だろうが、オーブンから出したばかりなら香ばしかったはずのパンは、とっくに冷えていた。

中央には、小さな白い花を飾っている。

七年前、結婚式のブーケに使った花と同じ種類だった。

豪華にしたかったわけではない。夫の遼一は派手な記念日を好まないし、社長になってからは夜の予定が急に変わることも珍しくなかった。それでも今日は結婚七周年で、朝、家を出ていく夫に「今夜はなるべく早く帰ってきてね」と伝えたとき、彼はネクタイを締めながら確かに頷いていた。

「分かってる。九時には帰るよ」

その言葉を信じていた。

だから七時には食事を整え、八時になっても帰らない夫を待ち、八時半になれば料理を温め直そうと思っていた。

けれど九時を過ぎても、玄関が開く気配はない。

沙耶はスマートフォンを手に取ったものの、メッセージを送るのをやめた。社長になって二年。予定が押している最中に何度も連絡すれば、遼一はあからさまに嫌な顔をするようになったからだ。

以前はそんな人ではなかった。

まだ神崎ライフスタイルの営業部にいた頃は、遅くなるなら必ず連絡をくれたし、帰宅してから「待たせたな」とコンビニのプリンを差し出すこともあった。

七年も一緒にいれば、人は変わる。

そんな当たり前のことを、沙耶は何度自分に言い聞かせただろう。

変わることと、冷たくなることは同じではないはずなのに。

九時三十六分。

ようやく玄関の電子錠が解除される音がした。

沙耶は反射的に立ち上がった。

「遼一、おかえりなさい。遅かったから、何かあったのかと――」

廊下へ向かいかけた足が止まる。

玄関から聞こえたのは、夫一人の足音ではなかった。

女性の声がした。

「あ、ごめんなさい。靴、ここでいいですか?」

若い女の声だった。

仕事関係の人だろうか。

そう思ったのはほんの一瞬で、沙耶の中に小さな違和感が生まれた。

午後十時前の自宅へ、夫が女性を連れてくる。取引先なら普通は事前に連絡する。しかも今日は結婚記念日である。

それでも沙耶は、まだ最悪の想像をしなかった。

しないようにした、と言ったほうが正しいのかもしれない。

遼一がリビングへ入ってきた。

濃紺のスーツに、朝とは違って少し緩んだネクタイ。疲れているようには見えたが、酒に酔っている様子はない。

その後ろに、一人の女性が立っていた。

二十代後半くらいだろう。

柔らかく巻いた長い髪に、細身のワンピース。化粧は華やかだが品があり、高価そうなバッグを持っている。

そして沙耶が真っ先に目を奪われたのは、女性の顔でも服でもなかった。

足元だった。

淡い灰色のスリッパ。

去年、沙耶が遼一と一緒に選んだ夫婦用のスリッパだった。遼一のものが濃い灰色、沙耶のものが淡い灰色で、女性は何のためらいもなく沙耶のほうを履いている。

たったそれだけのことなのに、胸の奥へ冷たいものが流れ込んだ。

「遼一。その方は?」

沙耶は自分でも驚くほど普通の声で尋ねた。

遼一はすぐに答えなかった。

ジャケットを脱ぐこともせず、沙耶を見ている。

女性も気まずそうに立ったままだったが、帰ろうとはしない。

その沈黙だけで、沙耶は何かを悟り始めていた。

「会社の方なら、先に言ってくれればよかったのに。今日は何も用意していないから……といっても、夕食なら余っているけれど」

「沙耶」

遼一が低い声で遮った。

いつもの呼び方だった。

ただ、その声に夫婦の親しさはなかった。

「話がある」

沙耶はテーブルへ視線を向けた。

七年目の結婚記念日に作った料理と、小さな花瓶。

時計の針は九時四十分を示していた。

「そう。だったら座ったら? 食事は冷めちゃったけれど、温め直せるから」

「食事はいい」

「もう食べてきたの?」

「ああ」

その答えに、沙耶は思わず笑いそうになった。

朝、自分から「夜は空けておく」と言った人が、結婚記念日の夕食を外で済ませてきた。

しかも女性を連れて。

怒ればよかったのかもしれない。

「今日が何の日か覚えている?」と責めることもできた。

けれど今さら記念日の話を口にしたら、自分だけが七年間にしがみついているような気がして、沙耶には言えなかった。

「分かったわ」

沙耶は椅子を引いた。

「座りましょう」

遼一が向かい側へ座り、女性はその隣に腰を下ろした。

沙耶の隣ではなく、遼一の隣。

わざわざ確認するまでもない配置だった。

それでも沙耶は、まだ名前すら知らない女性に目を向けた。

「申し遅れました。神崎沙耶です」

女性の顔がわずかにこわばった。

「……葉山莉奈です。神崎ライフスタイルの広報部にいます」

「ああ」

沙耶は思い出した。

名前だけなら聞いたことがある。

昨年、中途採用で入った社員のはずだ。遼一が一度、「広報に面白い人材が入った」と話していた。

仕事のできる女性なのだと思っていた。

遼一が家で女性社員を褒めることなど少なかったから、珍しく覚えていた。

「葉山さんね。夫からお名前は聞いたことがあります」

莉奈が遼一を見る。

遼一は何も言わなかった。

その目線のやり取りがあまりにも親密で、沙耶の中に残っていた逃げ道が一つ塞がった。

仕事の相談ではない。

偶然送ってきただけでもない。

この女は、自分が遼一の妻だと知っている。

知ったうえでここへ来ている。

沙耶は指先を組んだ。

「それで、話って?」

遼一は一度、莉奈のほうを見た。

その仕草に、沙耶は妙な懐かしさを覚えた。

大事な商談の前、遼一は昔からこうして一拍置いた。

沙耶は何度もその横で資料を確認し、「大丈夫よ」と背中を押してきた。

まさか自分との結婚を終わらせる話にまで、その癖を見ることになるとは思わなかった。

「沙耶、今から言うことは、言い訳するつもりはない」

「そう」

「俺が悪いのは分かってる」

その言葉を聞いて、沙耶の胃のあたりが固くなった。

人は、本当に悪いと思っているときほど「悪いのは分かっている」と先回りして言うものなのだろうか。それとも、この先に続く言葉への非難を少しでも減らしたいだけなのだろうか。

沙耶は返事をせず、夫の顔を見ていた。

遼一は昔より痩せた。

社長になってから睡眠時間も減ったし、会食も増えた。胃が弱いから朝は温かいものを食べさせるようにしていたが、最近はそれすら「時間がない」と断られる日が多くなった。

それでも沙耶は毎朝用意した。

食べるかどうかではなく、必要になったときに困らないように。

いつからそれが愛情ではなく、ただの日課になったのだろう。

そして遼一にとっては、いつから「用意されていて当然」のものになったのだろう。

「沙耶」

遼一が再び名前を呼んだ。

「莉奈とは、付き合ってる」

あまりに直接的な言葉だった。

沙耶は聞き間違えたのかと思った。

「付き合っているって……どういう意味?」

問い返した瞬間、自分でも馬鹿なことを聞いたと思った。

意味など一つしかない。

それでも、人は受け入れたくない事実を聞いたとき、意味の分かっている言葉ほど聞き返してしまうらしい。

遼一は顔をしかめた。

「言葉通りだよ」

「いつから?」

「沙耶、まず俺の話を最後まで――」

「いつからなの?」

声を荒らげたつもりはなかった。

それでも遼一は口を閉じた。

莉奈が膝の上でバッグを握り直す。

沙耶は彼女を責める気にはまだなれなかった。怒りの向かう先を選ぶ余裕すらなかったのかもしれない。

遼一は短く息を吐いた。

「半年くらい前からだ」

半年。

その数字は妙に具体的だった。

沙耶の頭の中で、過ぎた半年が勝手にめくられていく。

四月。新商品の発表会直前、遼一が持ち帰った企画書を午前二時まで一緒に直した。

五月。大口取引先との会食で、相手方社長の妻が好きな花まで調べて手配した。

六月。遼一の母・美佐江が検査入院したとき、仕事で動けない遼一に代わって毎日病院へ通った。

七月。取引先への謝罪文の文面を相談され、遼一が感情的に書いた文章を一から整え直した。

八月。彼の誕生日には、忙しいと言うから自宅で小さく祝った。

その間ずっと、この人には別の女性がいた。

沙耶は無意識に自分の左手へ触れた。

薬指には結婚指輪がある。

朝から何度も見ていたはずなのに、急に他人の持ち物のように感じられた。

「半年……」

口にしてみても、現実味は薄かった。

莉奈が小さく口を開いた。

「あの、沙耶さん……」

「今は話しかけないでもらえますか」

自分でも驚くほど穏やかな声だった。

莉奈は唇を閉じた。

沙耶は彼女を睨まなかった。

睨んだら何かが壊れてしまいそうだったし、壊れたあとに自分が何を言うのか分からなかった。

遼一が眉を寄せる。

「莉奈だけが悪いわけじゃない。俺から――」

「分かっているわ。あなたの不倫を、私が葉山さん一人のせいにするとでも思った?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

「だから、感情的にならずに話したいんだ」

その言葉に、沙耶の胸の中で何かが小さく軋んだ。

感情的にならずに。

夫が愛人を連れて結婚記念日の夜に帰宅し、不倫を告白している。

それでも妻には冷静さを求めるらしい。

沙耶は遼一の顔を見つめた。

「私は今、怒鳴っている?」

「そうじゃないけど」

「物を投げた?」

「してない」

「葉山さんを責め立てた?」

「……してない」

「だったら、これ以上どう冷静になればいいのか、私には分からないわ」

遼一は黙った。

言い返す言葉が見つからないときの顔を、沙耶は知っている。

かつてはその表情を見れば助け舟を出していた。

今夜は出さなかった。

しばらくして遼一が言った。

「俺だって、こんな形で傷つけたいわけじゃなかった」

沙耶は初めて、はっきりと彼の言葉に傷ついた。

「こんな形じゃなければ、よかったの?」

「そういう意味じゃない」

「だったら何? もっと上手に隠して、私が気づかないうちに終わらせれば、それなら傷つけなかったことになるの?」

「沙耶、言葉尻を取るなよ」

苛立ちが遼一の声に混じった。

懐かしい、と沙耶は思った。

最近の遼一は都合の悪い話になると、こういう言い方をする。

話をしているはずなのに、いつの間にか沙耶の「言い方」が問題になる。

沙耶が黙るまで。

そして黙れば、夫婦喧嘩は終わったことになる。

それを七年間の中で何度繰り返したのだろう。

ただ、今夜は黙って終わらせることのできる話ではなかった。

「遼一」

「何だ」

「今日が何の日か覚えてる?」

遼一の表情が止まった。

その一瞬で答えは分かった。

覚えていなかったのだ。

あるいは、朝までは覚えていたのに、その程度のものとして忘れた。

隣で莉奈が遼一を見る。

「今日……何かあったの?」

彼女も知らなかったらしい。

そこだけは少し意外だった。

沙耶はテーブルの料理へ目を落とした。

「結婚記念日。七年目よ」

遼一の顔に、わずかな動揺が走った。

「……そうだったな」

その一言を聞いた瞬間、沙耶の中から何かが静かに抜け落ちた。

謝ってほしかったわけではない。

忘れたことを責めたいわけでもなかった。

ただ、七年間が夫にとって「そうだったな」で済むものになったという事実だけが、やけに鮮明だった。

莉奈が立ち上がりかける。

「私、今日は帰ったほうが……」

「いや」

遼一が止めた。

沙耶はゆっくり顔を上げた。

「帰らせないの?」

「今日話すって決めてたから」

「二人で?」

「ああ」

その答えに、沙耶はようやく理解した。

これは告白ではない。

相談でもない。

遼一の中では、すでに結論が出ている。

妻に不倫を打ち明けて謝りたいから莉奈を連れてきたのではなく、二人で決めたことを沙耶に伝えに来たのだ。

ならば、この先に続く言葉も想像できた。

想像できるのに、聞きたくなかった。

耳を塞ぐことも、席を立つこともできた。

それでも沙耶は動かなかった。

七年間を終わらせる言葉なら、せめて逃げずに聞こうと思った。

遼一は両手をテーブルの上で組み、沙耶を正面から見た。

少し前まで、この手に毎朝コーヒーを渡していた。

風邪を引けば薬を持たせ、仕事で失敗すれば夜中まで話を聞いた。

苦しいときは一緒に苦しんできたつもりだった。

それが遼一にとって同じだったのかは、もう分からない。

「沙耶」

遼一は言った。

「離婚してほしい」

沙耶は瞬きもできなかった。

遼一は一度だけ言葉を切ったが、やがて隣の莉奈を見てから、もう一度沙耶へ視線を戻した。

「俺は、莉奈と生きていきたい」

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第1話 結婚七周年の夜、夫は愛人を連れて帰ってきた
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第6話 七年間暮らした家を、私は出ていく
第6話 七年間暮らした家を、私は出ていく弁護士事務所を出たとき、沙耶は自動ドアの前で一度立ち止まった。十月の風が、建物の中で火照っていた頬を冷ましていく。相談時間は一時間だった。たった一時間なのに、自分の結婚生活をまるごと机の上へ並べ、第三者に値踏みしてもらったような疲労が残っていた。もちろん、担当した女性弁護士の橘はそんな態度ではなかった。むしろ沙耶が事実を説明する途中で何度か言葉に詰まると、急かすことなく待ち、「思い出せる範囲で大丈夫です」と淡々と話を進めてくれた。その淡々とした態度に救われた。可哀想な妻として同情されるより、今の沙耶にはずっとありがたかった。夫が半年間不倫していること。相手は夫が経営する会社の社員で、既婚者だと知っていたこと。二人が将来について話し合ったうえで、自宅まで来て離婚を求めたこと。そして沙耶が結婚後に仕事を辞め、現在は夫の収入を中心に生活していること。一つずつ説明していくと、それまで感情の塊だったものが、少しずつ「処理しなければならない問題」へ形を変えていった。離婚する。そう決めたのなら、次に必要なのは泣くことでも遼一を責め続けることでもなく、自分がこれから生活するための準備だった。橘から渡された書類の入った封筒を、沙耶はバッグの中で確かめる。財産分与について確認するもの。預貯金。有価証券。保険。不動産。退職金に関する資料。婚姻期間中に夫婦で形成した財産については、名義だけで判断しないこと。今までなら、遼一の口座の残高を細かく確認することなど考えもしなかった。家計については沙耶が管理していたものの、会社経営に関わる資産と私的な資産を混同しないよう、遼一が個人で保有しているものまですべて把握していたわけではない。夫婦なのだから、必要になれば話せばいい。そう思っていた。必要になる日が、離婚のために来るとは考えていなかっただけだ。そして慰謝料。遼一だけでなく、事情次第では莉奈へも請求できる可能性がある。それについても、沙耶は感情で決めないと橘に伝えた。「相手の女性を破滅させたい、という気持ちは今のところありません。ただ、何もしなかったことにするのも違うと思っています」そう話すと、橘は少しだけ口元を緩めた。「今決めなくて大丈夫です。むしろ、急いで感情の結論を出さないほうがいい
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第7話 妻がいなくても、何も困らないと思っていた沙耶から「着いた」と連絡が来たのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。『由香の家に着きました。荷物も全部運び終わったから心配しないで』遼一はその短いメッセージを、リビングのソファに座ったまま二度読んだ。返事は『分かった』とだけ打った。そこへ「ゆっくり休め」と付け足すか迷い、結局やめた。今さら夫らしいことを言えば、沙耶にどう受け取られるのか自分でも分からなかったからだ。送信すると、部屋はすぐに静かになった。これまでも沙耶が実家へ泊まりに行くことくらいはあったし、友人と旅行へ出かけたこともある。そのたびに遼一は、一人の夜をむしろ気楽だと感じていた。テレビをつけっぱなしにしても何も言われず、帰宅時間を知らせる必要もなく、夕飯を食べて帰るのかどうか考えなくてもいい。ところが今夜は、同じ「一人」でも妙に落ち着かなかった。理由は分かっている。沙耶は数日後に戻ってくるために出かけたのではない。離婚するために、この家を出ていった。その事実が、リビングのあちこちに残された空白から嫌でも伝わってくる。いつも沙耶のカーディガンが掛かっていた椅子には何もない。読みかけの本もなく、キッチンカウンターに置かれていた買い物用の小さなバッグも消えている。洗面所へ行けば、化粧品の半分がなくなっていた。たった一日で家が別の場所になったように見えるのが、遼一には気に入らなかった。「……大げさなんだよ」誰に言うでもなく呟いた。離婚はする。それは自分が望んだことだ。沙耶だって納得したのだから、これから少しずつ新しい生活へ変えていけばいい。莉奈と一緒になれば、この家だってまた生活の場所になる。そう考えれば何もおかしくない。遼一は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中には、沙耶が買った食材がまだかなり残っている。卵、牛乳、野菜、納豆、ヨーグルト。作り置きらしい容器もいくつか並んでいた。ラベルには沙耶の字で、『きんぴら 木曜まで』『鶏肉 下味済み』と書かれている。遼一はその文字を見て、冷蔵庫を閉めた。なぜか食べる気になれなかった。スマートフォンを手にし、莉奈へ連絡する。『沙耶、今日家を出た』すぐ既読がつき、そのまま電話がかかってきた。「もしもし」『本当に?』莉奈の声は明るかった。その明るさに、遼一はほんの少しだけ引っかかった。当然だ。莉
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第8話 妻がいなくても暮らせる。そう思っていた
第8話 妻がいなくても暮らせる。そう思っていた遼一は出前のアプリを閉じてから、もう一度冷蔵庫を開けた。沙耶が残していった食材はまだある。冷蔵庫の中身が突然消えたわけではないし、作り置きも少し残っている。夕食くらい、どうにでもなる。そう考えたところで、下味のついた鶏肉が目に入った。透明な保存袋に入れられ、白いラベルに沙耶の字で『塩麹 焼くだけ』と書かれている。焼くだけ。それなら自分にもできる。朝の目玉焼きは焦がしたが、肉を焼くことくらい難しくないはずだ。遼一は袋を取り出してキッチンへ運び、フライパンをコンロに置いた。油を入れるべきなのか迷い、スマートフォンで「塩麹 鶏肉 焼き方」と検索する。すぐにいくつものレシピが出てきた。弱火から中火で焼き、蓋をする。塩麹は焦げやすいので注意、とある。「朝よりは分かりやすいな」独り言を口にしてから、自分で少し嫌になる。誰も聞いていない。これまでなら沙耶がキッチンに立っていた。遼一が冷蔵庫を覗けば、「今日なら鶏肉あるよ」と何も聞かなくても言ってきたし、自分で焼こうとすれば「珍しい」と笑っただろう。その記憶を追い出すように、遼一はフライパンへ肉を置いた。じゅっと音がして、香ばしい匂いが立つ。思ったより簡単だった。これくらいなら一人でもできる。そう思った直後、肉の表面が急に黒くなった。「おい」慌てて火を弱める。塩麹は焦げやすいと、さっき読んだばかりなのに。菜箸で裏返すと、片面はかなり濃い茶色になっていた。食べられないほどではない。たぶん。朝も同じことを考えた気がして、遼一は苦笑しながら皿へ移した。ご飯は炊飯器に残っていなかったので、冷凍庫を探した。奥から小分けされた冷凍ご飯が出てくる。袋には日付まで書いてあった。それを電子レンジで温め、冷蔵庫からきんぴらも取り出す。出来上がった食卓だけを見れば、いつもの夕食に近かった。違うのは、味噌汁がないことと、野菜が少ないこと。そして向かい側の席に誰もいないことだった。遼一はテレビをつけた。ニュース番組の音が流れる。いつもなら食事中にテレビを見ることは少ない。沙耶が嫌がったわけではなく、二人で話すことが多かったからだ。最近は仕事の話ばかりだった。あるいは、本当にそうだったのか。沙耶が話していたのに、自分がスマートフォンを見ていただけではなかったか。考え始めると面倒
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第9話 新しい恋人は、妻の代わりではない
第9話 新しい恋人は、妻の代わりではない莉奈がマンションへ来たのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。インターホンが鳴り、遼一が玄関を開けると、莉奈は片手に紙袋を提げて立っていた。仕事帰りらしく淡いベージュのブラウスに細身のスカートという格好だったが、会社で見るときより髪を柔らかく下ろし、口紅も少し濃い。彼女なりに、今夜を特別なものとして考えているのだろう。「お疲れさま」「遼一も。これ、途中で買ってきたの。ワインと、デパ地下のお惣菜。ちゃんと料理しようかとも思ったんだけど、仕事終わりだし、今日はゆっくり話したかったから」「十分だよ。ありがとう」莉奈は笑った。その笑顔を見たとき、遼一はようやく肩の力が少し抜けた。自分はこの女性を選んだのだ。沙耶との七年間を終わらせても一緒になりたいと思った相手が、目の前にいる。いつまでも妻がいなくなった家のことばかり気にしているほうがおかしい。「入って」「うん」莉奈が靴を脱ぎかけたところで、足を止めた。玄関には来客用のスリッパが並んでいる。その隣には、沙耶が以前使っていた淡い灰色のスリッパもまだ残っていた。二日前、莉奈が何も知らずに履き、沙耶から「置いていってください」と言われたものだ。莉奈はそれを見てから、来客用の白いスリッパを取った。「これ、使うね」「ああ」ほんの短いやり取りだった。しかし遼一は、なぜか気まずさを覚えた。沙耶がいないのだから、もう誰がどのスリッパを履いても構わないはずだった。それでも莉奈があえて別のものを選んだことに、彼女自身もこの家にまだ沙耶の存在を感じているのだろうと思った。リビングへ入った莉奈は、室内を見回した。「なんか……静かだね」「一人だからな」「そりゃそうだけど」莉奈は笑いながら紙袋をダイニングテーブルへ置いた。「前に来たときは、緊張しすぎて部屋なんて全然見てなかった。改めて見ると、広いね。会社からも近いし、すごく便利そう」「沙耶が選んだんだ」口にしてから、遼一は一瞬止まった。莉奈の手も僅かに止まった。「……そうなんだ」「ああ。俺は通勤時間くらいしか見てなかったけど、スーパーとか病院とか、将来のことまで考えて決めたらしい」なぜそんな説明をしているのか、自分でも分からなかった。莉奈は紙袋から惣菜を取り出しながら笑う。「さすが沙耶さん。何でも
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第10話 七年間の私まで、捨てられた気がした
第10話 七年間の私まで、捨てられた気がした由香の部屋に来て三日目の朝、沙耶は知らない天井を見上げたまま、しばらく起き上がれなかった。正確には、もう知らない天井ではない。二晩眠り、カーテンの隙間から朝日が差し込む位置も、由香が夜中に水を飲みに起きると廊下の床が少し鳴ることも覚えた。それでも目を開けた瞬間、自分がなぜここにいるのか理解するまでには、毎朝ほんの数秒だけ時間がかかった。その数秒だけは、以前と同じだった。隣には遼一がいて、自分はもう少ししたら起きて朝食を作る。遼一は目覚ましを一度で止めてもなかなか起きず、結局こちらが声をかけることになる。けれど、記憶が現在へ追いつけば、隣にあるのは夫の枕ではなく、由香が客用に出してくれたクッションだった。沙耶は布団の中で左手を見る。薬指の薄い跡も、少しずつ目立たなくなっている。結婚指輪はバッグの内ポケットに入れたままだった。捨てる気にはなれない。かといって、つけ直そうとも思わない。その中途半端さが、今の自分そのものに思えた。「沙耶、起きてる?」リビングのほうから由香の声がした。「起きてる」「その返事、絶対まだ布団の中じゃん」「起きてると、起き上がってるは別だから」「屁理屈が言えるなら元気ね。コーヒー淹れるけど飲む?」「飲む」「じゃあ五分以内に来な。冷めても知らないよ」沙耶はようやく体を起こした。由香のマンションは一人暮らしには少し広めの二LDKで、仕事部屋にしていた一室を沙耶に貸してくれている。最初の夜、段ボール箱を運び込みながら、「私の書類とか入ってるけど勝手に見ないでよ。見ても面白くないし、見たら仕事手伝わせるから」と言われた。由香らしい歓迎だった。泣きながら抱きしめられるよりありがたかった。それでも、最初の夜には結局泣いた。事情を全部話したわけではない。遼一が会社の女性と半年間不倫していたこと。結婚記念日にその女性を家へ連れてきて、離婚してほしいと言われたこと。自分は離婚を受け入れ、家を出てきたこと。そこまで話したところで、由香はしばらく何も言わず、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。そして、「殴っていい?」と聞いた。沙耶は泣きながら笑った。「誰を?」「遼一さん。順番としては、まず平手打ち一発。足りなかったら二発目」「やめて。あなたが訴えられる」「
last updateLast Updated : 2026-10-02
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