All Chapters of 処刑前夜、龍帝陛下に抱かれました。――盗んだ宝玉と身籠った御子、どちらを返せば許してくれますか?――: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話 冷たい石畳

 ――明日の朝、私は首を落とされる。 冷たい石畳の感触が、薄布一枚の罪人服を通して肌から体温を奪っていく。カビと土埃の匂いが立ち込める牢の中で、李雨蘭(り・うらん)は膝を抱えていた。夕餉の粥に混ぜられた痺れ薬がまだ残り、足に力が入らない。ここへ運ばれてから、夜の鐘が二度鳴るのを聞いた。指先だけは、ようやく曲げ伸ばしができるようになっていた。 聖女のために調えたのは、熱を鎮める薬だった。薬師として幾度も扱ってきた処方が、なぜ毒になったのか。神殿で何度問い返しても、誰一人、薬の中身について答えなかった。代わりに昨日、死刑を言い渡された。 今夜になって突然、神殿の地下牢から連れ出された。引き渡しに来た武官が「皇帝の命だ」と告げた時、看守たちの顔色が変わったのを覚えている。だが行き先は皇城の西苑、人の気配もない古い収容牢だった。移されただけで、明朝の執行が取り消されたわけではない。 西苑の外れにあるその建物は、かつて離宮の礼拝室だったらしい。今では皇城の外縁に取り残された廃屋で、正面の回廊には見張りが立っているものの、使われなくなった裏手の窓や扉には板が打ちつけられていた。壁には剥がれかけた金の模様が残り、奥の石台の脇には、布を掛けた木箱が置かれている。雨蘭を運び入れた神殿の看守たちが、重そうに二人で運んできたものだ。「御前の検分に要る」と言い交わしていたが、何を検分するのかは教えられなかった。 看守の一人は、去り際に隅の銅香炉へ火を入れた。細い煙は今も絶えず、甘い匂いが部屋にこもっている。雨蘭は袖を鼻先へ当てた。神殿で場を清めるために焚く香に似ていたが、少し甘すぎた。 高い窓には鉄格子が嵌まっている。暗がりの中でその影を見つめていると、焼け落ちた家の梁を思い出した。 故郷を燃やした炎。冷たくなった養母の手。炎の向こうを去っていく、黄金の意匠を纏った兵たち。 村を焼いたのは皇帝の軍勢だった。紫苑帝国の頂点に立つ、紫龍翔(し・りゅうしょう)。顔も知らないその男の名を、雨蘭は幾度となく胸の中で繰り返してきた。 けれど、恨みを晴らすどころか、明日には自分が死ぬ。 膝へ顔を伏せた時、鉄扉の鍵が回った。 雨蘭は肩を強張らせた。まだ夜明けではない。迎えが早まったのかと、喉が詰まった。 扉を開けて入ってきたのは、見知らぬ男だった。 深い色の外套を羽織り、武官の
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第2話 甘い香り

「この匂いは、来た時からか」 雨蘭は香炉を見た。「看守が、火を入れました」 答えた時、書付の端が震えた。男は紙を畳もうとしたが、指がうまく動かず、床へ落とした。 雨蘭は袖を鼻から離した。甘い匂いの奥に、焦げた根を砕いたような苦さがある。覚えのある匂いだった。 増幅香。身体を巡る気の勢いを強める香だ。内に気を溜め込んだ者に使えば、逃げ場のない熱が一気に膨れ上がる。養母に、決して鎮静の香と取り違えるなと教わった。 清めの香に、何かを混ぜてある。 自分も頬が火照っている。だが、目の前の男の様子は違った。額から汗が落ち、胸元を掴む手が強張っていく。 普通なら、増幅香を吸っただけでここまでにはならない。 この人の身体には、いったいどれほど強い気が溜まっているのだろう。「……っ」 息を吸おうとした男の胸が、途中で止まった。こちらへ伸びかけた手が床を掴み、爪が石を擦った。「離れろ……」 彼は雨蘭から身を引き、壁へ肩を預けた。衣の下で腕の筋が強張っている。自分の腕に食い込ませた爪の間から、血が流れた。 扉が叩かれた。「どうなさいました」「香に……何か混ざっている。下がっていろ。俺に、触れるな」 近づこうとした雨蘭にも、男は首を振った。その身体から押し寄せる熱気に、頬がひりついた。 雨蘭は指を開き、掌で床を押した。膝が震えたが、壁に手をつけば立てた。先ほどより、足裏の感覚が戻っている。 男が動こうとする。「香を消します。そこにいてください」 雨蘭は袖を何重にも手へ巻き、香炉に触れた。熱い。いったん手を離し、厚く折り直してから、両手で持ち上げた。数歩先の水甕へ沈めると、短い音を立てて煙が止んだ。 窓の下の小さな通気口を開ける。冷たい夜気が足元へ流れ込んだ。ふらついて床に手をついた拍子に、欠けた石で指先を切ったが、構っていられなかった。 振り返ると、男は喉を押さえていた。「息を、吐いて。ゆっくり――」 近づいた足首を、大きな手が掴んだ。「っ……!」 掌が焼けるように熱かった。引き抜こうとした雨蘭の足が滑り、強く擦れた皮膚から血が滲む。 だが、次の瞬間、握りしめていた指の力が緩んだ。 男が大きく息を吐いた。ひきつっていた胸が上下し、雨蘭を見上げる瞳に焦点が戻る。触れている手の熱も、少しずつ引いていった。 雨蘭は動きを止めた。香を
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第3話 袖をつかむ手

 脈を診ていた指を離すと、男は膝の上へ手を戻した。雨蘭は、その手がもう震えていないことを確かめた。ほっとして座り直した途端、足首にひりつく痛みが走る。思わず裾を引き寄せると、男の目がそこへ落ちた。「……俺が掴んだところか」 血の滲む傷を見て、眉が寄った。雨蘭が返事をする前に、彼は自分の衣の裾から布を裂いていた。「すまなかった。手当てをさせてくれ」 差し出された手に、雨蘭は足を引きかけた。男の手が止まる。さっきまで床石を掻いていた大きな指が、今は彼女の足に届かないところで待っていた。 雨蘭は裾を少し持ち上げた。男は傷の周りの血を拭い、布を回した。締める前に雨蘭の顔へ目を向け、力を加減する。自分で巻いた時よりも、ずっと緩やかな手つきだった。「それでは、ほどけてしまいます」 口にしてから、余計なことを言ったかと彼の顔を窺った。男は怒るでもなく、結びかけた布を見下ろした。「痛ませるかと思った」 雨蘭は布の端に指を添え、少しだけ引いた。男の指と触れ、二人とも一度手を止める。すぐに離すつもりだったのに、雨蘭は結び目ができるまで、その指先を見ていた。 廊下で衣の擦れる音がした。 雨蘭が足を引っ込めると、男は扉へ顔だけを向けた。「香炉と灰を残しておけ。神殿の看守を替えろ。この娘は、俺の許しなく誰にも引き渡すな」 外で短い返事があった。誰かが入ってくる様子はなく、雨蘭は握りしめていた裾を緩めた。「俺が呼ぶまで、ここには誰も入れない」 男はそう告げ、雨蘭の前へ向き直った。腰から短剣を外すと、鞘に収めたまま、彼女の傍らへ置く。「また俺が我を失ったら、これを使え。ためらうな」 雨蘭は短剣と男の顔を見比べた。こんな小さな刃で止められる相手には見えない。それでも彼は、柄を雨蘭の方へ向け直した。「あんなふうになるのは……いつも、ですか?」 男はすぐには答えなかった。布を裂いた指で、膝の上の衣を押さえている。「時々だ。今夜は、ひどかった」 雨蘭を掴んだ手の傷へ、彼の目が戻った。その顔を見ると、足を隠してしまうのもためらわれた。雨蘭は結び目の上へそっと手を置いた。「もう、血は止まっています」 男は小さく頷いた。それから、自分の外套を脱いで差し出した。「冷えるだろう」 肩に掛けると、重い布が背中まで包んだ。まだ彼の体温が残っている。雨蘭は襟を合わせ、
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第4話 明けない朝

 男の腕に包まれても、雨蘭はしばらく衣を掴んだままでいた。背を撫でる手が、肩のあたりで一度止まる。雨蘭が身を強張らせたのに気づいたらしい。腕が緩みかけ、彼女は慌てて首を振った。「このまま、いてください」「ああ」 胸へ頬を戻すと、力強い心音が聞こえた。発作の最中には詰まっていた呼吸も、今は静かだった。自分が脈を診た人が、ちゃんと息をしている。それを耳元で確かめているうちに、雨蘭の泣き声も少しずつ収まった。 顔を上げると、男の胸元が濡れていた。拭こうと手を伸ばしたが、外套の袖が長すぎて指が出ない。「すみません。こんなに……」 男は首を振り、雨蘭の肩から落ちかけた外套を直した。合わせ目を寄せる指には、古い傷が残っていた。雨蘭はその手の甲に触れ、ずれた袖の下に新しい爪の痕を見つけた。先ほど、自分で腕を傷つけていた場所だった。「あなたも、怪我をしています」 男は傷のある腕を引きかけた。「これはいい。お前の足ほどではない」「でも……」 雨蘭が手を離さずにいると、彼は困ったように目を伏せた。兵たちへ命じた時には、誰も返事をためらわなかった。その男が、雨蘭に握られた手を持て余している。布の残りで血を拭った。男はされるままにしていたが、雨蘭が顔を上げると、じっとこちらを見ていた。近すぎて、見られていることをごまかせなかった。「……俺が、怖くはないのか?」 雨蘭はすぐに頷けなかった。足首を掴まれた痛みは覚えている。けれど今、彼の手は雨蘭の指の間にあり、引き抜こうともしない。「さっきは、怖かったです」 男の眉が動いた。雨蘭はその手を握り直した。「今は……離される方が、嫌です」 言ってしまうと、顔を伏せたくなった。男の指が動き、雨蘭の手をそっと包む。返事がないまま見つめ合っていると、目元に残っていた涙を、もう片方の手が拭った。節の硬い指だった。頬を擦らないように動くのを感じながら、雨蘭は男の手首へ指を添えた。脈を診た時には、自分の手の下で落ち着いていく鼓動に気を取られていた。今は、頬を拭う指がどこまで触れるのか、つい目で追ってしまう。彼が手を下ろそうとすると、雨蘭はその掌へ頬を寄せた。男が見ていることに気づき、指を緩めかけたが、彼の手は頬に残った。 男の視線が唇へ落ちた。雨蘭はそれを見てしまった。自分の唇まで意識して、息の仕方が分からなくなる。彼は顔を
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第5話 目覚めの気配

 鉄格子の向こうが、少しずつ白み始めていた。 雨蘭は目を開けた。男の腕の中はまだ温かく、発作のあと険しかった眉間も、今は穏やかだった。頬を寄せると、眠りの深さを教えるように胸がゆっくり上下している。 夜のあいだ、耳に覚え込ませた心音だった。顔を上げれば、昨夜より少し無防備な横顔がある。こんな表情まで知ってしまったのに、名前一つ尋ねていない。 男が眠ったまま顔を寄せ、黒髪の一房が雨蘭の頬へ触れた。昨夜は、その近さに何度も目を伏せた。今は髪を払うのも惜しくて、雨蘭は彼の胸元へ手を戻した。目を覚ましたら、まず何と呼びかければいいのだろう。 廊下の奥で靴音がした。 雨蘭は息を止めた。足音は扉の前を過ぎ、しばらくして遠ざかった。昨日、看守が笑いながら告げた言葉が蘇る。 ――夜明けに迎えに来る。「……ねえ」 衣をつまんで、少し引いた。男の眉が動き、雨蘭は慌てて指を緩める。彼は目を開けず、雨蘭の肩を抱き寄せた。昨夜と同じように胸元へ戻され、一瞬、廊下の足音を忘れそうになった。 この人は、自分をここへ移したと言っていた。兵たちも命令に従っていた。頼めば、迎えを止めてくれるかもしれない。 助けてください。 口にしようとすると、昨日の裁きの場が浮かんだ。無実を訴える途中で遮られ、刑は決まったと告げられた。彼も判決を知ったら、こうして抱いてはくれなくなるのだろうか。頬を拭ってくれた手で、今度は看守へ自分を渡されたら。 雨蘭は彼の衣へ顔を押しつけた。まだ、昨夜の温かさがある。肩を揺すって起こせばいいのに、指は襞を握ったまま動かなかった。 廊下で、何か重いものを置く音がした。雨蘭は顔を上げる。窓から差す光が、男の頬まで届いていた。 もう待てない。 雨蘭は衣から指をほどき、肩に回された腕をそっと持ち上げた。身を離すと、冷たい空気が二人の間へ入った。彼は浅く息をついたが、目を覚まさなかった。雨蘭はその手を床へ下ろし、足をついた。昨夜擦った足首が痛む。巻いてくれた布は、ほどけずに残っていた。 外套を脱ぎ、彼の傍らへ畳んだ。持っていけば、この人が冷える。襟を整えてから、雨蘭は一度だけ横顔を見た。昨夜のお礼も、別れの言葉も言えない。罪人服の襟を合わせ、帯を結び直した。 扉は施錠されていない。正面の廊下には人の気配がある。雨蘭は足音が遠ざかるのを待ち、石台の陰へ身を寄
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第6話 空になった牢

 玉から一歩離れると感覚が戻った。手を近づけると、また薄くなる。 雨蘭は手首の脈を取りながら確かめた。命の働きは変わらない。外へ漏れる気配だけが、玉のそばへ寄るほど遠のく。 これを借りられたら。 ためらいながら玉へ指を伸ばすと、昨夜、床石で切った傷が開いた。一滴の血が表面の溝へ落ちる。 宝玉を包んでいた薄い膜がほどけた。箱の内張りに縫いつけられた封じ紐が、張りを失って垂れる。神殿の紋のついた布に触れるだけでも躊躇われたが、もう戻す時間はなかった。雨蘭は玉を両手でそっと取り上げた。 一滴の血が外周の溝を伝い、金色の輪を結んだ。箱から離しても、気配を包む働きは、玉を持つ雨蘭についてきた。 確かめるために石台へ置き、数歩離れてみる。今度は、自分の気配が戻らなかった。雨蘭は手首に指を当てたまま、石台と足元を見比べた。血が輪を結ぶ前とは、働きが違っている。 戻って玉を取り上げても、隠れている感覚は変わらなかった。 指先の傷は見える。足音も消えない。けれど、気を探る術には見つかりにくくなるかもしれない。 宝玉の縁には古い欠けがあった。そこへ血が滲まないよう、雨蘭は布で包んだ。 皇城の宝を持ち出せば、今度こそ本当の罪になる。それでも、このまま処刑を待つよりほかに道がないとは思いたくなかった。「……生き延びたら、必ずお返しします」 眠る彼の横顔を一度だけ振り返る。傍らに置かれた短剣を鞘ごと帯へ差し、音を立てぬよう扉を押した。正面へ続く廊下の先には、見張りの影が二つある。雨蘭は壁際に身を寄せ、彼らが表門の方へ歩み去るのを待った。引き返すことはできない。薪の匂いが流れてくる、反対側の暗い回廊へ足を向けた。 西の回廊には、香炉や水甕を運ぶ者のための小部屋があった。雨蘭は壁に掛かった煤けた上衣を罪人服の上から羽織り、頭布で髪を包んだ。積まれた薪の向こうに、板で塞いだはずの古い通用口が見えた。下の板は湿気で腐り、隙間から外の灰色の空が覗いている。雨蘭は板を動かして、肩が通る幅だけ開けた。 通用口を抜けた先は、西苑の古い外塀と建物の間だった。崩れた石積みの下をくぐると、炭焼き場へ続く薪道に出た。皇城の表門は高い壁の向こうにあり、見張りの声だけが遠く聞こえる。雨蘭は灰に膝をつき、荷車が道を通り過ぎるまで待った。足首の傷が疼いたが、立ち止まれば戻される気がした。 薄
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第7話 一枚の執行状

 廊下から慌ただしい足音が響き、初老の男が血相を変えて転がり込んでくる。内侍長、羅季康(ら・きこう)だった。皇帝の身辺を世話する者たちを束ね、幼い頃から龍翔に仕えている。「ご無事でしたか……! 今朝、神殿の看守が娘を引き取りに参りまして、外門で、影の隊長・陸玄刃(りく・げんじん)が止めております」 羅季康は、看守から取り上げた執行状を差し出した。神殿の印の下に、今朝の処刑を命じる文言があった。「聖女毒殺未遂の罪で、すでに神殿が死刑を言い渡していたと……。陛下への報告には、取調べ中としかございませんでした」「裁きは、もう下っていたのか。俺に伏せたまま、今朝、殺すつもりだったのか」 龍翔は、昨夜消えた香の匂いを思い出した。「香炉は確保させたな。灰まで残せ。鎮める香の匂いではなかった」 羅季康の顔が強張った。「看守と、香を用意した者を別々に拘束しろ。処刑の執行と追捕は停止する。娘の事件は再審だ。出入帳に加え、供述と調薬記録を押さえろ」「御意。ただ、神殿の判決そのものを取り消すには、審判の原本を揃え、廷議に掛けねばなりません」「その間に殺させぬための命令だ。看守から押さえた執行状を確かめろ」 羅季康は、龍翔が手にした執行状の処刑対象者欄を指した。「李雨蘭(り・うらん)でございます。神殿からの報告書にも、その名が記されております」 龍翔は、執行状に記された名へ目を落とした。「李雨蘭……。停止命令とともに各関所へ回せ。見つけても、追い立てるな」 取り調べの名目で神殿から移し、自分が呼ぶまで誰も入れるなと命じた。それだけで守れたつもりでいた。見張りは表の回廊から人を通さぬよう命じられ、古い建物の裏手まで改めていない。娘は、その隙を探すほど、夜明けを恐れていたのだ。昨夜、彼女が扉を見るたびに肩を強張らせた理由を、ようやく思い知った。龍翔は開いた扉を見つめた。「近衛を――」 そこまで口にして、龍翔は止めた。軍で街道を塞げば、死を逃れようとした娘を再び追い詰める。 今すぐ連れ戻したい。その焦りを、奥歯を噛んで呑み込んだ。「玄刃を呼べ。影に、保護のための捜索を命じる。殺すな。追い詰めるな」「まずは停止命令が届いたと、娘に知らせます」「ああ。……だが、必ず見つけ出せ」 眠りから覚めれば、もう一度あの声を聞けると思っていた。 龍翔は何もない掌を
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第8話 北へ向かう地図

「違うな」 龍翔は椅子から動かなかった。雪蓉が差し出しかけた手は、机の手前で止まった。「俺を救ったのは、あの娘だ。お前の祈りではない」 雪蓉の頬から笑みが消えた。「ですが、あの者に、そのような力があるはず……」 言いかけて口を閉じる。龍翔は顔を上げた。「従姉だと言ったな。あの娘が薬を調えるところを、お前は見たのか?」「わたくしは、神殿から聞かされただけでございます」 返事だけが、先ほどより速かった。 龍翔は机の紙を引き寄せた。聖女の証言と呼ばれていたものが、本人の見たことなのか。それさえ、最初の報告には記されていない。「ならば、見た者から聞く。昨夜の香も、処刑を伏せた報告もな。下がれ」 雪蓉は一礼して退いた。扉が閉じるまで足音は静かだったが、廊下の角を曲がると、付き従う神官の袖を引き寄せた。「陛下が誰から何をお聞きになったか、調べて。看守に会えないなら、記録を運んだ者に訊きなさい」「ですが、聖女様……」「早く」 神官を行かせてから、雪蓉は白い袖を直した。雨蘭が逃げたと聞いた時には、遠からず捕まると思っていた。今は皇帝が、あの娘の言葉を聞こうとしている。 寝所へ戻った龍翔は、昨夜と同じ外套を手に取った。内侍が別のものを差し出したが、首を振る。腕に掛けてしまうと、雨蘭が握っていた皺は見えなくなった。彼は一度それを広げ、それから自分で畳み直した。◇ 数週間後。紫苑帝国の北の外れ。 雪が舞い散る寒村の小さな小屋で、雨蘭は薬草を刻んでいた。 素性を隠し、偽名を使ってこの村の診療所を手伝いながら、なんとか日々の糧を得ている。 トントン、と小気味よい音を立てていた包丁が、ふいに止まった。「……っ」 胃の底から、突き上げるような強い吐き気。 雨蘭は口元を両手で覆い、慌てて小屋の外へ飛び出した。 冷たい雪の上に手をつき、何度もえずく。胃液だけが吐き出され、雪を黄色く染めた。 息を整えようとしても、胃の奥がまたせり上がる。雨蘭は雪に片手をついた。 ただの風邪ではない。数日前から続く微熱と、この異常な吐き気。 それに……。 雨蘭は周囲に誰もいないことを確認し、震える手で着物の帯を緩めた。 白い下腹部。そこには、数日前にはなかったはずの、黒い小さな紋章が浮かび上がっていた。 龍の形をした、見覚えのない印。 チリッ、と腹部の奥
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第9話 遠い足音

「その腹の紋様、見せなくてもわかるぞ。龍気だ。お前さん、とんでもないものを抱え込んだな」 杜はため息をつき、煙管に火をつけた。細い煙が囲炉裏の上へ立ちのぼった。「このままじゃ、お前が干からびて死ぬぞ。子が親の生命力を削って育つ。普通の人間には耐えられねえ代物だ」 死。その言葉に、雨蘭の指が冷たくなった。牢の扉が開く音を思い出し、息を呑む。逃げ延びたのに、また死ぬと言われるのか。 腹へ当てた手を離せなかった。まだ、子を抱いた自分の姿さえ思い浮かばない。それでも、ここに宿った小さな熱まで消えてしまうことには耐えられなかった。 自分がすべて引き受ければ、この子だけは助かるのだろうか。けれど、それでは何のために逃げてきたのか。雨蘭はその考えを、まだ振り払えずにいた。「それでも」 雨蘭は顔を上げ、杜の目をまっすぐに見返した。 言葉を継ごうとすると唇が震えた。雨蘭は腹に置いた手へ、もう一方の手を重ねた。「それでも、産みたいんです。私の命と引き換えになっても」 ガンッ。 杜が煙管を囲炉裏の縁に叩きつけた。「馬鹿野郎」 低い怒鳴り声に、雨蘭は目を見開く。「腹の子を守りたい? 勝手にしろ。ただしな、お前が死ねばその子は母親を失うんだ。それも計算に入れろ」 雨蘭は返す言葉を失った。「自己犠牲なんて安っぽい真似をするな。子を守るなら、お前自身も生き残る算段を立てろ。薬師なら、自分の命もちゃんと数えやがれ」 杜は煙管を伏せ、雨蘭の返事を待った。 雨蘭は腹部に当てた手に力を込めた。服の上からでも、自分とは違うもう一つの小さな熱の塊を感じる。 生きる。この子と一緒に、何としても。 その決意の奥に、もう一つだけ、誰にも言えない望みが残っていた。あの人に会って、あの夜のことをどう思っているのか聞いてみたい。今も覚えていてくれるのか。それを知るためにも、生きていなければならない。◇ 同時刻、皇宮の奥深く。 皇帝の執務室は、重苦しい沈黙に包まれていた。 皇帝直属の密偵「影」の隊長、陸玄刃は束ねた書状を机へ置いた。 再審の供述書を読んでいた龍翔が筆を置き、黄金の瞳をすっと細めた。「……見つけたか」「まだ所在までは。ただ、北へ抜けた手掛かりが」 玄刃は書状の一枚を広げた。「北へ向かう商隊の記録を洗いました。冷えを避ける処方に使う薬材を、薬師らしい
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第10話 途切れた息

 北境の朝、井戸の縁には薄い氷が張っていた。 雨蘭は汲んだ水を桶に移し、しゃがんだまましばらく動けなかった。胃の奥がせり上がり、喉に苦いものが戻ってくる。吐き気が収まるのを待ってから、もう一度、自分の手首へ指を当てた。 脈は速い。腹の龍紋には、火にあぶられたような熱が残っている。 ――お前が死ねば、その子は母親を失う。 杜謙徳の言葉が耳に残っていた。分かっている。だから今日は、力仕事を控え、調薬だけを手伝うつもりでいた。 診療所へ入ると、囲炉裏の傍に座っていた村の女が、雨蘭の顔を見て眉を寄せた。「蘭先生、少し痩せたんじゃないかい」「寒さに慣れなくて。でも、薬の支度はできます」「うちのせがれなんか、嫁さんが来りゃ毎日温かい飯を作るって言ってるよ」 からかう声に、雨蘭は笑いかけて手を止めた。嫁。その一語が、廃宮の夜に触れた男の手を思い出させた。名前も聞かなかった。そのくせ、あの手にもう一度触れたいと思う時がある。 子の父親だから会いたいのだ、と片づけることはできなかった。あの夜、頬へ触れた手を思い出すたび、知らないままにした名が気になった。次に会えたら、まず名前を尋ねよう。雨蘭は傷んだ薬草の葉を除き、手元の仕事へ戻った。「……お薬を包みますね」 そう声をかけ、雨蘭は薬包の紙を広げた。乾いた葉を量り、折り目を揃えて置く。 残った葉の厚みを指で確かめ、まだ湿り気のあるものを脇へ分ける。細い根を薬研へ移そうとした、その時だった。 戸が外から叩きつけられた。「先生! お願いだ、息子を!」 雪まみれの男が、幼い子を抱いて転がり込んできた。四つほどの男の子だった。首は力なく垂れ、唇の色が悪い。抱き直された拍子に、小さな腕が硬く突っ張った。「急に熱が上がって、身体が震えて……名前を呼んでも返事をしないんだ!」 雨蘭は薬研を置き、男の腕の中へ手を伸ばした。「こちらへ。頭をぶつけないように、寝かせてください」 杜は隣村へ往診に出ている。診療所にいる薬師は雨蘭だけだった。 昨日までの雨蘭なら、考えるより先に駆け寄っていた。だが自分が倒れれば、この子を診る者もいなくなる。腹の子を守りながら、目の前の命も救いたい。雨蘭は壁に手をつき、短く息を吐いてから寝台へ向かった。できることを一つずつ確かめよう。 胸へ耳を寄せる。鼓動は速いが、呼吸がひどく浅い。
last updateLast Updated : 2026-10-18
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