Masuk「盗んだ宝玉と、身籠った御子――どちらを返せば、許してくれますか?」 処刑前夜、薬師・雨蘭は廃宮で出会った名も知らぬ男と一夜を過ごす。夜明け前、国宝を手に逃げた彼女の腹には、龍の御子が宿っていた。 やがて知る。あの男こそ、故郷を焼き養母を奪ったと信じ、憎み続けてきた龍帝・紫龍翔だった。 彼は雨蘭を守るために追い、雨蘭は御子を奪われると思って逃げる。 愛した男は、最も憎むべき仇だった。 ――けれど、彼女の知る「真実」は、最初からどこか間違っていた。
Lihat lebih banyak――明日の朝、私は首を落とされる。
冷たい石畳の感触が、薄布一枚の罪人服を通して肌から体温を奪っていく。カビと土埃の匂いが立ち込める牢の中で、李雨蘭(り・うらん)は膝を抱えていた。夕餉の粥に混ぜられた痺れ薬がまだ残り、足に力が入らない。ここへ運ばれてから、夜の鐘が二度鳴るのを聞いた。指先だけは、ようやく曲げ伸ばしができるようになっていた。 聖女のために調えたのは、熱を鎮める薬だった。薬師として幾度も扱ってきた処方が、なぜ毒になったのか。神殿で何度問い返しても、誰一人、薬の中身について答えなかった。代わりに昨日、死刑を言い渡された。 今夜になって突然、神殿の地下牢から連れ出された。引き渡しに来た武官が「皇帝の命だ」と告げた時、看守たちの顔色が変わったのを覚えている。だが行き先は皇城の西苑、人の気配もない古い収容牢だった。移されただけで、明朝の執行が取り消されたわけではない。 西苑の外れにあるその建物は、かつて離宮の礼拝室だったらしい。今では皇城の外縁に取り残された廃屋で、正面の回廊には見張りが立っているものの、使われなくなった裏手の窓や扉には板が打ちつけられていた。壁には剥がれかけた金の模様が残り、奥の石台の脇には、布を掛けた木箱が置かれている。雨蘭を運び入れた神殿の看守たちが、重そうに二人で運んできたものだ。「御前の検分に要る」と言い交わしていたが、何を検分するのかは教えられなかった。 看守の一人は、去り際に隅の銅香炉へ火を入れた。細い煙は今も絶えず、甘い匂いが部屋にこもっている。雨蘭は袖を鼻先へ当てた。神殿で場を清めるために焚く香に似ていたが、少し甘すぎた。 高い窓には鉄格子が嵌まっている。暗がりの中でその影を見つめていると、焼け落ちた家の梁を思い出した。 故郷を燃やした炎。冷たくなった養母の手。炎の向こうを去っていく、黄金の意匠を纏った兵たち。 村を焼いたのは皇帝の軍勢だった。紫苑帝国の頂点に立つ、紫龍翔(し・りゅうしょう)。顔も知らないその男の名を、雨蘭は幾度となく胸の中で繰り返してきた。 けれど、恨みを晴らすどころか、明日には自分が死ぬ。 膝へ顔を伏せた時、鉄扉の鍵が回った。 雨蘭は肩を強張らせた。まだ夜明けではない。迎えが早まったのかと、喉が詰まった。 扉を開けて入ってきたのは、見知らぬ男だった。 深い色の外套を羽織り、武官の徽章も、神殿の印もつけていない。それでも、廊下に控えた兵たちが一斉に頭を下げた。手燭を持つ者が背後に続こうとすると、男は振り返りもせずに言った。 「燭台を置け。お前は外で待て」 付き従う者は一礼し、廊下へ退いた。扉は閉じられたが、鍵の音はしなかった。 残された灯が、男の横顔を照らす。黒髪の間から覗く黄金の瞳に見据えられ、雨蘭は背を壁へ押しつけた。命令を下す声は低く、怒鳴らなくても人が動くことを知っているようだった。端正な顔だった。だが今は、誰も彼の身分を尋ねず、命じられた通りに扉の外へ退いたことの方が恐ろしかった。男は雨蘭が逃げられないと知っている者の足取りで近づいてきた。 扉の向こうは、兵が控えているとは思えないほど静かだった。あれほど人を従わせる男が、どうして罪人一人の顔を見に来たのだろう。雨蘭は視線を落としたが、靴音が止まると、思わず顔を上げた。 「聖女の薬を調えたという娘は、お前か」 低い声だった。男は雨蘭の前で膝を折り、折り畳まれた書付を取り出した。 「神殿は取り調べ中だと言っていた。だから、お前をここへ移した。あの日、聖女に使われた薬と香について訊く」 「……供述は、もうしました」 「この書付には、お前が罪を認めたとしかない。薬の名も、調えた量も書かれていない」 雨蘭は顔を上げた。 「認めていません」 声が掠れた。神殿でも同じことを言った。そのたびに、まだ嘘を重ねるのかと遮られた。 男はすぐには答えなかった。紙に目を落とすと、深く刻まれた眉間の皺が、ほんのわずかに動いた。 「……そうか。何があったのか、お前の口から話してくれ」 間近で聞く声は、先ほど兵に命じた時よりも静かだった。責められると思っていた雨蘭は、戸惑って男の手元を見る。書付を押さえる指は、答えを急かすことなく止まっていた。 雨蘭は口を開きかけた。何から言えばいいのか。昨日の裁きの場で、言い終えることのできなかった言葉が、いくつも喉へ押し寄せた。男は急かさずに待っていた。 やがて、男が一度、喉を鳴らした。襟元を緩め、浅く息を吸う。燭台の明かりに、額の汗が光った。 「……気分が、悪いのですか」北境の朝、井戸の縁には薄い氷が張っていた。 雨蘭は汲んだ水を桶に移し、しゃがんだまましばらく動けなかった。胃の奥がせり上がり、喉に苦いものが戻ってくる。吐き気が収まるのを待ってから、もう一度、自分の手首へ指を当てた。 脈は速い。腹の龍紋には、火にあぶられたような熱が残っている。 ――お前が死ねば、その子は母親を失う。 杜謙徳の言葉が耳に残っていた。分かっている。だから今日は、力仕事を控え、調薬だけを手伝うつもりでいた。 診療所へ入ると、囲炉裏の傍に座っていた村の女が、雨蘭の顔を見て眉を寄せた。「蘭先生、少し痩せたんじゃないかい」「寒さに慣れなくて。でも、薬の支度はできます」「うちのせがれなんか、嫁さんが来りゃ毎日温かい飯を作るって言ってるよ」 からかう声に、雨蘭は笑いかけて手を止めた。嫁。その一語が、廃宮の夜に触れた男の手を思い出させた。名前も聞かなかった。そのくせ、あの手にもう一度触れたいと思う時がある。 子の父親だから会いたいのだ、と片づけることはできなかった。あの夜、頬へ触れた手を思い出すたび、知らないままにした名が気になった。次に会えたら、まず名前を尋ねよう。雨蘭は傷んだ薬草の葉を除き、手元の仕事へ戻った。「……お薬を包みますね」 そう声をかけ、雨蘭は薬包の紙を広げた。乾いた葉を量り、折り目を揃えて置く。 残った葉の厚みを指で確かめ、まだ湿り気のあるものを脇へ分ける。細い根を薬研へ移そうとした、その時だった。 戸が外から叩きつけられた。「先生! お願いだ、息子を!」 雪まみれの男が、幼い子を抱いて転がり込んできた。四つほどの男の子だった。首は力なく垂れ、唇の色が悪い。抱き直された拍子に、小さな腕が硬く突っ張った。「急に熱が上がって、身体が震えて……名前を呼んでも返事をしないんだ!」 雨蘭は薬研を置き、男の腕の中へ手を伸ばした。「こちらへ。頭をぶつけないように、寝かせてください」 杜は隣村へ往診に出ている。診療所にいる薬師は雨蘭だけだった。 昨日までの雨蘭なら、考えるより先に駆け寄っていた。だが自分が倒れれば、この子を診る者もいなくなる。腹の子を守りながら、目の前の命も救いたい。雨蘭は壁に手をつき、短く息を吐いてから寝台へ向かった。できることを一つずつ確かめよう。 胸へ耳を寄せる。鼓動は速いが、呼吸がひどく浅い。
「その腹の紋様、見せなくてもわかるぞ。龍気だ。お前さん、とんでもないものを抱え込んだな」 杜はため息をつき、煙管に火をつけた。細い煙が囲炉裏の上へ立ちのぼった。「このままじゃ、お前が干からびて死ぬぞ。子が親の生命力を削って育つ。普通の人間には耐えられねえ代物だ」 死。その言葉に、雨蘭の指が冷たくなった。牢の扉が開く音を思い出し、息を呑む。逃げ延びたのに、また死ぬと言われるのか。 腹へ当てた手を離せなかった。まだ、子を抱いた自分の姿さえ思い浮かばない。それでも、ここに宿った小さな熱まで消えてしまうことには耐えられなかった。 自分がすべて引き受ければ、この子だけは助かるのだろうか。けれど、それでは何のために逃げてきたのか。雨蘭はその考えを、まだ振り払えずにいた。「それでも」 雨蘭は顔を上げ、杜の目をまっすぐに見返した。 言葉を継ごうとすると唇が震えた。雨蘭は腹に置いた手へ、もう一方の手を重ねた。「それでも、産みたいんです。私の命と引き換えになっても」 ガンッ。 杜が煙管を囲炉裏の縁に叩きつけた。「馬鹿野郎」 低い怒鳴り声に、雨蘭は目を見開く。「腹の子を守りたい? 勝手にしろ。ただしな、お前が死ねばその子は母親を失うんだ。それも計算に入れろ」 雨蘭は返す言葉を失った。「自己犠牲なんて安っぽい真似をするな。子を守るなら、お前自身も生き残る算段を立てろ。薬師なら、自分の命もちゃんと数えやがれ」 杜は煙管を伏せ、雨蘭の返事を待った。 雨蘭は腹部に当てた手に力を込めた。服の上からでも、自分とは違うもう一つの小さな熱の塊を感じる。 生きる。この子と一緒に、何としても。 その決意の奥に、もう一つだけ、誰にも言えない望みが残っていた。あの人に会って、あの夜のことをどう思っているのか聞いてみたい。今も覚えていてくれるのか。それを知るためにも、生きていなければならない。◇ 同時刻、皇宮の奥深く。 皇帝の執務室は、重苦しい沈黙に包まれていた。 皇帝直属の密偵「影」の隊長、陸玄刃は束ねた書状を机へ置いた。 再審の供述書を読んでいた龍翔が筆を置き、黄金の瞳をすっと細めた。「……見つけたか」「まだ所在までは。ただ、北へ抜けた手掛かりが」 玄刃は書状の一枚を広げた。「北へ向かう商隊の記録を洗いました。冷えを避ける処方に使う薬材を、薬師らしい
「違うな」 龍翔は椅子から動かなかった。雪蓉が差し出しかけた手は、机の手前で止まった。「俺を救ったのは、あの娘だ。お前の祈りではない」 雪蓉の頬から笑みが消えた。「ですが、あの者に、そのような力があるはず……」 言いかけて口を閉じる。龍翔は顔を上げた。「従姉だと言ったな。あの娘が薬を調えるところを、お前は見たのか?」「わたくしは、神殿から聞かされただけでございます」 返事だけが、先ほどより速かった。 龍翔は机の紙を引き寄せた。聖女の証言と呼ばれていたものが、本人の見たことなのか。それさえ、最初の報告には記されていない。「ならば、見た者から聞く。昨夜の香も、処刑を伏せた報告もな。下がれ」 雪蓉は一礼して退いた。扉が閉じるまで足音は静かだったが、廊下の角を曲がると、付き従う神官の袖を引き寄せた。「陛下が誰から何をお聞きになったか、調べて。看守に会えないなら、記録を運んだ者に訊きなさい」「ですが、聖女様……」「早く」 神官を行かせてから、雪蓉は白い袖を直した。雨蘭が逃げたと聞いた時には、遠からず捕まると思っていた。今は皇帝が、あの娘の言葉を聞こうとしている。 寝所へ戻った龍翔は、昨夜と同じ外套を手に取った。内侍が別のものを差し出したが、首を振る。腕に掛けてしまうと、雨蘭が握っていた皺は見えなくなった。彼は一度それを広げ、それから自分で畳み直した。◇ 数週間後。紫苑帝国の北の外れ。 雪が舞い散る寒村の小さな小屋で、雨蘭は薬草を刻んでいた。 素性を隠し、偽名を使ってこの村の診療所を手伝いながら、なんとか日々の糧を得ている。 トントン、と小気味よい音を立てていた包丁が、ふいに止まった。「……っ」 胃の底から、突き上げるような強い吐き気。 雨蘭は口元を両手で覆い、慌てて小屋の外へ飛び出した。 冷たい雪の上に手をつき、何度もえずく。胃液だけが吐き出され、雪を黄色く染めた。 息を整えようとしても、胃の奥がまたせり上がる。雨蘭は雪に片手をついた。 ただの風邪ではない。数日前から続く微熱と、この異常な吐き気。 それに……。 雨蘭は周囲に誰もいないことを確認し、震える手で着物の帯を緩めた。 白い下腹部。そこには、数日前にはなかったはずの、黒い小さな紋章が浮かび上がっていた。 龍の形をした、見覚えのない印。 チリッ、と腹部の奥
廊下から慌ただしい足音が響き、初老の男が血相を変えて転がり込んでくる。内侍長、羅季康(ら・きこう)だった。皇帝の身辺を世話する者たちを束ね、幼い頃から龍翔に仕えている。「ご無事でしたか……! 今朝、神殿の看守が娘を引き取りに参りまして、外門で、影の隊長・陸玄刃(りく・げんじん)が止めております」 羅季康は、看守から取り上げた執行状を差し出した。神殿の印の下に、今朝の処刑を命じる文言があった。「聖女毒殺未遂の罪で、すでに神殿が死刑を言い渡していたと……。陛下への報告には、取調べ中としかございませんでした」「裁きは、もう下っていたのか。俺に伏せたまま、今朝、殺すつもりだったのか」 龍翔は、昨夜消えた香の匂いを思い出した。「香炉は確保させたな。灰まで残せ。鎮める香の匂いではなかった」 羅季康の顔が強張った。「看守と、香を用意した者を別々に拘束しろ。処刑の執行と追捕は停止する。娘の事件は再審だ。出入帳に加え、供述と調薬記録を押さえろ」「御意。ただ、神殿の判決そのものを取り消すには、審判の原本を揃え、廷議に掛けねばなりません」「その間に殺させぬための命令だ。看守から押さえた執行状を確かめろ」 羅季康は、龍翔が手にした執行状の処刑対象者欄を指した。「李雨蘭(り・うらん)でございます。神殿からの報告書にも、その名が記されております」 龍翔は、執行状に記された名へ目を落とした。「李雨蘭……。停止命令とともに各関所へ回せ。見つけても、追い立てるな」 取り調べの名目で神殿から移し、自分が呼ぶまで誰も入れるなと命じた。それだけで守れたつもりでいた。見張りは表の回廊から人を通さぬよう命じられ、古い建物の裏手まで改めていない。娘は、その隙を探すほど、夜明けを恐れていたのだ。昨夜、彼女が扉を見るたびに肩を強張らせた理由を、ようやく思い知った。龍翔は開いた扉を見つめた。「近衛を――」 そこまで口にして、龍翔は止めた。軍で街道を塞げば、死を逃れようとした娘を再び追い詰める。 今すぐ連れ戻したい。その焦りを、奥歯を噛んで呑み込んだ。「玄刃を呼べ。影に、保護のための捜索を命じる。殺すな。追い詰めるな」「まずは停止命令が届いたと、娘に知らせます」「ああ。……だが、必ず見つけ出せ」 眠りから覚めれば、もう一度あの声を聞けると思っていた。 龍翔は何もない掌を