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壊された手は、誰より自由に羽ばたいた のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

20 チャプター

第11話

蒼一郎が病院の前に3日間立ち続けた頃、ようやく相馬家の門が開いた。優磨が紙袋を手に、蒼一郎の前へと歩み出た。袋の中身を取り出すと、雪の上に投げ捨てる。「お嬢様からの伝言です。騙されたまま生きるより、死ぬ前にせめて真実を知っておいたほうがいいでしょう」1枚目の検査報告書が、雪の上に落ちた。「安井鮎美さんのエコー写真は、産婦人科の担当医を買収して偽造させたものです。彼女は一度も妊娠していません」もう1枚、写真が落ちた。「あの日、本家で池に落ちて出血したという話についても、救急外来の記録と当日の写真が残っています。血は、あらかじめ用意した血液パックのものだったと判明しています」優磨は最後の鑑定書を、彼の胸に叩きつけた。「法医学的な鑑定も済んでいます。お嬢様の手首に残った引っかき傷は、安井鮎美さんがつけたものだと鑑定されています。あなたがお嬢様に浴びせたあの平手打ちも、物置に閉じ込めたことも、無理やり署名させた譲渡書も――全部、存在すらしない子供のための布石だったんです」蒼一郎は、雪の上の証拠を見つめた。雪と風が紙を濡らし、インクがじわりとにじんでいく。鮎美が初めて健診結果の書類を差し出してきたとき、泣きながら親子鑑定を拒んだあの日のことを思い出した。「蒼一郎さん、私のこと、信じてくれないの?もうあなたの赤ちゃんがいるのに……」あのとき彼が病院に特別な便宜を図らせたのも、歌音を追い出す口実が欲しかったからだった。あの15%の株式を、自分の血を分けた子に残すために。蒼一郎のスマホが手から滑り落ち、雪の中に沈んだ。目は乾き切っているのに、涙の一滴すら出てこなかった。このとき初めて、自分がどれほど愚かだったのかを思い知った。ひとりの嘘つきのために、命すら懸けてくれた女を、自らの手で壊したのだと。優磨は彼を見つめた。「お嬢様が証拠を届けさせたのは、あなたの謝罪を聞くためではありません。あなたに、ただ覚えておいてほしかっただけです。お嬢様を傷つけたのは鮎美さんだと。ですが、お嬢様を追い詰め、閉じ込め、奪い、平手打ちしたのは、あなた自身です。その責任から逃れることはできません」優磨は踵を返して正門へと戻っていった。雪の中には、蒼一郎だけが膝をついたまま残された。……それからしばら
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第12話

半月後、西京市に珍しく晴れ間が広がった。私は優磨の付き添いのもと、病院の庭を散歩する許可を得た。長くベッドで寝ていたせいで、足取りがどこかおぼつかない。優磨が私の左腕をそっと支えてくれる。その手つきは慎重で、必要以上に触れようとはしなかった。噴水のそばまで来たとき、かすれきった声が突然響いた。「……歌音っ!」私は足を止め、振り返った。蒼一郎は、どんな手を使ったのか、この病院の関係者以外は立ち入れない区域に紛れ込んでいた。彼は半月前と同じ泥だらけのスーツを着ていて、顎には無精髭が伸び放題になり、目は落ちくぼみ、見違えるほどやつれていた。私が振り向いたのを見て、彼の目の奥に異様な喜びの色が浮かんだ。よろめきながら駆け寄ろうとした瞬間、優磨が彼の膝を蹴りつけた。ドンッという音とともに、蒼一郎は私の前に崩れるように跪いた。彼は抵抗せず、ただ赤く潤んだ目で、包帯を巻いた私の右手を見つめていた。「歌音、ごめん……」震える手で、懐から書類と写真の束を取り出した。「全部分かったんだ。安井鮎美という女に、俺は騙されてた!妊娠なんてしてなかったし、池に落ちたのも自作自演だったんだ!俺は、あいつに騙されてただけなんだ!お前があの物置で高熱にうなされてたことなんて、本当に知らなかった……」彼は顔を上げた。大粒の涙が地面に落ちた。「もう、一緒に帰ってくれないか?鮎美は俺が警察に突き出した。アトリエだって元通りに作り直す。やり直そう!」「やり直す?」私は彼の言葉を遮り、笑った。「蒼一郎、この右手が、どうやってここまで回復したか知ってる?」包帯を巻いた右手を、彼の目の前に掲げた。「手首には7本もの金属ピンが入っているの。リハビリで電気刺激が神経に伝わるたびに、痛みで一晩中眠れないの。私を平手打ちして、暖房もない物置に閉じ込めたときは、やり直そうなんて思わなかったんでしょ?」蒼一郎の泣き声が、喉の奥でぐっと詰まった。「歌音、俺は……」「あなたは本当は、騙されていたんじゃない」私は静かに彼を見据えた。「ただ、私と鮎美さんのあいだで、迷わずあの女を信じることを選んだだけよ。アトリエを壊したことも、ネックレスを奪ったことも、株式譲渡書に署名させたことも。あれは鮎美さんに強制されたこ
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第13話

蒼一郎の悲鳴が、病院のガラス張りの庭園に響き渡った。私は振り返らず、迷いのない足取りで病棟の入り口へと歩いていった。背後から、警備員の慌ただしい足音と、厳しい怒声が聞こえてきた。「何者だ!誰の許可を得て入り込んだ!」「放せ!俺の妻に会わせろ!歌音、もう一度だけこっちを見てくれ!」蒼一郎は必死にもがいたが、数人のボディーガードに地面へ押さえつけられた。かつては一点の汚れも許さなかったあのオーダーメイドのスーツは、今や泥と枯れ草にまみれ、見る影もないほど惨めな有様だった。優磨は足を止め、地面に押さえつけられた彼を冷ややかに見下ろすと、公印の押された弁護士からの通知書を彼の顔に投げつけた。「緑川社長、お嬢様は正式に離婚訴訟を提起されました。同時に、相馬家の法務部は、あなたが物置で行った不法監禁と傷害行為の証拠一式を、すでに警察へ提出しています。今や、相馬家にとって不倶戴天の敵であるだけでなく、刑事事件の被疑者でもあるんです!」蒼一郎の顔は冷たい芝生に押し付けられ、両目は血走っていた。「俺はサインしない!死んでも離婚届にサインなんてしない!歌音は俺の妻だ!」優磨の目の奥に、嘲りの色がよぎった。「お忘れですか。あの離婚届は、半月前にご自身の手でお嬢様の前に叩きつけたものです。お嬢様が裁判所で婚姻関係の破綻を証明すれば、あなたがサインしなくても、結果は変わりません。相馬家の弁護団が、あなたを文字どおり一文無しにして差し上げます」私は2階の病室の大きな窓の前に立ち、眼下を見下ろしていた。蒼一郎は両脇を抱えられて連れ出され、病院の敷地の外へ追い出された。彼は地面に跪き、拳で地面を叩いた。通りがかりの人々が奇異の目を向け、指をさしていた。かつてあの街で権勢を振るっていた緑川家の跡取り息子は、今や私に近づく資格を失っていた。祖父が杖をつきながら私の傍らに来て、私の視線を追って下を見た。「心が揺れたか」祖父の口調には、探るような響きがあった。私は視線を戻し、祖父に向かって微笑んだ。「ただ、なんだか不思議な気分になっただけ。昔は、彼が私のすべてだと思ってた。あの人を失ったら、もう生きていけないって。でも今、少し離れて見てみたら……結局、思い通りにならなくて駄々をこねてるだけの、ちっぽ
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第14話

あの街では、蒼一郎は警察から釈放され、在宅で捜査を受けることになったものの、まるで魂を抜かれた抜け殻のようになっていた。彼は緑川グループの最上階、あの静まり返った社長室に座り込んでいた。灰皿には吸い殻が山をなし、濃い煙草の煙が彼を包んでいた。窓の外には、かつて彼が支配者のように見下ろしていた街並みが広がっていたが、今はただ目に痛いだけだった。秘書がびくびくしながら扉を開け、タブレットを彼のデスクに置いた。「社長……奥様が、SNSを更新されました」蒼一郎は勢いよく顔を上げ、充血した目を画面に釘付けにした。画面に映っていたのは、鮮やかな色彩で描かれた水彩画だった。闇を突き破る大きな朝の光、翼を広げて高く舞い上がる一羽の鳥。添えられた言葉は、短い一文だけだった。【一度死んで、もう一度生き返る】蒼一郎の息が止まった。その筆致を、彼が見間違えるはずはなかった。3年前、歌音の絵もこうだった。澄んでいて、明るくて、一筆一筆に迷いがなかった。それは、彼を助けたときに腱を切られてから、もう二度と描けないと思っていた、あの迷いのない筆致だった。彼はその画像を拡大した。画面の隅には、筆を握る片手も写り込んでいた。その手には、生々しい傷跡があった。けれど指は細く、しっかりとした力強さで筆を握っている。もう、かつてのような頼りなさも、弱々しさもなかった。蒼一郎の指先が震えながら、画面の中のその手に触れた。メッセージを送りたかった。トーク履歴を開くと、最後のやり取りは3か月前で止まっていた。彼が、先に食事を済ませておいてくれと送ったものだった。彼女は【分かった】とだけ返していた。あの頃は、彼女が言葉少ないのを味気ないと感じ、その「分かった」の一言すら、まともに目を留めようとしなかった。今、彼はそれをじっと、長いあいだ見つめていた。文字を打っては消し、また打っては消した。だが打ち終わる頃になって、ようやく気づいた。3年も連れ添っていながら、彼女に何を言えばいいのか、彼には分からなかったのだ。ついに、彼はかすれた声を絞り出した。「歌音……どうしてお前だけ、俺を置いて幸せになれるんだよ。どうして……そんな簡単に俺のことを忘れられるんだ」彼は身も世もなく泣いた。彼女が本当に必要と
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第15話

5月になり、私の手の神経は、すでに8割ほど回復していた。祖父が西京最大の国立美術館に働きかけ、秋には個展を開くことになった。このところ、私は毎日アトリエにこもりきりで、疲れも忘れて制作に没頭していた。優磨はもう、あの堅苦しい護衛用の黒いスーツを着ることはなく、動きやすいカジュアルな服装に変えていた。彼は静かな影のように、いつもアトリエの外に控えていた。私が絵を描いているあいだ、彼は一切邪魔をしない。ただ、筆を置いて手首を揉んでいるときだけ、飲み頃の温かいはちみつ湯をそっと差し出してくれる。あるいは、熱いタオルを持ってきて、痛む関節に当ててくれる。リハビリが一番痛かった時期、私は夜通し痛みで眠れなかった。ある夜、トイレに行こうと病室の扉を開けると、外にいた誰かにつまずきそうになった。優磨が廊下の床に座り込み、背中を私の病室のドアに預けていたのだ。物音で目を覚ましたらしい。どうして警備員の待機室に戻らないのかと尋ねた。彼は膝に手をついて立ち上がった。彼が座っていた廊下の床は、氷のように冷たかった。「お嬢様が部屋に鍵をかけたとき、私はドアの外にいました」と彼は言った。「今度は、ドアの外に誰かがいると知っていてほしかったんです」私は一瞬、言葉を失った。かつて蒼一郎が初めて優磨を私の寝室の外に立たせたのは、私を辱めるため、私に不倫の濡れ衣を着せるためだった。あの時、あのドアは恥辱そのものだった。そして今、同じようにドアがあり、外に立つ人も変わらないのに、そのドアの意味はすべて変わっていた。「今日はもう4時間も描き続けています。そろそろ休んでください」優磨は熱いタオルを私の手首に当てながら、低く穏やかな声で言った。私は彼の伏せた目元を見つめ、ふと尋ねた。「……あの街での護衛任務はもう終わったのに、どうして本家の護衛チームに戻らないの?」優磨の手が、わずかに止まった。彼は顔を上げ、深みのある瞳で静かに私を見つめた。「大旦那様にも同じことを聞かれました。私はお断りしました」「どうして?」優磨は身を起こして立ち上がり、タオルをもう一度温かい湯に浸して絞った。「近衛隊にいるのは、相馬家への責任を果たすためです。でも、ここに残ることは、私自身の選択なので」彼は巧みな言葉も、
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第16話

7月に入り、厳しい蒸し暑さが続いていた。緑川グループが置かれている状況は、この蒸し暑さ以上に息苦しいものだった。鮎美の裁判が、ついに地方裁判所で始まった。その日、私はアトリエのリクライニングチェアに座っていた。優磨は、裁判所にいる弁護士から届いた連絡を確認しながら、タブレットを私に見せた。画面には、裁判所前から中継するニュース番組が映っている。法廷内の映像はない。代わりに、記者が傍聴席で聞いた内容を速報として伝えていた。「被告人の安井鮎美氏は先ほど、妊娠と流産に関する診断書を偽造したことを認めました。その一方で、一連の行為については緑川蒼一郎氏も把握していたと主張しています」画面が切り替わり、法廷内の様子を再現したイラストが映し出された。罪を軽くするために、鮎美は法廷で完全に本性を現し、狂犬のように蒼一郎に噛み付いていた。「裁判長!妊娠と流産の診断書を偽造したことは認めます!」彼女は被告人席に立ち、声を張り上げていた。「でも、全部緑川蒼一郎が黙認していたことです!彼はずっと前から相馬歌音さんと離婚したがっていました。でも財産を1円も渡したくなかったんです!わざと私にあのネックレスをつけさせて歌音さんを刺激し、ボディーガードを使って歌音さんの評判を落とそうとしたのも、全部全部彼が自分の口で私に約束したことです!」鮎美の声が、一段と鋭くなった。「彼が言ったんです、私が歌音さんを追い出すのを手伝えば、緑川家の当主の妻の座は私のもの、緑川家のお金も私たちのものだって!」私はイラストに映るその歪んだ顔を見ながら、ふと彼女のことが少し分かる気がした。彼女は貧しい家に生まれ、幼い頃から人に見下され、欲しいものを奪い合うようにして生きてきたのだろう。蒼一郎が彼女に持ちかけた、緑川家の奥様になれるという甘い約束は、彼女が命を懸けても手に入れたかったものだったのだ。蒼一郎を手に入れれば、一生の栄華を手にできると思っていたのだろう。でも彼女も私と同じように、あの男に、使い捨ての駒として扱われていただけだった。ただ私の方が、早く目が覚めたというだけで、彼女はこの瞬間になってようやく目が覚めたのだ。「妊娠を偽装したのは彼が承知していたからです!出血したふりをしたのも彼が黙認したからです!」鮎美は叫んで
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第17話

緑川グループが倒産寸前に追い込まれると、一夫はいよいよ居ても立っても居られなくなった。彼は車椅子に乗り、執事に押されて相馬家の屋敷の門前まで来ると、炎天下で3時間も待ち続けた。蒼一郎を伴わず、ただあの日歌音にネックレスを贈ったときの古い写真だけを持ってきていた。最後に残された昔の情にすがって、相馬家の門を開かせようとしていた。屋敷の正門は固く閉ざされていた。一夫は痩せ細った手で、その写真をぎゅっと握りしめていた。そこに写っているのは、まだ緑川家に嫁いだばかりの頃の歌音だった。若々しい顔で、穏やかに微笑んでいる。彼は待ち続け、濁った目をずっとその門に向けていた。ようやく、正門が開いた。一夫がわずかな喜びの表情を浮かべかけたその時、出てきたのは優磨一人だけだった。優磨は1通の書類を手に、まっすぐ車椅子の前まで歩み寄った。「会長様、申し訳ありませんが、お嬢様は面会をお断りしています」一夫の顔がこわばり、焦って口を開いた。「優磨、ひとつ取り次いでくれ。せめて……」「会長様」優磨は冷ややかにその言葉を遮り、その書類を一夫の膝の上に置いた。それは、あの夜、あの物置で蒼一郎が歌音に署名を迫った、あの株式譲渡書の写しだった。「緑川家は、お嬢様を死ぬほど追い詰めたうえ、相馬家の財産まで奪おうとした。それが今、会社が立ち行かなくなった途端、今さら昔の情を持ち出して、助けを求めに来たんですか?」優磨は、顔面蒼白になった一夫を見下ろした。「お嬢様からの伝言です。『私はそこまでお人よしじゃないし、相馬家だって、そう簡単に折れる家じゃないわ』と。緑川グループに対しては、相馬家の法務部がすでに破産手続に向けた法的措置を進めています。緑川家も、すべてを失う覚悟をしておいてください」一夫は膝の上の、見るのもつらい書類の写しを握りしめ、肩を激しく上下させ、顔を土気色に染めた。激しい咳が止まらず、身体を二つに折るように咳き込んだ。執事が慌てて一夫を支えて車に乗せ、車椅子をトランクに積み込み、相馬家の屋敷から逃げるように走り去った。かつて歌音を傷つけた側が、最後にもう一度情に訴えようとしたものの、言い訳ひとつ最後まで口にできないまま、すべては終わった。……その日の午後、私は個展の目玉となる作品の
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第18話

空気は、息が詰まるほど張り詰めていた。蒼一郎は無精髭を生やし、目は落ちくぼみ、魂を抜かれた抜け殻のようだった。彼の前に座っているのは、相馬家の顧問弁護士団の代表と、未払い金の回収を求めて集まった十数社の取引先の代表者たちだった。弁護士が2通の書類を彼の前に差し出した。「緑川社長、こちらが最終的な清算案です。1通目は、緑川グループの破産手続に関する同意書です。署名すれば、会社の換価可能な財産はすべて処分され、債権者への返済に充てられます」「2通目は、あなた個人名義の財産を担保に入れるための同意書です」弁護士が細長い指でそれを示した。「あなた名義の銀行預金、有価証券、高級車、そして敷地約600坪のあの高台の邸宅などが対象となっています」「高台の邸宅」という言葉を聞いた瞬間、蒼一郎は勢いよく顔を上げ、血走った目に狂気がよぎった。「だめだ!あの家は手放せない!」彼は獲物を奪われまいとする獣のように、その同意書を死に物狂いで押さえつけた。「あそこは俺と歌音の家だ!中には彼女のアトリエも、彼女が買い揃えた家具もある!家までなくなったら、彼女が戻ってきたとき、どこに住めばいいんだ!」取引先の代表者たちから、容赦ない嘲笑が上がった。「緑川さん、頭がおかしくなったんじゃないですか?相馬家のお嬢様が、あなたのそのぼろ屋を欲しがるとでも?あなたは今、経済犯罪や資産隠しの疑いで捜査を受けているんです。個人財産を差し出して債務を清算しなければ、明日にも身柄を拘束されるかもしれませんよ!あの家を守って拘置所に入るか、全財産を失ってでも自由を守るか。ご自分で選んでください!」弁護士は冷ややかに彼を見つめ、それ以上何も言わなかった。蒼一郎の両手が、激しく震えていた。この瞬間、彼はふと、この光景がひどく見覚えのあるものに思えた。あの夜、暖房もない離れの物置の中で。彼自身が、離婚届と株式譲渡書を、歌音の前に叩きつけたのだ。彼自身が、彼女に愛情と尊厳のどちらかを選ばせようとし、存在すらしない子供のために、一文無しで追い出そうとしたのだ。今、弁護士が、破産清算と財産の担保提供に関する書類を、彼の前に突きつけている。今度は彼が、自由か全財産かの選択を迫られている。まったく同じ構図だ。ただ今度は、絶
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第19話

9月、私の個展は予定どおり、西京の国立美術館で幕を開けた。オープニングセレモニーが正式に始まる前、入り口で大きなどよめきが起きた。祖父が来たのだ。彼は車椅子を使わず、杖をつき、優磨に支えられながら、一歩一歩、会場中央の壇上まで歩いた。来場していた政財界の名士たちや芸術界の重鎮たちが、一斉に静まり返った。相馬家の当主が公の場に姿を見せるのは、10年ぶりだった。祖父はマイクを受け取り、会場全体を見渡し、最後に私に視線を止めた。「この3年間、世間から姿を消していたわしの孫娘、相馬歌音です。今日、わしは相馬家の当主として、ここにいる皆さんにお伝えします。彼女は、相馬家で唯一の第一順位の相続人です」会場が騒然となった。フラッシュが一斉にたかれた。私は壇上に立つその頑固な老人を見つめ、目頭が熱くなった。3年前、私は蒼一郎のために彼と決別し、彼は「もうあの孫娘はいない」と言い放った。けれどこの間、彼は私の手を治すために最高の専門家を呼び、最も信頼する護衛を派遣し、そして今日、西京の名士たちが集まる場で、私を再び自分の孫娘として認めてくれた。割れんばかりの拍手が沸き起こった。その人波に逆らうように、ひとりの女性がかき分けて進んできた。蒼一郎の母だった。記憶の中よりもずいぶん老け込み、化粧も慌てたようで、目は血走っていた。彼女は私の手首を乱暴に掴んだ。ちょうど、あの傷のある場所を。「歌音、お願い!」彼女の声は震えていた。「蒼一郎はあさって判決が言い渡されるの!弁護士は、資産隠しの罪だけでも拘禁刑5年は免れないと言っているのよ!相馬家から頼んで、あの告訴を取り下げてもらえないかしら?彼だって、あなたの夫だったのよ」「緑川さん」私は手首を引き抜き、一歩下がった。「まず、裁判所の離婚判決が確定した時点で、私と蒼一郎はもう他人になりました。それに、資産隠しの件で動いたのは相馬家じゃありません。未払い金の被害を受けた十数社の取引先と、法廷で証言した鮎美さんです」私は彼女をまっすぐ見た。「私が緑川家であの女に大勢の前で辱められ、あなたの息子に物置へ閉じ込められたとき、あなたは何もしてくれなかったですよね。それなのに今さら、私に蒼一郎を助けてほしいって言うんですか?」私は微笑
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第20話

3日後、個展は幕を閉じた。その日の午前、優磨がスマホを手に休憩室に入ってきて、あるニュースを私の前に差し出した。地方裁判所が昨日、判決を言い渡した。蒼一郎は業務上横領罪と不正な資産移転に関する罪に問われ、拘禁刑5年6か月の実刑判決を受けた。緑川グループの破産清算はすでに終わり、あの高台の邸宅も、彼名義の財産とともに、すべて競売にかけられ、債務の返済に充てられていた。ニュースの画像には、地味な服装で法廷から連れ出される彼の姿があった。報道映像に映った傍聴席には、誰の姿もなかった。鮎美もいない、蒼一郎の母もいない、彼を見送る人は誰一人いなかった。私は見終えて、スマホを優磨に返した。「分かったわ」快感もなく、心の波立ちもなかった。まるで自分とは何の関係もない社会面のニュースを見ているようだった。優磨が私を見つめた。「邸宅の競売の日、彼が人を通して言葉を伝えたそうだ。最後に一度、あなたに会いたいと。俺が代わりに断ったが」「それでいいわ」私はうなずいた。午後、スタッフが撤収作業を始めた。私は「夜明け」の前まで歩き、自分の手でそれを展示壁から取り外した。多くのコレクターが高値を提示してきたが、私は誰にも売らなかった。私はこの絵を、振り返って優磨に差し出した。「あなたにあげるわ」優磨は額を受け取った。銃を握るときですら震えなかったその手が、この時だけ一瞬、こわばった。「いや……歌音、これは君がもう一度筆を取って描いた、最初の1枚だろ。あまりにも大切な作品じゃないか」「だからこそ、あなたに渡すのよ」私は彼を見つめた。「あの雨の中で私に傘を差してくれたのはあなた、リハビリが一番痛かった夜にドアの外で見守ってくれたのもあなた、選ぶ権利を私自身の手に返してくれたのも、あなただった」この絵の名前は『夜明け』。つまり——あなたは、あの長い夜が明けた後の、私にとっての最初の光なの」優磨の喉が、小さく動いた。彼は甘い言葉を何も言わず、ただスーツの内ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。開けると、中には飾りのないシンプルな指輪が2本入っていた。ペアリングだった。「俺にはあいつみたいな5カラットのダイヤの指輪はない」彼は言った。「『もし誓いを破ったら、ろくな
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